鷹村商事の恋模様

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「…久しぶり、だな」
元旦那の声に、確かにそうだと納得する。
「そう、ね」
娘をベッドに寝かせ、そのままベッドに向かってお互いに隣に座っていた。

寝ている娘の顔が良く見える。
赤くなった目元も、ピクリとも動かない顔も。
起こしてもいけないと、お互いに声は潜めたままだ。
目線を横にいる元旦那に移す。

少し老いた、見慣れていたはずの顔。
「不思議」
ポツリと呟く私の声。

「何が?」
きちんと返答があった。
なので、ゆっくりと呼吸をする。
「こうやって、3人でいることが」

この家に、元々暮らしていた私達。
それが、3人とも今では各々寝泊まりする空間が別だ。
10年ぶりにそろった空間が、この家という不思議。
「…そうだな」

答えるまでに、しばしの沈黙。
それでも、この沈黙は苦にならない。
何でだろう。
そんなことを思った。
何かを言わないといけない、という焦りもなくただ一緒にいるだけの時間。

「いつも、君はいなかった」
不意に、理解が難しい言葉が飛び込んだ。
「…え?」
反応が出来ずに、止まってしまう。
私は、ここにいる。

何を言っているのだろう?
不思議がる私の視線に気付き、彼が『あぁ』と視線を伏せた。
「理由を付けて、この家に来ても…」
あぁ、そういうこと。

確かに。
私が居たら、気まずいだろうと気を利かせていたから。
「生活の片鱗は見えるのに…」
元旦那が来ると連絡をくれた日のことだろう。

「君の、気配は残っているのに…」
残さないように注意はしていたけれど、完全に拭うことなど出来ない。
だって、私が生活しているのはこの家なのだから。
気配が残るのは当たり前だろう。

「そうね」
会ったら、また謝ってくるのではないかと。
それを気にしていたから。
だから、この家で会わないように気を付けていた。
「俺の部屋も、いつも綺麗にしていてくれて、ありがとう」
「…いいえ」

勝手に気にしていた私の、ただの思い付きだ。
感謝されることは何もない。
「だけど、その気遣いに、ありがとう」
再度言われ、やはり気まずい私は「ううん」と濁すだけに留めた。

「つい…」
喋りかけた、元旦那の口元が止まる。
じっと見つめていると、それに気が付いたように少しだけ咳ばらいをした。
「錯覚を起こしそうになる」

「錯覚?」
何のことを?
「まだ、この部屋で生活をしている、と…」
元旦那の声は小さい。
だけど、しっかりと私に届いていた。

「読みかけの本も、参考資料も、挟んだままのメモも、そのままで…」
途切れ途切れに続く言葉達。
「つい、昨日までここで暮らしていたのかと…」
考えながらも、私に届く言葉達。

「君と結衣と3人で、住んでいたのかと…」
何を言っているのだろう?
不思議なことを。
元旦那にも、10年の月日は流れているはずだ。

「そんなわけは…」
少し呆れてしまった言葉を、言ってしまった。
「ないんだけど。でも、そうだったら良いと…ずっと、考えていた。あの日のことは何かの間違いで、君は俺の妻で、まだこの家で俺の帰りを待っていてくれて…なんて」
私の言葉を遮って、元旦那がゆっくりと続ける。

「だから、君のいない時に来る部屋は寒々しくて、来るのが怖くなったんだ」
怖い?
あの、何でも揺るがない人だったはずなのに?
私がいないだけで怖いことなんて…。

「そう、だったの?」
「だけど、いてほしいなんてお願いをするのも、君には迷惑なんじゃないかと思って…」
「迷惑なんて…」
迷惑なんて思わない。
ただ、パニックは起こしただろうけど…。

「あれだけ家にいなかったくせに、この家で君と結衣と過ごした時間なんて、ほとんどなかったくせに、な?」
「そんなことは、ないわ」
一緒に過ごした時間は確かにあった。
ここで、一緒に。
「ただ、いざ帰れなくなると思うと、無性にこの家に来たくてたまらなかった。おかしいだろ?」
「そんなこと…」

「家に来ても…ここにいても、君がいないだけで何かが違うと感じてしまって…」
同じ家なのに?
「違う?」
「…結衣もそうだった」
元旦那の呟く声。
耳に心地良い、低い声。

「そう、なの?」
「家を出て初めて、2人で示し合わせて来た日に…」
元旦那は、思い出したのか眠る娘に視線を送る。
「うん」
「君がいないことが、ただただ…」
言葉を区切る、小さな呼吸。

「寂しかった」

元旦那の声に、『嘘』と言ってしまった。
「そう、思われても仕方がないな。俺は、駄目な夫で駄目な父親だった」
責めるような口調に、思わず否定する。
「駄目なんかじゃないわ」

「君はいつでもそうだ。思いやりがあって、本当に純粋に、優しい…そんな人だったのに…」
私は、聖人君主ではない。
それは、元旦那の思い込みだ。
「…違う、わ」

「違くない。結衣のことで、相談があると言われても、適当にあしらっていた俺に、詰ることも怒鳴ることもなく。ただ、悲しそうにしていたのに…」
そうね。
私から切り出しても『今じゃないといけないか?』とか『また、今度時間のある時に』なんて流されていたものね。
「結衣から、色々な話を聞いた時に、思わず結衣のことを叱り飛ばしたよ」
「え?」
初めて聞く話だわ。

「この家で、父娘喧嘩さ。それも大喧嘩、君がいないのに。完全に八つ当たりだったのに、結衣も負けずに反論してきて…。流石は、義兄さんの教育の成果だな」
思い出したのか、少しだけ目元を緩ませる表情。
「お互いに、君がいなくなった原因を押し付けて。大人げないだろ?」
「…そうね」

「結衣は泣いて、『ママがいない』と大騒ぎして…。終始、『ママ』と言いながら君を…求めて。ワーワー泣いて。今みたいに、泣き疲れて…眠ってしまったよ」
「そうだったの…」
初めて聞くのに、想像ができることが不思議。
「ご近所さんに、何て思われてたかしらね?」
「確かに、近所迷惑だったな」

ポツリポツリと交わされる会話。
「置いておくわけにもいかないから、結衣を背負ってお義姉さんの家に行ったよ」
「大変だったわね…」
「それでも、君の苦労の1割にも満たなかっただろう?あんなに勢いのある結衣に、今まで君は1人で付き合ってきたんだろう?」

「…比べるものじゃないもの」
「…君は、昔からそうだ。思慮深くて、とても思いやりのある人だった」
今更、そんなことを言うなんて。
ズルい人。
褒められると急に照れてしまうのは、私の小さい頃からの癖だ。

訪れた沈黙に、身を委ねているとふと手に触れた温かいもの。
重ねられた手は、いつ振りに触れるのか思い出せない程前なのに妙に馴染む彼の手だった。
「本当に、本当に…虫のいい話だと思ってくれて構わない」
「うん」
「俺の、独り言と思ってくれて構わない」
「うん」

彼の手に力が入る。
「ここで、また君と結衣と一緒に暮らしたい」
「…え?」
「結衣がいなくても、2人でも…」
「…2人」

「そうだ。この家で…」
彼の顔は、真剣だ。
「…私で良いの?」
思わず、応えていた。
彼の手に、力が入る。

「…君じゃなきゃ、ダメなんだ」
気持ちは嬉しい。
だけど、またいつ私が壊れるのか。
その自信がない。

「…また、私の気持ちが持たない、かも?」
怖くなってしまい、更に小さくなった言葉。
それでもちゃんと届いたようだった。
彼は『大丈夫』と重ねた手をポンポンと弾ませた。
「その時は、俺が君の味方になる。君の話を、ちゃんと聞いて。結衣が我儘を言ったら、俺が結衣と大喧嘩をするさ。君にだけ苦しい思いをさせない。今度こそ、君の味方でいさせてほしい」

嬉しい。
思わず視界が滲みだす。
あの時は、彼が相手をしてくれないと1人で落ち込んでいた。
なのに、そう言われてしまったら、頼りたくなる。

「チャンスが欲しいなんて、都合の良い話ではなくて…」
彼が、少しだけ早口で告げる。
初めて大学で話した時みたい。
何故か、思い出す彼との出会い。
「うん」

彼は自分の好きなことを、必死に私に楽しいのだと伝えてくれた。
そうだった。
彼の真剣さは、あの時と変わっていない。
「また、ここから、始めるための…」

まっすぐに向かう彼の眼差し。
「うん」
じっと視線が注がれる。
「家族に、なってくれないか?」
プロポーズのような言葉。

あの時は、普通に『妻になってくれないか?』だったはず。
それが、時間を経て。
少しだけ言い回しは変わったけれど。
真剣な、表情と言葉達。
「…家族」
「そうだ。…俺の家族に、なってほしい」

私が放棄したはずなのに。
それでも、また私と家族を望んでくれるの?
「私が?」
なので、躊躇いながらも返答する。

「そうだ。君に…春子に」
「…嬉しい」
名前を呼ばれることも、望まれていることも。
素直になれるのは、何でだろう?

…素直。
そう、さっき娘が言った一言。
あの謝罪のように、ストンと落ち着いたのだ。
嬉しいと。
心が感じている。

「本当に?」
「私、嘘はついたことないわ」
「…知ってる。だから、受け入れてくれたことが俺には嬉しい」
彼の真っ直ぐな言葉に、私の方が思わず照れる。

嬉しいなんて。
彼の口から聞けるなんて…。
「ありがとう、春子」
「…えぇ」
感謝の言葉にも、否定ではなくきちんと受け止める。

「こうやって、…春子と」
「うん」
「話を、したかった」
「…うん、私も。…護さんと、話を…したかったわ」

私が呼ぶ、貴方の名前。
疲れた顔をしているのに、それでもはにかむように笑ってくれた。
「これからは…」
彼が私をじっと見る。

「うん」
「君の話を、聞いていきたい」
「…ありがとう」

素直になった気持ちで、お互いに向かい合うこと。
これは、かつて見て来た姉夫婦のようだった。
私がいつも憧れていた。
あの、理想ともいえる姿に近い。
じんわりと感じる幸せに、思わず浸っていた。

なのに、彼はやはり彼だった。
「すぐにでも、今日からでも良いのか?」
彼の言葉に、すぐに返答が出て来なかった。
「え?」
彼の驚いたような、少しだけ悲しいような表情。
思いついたら、即行動は義兄だけで良い。

いつの間にか、義兄のような性格になっていた?
何でだろう?
接点はない…はずなのに?

「すぐは、迷惑になる?」
違うの。
迷惑とかじゃなくて。
部屋は綺麗なはずだ。

換気だけなら毎日している。
クリーニングは、先週しているからベッドも綺麗なはずだし。
眠るのは問題ない。

実際に、娘はここで横になっている。
そうね。
当面の問題は…まずは食べ物とか…?
考える私に、彼が不安そうに待っているのが見えた。

何か、答えないと。
久々に、会話で焦るという気持ち。
でも、答えないといけないというプレッシャーは感じない。
何故なら、安心させたい気持ちの方が勝っていたから。

今度は、私の方が重ねた手に力を入れてしまう。
だって、冷凍庫の中は…。
唐揚げが2個とか、肉じゃがが3口分とか、揚げ茄子が3個とか…。
ざっと思い出せるだけでも、2人分にも満たない。

「…春子?」
少しだけ面白がるような呼びかけ。
これは、多分義兄のような響きだ。
私の意識を、向けさせるための…。

冷凍庫の中にあるお惣菜を思い出すのは、一旦止めた。
きっと、かき集めれば3人分はあるだろう。
多分だけど…。
一口バイキングと思って、並べれば良いでしょうね。

「やはり、駄目か?」
護さんの言葉に、思わず笑ってしまった。
私に確認することなんて、今までなかったのに。
笑った私に、護さんが少しだけ不思議そうにしている。

「迷惑なんて思ってないの。ただ、急すぎて…。今日は…。あ、食べ物が…ないわ。冷凍した、お弁当の残り…と、白米しかないの。…それに、洋服だって。きっと、箪笥の中で、駄目…になってる」
慌てて答える私に、彼は笑う。

何でもないことのように。
「食べる物なんて、冷凍で十分だ」
私1人ならそうなんだけど。

でも、それは私だけが食べるからだ。
「だって、量も少ないし」
よく考えたら、彼にも残り物なんてやはり申し訳ないだろう。

それでも彼は笑った。
「もう、そんなに食べられないから、量はなくても良いさ」
「そんな…」
それでも気にする私に、彼が『じゃあ』と続ける。

「結衣が目を覚ましたら、買い物に行こう?」
さも、良いことのような提案をする彼。
「買い物?」
急な提案に、私の方が困惑する。

「そう。俺の今日と明日の衣類。この服も合わせて3つもあれば事足りる。それに、総菜でもテイクアウトでも、今食べるだけなら何でも良いんだ。食べて帰って来ても良い」
洋服に関しては、さっき姉に言った私の言葉みたい。
元々、食べ物にはそこまで拘りはなかったと思う。

だけど、外食にはあまり良い思いを持っていなかったはずなのに。
そんな彼が、テイクアウト?食べて帰って来る?
「そして、明日は俺の部屋の片付けをする」
彼の計画は、どんどんと構築される。
すぐに追いつかない私。
「そんな、急に…」

急すぎてしまい、私が困ってしまう。
なのに、彼は握った手をまたポンポンと弾ませる。
「急じゃない。…気持ちだけは、いつでもここにいた」
彼の表情は、ずっと真剣だ。

「俺の部屋、じゃなくて俺達の部屋にしたいから。だから、荷物を片付けたい」
ずっと昔に私が言った言葉だ。
『私だけ部屋がないのよ?』
だから、荷物が置けないとそう告げたはず。

その時に、彼は何て言ったっけ?
『なら、置ける場所を作れば良いだろう?』
みたいなことを言ったと思う。
スペースもないのに、勝手なことを言うわ。
そう思っていた。

なのに、今の彼は何て言った?
耳を疑う私に、表情の穏やかな彼が重ねる。
「春子の荷物と、俺の荷物を一緒に置けるようにしよう」
『一緒に』
彼の方から、そんな言葉が出て来るなんて。
別人のような、言葉。
だけど、それを嬉しいと思う私。

「春子?」
不意に名前を呼ばれる。
「ん?なあに?」
「急すぎたか?無理に進めて悪い」
「…違うの。一気に色々進み過ぎて、少しだけビックリしているだけよ?」

私の言葉に、彼がほっとしたような顔をした。
変な人。
私の顔色なんて見たことないはずなのに。
だけど、それがくすぐったくて嬉しい。

「明日、部屋の片付けをして良いか?」
「…良いわよ。じゃあ、私もお手伝いをするわね」
元々、不要品を片付けようと思っていたんだし。
予定と、大きく変わっていない日曜日に行うこと。

そこに彼がいるかいないかの差だけ。
だけど、その差はとても大きい。
「ありがとう。他に何かしてほしいことはあるか?」
彼が口にする感謝の言葉。
いつも見ていた、姉夫婦のよう。

不思議。
彼の謝罪は、何度も耳にした。
だけど、感謝の言葉はとても新鮮だ。
彼に感謝されることが、こんなにも嬉しい。

こんな未来があるなんて、誕生日に1人でビールを飲んでいた時には想像もしてなかった。
だって、私は一生1人なんだと思っていたから。
だけどこの2人は、私のことを思っていてくれたらしい。
なら、姉夫婦以外にも頼る癖をつけないといけないわね。
元旦那が、こんなに喜んでくれるなら。

これからの時間を、また一緒に生きていくためにも…。
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