鷹村商事の恋模様

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それとも

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『春が、重大な状態だ。護君は、その仕事と春とどちらが大事かな?』
義兄から、いつもの冗談交じりの留守電を確認したのは、娘の誕生日をとっくに過ぎた午前1時のことだった。
何の嫌味だろうと思いながらも、こんな時間に電話するのは申し訳ないと思い後日に回した。
今は、丁度大口の契約を取れる所だった。

出世には興味はない。
まぁ、…少しだけならある。
ただ、それは親子3人暮らせれば、別に問題はない。
契約を取ること、相手企業へのプレゼンをうまくこなすこと、そのことしか当時の俺は考えてなかった。

妻は、とてもおとなしい。
大学のミステリーサークルで出会ったのがきっかけだった。
大学当時は、数式とミステリーサークルくらいにしか興味がなかった。
女性は賑やかで、甲高い声を出し、鮮やかな装いをしている。
そう思っていた俺に、春子との出会いは偶然ではなく必然だと思った。

いつでも物静かで、思慮深い。
そんな姿が好ましかった。
幸い、春子もそう思ってくれたようだった。
何となく付き合いが始まり、順調だと思ってた。

義兄に出会うまでは。
春子の年の離れた姉と、その伴侶である義兄はとても突飛だ。
急に訪れては、今日は『ピザの日だという。一緒においしいピザを食べに行かないか?』と言ってみたり、『今、上州はとても新緑が素晴らしいのだという、一緒に行こう』と言い出したり。

だが、それでも彼女の大事な家族であり彼女が信頼しているのならと我慢した。
その位しか、我慢する所はなかったから。
彼女に対しての不満はなかった。

…小さなプライドで言い出せなかったことならある。
彼女は、いつでも姉優先だ。
まず姉に頼る。
その伴侶である義兄にも。

それは、付き合っている時から顕著だった。
何か困ったことがあると『お姉ちゃんに』と言い出す。
依存しているのかと思ったが、実はそうではなく頼られるのが嬉しい姉夫婦への甘えのようだと気付いた。

なので、そのままにしていた。
好きにしていたら良いと、放置していた。
義兄が距離感の分からない関わりをして来るのも、俺が春子のパートナーだから。
そう思って流していた。

なので、結婚してもその関係性は変わらないと思っていた。
過干渉とも取れる義兄からの電話やメッセージは、適当に流すようになった。
元々、人に干渉されるのはあまり好きじゃない。
なのに、あの義兄はずかずかと人の家にも踏み込んできた。

『このメーカーは、あまり良い評判を聞かないな』と、湯沸かし器のことを言ってみたり。
『この会社は、混ぜ物が多いと聞いたが、大丈夫なのか?』と米の販売元まで上げ連ねたり。
本当に、煩わしいと思っていた。

娘が産まれると、それは更に頻度を増した。
春子が大変だろうと、かいがいしくサポートする姿に俺の母親も呆れていた。
『春子さんは、大変ね。あのお姉さん夫婦の相手をしないといけないなんて』と。
母は、出産後に少しだけ病院に顔を出したらしいが、その時も姉夫婦がもてなしてくれたそうだ。

家に行っても、いつでもいるような錯覚になっていた。
娘の結衣が大きくなると、結衣は義兄に懐いた。
言葉が多く、色々なことを教えてくれるのはすでに“父親”の座を奪われた後だった。

ただ、春子のおかげなのか結衣は俺のこともパパと言い適度に懐いた。
『パパのおかげで、ご飯を食べられるんでしょ?だから、お仕事ありがとう』と。
義兄と比べて言葉が少ないが、時間があれば関わることで結衣とも良好な関係を築いていると思っていた。

それが、娘の誕生日のあの日全て消え去った。

契約を取り、ご機嫌取りに甘い物でもと思い帰宅すると少し荒れた家と視線の合わない春子の姿。
結衣はいなかった。
呆然とする俺に、春子は力なく言った。
『離婚してください』と。

意味が分からなかった。
結衣の誕生日をすっぽかしたことを謝った。
今まで、家のことを任せきりにしていたことを謝った。
しかし春子は『謝らないで、私が悪いんだから』としか言わなかった。

結衣のことに触れると、あからさまにびくりとし。
震える声で『ごめんなさい』と謝罪した。
どこにいるのかを尋ねると、ある意味予想通りの場所。

姉夫婦の家に、泊まりに行っていたとのことだった。
この2日間。
学校はどうしてるのか。
結衣の様子はどうなのか。
一気に、押し寄せて来た。

会社で、倉橋君に言われた。
『春子さん、体調大丈夫なのかしら?』と。
2日休みが続き、心配しているとも。
それを俺は流した。

義兄のメッセージを思い出した。
すぐに義兄に電話をした。
義姉はいなかったが、義兄はすぐにやって来た。
義兄は家ではなく、近所の喫茶店を指名して来た。
有無を言わさない言葉に、春子を気にしながら渋々家を空けた。

『やぁやぁ、遅すぎるヒーロー。それも役立たずのヒーローが帰って来たね』と。
怒ることも忘れ、何があったのかを聞こうとした。
しかし、義兄はそのことには触れなかった。

『結衣に聞いてごらん』と。
義兄いわく、過ぎてしまったことに意味はない。
ということらしい。
そんなわけはない。
理由を知らないと、解決にも何もならない。

しかし、義兄は飄々とそれを躱す。
『春はね、今ようやく生き返って来た所なんだ。自分の意思で精神科にも行った。なので、君に望むことは、春が望んだことは全て受け入れなさい』

わけが分からなかった。
精神科。
何を言っているんだ。
この人は。
話が通じない。

そう思う俺に義兄は、温和な笑みを浮かべたままだった。
『話が通じないと思っているだろう?それは春も同じだった。君は、ここ最近春と何を話したか覚えているかい?結衣のこと、仕事のこと、家のこと、春は何回君に話をしようと持ち掛けて来たか覚えているかい?』と。

全く覚えていなかった。
『だから、君に望むことは春の希望を全て受け入れることしか残ってないんだよ』
『望む、こととは?』
俺の声は、微かに震えていた。
それに構わず、義兄は柔和な笑みを浮かべたままだ。
『ん?それはさっきも言ったが、“何でも”だ』

馬鹿げている。
だが、義兄の言うことがじわじわと俺を追い詰める。
俺の頭に『離婚でも?』という文字が浮かんだ。

それも、全て受け入れろというのか?
何で?
話し合いもしていないのに。
まだ、会話すらもしていないのに。

『君は、春を自分の付属物と思っていないかい?春は1人の人間だ。言わなくても分かってくれる、伝えなくても理解してくれる、それは日本人の大きな過ちだ。特に春は僕達の夫婦関係を見ている。言葉で伝え合い、お互いの意思を確認し合い、感謝と愛情を伝えている僕達の関係を、ね?』

『君は、1日に何度春に感謝を述べている?』
何回?
会っていない日だってあるのに?

『君は、結衣がどれだけ春に我儘なのか、どこまで理解している?』
どこまで?
結衣のことを思い出そうとするが、何も思い出せなかった。

『だからだよ。君にはガッカリだ。以前からつまらない男だと思っていたが、こうも腰抜けとは。“護”とは自分が慈しむ対象を、愛し庇護するのではないのかね?名前負けも良い所だ』

義兄は、結婚する前から俺のことを『護君』と言っていた。
ことあるごとに。
だが、今日はその名前を1度も言われていないことに気が付いた。
多分、呼ばれたのはあの留守電が最後だろうか?

じわりと、嫌な汗が背中を伝う。
『もう1度言う。春のことを思ってやるなら、春の希望を全て聞き入れなさい。君が足掻こうと、どれだけ喚こうと、今の春に君の言うことなど届かない』
俺が何も返せない内に、義兄は“用は済んだ”とさっさと立ち上がった。

『いざという時に頼られないくせに、解決できるなど思い上がらないでくれ』

そう言い義兄は、去って行った。
残された俺は、そのままもう1度家に帰った。
数日前まで、何も感じずに暮らしていた家。
だけど、すっかり様子が変わってしまった家。

春子は俺を見ていない。
義兄の言葉がぐるぐると巡り、その日は結局何も出来なかった。
悔しいが義兄の言う通り、俺に出来ることなど残っていなかったのだ。
耳鳴りを感じながら、その日はふらふらと実家に帰った。
家で、母があれこれ聞いてくるが、俺もさっきまでのことを理解するのに構ってられなかった。

その更に2日後に、春子が家を出たいと言っていることを義兄伝いに聞いた。
俺は、怖くて家に帰れないままだったから。
あの焦点の合わない春子と、何を話したら良いのか何も思いつかないままだった。

義姉は逆に何も言って来ることがない。
その温度差が怖かった。
兄いわく俺が家賃を払っているのに、春子が住むのはおかしいと。

あそこは、春子の家でもあるのに。
俺が帰れないだけで、春子が暮らして良い家のはずなのに…。
春子が、全てを放棄してしまう気がして俺は更に焦った。

義兄を説得して、春子に何とか住んでもらえないか、お願いに近い相談をした。
春子は渋々受け入れてくれた。
相続や親権など、離婚するには決めることがある。
あの真面目な春子が、そこまで放棄するとは思えなかった。

なので、“離婚するにしても”と、わざとらしく春子に電話を入れた。
こまめに、家賃のこと慰謝料のこと、養育費のこと、親権のことを確認した。
春子は、電話での受け答えは今までと同じに感じた。
ただ、頑なに慰謝料のことは飲み込まなかった。

『私が先に家族であることを放棄した』と、それのみを繰り返した。
放棄させるほど追い詰めたのは、きっと俺だ。
家のことも、結衣のことも、そして広報課で忙しい今の時期も、タイミングが悪かった。

その後、ポツポツと義姉経由であの日の誕生日のことを聞いた。
勿論、結衣からも聞いた。
結衣はいない俺に、『またママだけ?』と言ったとのこと。

義兄の教育の賜物で、口だけは達者になった娘の何気ない一言。
俺も正直『それだけで?』と思った。
その後、合流することになっていた姉夫婦が家に来た時、春子は青い顔で『少し横になる』と布団に横になったらしい。

予定よりも早い集合だったが、姉夫婦が来てくれることになって春子は安心したのだろう。
その次の日に、精神科への通院を決めたらしい。
姉夫婦もカウンセリングで良いのではないかアドバイスしたが、春子が譲らなかったらしい。

俺のことを煩わしいと思っていたのか、春子は次に弁護士に頼った。
弁護士が実家に来た時、家族にはやや軽蔑の目を向けられた。
10年も一緒に暮らしてきたのに、春子の何も見ていなかったこと。
結衣を任せきりにしていたこと。

特に姉夫婦からの聞き取りで文書にされた、春子への暴言とも取れる結衣の我儘の羅列。
春子が買った服の細かい文句から、作る食事への遠慮ないダメ出し、俺がいないことで春子本人への当たりの強さ、など。
春子が怒らないこともあり、間違った成長を遂げてしまったとのこと。

結衣が特別我儘と言う印象はない。
俺の母も、良い子の結衣しか知らない。
しかし、姉夫婦の証言と結衣本人からの確認が取れ、それは事実なのだと判断された。

意外だったのは、結衣がこうなってしまったのは義兄が原因だと本人が言っていたという話だ。
あの義兄が非を認め、全面的にサポートすると言っていること。
親権はどちらが有していても構わないが、育てるのは姉夫婦が行うという主張。
俺が実家で引き取っても良いが、結衣が望んでいないらしいという弁護士の言い方に、姉夫婦へ託した方が良いのだろうと判断した。

その後は、少しだけ泥沼化した。
慰謝料を巡って。
しかし、弁護士に食い下がっても『ならば、慰謝料が発生した段階で、奥様は今の家を出て行かれると思います』と言われてしまうと、それ以上は続けられなかった。

ならば、あの家で春子が暮らしている未来の方が絶対に良い。
落ち込む俺に、義兄が言った。
『前を向いた春が、ふと君のことや結衣のことを思うようになったら、その時はもしかするかもしれない』と。
義兄のいう“もしかしたら”とは、奇跡に近い元の形に戻ることだ。
『ま、それが1年後なのか5年後なのか、10年後なのか、はたまた20年後なのか、僕にも分からないけどね?』とおどける義兄の言葉は、何故か俺の心に深く残った。

その何気ない一言、思い付きかもしれない一言に、馬鹿みたいに縋りついた俺。
それからは、ただ春子に謝罪する日々を送るだけだ。
謝罪だけじゃない。
勿論感謝もだ。

確かに義姉夫婦は何かにつけて『ごめん』や『ありがとう』などを口にしている。
『助かったよ』『これは良い』『すごいじゃないか』そんな風に大袈裟に言う義兄を、やや冷めた目で見ていた俺がいた。
だけど、それが春子にとっての日常だったのだ。

ならば、俺との生活など何て味気ない物だったのだろうか?
それを10年以上も継続してくれた。
感謝しても、し足りないほどだ。
義兄の言う通り、言わなくても感謝は伝わっていると思い込んでいた。
不満を口にすることもない春子に、すっかり甘えていただけの俺。

仕事が出来たって、これじゃあ頼ろうとは思えないはずだ。
ちっぽけなプライドで、頼らないのは春子の癖だと思っていた。
だけど俺が頼れる男ではなかっただけのことだったんだ。
義姉夫婦は、何かにつけて相談事も多かった。

“どこのメーカーの綿棒が使いやすいか”なんて気安い物から、“新車はどれが性能が良いのか”なんてお互いに意見を言い合う。
意見と言うより、思ったことを口にするのみだ。
それを行う意味なんてないと、耳にする度に馬鹿にしていた。
でも、そうじゃない。

そうやって、夫婦でのコミュニケーションを欠かさないようにしていただけだ。
話す内容は何でも良い。
それを、お互いに重ねていくことでお互いへの認識を維持している。
春子は、こういう小さな時間でも俺と作ろうとしてくれていたのに。

春子が家族を放棄したんじゃない。
俺が春子に放棄せざるを得ない状況にしただけだ。
そういう意味では、先に家族を放棄していたのは俺の方だ。

なら、俺に出来ることは何がある?
何なら俺でも出来る?
考えても、有効なアイデアは出なかった。
企画やプレゼンなら、何かアイデアは出て来るのに。

春子が誠意を込めて、俺達家族を支えてくれたように。
俺が返せる物はないのか?
考えた末に、決めたこと。
ならば、春子の願いをただ受け入れよう。
春子が気持ち良く生活できることを、見守ろう。

離婚しても、会社を辞めないでくれること。
同じ会社でも、嫌がらないでくれたこと。
全てに感謝して。
そして、気持ちがこちらに向いてくれるのを待つだけだ。
義兄のいう“もしかしたら”を、俺はただ馬鹿みたいに願って生きるだけだ。

何年後でも良い。
春子が俺と結衣を見てくれるなら。
俺達を家族と思ってくれるなら。

どんな形でも、それを俺は受け入れよう。
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