花にひとひら、迷い虫

カモノハシ

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31.

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「……すごく……きれいだね」
「うん……」
 律も同じように見とれたまま頷く。
 秋の初めとはいえ、標高の高さのせいで風が冷たい。花音が身を震わすと、同時に律も身をすくめたので、顔を見合わせて笑った。
 ふいに、花音の胸がぎゅっと締め付けられた。
 こんなに綺麗な空の下で律と二人で笑い合える今という瞬間が、かけがえのないものに思えた。
 夜のとばりがあっという間に降りて、空に見える星々も、町中の光も、圧倒的な量となる。
「――ああ、そろそろ始まるよ」
「え?」
 花音が聞き返すのとほぼ同時に。
 屋上にしつらえられた鐘塔から、突如として音楽が流れ出した。
 誰もが一度は聞いたことのある曲。荘厳なクラシック。
「うちの夕方のチャイムはこれなんだ。この曲は――」
「……知ってる。この曲ならわかる。小さい頃、何度も聞いて――………!」
 説明をしようとした律を遮って、花音が震える声で言った。
 屋上の鐘が鳴らすのはカノン。パッヘルベルが作曲した有名なもの。
 複数のパートが同じ旋律を奏でる、シンプルなのに神秘的で美しい曲。

 ――花音かのん。あなたの名前は、あの人がつけたのよ。

 今、思い返せば幸福としか言い表せない、何も知らなかった幼い頃。
 めったに家にいなかった父のことは、顔も、声も、もはや覚えていない。
 けれど、まどろんでいたあのとき、頭をぎこちなくなでていた大きな手。
 そして、あの頃よく部屋で流れていたメロディーは覚えている。

 ……ああ、そうだ。
 花音は両手で顔を覆った。
 なぜきれいなものを見て、むなしく感じてしまったか。
 花音の疎外感。そして、律の感じていた不自然さの正体が、今なら判る。
 世界中の絶景を写した写真。心をわしづかみにするような妙なるピアノの調べ。一口でとろけそうになった美味な食事。可憐ではかない蝶の群舞に、人の技術の粋を集めた様々な書籍……。
 半日以上かかって、様々なものを見た。毎回毎回、これでもかというくらい心を揺さぶられた。
 彼の集めた綺麗なもの。美しいもの。その中で圧倒的に足りなかったもの。

 ……大切なものの中に、娘である花音がいなかった。

 父親としての贈りものなのに、そこに父親の姿がなかったのだ。
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