32 / 39
31.
しおりを挟む
「……すごく……きれいだね」
「うん……」
律も同じように見とれたまま頷く。
秋の初めとはいえ、標高の高さのせいで風が冷たい。花音が身を震わすと、同時に律も身をすくめたので、顔を見合わせて笑った。
ふいに、花音の胸がぎゅっと締め付けられた。
こんなに綺麗な空の下で律と二人で笑い合える今という瞬間が、かけがえのないものに思えた。
夜のとばりがあっという間に降りて、空に見える星々も、町中の光も、圧倒的な量となる。
「――ああ、そろそろ始まるよ」
「え?」
花音が聞き返すのとほぼ同時に。
屋上にしつらえられた鐘塔から、突如として音楽が流れ出した。
誰もが一度は聞いたことのある曲。荘厳なクラシック。
「うちの夕方のチャイムはこれなんだ。この曲は――」
「……知ってる。この曲ならわかる。小さい頃、何度も聞いて――………!」
説明をしようとした律を遮って、花音が震える声で言った。
屋上の鐘が鳴らすのはカノン。パッヘルベルが作曲した有名なもの。
複数のパートが同じ旋律を奏でる、シンプルなのに神秘的で美しい曲。
――花音。あなたの名前は、あの人がつけたのよ。
今、思い返せば幸福としか言い表せない、何も知らなかった幼い頃。
めったに家にいなかった父のことは、顔も、声も、もはや覚えていない。
けれど、まどろんでいたあのとき、頭をぎこちなくなでていた大きな手。
そして、あの頃よく部屋で流れていたメロディーは覚えている。
……ああ、そうだ。
花音は両手で顔を覆った。
なぜきれいなものを見て、むなしく感じてしまったか。
花音の疎外感。そして、律の感じていた不自然さの正体が、今なら判る。
世界中の絶景を写した写真。心をわしづかみにするような妙なるピアノの調べ。一口でとろけそうになった美味な食事。可憐ではかない蝶の群舞に、人の技術の粋を集めた様々な書籍……。
半日以上かかって、様々なものを見た。毎回毎回、これでもかというくらい心を揺さぶられた。
彼の集めた綺麗なもの。美しいもの。その中で圧倒的に足りなかったもの。
……大切なものの中に、娘である花音がいなかった。
父親としての贈りものなのに、そこに父親の姿がなかったのだ。
「うん……」
律も同じように見とれたまま頷く。
秋の初めとはいえ、標高の高さのせいで風が冷たい。花音が身を震わすと、同時に律も身をすくめたので、顔を見合わせて笑った。
ふいに、花音の胸がぎゅっと締め付けられた。
こんなに綺麗な空の下で律と二人で笑い合える今という瞬間が、かけがえのないものに思えた。
夜のとばりがあっという間に降りて、空に見える星々も、町中の光も、圧倒的な量となる。
「――ああ、そろそろ始まるよ」
「え?」
花音が聞き返すのとほぼ同時に。
屋上にしつらえられた鐘塔から、突如として音楽が流れ出した。
誰もが一度は聞いたことのある曲。荘厳なクラシック。
「うちの夕方のチャイムはこれなんだ。この曲は――」
「……知ってる。この曲ならわかる。小さい頃、何度も聞いて――………!」
説明をしようとした律を遮って、花音が震える声で言った。
屋上の鐘が鳴らすのはカノン。パッヘルベルが作曲した有名なもの。
複数のパートが同じ旋律を奏でる、シンプルなのに神秘的で美しい曲。
――花音。あなたの名前は、あの人がつけたのよ。
今、思い返せば幸福としか言い表せない、何も知らなかった幼い頃。
めったに家にいなかった父のことは、顔も、声も、もはや覚えていない。
けれど、まどろんでいたあのとき、頭をぎこちなくなでていた大きな手。
そして、あの頃よく部屋で流れていたメロディーは覚えている。
……ああ、そうだ。
花音は両手で顔を覆った。
なぜきれいなものを見て、むなしく感じてしまったか。
花音の疎外感。そして、律の感じていた不自然さの正体が、今なら判る。
世界中の絶景を写した写真。心をわしづかみにするような妙なるピアノの調べ。一口でとろけそうになった美味な食事。可憐ではかない蝶の群舞に、人の技術の粋を集めた様々な書籍……。
半日以上かかって、様々なものを見た。毎回毎回、これでもかというくらい心を揺さぶられた。
彼の集めた綺麗なもの。美しいもの。その中で圧倒的に足りなかったもの。
……大切なものの中に、娘である花音がいなかった。
父親としての贈りものなのに、そこに父親の姿がなかったのだ。
0
あなたにおすすめの小説
恋と首輪
山猫
恋愛
日本屈指の名門・城聖高校には、生徒たちが逆らえない“首輪制度”が存在する。
絶対的支配者・東雲財閥の御曹司、東雲 蓮の「選んだ者」は、卒業まで彼の命令に従わなければならない――。
地味で目立たぬ存在だった月宮みゆは、なぜかその“首輪”に選ばれてしまう。
冷酷非情と思っていた蓮の、誰にも見せない孤独と優しさに触れた時、みゆの心は静かに揺れはじめる。
「おめでとう、今日から君は俺の所有物だ。」
イケメン財閥御曹司
東雲 蓮
×
「私はあなたが嫌いです。」
訳あり平凡女子
月宮 みゆ
愛とか恋なんて馬鹿らしい。 愚かな感情だ。
訳ありのふたりが、偽りだらけの学園で紡ぐカーストラブ。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
烏の王と宵の花嫁
水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。
唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。
その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。
ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。
死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。
※初出2024年7月
『後宮祓いの巫女は、鬼将軍に嫁ぐことになりました』
由香
キャラ文芸
後宮で怪異を祓う下級巫女・紗月は、ある日突然、「鬼」と噂される将軍・玄耀の妻になれと命じられる。
それは愛のない政略結婚――
人ならざる力を持つ将軍を、巫女の力で制御するための契約だった。
後宮の思惑に翻弄されながらも、二人は「契約」ではなく「選んだ縁」として、共に生きる道を選ぶ――。
椿の国の後宮のはなし
犬噛 クロ
キャラ文芸
架空の国の後宮物語。
若き皇帝と、彼に囚われた娘の話です。
有力政治家の娘・羽村 雪樹(はねむら せつじゅ)は「男子」だと性別を間違われたまま、自国の皇帝・蓮と固い絆で結ばれていた。
しかしとうとう少女であることを気づかれてしまった雪樹は、蓮に乱暴された挙句、後宮に幽閉されてしまう。
幼なじみとして慕っていた青年からの裏切りに、雪樹は混乱し、蓮に憎しみを抱き、そして……?
あまり暗くなり過ぎない後宮物語。
雪樹と蓮、ふたりの関係がどう変化していくのか見守っていただければ嬉しいです。
※2017年完結作品をタイトルとカテゴリを変更+全面改稿しております。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる