花にひとひら、迷い虫

カモノハシ

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35.

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 警備員は運良く一人。
 教師も全員帰宅したのだろう。廊下は照明が落としてあり、非常灯だけが暗闇に浮かび上がっている。
 律はほのかな灯りをたよりに三階の廊下を走り抜け、警備員の気をひきながら近くの教室に隠れて時間を稼いだ。二階に降りる階段で捕まってしまったが、花音が屋上から待避する時間は稼げただろう。
 逃げ回ったくせに、捕まってからは抵抗もしない律を不審に思ったらしい警備員は、顔を覗いて驚いた声を上げた。
「あっ! お前、栗山じゃないか!」
 名前を呼ばれて、律は視線を上げた。
 それは、食堂でアルバイトをしていた青年だった。


 青年は律の扱いに困っているようだった。彼が考えあぐねている間に、生物準備室に寄ってもらうことにした。
 青年は、花音の父親――、つまり、理事長のことを知っていた。
 身寄りがなくアルバイトで生計を立てていた彼は、大学受験に落ちて進学を諦めかけていたとき、「同じ十九歳」のよしみで理事長に拾われたらしい。それ以来、食堂のアルバイトや警備員をして働きながら、浪人生をしているそうだ。
「お前が屋上にいたって事は……昼間のあの子は理事長の娘か」
 まさか本当に潜り込んでくるとはな、と、青年が呆れたようにつぶやく。
「じゃあ、さっきまで屋上にいたのも――」
「他言無用で願えますか」
 準備室の机の上には、律の白衣が折りたたまれて置いてあった。裏口の三和土たたきには律が花音のために借りてきた上履きがそろえてある。どうやら、無事に逃げられたようだ。夜道は心配だが、バス停は近いからおそらく大丈夫だろう。
「それはお前……、運営してるのは、あのおっさんの親友だからなあ……」
 困ったように頭をかいているが、恩人の娘のためならば、便宜を図ってくれるだろう。
 律は青年に見えないよう、白衣のポケットを探る。 
 折りたたんだメモ用紙が見つかった。手帳のメモ欄を破いたらしいそれには、アメリカの住所と、彼女のフルネームが漢字で書いてある。
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