まよいが

水戸けい

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秋月正彦

(どうして恵子が……死んだはずの妻が、ここにいるんだ)

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 周囲を見回した正彦は、ほかに建物らしきものを見つけられなかった。この界隈に家はこの一軒らしい。配達員や訪ねて来た人が迷う必要などないから、表札を出していないのだろう。そう納得した正彦は、玄関の引き戸がすこし開いていると気がついた。

(どんな室内なのかな)

 興味にかられて近づいた正彦は、そっと隙間から奥をのぞこうとして、誰かの視線とぶつかった。

「うわっ」

 驚いて声を上げるのと、引き戸が大きく引かれるのとが同時だった。

「いらっしゃいませ」

 引き戸を開けたのは、上品な物腰の青年だった。漆黒の長い髪をうなじのあたりでゆるく結んでいる。着物を着てほほえんでいる姿は、時代劇の中で見る大店の若旦那みたいだなと正彦は彼に見惚れた。

「あ、ええと……いらっしゃいませ、というのは」

「開店しておりますよ」

 どうぞと手のひらで奥を示され、正彦はのぞき見の気まずさから解放された。

(店が開いているかどうか、客が確認していたと思ったんだな)

 なんの店かは知らないが、客の顔をしていればいい。

 愛想笑いを浮かべた正彦は青年に促されるまま、沓脱石を踏んで上がり框に腰をかけると靴を脱ぎ、奥の座敷へと案内された。

「あら、おとうさん。遅かったわね」

「け、恵子」

(どうして恵子が……死んだはずの妻が、ここにいるんだ)

 ぎょっとして立ち止まった正彦の背中を、青年が「では、ごゆっくり」とつぶやきながら軽く押した。つ、と座敷に足を踏み入れた正彦は、ああそうかと納得する。

(俺は妻とこの店に、食事をしに来たんだった。なんだったか……そうそう、なにかの記念か祝いかで、ひさしぶりに外食をしようと誘ったんだったな)

 窓際に立って裏庭をながめる妻の横に並んだ正彦は、ほうっと感心の声を上げた。

「すてきなお庭ですねぇ」

 うっとりとした妻の声に、うむと正彦は腕組みをしてうなずいた。大きな岩で囲われた池に、ちいさな滝の水が流れ込んでいる。水面にチラチラと錦鯉の背中が見えて、透明な水に落ちている木の影を乱していた。池までは飛び石があり、客が好きに降りられるよう草履が準備してある。

「ねえ、おとうさん。ちょっと庭に降りてみましょうか」

「ん。うん……まあ、かまわんが」

 妻の恵子は少女のような笑顔を浮かべて草履に足を入れ、はしゃいで飛び石を渡って行く。

(まったく。いくつになっても、恵子は変わらんな)

 あたたかみのある苦笑を浮かべて、正彦も草履をつっかけ恵子の後を追った。恵子はしゃがんで池の中をながめている。その背後に立った正彦は、背中越しにかけられた妻の言葉にギクリとした。

「おとうさんがこういう場所に連れて行ってくださったのって、結婚して一年かそこらの間だけでしたね」

 静かな、感情の起伏のない声であるのに責められた気がした正彦は、いくぶんか早口になった。

「それは、仕事が忙しくなったからだ。それにおまえは子どもを産んで、旅行どころか外食も難しくなっただろう」

「ええ。子どもが泣くとよそ様に迷惑がかかるからって、加奈子が保育園に行くまでは、どこにも出かけませんでしたね」

「散歩には出ていたじゃないか。それに俺も仕事が忙しい時期だったんだ。おまえと加奈子を養っていくために、昇給を目指していたからな」

「それでお疲れになられていたんですよね。だから休日にも、あまり加奈子の相手をしてくれなくて」

「それは……そうだ。それに子どもの世話は、母親の役目だろう」

「それを言われるたびに、父親は子どもの面倒をみなくてもいいと聞こえていたんですよ」

「俺だって加奈子の世話はしただろう。近所の公園に連れて行ったり、祭りやらなにやらがあれば遊びに行ったりもしたぞ」

「でも、旅行なんかはちっともでしたね」

「連休はおまえの実家か俺の実家に、かならず出かけていたじゃないか。それに加奈子とおまえは市の広報に載っていたキャンプだかなんだかに出かけただろう」

「ええ、ええ。そうですね。そういうものには参加させていただけて、とてもありがたかったです。あなたは家で、私たちだけで出かけて」

「なにが言いたい」

 妻の声音にひっかかり、正彦はムッとした。

「あなたは疲れていたんですものね。たまにはひとり、のんびりと過ごしたいんだって、おっしゃっていましたものね。自分の時間を持ちたいんだって」

「ああ、そうだ。その通りだ。仕事で疲れて、休日のゴルフもいわば仕事の延長だ。たまにはひとり、のんびりと好きなように過ごしたいと思って当然だろう」

「――私も、そう考えていたなんて、夢にも思っていなかったんでしょうね」

「おまえは母親だ。専業主婦だ。昼間は好き放題にできただろう。やることといえば、家事だけなんだからな。それが終われば、ほかにすることはない。悠々自適な生活じゃないか」

「ええ、ええ。あなたはずっと、そうおっしゃっていましたね。家事なんて簡単で、すぐにできる。自由な時間なんて、いくらでも作れるだろうって」

 恵子がゆっくりと立ち上がり、透明な笑顔で振り返った。

「それで。どうでした?」

「え」

「私がいなくなって、家事をすべて自分でなさるようになって、自由な時間をいくらでも持って、さぞ悠々自適な毎日を満喫していらっしゃるのでしょうね」

「な、なにを言っているんだ」

 うろたえる正彦の横を通り抜けて、恵子はさっさと座敷へ上がった。

(私がいなくなって、だと? いったいなにを言っているんだ)

 妻の言いたいことが、正彦にはさっぱりわからない。いや、それよりも、恵子があんなふうに責める言葉を放つなんてと驚いていた。妻はいつも控えめで、正彦の言葉に反論をするどころか、自分の意見を主張することもまれだった。まったく理想的な専業主婦で、正彦が「おい」と言えばお茶を出し、加奈子の世話もしっかりしていた。授業参観もかならず主席し、三者面談も進路相談もなにもかも、正彦の手や頭をわずらわせることなくこなしてくれた。

 アレを買ってくれ、コレを買ってくれとねだることもなく、どこに行きたいなにが食べたいと贅沢を求めることもなく、頼みごとといえば、加奈子がしたいことを正彦に伝え、許可を仰ぐ程度だった。酒の席になると妻の文句を言う同僚や上司、部下がすくなからずいたが、恵子には文句をつける要素がなくて、うらやましがられたものだと思い出す。

 文字もきれいでよく気もついて、中元や歳暮の対応も如才なくこなした上に、義理で渡されるバレンタインデーのお返しも、なにも言わなくとも前日までに準備をして正彦の株を上げてくれた。

(そうだ、そうだ。そういう妻の労をねぎらうつもりで、俺はこの店に恵子を連れてきたんだった)

 その前提だから、恵子はすこし羽目を外して文句を言っているのだろう。妻にとっては、かわいいわがままを示しているだけにすぎないのではないか。きっとそうだと正彦は納得し、それなら小言のひとつくらいは聞いてやってもかまわないかと座敷に戻った。

 向かい合わせに座った正彦は、目の端に急須と茶筒、湯呑の乗っている盆を見つけた。

「おい」

 呼んでから顎で盆を示すと、恵子は「やれやれ」と言いたげにふうっと息を吐いた。いつもなら無言で茶の準備をする妻の態度に、正彦は片目をすがめる。すると恵子は気づいていながら無視をして、茶筒を開けて急須に葉を入れ、部屋の隅にあったポットから湯を注いだ。しばらく待ってから湯呑に茶を淹れ、正彦の前にそれを置く。

 手を伸ばして口をつけた正彦は、視線を感じて目を上げた。じっと恵子が正彦を見つめている。

「なんだ」

「いえ。なにもおっしゃらないんですね」

「なんだ。……まずくはないぞ」

「そういうことではありませんよ」

 妻は、あきらめの息をテーブルに落とした。

「言わなかった私も悪いんですよね」

「うん?」

「私の態度が、あなたをそうさせてしまった部分もあるんだなって反省をしているんです」

「どういうことだ」

「そのまんま、言葉通りの意味ですよ」

 妻の言っていることが、正彦にはさっぱりわからない。まあいいかと茶をすすりつつ、そういえばどうして客が自分で茶を淹れているのだろうと疑問を持った。

(ここは飲食店じゃないのか……ああ、なるほど。そうだ、ここは旅館だ。だから庭の景色がとてもいいんだ。そうだ、そうだ。旅館だから自分で茶を淹れたんだ。となると、名物の煎餅だか饅頭だかが、茶請けとして置いてあるはず)

 テーブルの上に視線を走らせた正彦は、饅頭の包みを見つけて手を伸ばした。ムシャムシャと食べて眉を開く。

(うまいな、これは)

 上品な餡の甘さが緑茶の風味を引き立たせる。空になった湯呑を妻に向けると、恵子は静かにそれを受け取って茶を注ぐと正彦に戻した。無言で受け取った正彦は、置いてあったすべての饅頭をひとりで平らげ、うんうんと充足のうなりを発した。

「なかなかうまい饅頭だったな。土産に買って帰るか」

「あら。そんなにおいしかったんですか」

「ああ、うまかった」

 おまえもと言いかけて、正彦はすべて自分が食べてしまったことに気がついた。

「後で買って、おまえにも食わせてやる」

「そのまえに、ひとつくらいと思わなかったんですね」

 言葉尻に「あなたは、いつもそう」と聞こえて、正彦は眉を持ち上げた。

「ほしいのなら、さっさとひとつ手に取っていればよかったんじゃないか」

「ええ、ええ。そうですね。私が悪かったんです」

「なんだ、その態度は。せっかく――」

(そうだ。せっかく、妻をねぎらってやろうと来た旅館なんだ。今日は好きに文句を言わせてやろう)

 言葉を呑んだ正彦は、茶をすすりながら饅頭の包み紙をながめた。妻の言うことにも一理ある。一家の長である自分が先に手をつけて、その後に子どもや妻が食べるのは当然だ。ひとりじめしてしまったのは自分だと気づいた正彦は、尻のすわりが悪くなって席を立った。

「どこに行かれるんです?」

「ちょっと、そのへんだ」

 言い置いて座敷を出る。

(どこかに売店があるはずだ)

 あの饅頭を買うつもりでいる正彦は、廊下を曲がった先で出くわした青年に声をかけた。

「ああ、すまないが。部屋にあった饅頭は、どこで買えるのかな」

「お気に召していただけましたか」

「うむ。うまかった。だから買いたいのだが」

 青年の顔が曇る。

「申し訳ございません、お客様。あれは特別な取り寄せ品で、販売はしていないのです」

「なんだ、そうなのか。それなら追加でもらえないか」

「あいにく、必要分しか注文をしていないのです。日持ちのするものではございませんから」

「そこをなんとかならないか」

「申し訳ございません」

 深々と頭を下げられ、正彦は不満を抱えて口をつぐんだ。ごり押しで用意をさせるかとも思ったが、それでも無理と言われては悪い客だとの印象を持たれて体裁が悪い。

(どうしても食べたいと言われたわけではないのだし、なんならまたこの店に来ればいい)

 余分に用意をしてほしいと予約時に連絡をすれば、土産のぶんも確保できる。

「いや、たいへんうまかったから、娘たちにも食べさせてやりたいと思ってな。無理を言ってすまなかった」

「お優しいのですね」

「いやぁ。まあ、そういうわけだから」

 目を細めた青年の世辞に、まんざらでもない顔をして軽く手を振り、部屋に戻ろうとうしろを向いた正彦は、すぐそばに妻の顔を見つけてギョッとした。

「な、なんだ。ついてきているのなら、そうと言え」

 妻は頬に手を当てて、またまたふうっと息を吐くと軽くかぶりを振った。

「なんなんだ。言いたいことがあるのなら、はっきりと言え」

「バツが悪くなったから、私のぶんを確保しようとなさったんでしょう。あなたがすべて食べてしまったから」

「なっ……おまえ」

 チラリと背後に視線を向けた正彦は、誰の姿もないことに安堵した。

「妙なところで体裁を気にするというか、小心者なんですよね。あなたって」

「こんなところで、なんだ、おまえは」

「誰かに聞かれるかもしれないって心配なさっているんですか? 大丈夫ですよ。今日は私たちの貸し切りだそうですから」

「そういう問題じゃない」

「従業員の方に聞かれても、居心地が悪いですものね。さあ、目的が達成できないとわかったんですから、部屋に戻りましょう。ほかに用事もないでしょう?」
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