まよいが

水戸けい

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秋月正彦

「先に惚れたのは、俺だったなぁ」

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 私として見てくれる時間を、と妻は言った。正彦さんと呼んでも気がつかなかったのかと言われた。

(俺は自己満足をしていただけで、かあさんは俺に合わせていただけだというのか)

 加奈子の言葉がよみがえる。おかあさんがかわいそうだと言っていた。あれは……娘は、母が持つ父への不満を嗅ぎつけて、忠告をしてくれていたのか。

 つないだ指先がスウッと冷たくなって、正彦はめまいを覚えた。

「おとうさん?」

「なんでもない」

 そうは答えたものの、冷えた体温は戻ってこない。妻はそれを感じているのだろうかと、正彦はつないでいる指を動かしてみた。

「なにか、買いたいものでもあったんですか?」

「ん。いや……ああ、そうだな。なにか飲むものでも買わないか」

 落ち着かない気持ちをなだめたくて、正彦はビールかなにか売っていないかと首を巡らせた。

「ラムネが売っていますよ、おとうさん」

 妻が指さした先に、大きな水槽に浮かんでいるラムネの瓶があった。瓶のコーラやみかん水などもある。ずいぶんとなつかしいものをそろえているなと思いつつ、正彦は妻の手に引かれるままに水槽の前に立った。

「ビールかなにか……ああ、酒はないのか」

 氷の浮いた水槽の中をのぞきながらつぶやくと、そんなものはありませんと店番が言う。

「そうか」

「私はみかん水にします。あなたは?」

「そうだな。コーラにしようか」

 尻ポケットから交換券を二枚取り出し、店番に渡す。店番は瓶の水滴を手拭いでぬぐうと、栓抜きでフタを外して正彦たちに飲み物を差し出した。受け取ってラッパ飲みをする。

「なつかしいですねぇ」

「そうだな」

 いまどき缶でもペットボトルでもなく、瓶で提供するなんてと、コーラを飲みながら正彦はなつかしい瓶口の感触を唇で受け止める。

(みかん水なんて、まだ売っていたのか)

 妻の手の中を見ながら、最後にみかん水を飲んだのはいつだったかと考える。うんと昔、それこそ加奈子が生まれるよりもずっと前だ。

「なんだか、タイムスリップをした気になるな」

 正彦の感想に、妻は意味深な笑みを浮かべた。

「なんだ」

「なにも言っていませんよ」

「なにか言いたそうじゃないか」

「そうですか?」

「そうだ。言ってみろ」

「言いたいことは、たくさんあります」

 どういうことだと正彦は妻の顔を見つめた。妻は視線を足元に落として、なにかを噛みしめるように静かにほほえんでいる。

「かあさ……恵子」

 不安にかられて名を呼ぶと、妻の視線が持ち上がった。

「でも、もういいかなって」

「え」

「いろいろと言いたいこと、たくさんありましたけど、言ってもあなたは聞いてくださらなかったし、いまさら蒸し返しても機嫌を損ねるだけでしょう?」

「なんだ。なんなんだ」

「それに、チクチクとすこしずつ言ってみましたけど、不満しかなかったってわけじゃ、ありませんでしたしねぇ」

 恵子がなにを言いたいのか、正彦にはさっぱりわからない。ただゾワゾワと、不安が霧のように立ち込めてくる。

「そういうものだと私たちに思い込ませていた時代だったことを含めて考えると、しかたがなかったのでしょうね」

 つないだ指の感覚はしっかりとあるのに、妻がひどく遠い場所にいる気がして、正彦は焦った。

「おい、恵子」

「私がほんとうにしたかったことは、あなたに不満をぶつけることでも、恨み言を聞いてもらうことでもないって、いまわかりました」

「なにを言っているんだ」

「私、あなたが心配だったんですね」

「恵子?」

「だって、あなたってガンコなくせに優柔不断で、自分でなんでもできているつもりで、なんにもできない人なんですもの」

「なんだ、それは」

 ころころと朗らかに笑う妻にムッとしながら、それでも正彦は湧き上がる不安に包まれて彼女の手を強く握った。

「お味噌汁を作ろうとして、お出汁を入れ忘れたこと。覚えていませんか?」

「そんなこと、あったか」

「ありましたよ。――そうそう。加奈子も私も風邪をひいたときに、うどんを作るとか言って、台所を大変な状態にしたこともありましたね」

「覚えていないな」

 そう言いながらも正彦の脳裏には、そのときの惨事がありありとよみがえっていた。湯を沸かして出汁のなかにうどんを入れればいいだけだから、簡単だとたかをくくった正彦は、どうせなら具沢山で栄養満点なものを作ろうと考えた。冷蔵庫を開けて野菜を取り出し、それを刻んで鍋に入れ、出汁を入れたまではよかった。そこにうどんを投入し、卵も割り入れた正彦は火加減の調整をしなかった。鍋はブクブクと白身と出汁の泡を吹き、コンロに広がり火が消えて、換気扇を回していなかった台所はガス臭くなった。慌てて窓をすべて開けた正彦は、風邪で寝込んでいる妻の名を呼び、吹きこぼれた鍋に悲鳴を上げた正彦の声に飛び起きた妻は台所を見てあぜんとした。

「ほんとうに、できないことをできると過信してするんですから」

「あんなもの、簡単だと思ったんだ」

「あら? 覚えていないのではなかったんですか」

 いたずらっぽく笑った妻に、正彦はしまったと口をつぐむ。妻はとてもたのしそうに、深く息を吸い込んで遠い目をした。

「たのしいことも、たくさんありましたねぇ」

「なんだ、その言い方は。まるで――」

 まるでもう終わったみたいな言い方をして。

 そう言いかけた正彦に、恵子はすこしさみしそうな、けれどとてもしあわせそうな笑顔を見せた。

「ねえ、あなた。――おとうさん、正彦さん」

 恵子、と呼びかけた正彦の喉に、なにかが詰まって声が出ない。妻はそっと正彦の指から自分の指を抜いて、わずかに後ろに下がった。

 恵子。

 正彦の声は音にならずに、喉の奥で消えてしまう。

「ひとり暮らしになっちゃいましたけど、ひとりになったわけではありませんよ。加奈子はなんだかんだ言いながら、おとうさんが大好きな娘ですから。家も近いですし、私がいなくなってから、こまめに様子を見に来ているってわかっていますよね」

(いなくなってからって、なんだそれは。恵子、おい)

「公明さんはいい方ですし、悟も美奈もおじいちゃんが大好きですから。これからはもっと、まわりを見ながらゆっくりと生きてくださいね」

(おい、恵子。なにを言っている、恵子)

「もう、気負い込む年でもないでしょう? 血圧も上がってしまいますしね。お醤油はひかえめに、お酒もほどほどになさって、長生きしてくださいよ」

(恵子、おい……恵子!)

 ほほえむ妻の姿が、淡い提灯の光に溶けていく。ほんのすこし足を動かせば届く場所にいるはずが、どれほど手を伸ばしても妻には届かない。

(恵子、なにをしているんだ。この手を取れ! はやく)

 必死に叫ぶのに、口から出るのは荒い呼吸だけだった。笑顔でゆるゆると首を振った妻を見て、ああそうかと正彦は思い出す。

(恵子は……死んだんだったな)

 伸ばしていた腕を落とした正彦は膝をつき、両手で顔をおおった。

(俺がもっといたわっていれば、はやく医者に行けと言っていれば……肺炎なんかでおまえを失わなくて済んだんだ)

 やさしい手が正彦の頭に触れる。顔を上げた正彦の目には、なにも映らなかった。ただ白い景色だけが目の前にある。それは煙のように流れ動いて、その奥にちらりと妻の姿が見えた。

(恵子!)

 叫んだ正彦は夕日に照らされた街の中に、ぽつんとひとりたたずんでいた。

「え」

 ぼうぜんと周囲を見回す。見慣れた街の姿がそこにあった。尻に手を当てると財布の感触がある。鍵もあった。

(なん……だったんだ)

 白昼夢にしてはリアルだった。指にまだ恵子のぬくもりが残っている。

 右手をながめた正彦は、ふらふらと家に帰った。

「あっ、おとうさん」

 家に戻ると台所に加奈子が立っていた。米の炊ける匂いとみそ汁の香りが漂っている。

「おかえりなさい」

「おまえ、なんで」

「なんでって、なによ。夕食を作りに来ちゃいけないわけ?」

「そうは言っていないだろう。なんだ、そのものの言い方は」

 威圧的な声を出しつつ、正彦はリビングの定位置についてテレビを点けた。台所から調理の音が流れてくる。それがテレビの音にかき消されると、正彦は立ち上がって娘の姿を確認した。

「なに? もうすぐできるから、座って待ってて」

「家の飯はいいのか」

「できたら帰るわ」

 慣れた手つきで調理する加奈子から目を離して時計を見ると、五時半を過ぎたところだった。これから帰って夕食を作れば、おそらく七時かそこらになるだろうと計算する。

「まったく。こうやって私が作っておかないと、ろくなもの食べないんだから」

「え」

「お弁当ばっかりでも、飽きるでしょ。テレビ観ないんだったら、洗濯物を取り込むくらいしといてよね」

 親に向かって、なんて口の利き方だと怒りかけたが気を取り直し、正彦はベランダに出た。ハンガーごと取り込んで、そういえば妻はどうしていたかと考える。

「取り込んだもの、畳んでタンスに入れとかないと、シワになるよ。アイロンまではしないからね」

 そうだったそうだったと、正彦は目を細めて洗濯物を見た。その奥に膝の上で洗濯物を畳む妻の姿が映る。

「野菜炒め作っておいたから、適当に食べて。残ったら冷めてからお皿に入れて、ラップして冷蔵庫ね」

「ん。ああ」

「じゃあ、帰るから」

「おお」

 バタバタとエプロンを外して玄関に向かう娘を、洗濯物を手にしたまま追いかける。

「じゃあ。あんまり気落ちしないで、そろそろしっかりしてくれないと。私だって忙しいんだから」

「そうか」

「そうよ」

「加奈子」

「なに」

「ありがとうな」

 えっと目をまるくした娘に、正彦はムッとする。

「なんだ」

「ううん……すごく、めずらしいこともあるんだなって」

「俺だって、礼を言うときはあるぞ」

「そういうの、おかあさんにもっと言ってあげたらよかったのに」

 不平を漏らした加奈子は、失言だったと顔色を変えて「それじゃあ、また来るから」と気まずそうに玄関から飛び出した。

「ああ」

 扉が閉まると鍵を閉め、正彦は仏間へ入った。

「かあさん……いや、恵子」

 仏壇に飾られている、くったくのない妻の写真はいつ撮影したものだったろうか。

「おまえのおかげで、加奈子は立派な娘になった。ありがとうな」

 自分で家事もこなしているつもりでいた正彦は、毎日のように様子を見に来ていた娘がしていたのだと自覚する。そして己は妻を失ったショックで、長い間ぼんやりしていたことも理解した。

「心配して、会いに来てくれたんだろう。まったく、おまえは昔からそういうところがあるな」

 妻との出会いは職場でだった。お茶を淹れて配っていた恵子が、正彦の袖のボタンが取れかけていることに気づき、声をかけてくれたのが知り合うきっかけだった。特別な感情があるからと正彦はうかれてその気になり、けれど恵子にとっては普段通りの誰にでもする態度だったのだと知ってがっかりした。

 そして同時に、彼女のことを強く意識した。

 目配りと気配りのできる、あいらしい笑顔の恵子に惹かれ、告白をし、デートを重ねて結ばれた。

「先に惚れたのは、俺だったなぁ」

 しみじみと声をかけた正彦は、指先で写真に写る妻の輪郭をなぞった。

「死んでからも心配をかけてすまない。なあ、恵子。――かあさん、俺は……おまえが妻でよかったよ。生きているうちに、言えばよかったなぁ。加奈子の言う通りだ」

 しかしもう……と、正彦はさみしく口の端をゆがめた。

「こんなことを言っていると、また心配をかけてしまうな」

 そうですよ、と妻の声が聞こえる。

(冷める前にご飯を食べて、今夜はゆっくり眠ってはいかがです? ずいぶんとお疲れでしょう。明日からはまた、いままでどおりに仕事仲間とゴルフに出かけたり、飲みに行ったり、元気に過ごしてくださいよ)

「ああ、そう……そうだな、そうだ。そうやって俺は、おまえと生きて来たんだからな。これからも、そうやって生きていく。おまえと一緒にな」

 写真から離した指で、自分の胸をトントンと叩いた正彦は、大切なものがそこにあるのを確かめた。
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