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井上香澄
「香澄は、自分と会話をしてみてる?」
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「心配してくれているのは、すごくわかるの。おとうさんもおかあさんも、私のためを思って言ってくれているんだろうなって。大事にされているんだなっていうのは、わかっているの」
そこはきちんと理解している。どこかの誰かに言われなくとも、しっかりとわかっている。
「だから……苦しいっていうか、窮屈っていうか」
親の言うことなんて気にする必要ないよと、友達の声がする。それらはあきれた顔だったり、小ばかにした笑顔だったり、めんどくさそうな顔だったりした。
だけどもそう言いながら、誰もが親の影を気にしているのはあきらかだった。根っこの部分は親とくっついている。本気で親から飛び出そうとしている友達は、ひとりもいない。
「おかあさんもおとうさんも、嫌いじゃないんだ。だけどちょっと、うっとうしくなるときがあるっていうか……先回りしてあれこれ言われるのとか、心配されるのとか、私のためなんだなって思うんだけど、だからよけいにイライラするっていうか」
(どう言えばバチッと気持ちにはまるんだろう)
自分の中にある言葉を必死に探して、あてはまるものを取り出したいのに見つからない。もどかしくて、香澄はこぶしを握って唇を噛んだ。祖母は静かな微笑をたたえたまま、ただじっと香澄の瞳を見つめている。
どんな言葉でもいいよと言われている気がした。
「おばあちゃん」
幼い子どもに戻ったみたいに、香澄は歯がゆい気持ちをそのまま出した。
「どう言えばいいのか、ぜんぜんわかんないんだけど……上手に話せないんだけど」
うん、とひとつ祖母がうなずく。
「なにかこう、バーンって大きなことがあったんじゃないんだ。ちょっとだけ、ちょっとずつ……かな? こう、なんか……なんていうか、いやだなっていうか、なんでかなっていうか。そういう……ちょっとしぶしぶ納得したってことが溜まってきてるっていうか、それがなんか……モヤモヤしてるんだよね」
ちらりと祖母の目を見ると、深くて透明な瞳に吸い込まれた。なにもかもをそこに投げだしていいんだと、香澄はおぼつかない説明をしていく。
「ちいさいものが、なんだか積み重なって、こう……重たくなっていく感じっていうのかな。そういう感じでなんか……すごい心がザワザワするのね」
言葉を止めて、自分の発言を確認しながら祖母を見る。祖母の表情は変わらない。
心の中の小石にぴったりな言葉を探す香澄は、祖母の手を取った。
「あの、おばあちゃん」
「ん?」
「部屋に戻ろう。座って、話しよ」
立たせっぱなしじゃよくないし、考える間を空けたくて、香澄は祖母の手を取った。
「それなら、縁側にでも座ろうか」
「え」
「お外の景色をながめながら、のんびりお話したらいいんじゃない?」
その光景をちょっと考えてから、香澄は「うん」とうなずいた。ふんわりとした日差しの中で、目にまぶしくさわやかな緑や空に顔を向けて、けれど心と声は祖母にかける。それはきっといまよりも、吐露しやすいに違いない。
とりあえず建物の中にと思ったはずなのに、気がついたら裏庭に面した縁側に座っていた。ふかふかの座布団の上に祖母は正座し、香澄は足をぶらりとさせて庭のちいさな滝を見ている。
(え……あれ)
目をぱちくりさせる香澄の横で、祖母は湯呑に口をつけた。茶請けの饅頭が添えられている。
(考えるのに熱中しすぎていたのかな)
饅頭をかじりつつ、香澄は移動の記憶がない理由を探した。
思考に落ち込んだ意識を置いて、体は勝手にこの場所に戻ったのだと香澄は納得する。ほんのわずかな違和感も、饅頭をかじればとろけて消えた。
ふわふわと空気が体を包んでくれる。時間の流れが普段とはぜんぜん違う。一秒一秒を肌で感じていると言えばいいのか。止まっているようで動いている時間を、体中で味わえている。
(すごく、落ち着くなぁ)
そこではじめて、香澄は日常のせわしなさに疲弊している自分に気づいた。
(なんか、忙しいんだよね)
どんどんどんどん時間が流れて、それに合わせて走らなければ置いていかれる。だからよそ見をする時間も、立ち止まる余裕もなくて、ひたすら友達や学校で提示される期限に合わせて前に進まなくてはならない。そこから外れると落ちこぼれ扱いになってしまう。
それが怖い。
おなじように。
みんなと歩幅を合わせて、遅れないように気をつけなければ。
両親の忠告はそれを助けてくれるもので。
ちょっと違うと思いつつも大きな反論ができないのは、自分のためを思って言ってくれているとわかるからで。
(ああ、でも……なにかが違うって思い続けてる)
ちいさな滝は止まることなく、こまかなしぶきを上げながら池の面を叩いている。落ちていく水はとてもはやく見えるのに、池に落ちた水は揺れているだけで動いていない。――そう見える。
(私はいま、滝の中にいる感じ)
そして祖母は池の水のようだ。ゆったりと泳ぐ鯉の背中がちらりと見える。
(あんなふうに時間を泳ぎたいな)
嫌なわけじゃないのに、息が詰まっていたんだなと自覚する。この感覚はなんだろう。
「もっと、ゆっくり歩きたいな」
ぽつりとこぼした香澄は、祖母の気配を右腕に感じながら、庭に向けて声を投げた。
「なんか、すごく忙しい感じで疲れちゃうんだよね」
足をブラブラさせて地面を見る。足元にちいさな草が生えていた。こういうものに目を止める余裕が、ちっともないと香澄はため息をこぼす。
「自分で考える間もなく、おかあさんとか先生とか、友達とかにこうしなさいって言われてる感じもするし」
それでもまったく自分の意見を入れられないわけじゃない。言われた範囲内で可能な意思は発信している。だけど、なにかが違うと感じている。どこか腑に落ちない部分が存在している。
そういうものの積み重ねに、じわじわと喉を締めつけられているようで、香澄は自分と周囲が見えない薄い膜で隔たれている気分になる。流れに足を取られて、地面につま先がつくかつかないかの距離に浮かんで、誰かが――主に両親が――作った道に沿って運ばれていく。
「おかあさんたちが私の年のときとは時代が違うって思うんだけど、でもなんか、まわりを見ていたら言うとおりにしたほうがいいのかなとも思うし。でも、どこか……なんか違うって思ってしまうっていうか」
うまく言葉にできないのは、勉強が足りないからなのか。もっと国語の勉強をしたり本を読んだりすれば、この気持ちを表現できる言葉を持てていたのだろうか。
唇をへの字に曲げて、ふうっと鼻から息を吐き出す。言いたいことは変わっていないのに、しゃべっているとわけがわからなくなってきた。
「いいわね」
ぽつりと祖母が言う。
えっと顔を向けた香澄は、遠い目を空に向ける祖母の横顔に、羨望となつかしさ、さみしさとあきらめを見つけた。
「そういうことを言える時代になったのね」
目じりのシワを深めた祖母の顔が、ゆっくりと香澄に向いた。
「いいことだわ」
祖母の言いたいことが、香澄にはわからない。
「若い女も、自分の意見を言える時代になったのね」
ハッと息を呑んで、香澄はドラマや本で知った昔の話を思い出す。
(なんだっけ。女三界に家無しとかなんとか、学校の先生が教科書の余談で言ってた)
どういう意味だったかと、香澄は必死に記憶を探った。
「どんなことでも、自分が決めたと言えるようにしておきなさいね」
「えっ」
「後悔はしてもいいの。だけど、それを誰かのせいにしないように……ね」
さみしい瞳でほほえむ祖母を、香澄は生まれてはじめて見た。そんな顔をさせるなにかが、祖母の人生にはあったのだと身震いする。
「おばあちゃん」
思わず握った手は、かなしくなるくらいになめらかでやさしかった。
「香澄」
祖母の指がぎこちなく動いて、香澄の指を握る。
「望まない道に行かなくちゃいけないこともある。だけどね、後悔を誰かに押しつけないだけの強さを持ちなさい」
静かな祖母の声は、香澄が今まで聞いたどんな大声よりも強く鼓膜を震わせた。
「おばあちゃん、私……私」
グルグルと記憶が渦を巻いて、さまざまな出来事が浮かび上がる。そのどれをも香澄は「おかあさんが言っていたから」と、言い訳をしていた。それを祖母にはこぼしていないはずなのに、どうしてそんなことを言われたのだろう。
「言える時代になったのは、誰かが言おうと決意して、そういう時代にしてきたからなのねぇ」
祖母はまた遠い目をして庭を見つめ、なつかしそうに微笑を浮かべた。その目に香澄は映っていない。過去を見つめる祖母を見ながら、香澄は自分の内側に目を向けた。
(私……ほんとは自分で決められるのに、決めてこなかったのかな)
失敗をしても誰かのせいにすればいい。そんな気持ちがあったから、息苦しいと思いつつ親の言うとおりにし、友達の価値観に流されてきたのだろうか。
(ううん、違う)
それがいいと思っていながら、けれど不安で誰かが言っていたからと自分に言い訳をしていた。
もちろん、ほんとうにそうだったこともある。だけど本気で抗えば、受け入れられたかもしれない物事だってあった。
(私は、怖いんだ)
それを主張することで不快になられることが怖い。反対意見に潰されるのが怖い。失敗したときに「それ見たことか」と言われるのが怖い。だから逃げ道を作っているんだと香澄は気づいた。
(でも、それだけじゃない)
めまぐるしく与えられる情報を吟味する時間が足りない。取捨選択する余裕が足りない。経験は……これから培っていくしかない。
「おばあちゃん」
「ん?」
「おばあちゃんは、苦しかった?」
なにがとは聞き返さずに、祖母は考える目で空を見上げた。
「しかたがないって言っていたかしらねぇ」
「しかたがない」
それは、あきらめの言葉ではないのか。
「そういう時代だったから、しかたがないって言っていたわ」
にこにこする祖母の瞳は雨上がりの空みたいに澄んでいる。
「それで、嫌だったことはないの?」
「あるわよ、たくさん」
「それをぜんぶ、あきらめてきたの?」
「あきらめる?」
きょとんとまばたきをした祖母は、ころころと子どもみたいに笑った。
「ああ、そうね。しかたがないって、そういうふうに取るわねぇ」
「違うの?」
「まあ、そうねぇ。あきらめるって部分もあるけれど、その先があるのよ」
「先?」
「そう。その、先」
いたずらっぽい祖母の声に、香澄は疑問に顔をしかめながら心をうきうきさせた。はやく知りたい気持ちと、もうすこしこの感覚を味わっていたい気持ちのはざまがたのしくて、香澄はふふっと肩をすくめた。
「しかたがないから、そこからどうするかって考えるのよ」
「そこから、どうするか」
そうよ、と祖母が首を動かす。うーんと香澄は考えながら庭に目を向けた。滝の水は一定の水量で流れ続けて、池に落ちた水はゆらゆらとただよっている。滝の傍にある波は広がり消えて、滝から離れた水面はわずかなゆらぎのほかは落ち着いていた。
「そこから、どうするか」
もう一度声に出してみた香澄は、どういうことかを考えてみる。
「しかたがないで止まっちゃったら、誰かのせいにしたくなるのよねぇ。だって、そのほうが楽だもの」
しみじみと、祖母がこぼした。その瞬間、香澄は祖母と自分がおなじ気持ちを経験しているんだと理解した。
「でも、それだと不満だらけの人生になっちゃうのよねぇ」
ほうっと息を吐いた祖母がお茶をすする。香澄も湯呑を手に取って、お茶を口に含みながら考えた。
(そうかも)
心の中にある小石みたいなわだかまりは、納得できなかった数とおなじなのかもしれない。
どうしようもないことはあった。どうにかできたかもしれないことも、あったかもしれない。けれど流されることで逃げて来たんだと香澄は気づいた。
(でも、どうしたらいいんだろう)
ちっともわからなくて途方に暮れる。そんなふうに簡単に気持ちを切り替えられたなら、誰だって苦労はしない。祖母はきっとそれだけ強い心を持っていたか、それだけ頭がよかったか、支えてくれる誰かがいたか――とにかく、特別だからできたのだ。
「香澄は、自分と会話をしてみてる?」
「自分と、会話?」
「そう」
祖母は自分の胸に手を当てて、そっと目を閉じた。
「はじめは自分と会話をするのは、なかなかできないことかもしれない。けどね、こうやって自分に話しかけてみるの。もしもし私、どうしてる? って」
変なのと思いつつもバカにする気になれなくて、香澄も胸に手を当てて、心の中で呼びかける。
(もしもし私、どうしてる?)
返事はない。
あるはずがない。
なぜなら私が私に呼びかけているのだから、私が返事をしなければ返答は得られない。
バカバカしいと思いながらも、香澄は胸に当てた手を外せないでいる。
なにか聞こえる気がして、香澄は心の耳を澄ませた。
あるかなしかの風が髪に触れる。
なにか、ちいさな点くらいの光が胸の奥にある気がした。そこに意識の目を凝らして、もういちど呼びかけてみる。
(もしもし私、どうしてる?)
薄いものにヒビの入る音が、聞こえた気がした。卵の内側から、コツコツとなにかがノックしているような音。そこから細かい亀裂が走って、内側にあるものが漏れてくるような――?
「もしもし私、どうしたい?」
祖母の声が耳に触れた。
(もしもし私、どうしたい?)
香澄は真似をする。なにか、大切な物が……押し込めていた大事なことが、心の奥で震えている。なにかを訴えている。
(私、私……ああ、私がいる)
そこはきちんと理解している。どこかの誰かに言われなくとも、しっかりとわかっている。
「だから……苦しいっていうか、窮屈っていうか」
親の言うことなんて気にする必要ないよと、友達の声がする。それらはあきれた顔だったり、小ばかにした笑顔だったり、めんどくさそうな顔だったりした。
だけどもそう言いながら、誰もが親の影を気にしているのはあきらかだった。根っこの部分は親とくっついている。本気で親から飛び出そうとしている友達は、ひとりもいない。
「おかあさんもおとうさんも、嫌いじゃないんだ。だけどちょっと、うっとうしくなるときがあるっていうか……先回りしてあれこれ言われるのとか、心配されるのとか、私のためなんだなって思うんだけど、だからよけいにイライラするっていうか」
(どう言えばバチッと気持ちにはまるんだろう)
自分の中にある言葉を必死に探して、あてはまるものを取り出したいのに見つからない。もどかしくて、香澄はこぶしを握って唇を噛んだ。祖母は静かな微笑をたたえたまま、ただじっと香澄の瞳を見つめている。
どんな言葉でもいいよと言われている気がした。
「おばあちゃん」
幼い子どもに戻ったみたいに、香澄は歯がゆい気持ちをそのまま出した。
「どう言えばいいのか、ぜんぜんわかんないんだけど……上手に話せないんだけど」
うん、とひとつ祖母がうなずく。
「なにかこう、バーンって大きなことがあったんじゃないんだ。ちょっとだけ、ちょっとずつ……かな? こう、なんか……なんていうか、いやだなっていうか、なんでかなっていうか。そういう……ちょっとしぶしぶ納得したってことが溜まってきてるっていうか、それがなんか……モヤモヤしてるんだよね」
ちらりと祖母の目を見ると、深くて透明な瞳に吸い込まれた。なにもかもをそこに投げだしていいんだと、香澄はおぼつかない説明をしていく。
「ちいさいものが、なんだか積み重なって、こう……重たくなっていく感じっていうのかな。そういう感じでなんか……すごい心がザワザワするのね」
言葉を止めて、自分の発言を確認しながら祖母を見る。祖母の表情は変わらない。
心の中の小石にぴったりな言葉を探す香澄は、祖母の手を取った。
「あの、おばあちゃん」
「ん?」
「部屋に戻ろう。座って、話しよ」
立たせっぱなしじゃよくないし、考える間を空けたくて、香澄は祖母の手を取った。
「それなら、縁側にでも座ろうか」
「え」
「お外の景色をながめながら、のんびりお話したらいいんじゃない?」
その光景をちょっと考えてから、香澄は「うん」とうなずいた。ふんわりとした日差しの中で、目にまぶしくさわやかな緑や空に顔を向けて、けれど心と声は祖母にかける。それはきっといまよりも、吐露しやすいに違いない。
とりあえず建物の中にと思ったはずなのに、気がついたら裏庭に面した縁側に座っていた。ふかふかの座布団の上に祖母は正座し、香澄は足をぶらりとさせて庭のちいさな滝を見ている。
(え……あれ)
目をぱちくりさせる香澄の横で、祖母は湯呑に口をつけた。茶請けの饅頭が添えられている。
(考えるのに熱中しすぎていたのかな)
饅頭をかじりつつ、香澄は移動の記憶がない理由を探した。
思考に落ち込んだ意識を置いて、体は勝手にこの場所に戻ったのだと香澄は納得する。ほんのわずかな違和感も、饅頭をかじればとろけて消えた。
ふわふわと空気が体を包んでくれる。時間の流れが普段とはぜんぜん違う。一秒一秒を肌で感じていると言えばいいのか。止まっているようで動いている時間を、体中で味わえている。
(すごく、落ち着くなぁ)
そこではじめて、香澄は日常のせわしなさに疲弊している自分に気づいた。
(なんか、忙しいんだよね)
どんどんどんどん時間が流れて、それに合わせて走らなければ置いていかれる。だからよそ見をする時間も、立ち止まる余裕もなくて、ひたすら友達や学校で提示される期限に合わせて前に進まなくてはならない。そこから外れると落ちこぼれ扱いになってしまう。
それが怖い。
おなじように。
みんなと歩幅を合わせて、遅れないように気をつけなければ。
両親の忠告はそれを助けてくれるもので。
ちょっと違うと思いつつも大きな反論ができないのは、自分のためを思って言ってくれているとわかるからで。
(ああ、でも……なにかが違うって思い続けてる)
ちいさな滝は止まることなく、こまかなしぶきを上げながら池の面を叩いている。落ちていく水はとてもはやく見えるのに、池に落ちた水は揺れているだけで動いていない。――そう見える。
(私はいま、滝の中にいる感じ)
そして祖母は池の水のようだ。ゆったりと泳ぐ鯉の背中がちらりと見える。
(あんなふうに時間を泳ぎたいな)
嫌なわけじゃないのに、息が詰まっていたんだなと自覚する。この感覚はなんだろう。
「もっと、ゆっくり歩きたいな」
ぽつりとこぼした香澄は、祖母の気配を右腕に感じながら、庭に向けて声を投げた。
「なんか、すごく忙しい感じで疲れちゃうんだよね」
足をブラブラさせて地面を見る。足元にちいさな草が生えていた。こういうものに目を止める余裕が、ちっともないと香澄はため息をこぼす。
「自分で考える間もなく、おかあさんとか先生とか、友達とかにこうしなさいって言われてる感じもするし」
それでもまったく自分の意見を入れられないわけじゃない。言われた範囲内で可能な意思は発信している。だけど、なにかが違うと感じている。どこか腑に落ちない部分が存在している。
そういうものの積み重ねに、じわじわと喉を締めつけられているようで、香澄は自分と周囲が見えない薄い膜で隔たれている気分になる。流れに足を取られて、地面につま先がつくかつかないかの距離に浮かんで、誰かが――主に両親が――作った道に沿って運ばれていく。
「おかあさんたちが私の年のときとは時代が違うって思うんだけど、でもなんか、まわりを見ていたら言うとおりにしたほうがいいのかなとも思うし。でも、どこか……なんか違うって思ってしまうっていうか」
うまく言葉にできないのは、勉強が足りないからなのか。もっと国語の勉強をしたり本を読んだりすれば、この気持ちを表現できる言葉を持てていたのだろうか。
唇をへの字に曲げて、ふうっと鼻から息を吐き出す。言いたいことは変わっていないのに、しゃべっているとわけがわからなくなってきた。
「いいわね」
ぽつりと祖母が言う。
えっと顔を向けた香澄は、遠い目を空に向ける祖母の横顔に、羨望となつかしさ、さみしさとあきらめを見つけた。
「そういうことを言える時代になったのね」
目じりのシワを深めた祖母の顔が、ゆっくりと香澄に向いた。
「いいことだわ」
祖母の言いたいことが、香澄にはわからない。
「若い女も、自分の意見を言える時代になったのね」
ハッと息を呑んで、香澄はドラマや本で知った昔の話を思い出す。
(なんだっけ。女三界に家無しとかなんとか、学校の先生が教科書の余談で言ってた)
どういう意味だったかと、香澄は必死に記憶を探った。
「どんなことでも、自分が決めたと言えるようにしておきなさいね」
「えっ」
「後悔はしてもいいの。だけど、それを誰かのせいにしないように……ね」
さみしい瞳でほほえむ祖母を、香澄は生まれてはじめて見た。そんな顔をさせるなにかが、祖母の人生にはあったのだと身震いする。
「おばあちゃん」
思わず握った手は、かなしくなるくらいになめらかでやさしかった。
「香澄」
祖母の指がぎこちなく動いて、香澄の指を握る。
「望まない道に行かなくちゃいけないこともある。だけどね、後悔を誰かに押しつけないだけの強さを持ちなさい」
静かな祖母の声は、香澄が今まで聞いたどんな大声よりも強く鼓膜を震わせた。
「おばあちゃん、私……私」
グルグルと記憶が渦を巻いて、さまざまな出来事が浮かび上がる。そのどれをも香澄は「おかあさんが言っていたから」と、言い訳をしていた。それを祖母にはこぼしていないはずなのに、どうしてそんなことを言われたのだろう。
「言える時代になったのは、誰かが言おうと決意して、そういう時代にしてきたからなのねぇ」
祖母はまた遠い目をして庭を見つめ、なつかしそうに微笑を浮かべた。その目に香澄は映っていない。過去を見つめる祖母を見ながら、香澄は自分の内側に目を向けた。
(私……ほんとは自分で決められるのに、決めてこなかったのかな)
失敗をしても誰かのせいにすればいい。そんな気持ちがあったから、息苦しいと思いつつ親の言うとおりにし、友達の価値観に流されてきたのだろうか。
(ううん、違う)
それがいいと思っていながら、けれど不安で誰かが言っていたからと自分に言い訳をしていた。
もちろん、ほんとうにそうだったこともある。だけど本気で抗えば、受け入れられたかもしれない物事だってあった。
(私は、怖いんだ)
それを主張することで不快になられることが怖い。反対意見に潰されるのが怖い。失敗したときに「それ見たことか」と言われるのが怖い。だから逃げ道を作っているんだと香澄は気づいた。
(でも、それだけじゃない)
めまぐるしく与えられる情報を吟味する時間が足りない。取捨選択する余裕が足りない。経験は……これから培っていくしかない。
「おばあちゃん」
「ん?」
「おばあちゃんは、苦しかった?」
なにがとは聞き返さずに、祖母は考える目で空を見上げた。
「しかたがないって言っていたかしらねぇ」
「しかたがない」
それは、あきらめの言葉ではないのか。
「そういう時代だったから、しかたがないって言っていたわ」
にこにこする祖母の瞳は雨上がりの空みたいに澄んでいる。
「それで、嫌だったことはないの?」
「あるわよ、たくさん」
「それをぜんぶ、あきらめてきたの?」
「あきらめる?」
きょとんとまばたきをした祖母は、ころころと子どもみたいに笑った。
「ああ、そうね。しかたがないって、そういうふうに取るわねぇ」
「違うの?」
「まあ、そうねぇ。あきらめるって部分もあるけれど、その先があるのよ」
「先?」
「そう。その、先」
いたずらっぽい祖母の声に、香澄は疑問に顔をしかめながら心をうきうきさせた。はやく知りたい気持ちと、もうすこしこの感覚を味わっていたい気持ちのはざまがたのしくて、香澄はふふっと肩をすくめた。
「しかたがないから、そこからどうするかって考えるのよ」
「そこから、どうするか」
そうよ、と祖母が首を動かす。うーんと香澄は考えながら庭に目を向けた。滝の水は一定の水量で流れ続けて、池に落ちた水はゆらゆらとただよっている。滝の傍にある波は広がり消えて、滝から離れた水面はわずかなゆらぎのほかは落ち着いていた。
「そこから、どうするか」
もう一度声に出してみた香澄は、どういうことかを考えてみる。
「しかたがないで止まっちゃったら、誰かのせいにしたくなるのよねぇ。だって、そのほうが楽だもの」
しみじみと、祖母がこぼした。その瞬間、香澄は祖母と自分がおなじ気持ちを経験しているんだと理解した。
「でも、それだと不満だらけの人生になっちゃうのよねぇ」
ほうっと息を吐いた祖母がお茶をすする。香澄も湯呑を手に取って、お茶を口に含みながら考えた。
(そうかも)
心の中にある小石みたいなわだかまりは、納得できなかった数とおなじなのかもしれない。
どうしようもないことはあった。どうにかできたかもしれないことも、あったかもしれない。けれど流されることで逃げて来たんだと香澄は気づいた。
(でも、どうしたらいいんだろう)
ちっともわからなくて途方に暮れる。そんなふうに簡単に気持ちを切り替えられたなら、誰だって苦労はしない。祖母はきっとそれだけ強い心を持っていたか、それだけ頭がよかったか、支えてくれる誰かがいたか――とにかく、特別だからできたのだ。
「香澄は、自分と会話をしてみてる?」
「自分と、会話?」
「そう」
祖母は自分の胸に手を当てて、そっと目を閉じた。
「はじめは自分と会話をするのは、なかなかできないことかもしれない。けどね、こうやって自分に話しかけてみるの。もしもし私、どうしてる? って」
変なのと思いつつもバカにする気になれなくて、香澄も胸に手を当てて、心の中で呼びかける。
(もしもし私、どうしてる?)
返事はない。
あるはずがない。
なぜなら私が私に呼びかけているのだから、私が返事をしなければ返答は得られない。
バカバカしいと思いながらも、香澄は胸に当てた手を外せないでいる。
なにか聞こえる気がして、香澄は心の耳を澄ませた。
あるかなしかの風が髪に触れる。
なにか、ちいさな点くらいの光が胸の奥にある気がした。そこに意識の目を凝らして、もういちど呼びかけてみる。
(もしもし私、どうしてる?)
薄いものにヒビの入る音が、聞こえた気がした。卵の内側から、コツコツとなにかがノックしているような音。そこから細かい亀裂が走って、内側にあるものが漏れてくるような――?
「もしもし私、どうしたい?」
祖母の声が耳に触れた。
(もしもし私、どうしたい?)
香澄は真似をする。なにか、大切な物が……押し込めていた大事なことが、心の奥で震えている。なにかを訴えている。
(私、私……ああ、私がいる)
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