上 下
12 / 16

12.マトリ

しおりを挟む
 寝台の上で、マトリは体をまるめてクフクフ笑いながら、さきほどのことを思い出していた。

(アユイが、僕を)
 ギュウッと自分を抱きしめて、よろこびを噛みしめる。思い切ってよかったと、アユイは背中を押してくれたメスに感謝した。

(明日になれば)

 アユイが求愛をしてくれる。カブフリの捕らえてきた山の獲物よりも、おおきくてめずらしいクジラをしとめて。

 たのしみだなぁと恋にとろけた目で、マトリは天井に吊るしている薬草類を見上げた。

「でも……大人が十人ならぶくらい、おおきいって」

 どれほどのものなのか、想像もつかない。クジラの存在は知っている。子どものころに、その肉を食べたこともある。けれどそれは、切り身になって届けられたものだった。全体の姿を、マトリは見たことがない。

(絵は、知ってる)

 頭がおおきくて、尾にいくにつれて曲線を描きながら細くなっていく。ヒレがあって、それを使って泳ぐ。模様として刺繍されたクジラが、海にいる姿を想像してみようとしたが、どうにもうまくいかない。

(明日は、はやく起きて漁に出る姿を見送ろう)

 薬草をいくつか差し入れにして、漁の上首尾を祈って浜で待っていようと、マトリは決めた。

 * * *

 まんじりともせずに日の出を迎えたマトリは、薬草を手に浜へ駆けた。夜の名残が残っている浜では、おおぜいのオスが作業をしている。十人乗りのおおきな舟のそばに、アユイがいた。大柄な壮年のオスとなにやら話をしている。声をかけていいものか迷っていると、アユイが気づいた。

「マトリ」

「アユイ」

 名を呼び、互いに近づく。

「どうしたんだ。こんなにはやく」

「気になって」

 視線を落としたマトリは、腰に下げた袋を取って差し出した。

「薬草を持ってきたんだ。クジラはとてもおおきいって聞いたから、けがをするかもしれないと思って」

「そうか。ありがとう」

 受け取ったアユイの指が、マトリの手にあたる。ピリッと電流が背骨に走って、マトリは背筋を伸ばした。

「マトリ?」

「なんでもない」

 ほほえむマトリを気にしながらも、アユイは追求しなかった。

(やっぱり、僕のツガイはアユイだ。アユイだけ……アユイ)

 すべてが欲しいと、想いを瞳に込めてアユイを見上げる。マトイの頬に、アユイの手のひらが添えられた。

「かならず、しとめて帰る」

「うん。アユイなら大丈夫だって、わかっているから大丈夫だよ。ここで、待っていてもいい?」

「いつになるかわからないぞ。すぐにクジラと出会えるわけじゃないし、しとめるまでに時間がかかる」

「わかっているけどさ……おかえりって、だれよりも先に言いたいんだ」

「そうか」

 アユイの目じりがやわらかくなる。はにかんだマトリは、準備を続けているオスたちを気にして、軽くアユイの胸を押した。

「準備。途中なんだろう」

「ああ」

「行って」

「行って来る」

 うん、と首を動かしたマトリは、準備を終えて朝焼けにかがやく海に出ていくオスたちを見送った。

(どうか、無事に帰ってきますように)

 昇りくる太陽に祈りをささげたマトリは、舟の姿が見えなくなると、その場に座って海をながめた。

 しばらくして、足音が背後から近づいてきた。潮の香りがあっても、だれが来たのか匂いでわかった。

 緊張しながら振り向かずにいると、足音はマトリの真後ろで止まった。

「出たのか。漁に」

 太く響くカブフリの声に、マトリは反応しなかった。

「クジラ漁に出ると聞いて、見に来たんだ」

 カブフリはそれ以上、マトリに近づいてこなかった。

「あいつなら、やれる。クジラさえ姿を見せればな」

 カブフリが動き、マトリとわずかな距離をあけて隣に座った。

「ほら」

 竹の包みを取り出したカブフリが、それをマトリに差し出す。

「鹿の肉だ。待っているのなら、食べるものがあったほうがいい。昼前に帰ってくるなんてことは、ないだろうからな」

 すこし迷って、マトリはそれを受け取った。

「ありがとう」

「あやまらないぞ」

 礼にかぶせて、カブフリはぶっきらぼうに言った。

「俺は、本気でおまえをツガイにする気でいる。子どものころから、おまえがオメガじゃなくても、俺のものにすると決めていた」

「僕は――」

「まあ、聞けよ」

 海に顔を向けて、カブフリは語る。

「俺は、おまえが俺を追いかけてくるのは、俺に惚れているからだと思っていた。ほかの連中もそうだ。だから俺がおまえに求愛をしたとき、だれもが納得をした。おまえが断るなんて、考えもしなかった」

 フッと息を吐いて、カブフリは苦々しい笑みを唇に乗せる。

「皆、勘違いをしていたんだな」

「カブフリ」

「俺はアユイを認めている。子どものころから、ずっとだ。だから、あいつのやり方が気にくわなかった。腹が立つ、という意味じゃない。もどかしかったんだ。俺に引けを取らない実力を持っていながら、周囲に評価されないってことが。それをあいつに言ったことがある」

「……アユイは、なんて」

「気にするヤツだと思うか?」

 ううんとマトリは首を振った。

「俺の対抗心は、空まわりだ」

 やれやれと息を吐いたカブフリの横顔を、マトリはじっと見つめた。

「それが理由で、おまえに求愛をしたわけじゃないぞ」

 視線の意味に気づいたカブフリに、問う前に答えられたマトリは奇妙な笑みを浮かべた。

「俺は真剣に、おまえをツガイにと考えている。――ほとんどの連中は、それが当然だと思っている」

「それは……うん。わかる、けど」

「だからアユイは、クジラを獲物にしたんだろう」

「わかるの?」

「当然だ。クジラをしとめたのなら、俺に対抗しうると皆が納得する。だから、見に来たんだ」

「アユイが、クジラをしとめてくるのを?」

「そうだ。それに、クジラの肉は子どものころに食ったことはあるが、捌かれていないものは見たことがない。どれほどのものか、興味がある」

 カブフリの目に剣呑な光が宿り、唇が不敵にゆがんだ。

「それ以上に、やっと俺に対抗心を持ったあいつの顔を、見てみたいんだよ」

 獰猛なくせに無邪気な気配をかもしているカブフリの表情を、マトリは不思議な心地でながめた。

(カブフリも、アユイに恋をしていたのかな)

 自分とは違う形で、アユイを求め続けていたのか。彼の表情からそう察したマトリは、フフッと笑みをこぼした。

「カブフリはやっぱり、僕の恋敵だったんだなぁ」

「は?」

 あっけにとられたカブフリの声がおもしろくて、マトリはクスクス笑い続けた。カブフリの表情がなごむ。

「恋敵だと思っていたのか」

「そう。だから、僕はカブフリになりたかったんだ。アユイはカブフリを見ていたから。カブフリみたいになれば、アユイに認めてもらえるって思っていたんだよ。だから、がんばっていたんだ」

「それを、俺が好きだから、俺とおなじようにしようと、食らいついてきていると勘違いをしたんだな。俺は」

「カブフリだけじゃないよ。皆、そう思っていたんだ。だから僕とカブフリが、ツガイになるって思い込んでいるんだよ」

「俺たち三人の関係を崩したくなくて、俺の求愛を拒んでいるんだと思っていた。そんなことをしても、いつまでもこのままではいられないと自覚させたくて、求愛を繰り返していたんだ。おまえにとっちゃあ、見当違いもいいところの迷惑行為だったな」

「関係を崩したくない……っていうのは、あながち間違いじゃないよ。それがあったから、僕はアユイに想いを伝えられなかったんだ」

「俺との関係が崩れることは、考慮の外だったってことか」

 冗談めかしたカブフリの口調に、マトリは笑顔をひきつらせた。

「それは……だって、カブフリは求愛をしてきたから」

「関係を崩そうとしていたと言いたいんだな」

「うん」

「まあ、気持ちはわからなくもないがな。生きていれば関係は変わっていくもんだ。いつまでもおなじでなんて、いられないんだよ。下手に維持しようとするほうが、ずっとイビツだ」

「そんなふうに、考えていたんだ」

 マトリはちょっと感心した。

「望まない方向に関係が変わったとしても、しかたねぇよな。他人の心を自分の思う通りに動かすなんて、できるわけがない」

「でも、そうなってほしいと考えて、いろいろなことをするんだ」

 ふたりは黙って、海をながめた。

(僕はアユイに認めてもらいたくて、カブフリみたいになりたかった。それをカブフリもアユイも、ほかの皆も、僕がカブフリを好きだからって勘違いした)

「カブフリ」

「なんだ」

「カブフリがアユイを認めていたこと、僕はわかっていたよ」

「そうか」

「うん」

 それだけアユイのことを見ていたから、と言いかけたマトリは口をつぐんだ。それは言わなくてもいいことだ。

「ねえ、カブフリ」

「ん?」

「アユイは、カブフリを意識していたよ。その目をこっちに向けたいって、無茶をしてしまうくらいに。たぶん、カブフリとは違う意味で、アユイはカブフリに対抗心というか、そういうものを抱えていると思うんだ」

「あいつは、俺と自分は違うと言ったぞ」

「それは、比べてみて、おなじようにはなれないっていうか、自分をより活かせる立場で間接的に対抗っていうか、そういう意味じゃないのかな。カブフリは皆を引っ張っていくのが得意で、アユイは後方から支援するというか、だれかを引き上げるのが得意で。それってどっちも大切で、どちらが欠けてもうまくいかなくて。そのバランスっていうか、そういうものが取れていないと、ちぐはぐになるっていうか」

 うまく言えないなと、マトリはしゃべるのを止めた。頭の中で、ピタリと表現できる言葉を探す。

「なるほどな」

 間をあけてから、カブフリがつぶやいた。

「俺はおなじ立場で競い合うことを求めた。アユイは違う立場で、互いの能力を最大限に活かせる道を選んだ。そういうことか」

 端的にまとめられて、マトリはカブフリを見た。

「すごいね、カブフリは」

「なにが」

「僕の言いたいことを、すごくわかりやすくまとめてくれた」

「おまえはそれに気がつけた。俺は気がつかなかった。俺がすごいんじゃない」

「僕がすごいってこと?」

「そういうおまえだから、俺は惚れたんだ」

 真剣な目に射抜かれて、マトリは身動きをやめた。どのくらい見つめあっていたのか。潮騒だけが空気を震わせるなかに、足音がまぎれた。

「あ、マトリ。カブフリも」

 現れたのは、海の集落のものたちだった。漁に出られないオスやメス、子どもや老人たちがゾロゾロとやってくる。立ち上がったふたりを、集落のものたちが囲んだ。

「ちょうどよかった。カブフリくらい力のあるものがほしかったんだ。手伝ってくれないか」

「いったい、なにをするんだ」

 海の集落のものたちは、手にしていた道具袋を浜辺に置いて、なにやら作業をはじめた。

「クジラはそのままだと運べないからな。ここで捌いて運ぶんだ。そのための準備がいるんだよ」

 おおきな樽を手にした男に、マトリは「準備?」と問いかけた。

「クジラを解体する準備だ。皮と脂と肉。それと骨に分けてから集落に運ぶ。あんなもの、ここから集落まで運べないからな。マトリも手伝ってくれ。解体の時に砂がつかないように、作業場を作るんだ」

 マトリはカブフリと顔を見合わせた。

「それだけすごい獲物を捕らえて、アユイは帰ってくるってことだな」

 不敵に笑ったカブフリに、マトリもニヤリとした。

「カブフリと対抗できるくらいの獲物って言っていたからね」

「たのしみだ」

 集落のものたちは、クジラはかならず届くと思っているようで、だれもが喜色を全身で振りまきながら、せわしなく動いている。その輪に交じって、マトリもカブフリも準備をはじめた。

 クジラを解体したことのあるものが中心となって、知らないものたちに指示をする。子どもたちも自分のできる範囲で、たのしそうに手伝っている。そうこうしていると、話を聞きつけた森の集落や山の集落から、手の空いているものたちがやってきて、浜辺は祭前の様相になってきた。

 昼時になると、各集落から料理が運ばれてきた。森や山でひと仕事を終えたものたちも、浜に集まってくる。集落の隔てなく集まった人々はみな、クジラという途方もなくおおきな獲物の到着を期待していた。

 食事の席で、クジラ漁を経験した老人がどれほど大変なことなのかを語り、クジラの解体をしたことがあるものが、どんな手順でクジラを捌くかを説明し、子どものころにそれを見たものは、当時の興奮の思い出を披露した。

(こんなに、おおぜいが集まって待っているんだ。クジラを捕らえて帰ったら、だれもがアユイの実力を認める)

 そして彼が求愛をしても納得をするはずだと、マトリはカブフリを横目で見た。視線に気づいたカブフリが、期待に満ちた顔でニンマリとする。カブフリもおなじことを考えているのだと、マトリにはわかった。しかし周囲はそう思わない。

「あらあら。視線で会話をするなんて、妬けるわねぇ」

 冷やかしの声が上がると、ほかの面々も次々に、いずれツガイになると思い込んでいるふたりを、からかう言葉をかけてくる。マトリは苦笑し、カブフリは軽く肩をすくめて、それらを聞き流した。

「さあ、準備は整った。あとはクジラが到着するのを、のんびりと待つとしよう」

 それを合図に、皆が声をひとつにして「おう」と答えて海を見た。

 舟の姿は、まだ見えてこない。
しおりを挟む

処理中です...