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 木漏れ日の中、目当てのものを摘み終えたマトリは、木の葉の隙間からのぞく空を見上げた。手びさしをして日の光に目を細め、ふうっと息を吐く。

「そろそろ、いいかな」

 マトリの腰には、おおきさの違うポーチがふたつついている頑丈なベルトがあった。

「これ、ほんとうに便利だよねぇ」

 ポンッとポーチを叩いたマトリのもとに、獣の耳としっぽの生えた幼児が転がるように走り寄った。

「ママッ!」

 両手を広げて受け止めたマトリは、幼児を抱き上げて頬を寄せる。

「そろそろ、海に迎えに行こうか」

「うんっ」

 ふくふくとやわらかな幼児の頬をつついて、マトリは森を抜けて海辺に出た。潮の匂いがちかづくにつれ、幼児の目がキラキラとかがやく。

 おろしてほしいと身をよじった幼児をおろせば、波打ち際に向かって駆けだした。銀色の髪がふわふわと太陽の光をふくんで踊っている。砂に足を取られることもなく、しっかりとした足取りで走る幼児は、そのまま寄せては返す波と遊びはじめた。

「ママッ」

 見て見てと全身でアピールする幼児に、マトリはゆっくり近づいた。海の先に目を向けて、舟影を探す。

「まだ、みたいだね」

 マトリのつぶやきよりも、波のほうが重要らしい幼児はキャッキャッとはしゃいでいる。すこし強めの波がきて、脚を取られた幼児が転んだ。

「あっ」

 ずぶ濡れになった幼児が、笑い声をはじけさせる。つられたマトリも笑って、手を繋いで波と遊んだ。

「あ」

 帰ってくる舟に先に気がついたのは、幼児だった。

「パパ!」

 両手をおおきく振る幼児に、ちいさな人影が手を上げて応える。数艘の舟が浜に向かって進んできた。

「おかえり、アユイ」

「ただいま、マトリ、オウエ」

「さっきね、こぉんな虫がいてね」

「オウエ。さきに、おかえりなさい、だろう」

 マトリに注意された幼児、オウエは気にせず森でのできごとをアユイに伝える。アユイはそれを聞きながら、舟を浜に上げて魚を吊るした縄を持ち上げた。オウエが手を伸ばし、魚に触れてクスクス笑う。

「今日は、ずいぶんとおおいんだね」

 ほかの舟も浜に上がり、マトリやオウエに声をかけつつ釣果を手に集落へ帰っていく。

「差し入れのぶんがあるからな」

「ああ」

「オウエも! オウエも行く」

 両手を上げて抱っこをせがむオウエを、アユイは片手で抱き上げた。

「それじゃあ、みんなで持って行くか」

「うんっ!」

 アユイの肩をよじのぼり、オウエは自分から肩車の体勢になった。

「そのまえに、一度、集落に帰っておこうか」

 マトリが魚を見ながら言う。

「なにか、持って行くものがあるのか?」

「そうじゃなくて。全部が差し入れじゃないだろう」

「それなら、集落のぶんは俺が持って帰っておくさ」

 ともに漁に出たオスに声をかけられ、アユイは頼むと縄のひとつを預けた。

「それじゃあ、行こうか」

「走って、走って!」

「走らない」

「えー」

 文句を言いながらも、オウエはたのしそうにアユイの頭にしがみついている。アユイはオウエのちいさな足をつかんで、マトリとならんで目的地へと向かった。

「いまでも、信じられないな」

 森の中に入り、三人きりになってからマトリが口を開く。

「うん?」

「こんなふうにアユイのツガイになって、子どもまで」

 マトリの視線に気づいて、オウエがニッと歯を見せた。

「こんなにはやく色々なことが変わって落ち着くなんて、想像もできなかったよ」

「俺もだ。おまえはカブフリとツガイになるものだと思っていたからな」

「僕も……僕は、カブフリのツガイになる気はなかったけど、アユイとツガイになれるなんて思ってもみなかった」

「俺を誘いに来たくせに?」

「あれは……だって」

 マトリの顔に朱が上り、アユイはサッとそよ風のように赤く染まった頬にキスをした。

「そのおかげで、こうなれたんだ。ありがとう、マトリ」

「アユイ」

 はにかむマトリに、オウエが手を伸ばす。マトリはちいさな手を握ってあやした。

「そうだ。オウエは砂浜も転ばずに走れるようになったよ。運動神経は、いいみたいだ」

「へえ」

「僕みたいになるのかなって思ったけど、中身はアユイに似ているのかもしれないな」

「なんでも、これからだ。俺はどちらに似ても、かまわない」

「それはそうだけど……でも、なんというか」

 言いよどんだマトリの頭を、アユイがクシャリと撫でる。

「おまえは、オメガだったことが不満か?」

「不満はないよ。――だけど、子どものころの、みんなとおなじようにできなかった気持ちを、オウエには味わってほしくないなって」

 そうかとアユイはうなずいて、オウエを見上げる。

「オウエは、どんなふうになりたい」

「パパみたいに、おさかないっぱいとる!」

「そうか。それじゃあ、明日からすこしずつ、泳ぎの練習をしてみるか?」

「うんっ!」

 よろこびに息を呑み、そのすべてを放ったオウエの元気な返事に、マトリとアユイは笑みを交わした。

「泳ぎが苦手なら、釣りを覚えればいい。釣りが苦手なら、網を試してみればいい。それも合わないのなら、別の方法を探すか、ほかの得意なことを見つければいいんだ。俺たちは、群れで生活をしているんだからな。俺は、マトリほど薬草に詳しくはないし、調合もできない」

「うん」

「狩りもカブフリにはかなわない」

「でも、僕よりは上手だよ」

「おまえも、まったくできないわけじゃないだろう」

「それは、うん。ウサギくらいなら」

「それでいいんだ。できるものができることをして、できないものを助ける。代わりに、自分ができないことを、だれかにしてもらう。群れというのは、そういうものだ」

「わかってはいるんだけどね」

 苦笑したマトリは、腰のポーチに手をあてた。

 森を抜けて山にさしかかる。坂になると、オウエは自分の足で登りたがった。なるべくゆるやかな道を選んで、森の集落を目指す。はしゃぎながら進んでは、興味を持ったものを見つけると立ち止まり、気のすむまで観察してから進むオウエのペースに合わせて歩いていると、大人だけで行くよりも三倍以上の時間がかかった。

 それでもふたりは急かすことなく、オウエの気の向くままにまかせている。

「オウエのおかげで、いつの間にか気にしなくなっていたことも、新鮮に感じられるんだ」

「へえ」

「きっとアユイも、オウエにいろいろと教えていたら、そんな気分になると思うよ」

「たのしみだ」

 そんな会話を交わしつつ、のんびりと森の集落に入ったふたりは、カブフリは戻っているかと近くにいたオスに声をかけた。

「カブフリなら、もうすぐ帰ってくると思う。小屋で待っているといい」

「ありがとう」

 カブフリの小屋に行くと、軒先でミヨウが蔓で籠を編んでいた。その横に、ちいさな手をけんめいに動かして真似をしている、獣の耳としっぽを出したままの幼児がいた。

「こんにちは、ミヨウ、アモノ」

「魚を持ってきたんだ」

「あのね、さっきね、森でね」

「こら、オウエ。さきに、こんにちは、だろう」

 オウエは器用にアユイの肩から下りて、黒髪のアモノと短いやりとりをしたかと思うと、追いかけっこをはじめた。たわむれる幼児の姿に、全員の表情がなごむ。

「カブフリは、まだ帰っていないんだ。よかったら中でお茶でも」

「ありがとう。それじゃあ、お邪魔しようかな」

 魚を受け取ったミヨウが、となりの家に声をかける。出て来たメスがマトリとアユイに頭を下げて、魚を手に長の小屋へ向かった。

「さあ、どうぞ」

 招かれて入ったふたりは、囲炉裏の傍に落ち着くよう勧められ、猪の毛の敷物の上に座った。壁にも猪の毛がかけられている。奥へ入ったミヨウが、茶と干した果物を手に戻ってきた。

「どうぞ」

「ありがとう」

 受け取って口をつけたマトリは、目をまるくした。

「ずいぶんと、甘いというか……これは、ハチミツ?」

「いい巣を見つけたって、カブフリたちが収穫をしてきてくれたんだ。あとですこし持って帰って」

「めずらしいものなのに、いいの?」

「いつも、魚の差し入れをもらっているからね。子どもがちいさいと、魚があると助かるんだ」

「それは、とても便利なポーチをもらったお礼だし」

「お礼だなんて。材料はアユイが獲ったクジラだから」

 ふたりのやりとりを聞いていたアユイが吹き出す。ふたりはキョトンとしてアユイを見た。

「群れとは、そういうものだからな。遠慮をせずに、もらっておけばいい。かわりにまた、なにかを持ってくる」

「うん、そう。そうだよ、マトリ。だからハチミツ、持って帰って」

「そういうことなら、遠慮なく」

「なつかしいなぁ」

 しみじみとミヨウが言う。

「なにが?」

「なつかしいって言っても、そんなにまえのことじゃないんだけどね」

 肩をすくめたミヨウが、照れくさそうに視線を落とした。

「カブフリが……そう言ってくれたんだ。苦手なことを無理にしなくてもいい。得意なことがあるのなら、それをすればいい。手先が器用なだけで、なんにもできなくてバカにされていた僕を、そうやって助けてくれた」

「カブフリらしいな」

 アユイの言葉に、マトリもうなずく。

「それで、ミヨウはカブフリのツガイになりたいって思ったんだね」

 うん、と顎を引いたミヨウはマトリをまっすぐ見た。

「できないって遠くから見ているんじゃなくて、マトリみたいに努力をすれば……なんてことを言ったんだ。そうしたらカブフリは、自分の力量を見極めるのはいいことだって。僕の作ったベルトポーチをほめてくれて。だから、マトリに負けないようにがんばろうって」

「僕?」

「ミヨウにとっては、マトリが恋敵だったってことだな。俺にとってのカブフリがそうだったように」

「だけど、僕ははじめから」

 そっとアユイの人差し指が、マトリの言葉を遮る。

「アユイ、マトリ」

 よく響く声とともに、子どもたちの笑い声が室内に入ってきた。

「カブフリ」

「おかえり」

「邪魔してるぞ」

 サッと立ち上がったミヨウが、お茶の準備のために奥へ行く。カブフリの両肩に乗せられているオウエとアモノが、キャッキャとはしゃいでいた。

「魚、くれたんだって?」

 座ったカブフリの肩から降りたアモノはカブフリの膝に、オウエはアユイの膝に落ち着く。

「お疲れ様」

 戻ってきたミヨウに差し出されたお茶を、カブフリは「おう」と言って受け取った。

「ハチミツの話はしたか?」

「持って帰ってもらえるように、準備もできています」

「まだ、敬語が抜けないんだね」

 ミヨウに差し出された木筒を受け取りながらマトリが言えば、カブフリが「呼び捨てにはなったんだがな」と苦笑した。

「僕やアユイには、敬語にならないのに」

「それは……なんというか、クセみたいなもので」

 眉尻を下げたミヨウがカブフリの横に並ぶ。そうすると、ミヨウの小柄がひときわ目立った。アンバランスなようでいて、しっくりきているふたりの姿にマトリはほほえむ。

「いい相手が見つかってよかったね、カブフリ」

「おまえが言うと、嫌味に感じるな」

 冗談めかしたカブフリの脇を、ミヨウがつつく。カブフリは豪快に笑って、ミヨウの肩を抱き寄せた。むつまじい姿に、マトリはそっとアユイの袖を引いた。気づいたオウエがマトリとアユイの手を繋いでニコニコする。

「この後、予定はあるのか」

「いや、とくには」

「それなら、昼飯を食っていけ。子どもたちも、遊び相手がいるとたのしいだろう」

「オウエね、およぐのおしえてもらうんだ」

「ほう、そうか。それはよかったな。アユイは泳ぎが上手だぞ」

「パパよりも?」

 アモノに見上げられて、そうだとカブフリがうなずく。オウエは得意げに胸をそらした。

「でも、そのかわり。カブフリはパパよりも狩りがうまい」

 アユイがオウエの額を撫でながら言うと、今度はアモノが胸を張った。

「それじゃあ、パパたちでおしえあったらいいよ」

「そうそう」

 子どもふたりの言い分に、大人たちが笑いをはじけさせる。

「それじゃあ、お昼の準備をしようか」

「あ、僕も手伝うよ」

「食後に、子どものころによく行った川に遊びに行くか。海とは違うが、泳ぎの練習もできるし、狩りの練習もできるぞ」

 ニヤリとしたカブフリに、アユイもおなじ笑みを浮かべる。子どもたちは皆で出かけられることによろこび、マトリはミヨウと顔を見合わせて台所へ入った。

「正直、自信がなかったんだ。半分は、無理だって思ってた」

 鍋の前に立ったミヨウがぽつりと言って、マトリは首をかしげた。

「カブフリのこと?」

 うなずいてから、ミヨウは静かな笑みを唇に乗せ、どこかさみしげな視線で火を起こしながら続ける。

「だけど、あきらめきれなくて。そんなときに、アユイがマトリに求愛をして、ふたりが結ばれたって聞いて。だから僕も挑戦してみようかなって。ほんとうはずっと、カブフリのすべてが欲しかった。カブフリの気持ちを独占しているマトリが、ほんとうにうらやましかったんだ」

 顔を上げたミヨウの目には、まだカブフリの心にはマトリがいるのではという不安が薄くかかっていた。

「ねえ、ミヨウ。僕もね、ずっとアユイのすべてが欲しかったんだ。――どうして僕が、カブフリとおなじようになりたいって、できもしないのにがんばっていたのか。その理由を聞いてくれる?」

 なにもかも、愛しいひとのすべてが欲しかっただけなんだよ。
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