われても末に もの想う身は

水戸けい

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 簡素な服に身を包んだ旭は、気もそぞろに本を開いていた。市へ行くと言いはしたが、刻限を決めていなかった。まさか仕事を差し置いて市へ繰り出すわけにもいかぬだろうと、平盛と事を決めたときはさして時刻を気にしてはいなかったが、幸福なまどろみの中で目を覚ました後は一刻も早く、外の世界が知りたくてならなかった。
 夢だと思った出来事は、夢ではなかった。

 昨夜たしかに義直と通じ合った。自分に都合の良すぎると思った彼の告白は、事実であったのだ。けれどそれがゆえに、疑問が現れる。義直の素性を知り預かっているとはいえ、表立って金子きんすを与えたり世話をしたりは出来ぬだろう橘森繁が、どのようにして彼の生活を支えているのか。彼はどのように生きてきたのか。それを、早く知りたいと思った。

「平盛が来れば、すぐに知らせよ」

 時折世話をしにくる女房に、そのつど声をかけるが参ったという知らせは来ない。自分ひとりで出かけてしまおうかとも思うが、右も左もわからないままに出かけたとして、知りたいことを知りえるとは思えなかった。

 尻が落ち着かぬままに昼餉をすました頃、やっと平盛が顔を出した。

「きたか」

 すぐさま門に向かうと、頭を下げられた。

「ずいぶんと、お待たせしておりましたようで」

「かまわぬ。そなたには役目があろう」

 言いながらも門をくぐろうとする旭の姿に、くすりと平盛が笑みを漏らす。

「何を、まずは見られたいと思われておりまするか」

「人の営みだ。市には様々なものが集まるのだろう」

「さようにございます。では、参りましょう」

 平盛が先に立ち、その後を旭が続いた。進む平盛が目に付くものをひとつひとつ、旭に説明をしていく。あの小屋はどのようなものが住まうものなのか。軒先においてあるものは、何に使うものなのか。

 それぞれに関心を示しながらの足は、なかなか進まない。ちらほらと直垂姿の者を見るが、それが民の間になじんでいた。旭自身も、今は取るに足らないひとりとして紛れているのかと思うと、不思議と愉快さが湧き上がってくる。

「いかがなさいました」

「皆が帝、帝と言うておるものも、こうして出ればとるに足らぬただの人。群集の中の一つに過ぎぬのが、面白い。――なあ、平盛。そうは思わんか」

「いかんとも、お答えしがたい質問にて」

 小首をかしげ、まあよいと言い置くと旭はまた別のものに目をやる。あちらこちらを歩き回っていると、声をかけられた。

「おう、アンタ――いつだったか義直と一緒に居たやつじゃねぇのか」

「そなたは、何と言ったか」

「鳶丸だ」

 名乗りながら、じろじろと旭と平盛を眺めて口の端を曲げた。

「最近、義直の奴が荒れていたが、そういうことか」

「どういうことだ」

「とぼけるな。そういうことだろう」

にやつく顔に検討がつかない旭の様子に、笑みが引っ込む。

「なんだ、違うのか」

「だから、何がだ」

「俺ぁてっきり、アンタと義直がイイ仲だったのが、そっちの男にとられちまったのかと思ってよ」

「なっ」

「はは、悪い悪い。で、なんだ、久しぶりだな。どうした」

「いや、市を見て回りたいと思ってな」

「なんでまた」

「あまり、こういうことを知らぬので、知っておこうと思っただけのこと」

 ははん、と訳知り顔の鳶丸が同情ぽく旭の肩を叩いた。

「そうかそうか。そういうことか。いや、世の中は上がったり下がったりだからよ、あんま落ち込んだりすんなよ。ま、こうやって来ているってこたぁ、前向きなんだろう。生きてりゃ、なんとかなるからな」

「何の話だ」

「家がなんかの理由でつぶれちまって、そっちの男が見受け人かなんかなんだろ。いやいやいやいや、何も言うな。いい。そういう奴は大勢居る。大丈夫だ、大丈夫。なんか困ったことがあったら俺に言え。相談に乗ってやるから」

 ひとり合点しているらしい鳶丸に、これ以上なにかを言って話をややこしくする必要もないだろうと、旭は話題を切り替えた。

「では、皆がどのような暮らしをしているのかを知りたい」

「ああ、そうだな。基本を知らなきゃ何もわかんねぇよな。まず、生きるために一番大切なのは、飯だ。それらを作っている奴がいて、作っていない奴は買う。買う奴は、買うための銭がいる。それを稼ぐために、布を織ったり、なんかの手伝いで駄賃を稼いだり、道具を作ったり、自分を売ったり――盗みを働くものもいる」

「盗みは、罪ではないか」

「ま、そうだけどよ。自分らだけいい思いしようってぇ奴らから、そいつらが困らねぇぐらいを、ちょいと拝借して困っているやつに配ってるってぇのもいる。全部が悪いとは、言い切れねぇよ。罪だなんだというんなら、盗みを働かなきゃなんねぇ世の中にしている、御所の奴らが一番の罪人だ」

 ずきり、と旭の胸が痛んだ。なんでもない口調であることが、より堪える。

「まあ、とにかく――食うためには、何かをしなきゃなんねぇってことだ。アンタは、何ができる」

「何、とは」

「何かが作れるとかほら、何かあんだろ。得意なこととかよ」

「出来る、こと」

 考える。考えてみるが、自分が出来ることが何一つ思い浮かばないことに、旭は驚いた。

「何も、ない」

「んなこたぁねぇだろ。ほら、ほらほら」

「――何も、思い浮かばぬ」

「他の奴が出来ることでもいいんだよ。なんか、あるだろ」

 そうは言われても、何も浮かばない。呆然とする旭にいらだったように乱暴に頭を掻いた鳶丸が、旭の腕を掴んだ。

「来い」

 平盛が腰の刀に手をかける。

「何をするっ」

「アンタもついてこりゃあ、いいだろう」

 そのままぐんぐんと進んだ先は、子ども達が集まって紐を編んでいる小屋だった。

「本当にアンタがなんにも出来ることが思い浮かばねぇんなら、ここで出来ることを覚えりゃあいい」

 子ども達は、楽しげに話しながら紐を結っている。

「この紐は、何になる」

「何にでも。使い方は、買って行った奴が決める。これにはこれ、なんて決まりごとはねぇからな」

「決まりごとが、ない」

「そうだ。ほら、あそこ見てみろよ。部屋の隅。ありゃあ飯を食うための椀だけどよ、ここじゃあ余った糸の入れ物だ。あそこにある笊も紐をつけて天井から吊って、出来た紐を入れておくのに調度いい。用途は、使う奴が決めりゃあいい。人も、同じだ。いろんな用途がある。俺だって今はこんなだけどよ、いつかは用途を見出され、帝と対面するかもしんねぇしな」

 からからと笑う姿に、平盛が噴出す。

「なんだよ、何がおかしいんだよ。俺が武士んなって帝の警護をするかもしんねぇだろ」

 その帝が今目の前にいて、すでに対面は果たしているなどとは言えず、旭も笑い出した。

「なるほど。何者かの目に止まり、登用されるやもしれぬな」

「オマエら、ぜってぇ俺のことをバカにしてんだろ。なんだよ。わかんねぇだろ先のことなんてよぉ」

 本当に、先のことなどわからないものだと、旭は笑い続ける。

「ったく。なんなんだよ。とにかく、あれだ。出来ることがないってんなら、覚えることも出来るから落ち込む必要なんてねぇってこった。ほら、次行くぞ、次」

 ぷいと顔を背けて何処かへ向かう鳶丸に、旭と平盛は顔を見合わせた。

「どうにも、変わった男ですな」

「なかなかに、面白い男だな。平盛の郎党に加えてみるのは、どうだ」

「面白いのと、腕が立つのとはまた違う話にございますれば」

「ならば、腕も試せばよい。我は気に入ったぞ。警護をさせても良いと思うほどに」

「帝」

「平盛」

「あ、旭殿」

 申し訳なさそうに言い直した平盛に、満足そうに頷く。

「なにやってんだ。置いていくぞ」

 ふたりは小走りに、鳶丸の側に寄った。

「で、何の話をしていたんだったか」

「暮らしぶりの話だ」

「ああ、そうかそうそう。ま、そうだな。銭を稼いで飯を食う。そういうこった。で、稼ぐ方法はいろいろある、と」

「義直と知己であれば、あの者がどのように食いつないでおるのか、知っておろう」

「なんだぁ。そんなことも、アンタ知らなかったのか」

「そういう話を、したことがないのでな」

 ふうん、と旭の頭の先から爪の先まで眺める。

「それは、本人から聞けばいいんじゃねぇのか」

「教えてくれても、かまわないだろう」

 ひょいと肩をすくめて首を振られた。

「俺も、ちゃんと知らねぇんだよ。たまぁにふらふらっと出てきては、争いごとなんかがあると首を突っ込んで公平に話を聞いて、治めるんだ。んでまた、ふらふらっと帰っちまう。何処の誰とかは、あんま関係ねぇし。話のついでにも、何をしているのか出てきたこともねぇな」

「春をひさいでおるという、うわさを耳にしたが」

「はぁ――? アイツが、春をひさぐって…………ぶ、ははっ、ないない。そりゃあ単なるデマだ。アイツをあんまよく思ってねぇ連中が、そんなこと言ったんじゃねぇの」

「嫌っている者もいるのか」

「そりゃ、嫌う奴もいるだろう。全員に好かれていますぅなんて奴、すくなくとも俺は、見たことがねぇな」

 ふうむ、と感心したように首を縦に動かす。

「だが、そのようにして過ごしておる者もおるのだろう」

「白拍子なんかは、そうだけどよ。ありゃまた別だ」

「べつ」

 その先を聞く前に、鳶丸は見知った顔を見つけ大きな声で呼びながら手を振った。

「おおっと悪い。途中だが、この辺で。何かあったら、声をかけろよ」

 じゃあなとふたりの背中を叩いて、先ほど声をかけたものの側に行く鳶丸を見送り、旭は平盛に顔を向けた。

「人の世とは、面白いものなのだな、平盛」
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