絵を描くキカイ

和スレ 亜依

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前日譚①

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 現代世界で望む職業に就いている人間はどれくらいいるだろう。
 夢を見て、夢破れて。
 希望している訳でもない仕事に就き、心をすり減らして生きている人の方がよほど多い。
 私も、人生に負けた一人だ。
 もっと早くに自分の夢に気づいていれば、違う人生を歩めたかもしれない。
 そう思わない日はない。
 だけど、私は未だ夢を諦めきれずにいた。         



 静岡県静岡市に住む山下亜子は、経理関係の仕事をしている。就職してから三年が経ち、毎日の勤務も作業化してきていた。
 亜子には夢があった。「水彩画家」。その夢に気づいたのは大学に入ってからだった。きっかけは、ふらっと立ち寄った市民展。そこで見かけた青く涼やかな水彩画。心が震えた。こんな絵を自分も描いてみたい。そう思ったのだ。
 だが、遅すぎた。せめて、大学を決める前に気づいていれば良かったと何度も悔いた。地方都市にまともな専門学校の類いがあるはずもなく、だからといって都会に出る勇気もない。
 就職してから半年が過ぎた頃だった。自分は何のために生きているのだろうという自問自答を繰り返していた亜子の下に、「社会人のための水彩画の個人塾がある」という情報が舞い込んだ。入塾するのに自分でも驚くくらいにはためらいがなかった。
 そして、亜子は入塾した最初の日、奇跡を目撃した。目に映ったのは、涼やかな、朝の青い空を象ったような繊細な風景画。忘れるはずもない。画板にかけられたそれは、描きかけでもあの人の絵だとすぐに分かった。
 それを描いていたのは佐々木優人という自分より二つ年上の男性だった。自分の目標が決まった瞬間だった。そして、絵のごとく爽やかな性格の彼を好きになるのにも時間はかからなかった。



 そして、現在。
「はぁ……」
 亜子はため息をついた。
 自分の絵に自信がない。週二の教室で二年間描き続けてもまるで進歩がなく、優人の絵をいくらマネしても上手く描けない。今回はいける、と勢い込んで描いても、とても彼の絵には及ばない。優人に「山下さんの絵は元気でいいね」と言われ、ショックで塾を休んだこともある。自分の絵の稚拙さに吐きそうになった。
 モヤモヤとした気持ちで教室に入ると、件の優人がいた。
「あ、先輩……」
 亜子は、優人のことを先輩と呼んでいた。
「お、おはようございます」
 彼を意識して、どこかよそよそしくなってしまう自分が恨めしい。
「山下さんか。今日も早いね。次のコンクールにも応募するの?」
「は、はい! たぶんまたダメでしょうけど……!」
 早く来た理由はそれだけではない。優人と二人きりで話をしたいという邪念もあった。
「そんなことないよ。僕は君の力強い絵、好きだよ」
「……それは喜んでもいいんですか?」
「ははは、素直に喜べばいいと思うよ」
「ありがとう、ございます」
 亜子は優人が描きかけているキャンパスに目をやった。まだ下書きの段階だが、彼らしい繊細さが伝わってくる。
「先輩も出すんですよね?」
「そのつもりだけれど、中々上手く描けなくてね」
「……それは笑ってもいいところですか? 上手く描けてない先輩を見たことがないんですけど」
「君は純粋で面白いね」
「はぁ……?」
 亜子は優人の言っている意味が分からない。分からないけれど、優人の少し不思議なところも好きだった。
「あ、あの! 今日のお昼―」
「おはようございまーす!」
「おはよー」
 お昼を一緒にと言いかけたところで、他の生徒たちが入ってきた。
「おはよう」
「おはよう、ございます……」
 優人と亜子が挨拶を返す。
「優人さん、今日お昼一緒に行きましょうよ!」
 若い女性が優人を誘った。
「ああ、いいよ」
 ―それは、私が言うはずだったのに。
 亜子はやりきれない思いを抱えたまま、自分の絵と向き合った。
(下書きは、上手く描けてる……と思う)
 あとは、先輩のように青めの配色で色を塗っていくだけだ。
(集中、集中)
 そう思いながらも、筆は口よりも如実に己の心を表していた。



 今回のコンクールも何の賞もとれずに終わった。
 自分でも分かっていた。動揺が完全に絵に表れていた。先生には「ゴリラが描いたみたいだね」と揶揄された。
(才能ないのかな……)
 休憩室の隅で盛大にため息をついた。
「大きなため息だね」
「あ」
 見られてしまった。どう考えても今のため息は不細工だった。
「い、今のは! そのっ」
 必死で言い訳を考えるが、見つからない。
「ふはは」
 吹き出す優人。
 ―最悪だ。先輩に笑われてしまった。
「分かってるよ。コンクールのことだよね」
 しかも見抜かれていた。
「はい……」
 スッ。
 亜子の隣のイスが引かれた。
「先輩?」
 優人はそのままイスに座った。
「自分の描きたい絵を描くのは難しいよね」
 近い距離にいる優人にドキドキしながら返事をする。
「は、はい」
「それで賞をとるのはなおさら。次のコンクールは出す?」
「い、一応出そうと思ってます……けど。……懲りないな、って感じですよね」
 優人は亜子の自虐に何も答えなかった。
「ごめんなさい、つまらないことを言ってしまいました」
 代わりに、こう言った。
「今度、一緒に湖へ出掛けないかい?」
「え? あ、へ?」
 突然の申し出にうろたえる亜子。
「ダメかな」
「あ、いえ! ダメじゃない! …………です」
「良かった」
 亜子は優人の微笑みに顔を真っ赤にして俯いた。
「じゃあ、詳細はまた連絡するから」
「……はい」
 立ち上がり、去っていこうとする優人に亜子は大事なことを言っていないことに気がついた。
「あ、あの!」
「どうしたの?」
「銅賞、おめでとうございます!」
 優人は笑みを深くして答えた。
「ありがとう」



(どうしよう)
 これは世間でいうところのデートに違いないが、中学も高校も大学も色気のなかった亜子はこの手のしきたりに疎い。
 当日の朝になっても服装に悩んでいる。出掛けるのは午後からだったが、一人暮らしのため、相談相手もいない。こういうことを聞ける親友もいない。
 悩んだ末に。
「亜子ルーレット、スタート」
 天任せにした。


「……」
「…………」
「………………」
(……気まずい)
 まさか、先輩が自家用車で乗り付けてくるとは思わなかった。亜子としてはサプライズで非常に嬉しい状況なのだが、一つ問題があった。
(会話が、続かない……)
 普段、絵以外の話をしたことがないため、こういう時の会話が思いつかないのだ。
(どうしよう、このままじゃせっかくのデートなのに会話なしで終了……デート? ちょっとまって今私は先輩とデートをしてるの? 何で私が? あれ?)
 今さら混乱し始めた亜子。
「何か、変な動きしてるけど大丈夫?」
「だ、大丈夫です!」
「トイレなら近くにあるけど寄る?」
「行きます!」
 だいぶ我慢をしていた。


 休憩を挟んでからまたしばらく車を走らせる優人。
「あの」
「なんだい?」
「結構、遠いんですね」
「あと一時間くらいはかかるかな」
「そんなにかかるんですか?」
「あ、用事でもあった?」
「いえ、もうそろそろ夕方になっちゃうなと思って」
「それが目的だからね」
「え?」
「まぁ、着いてからのお楽しみということで」
 優人はそう言って微笑んだが、亜子は判然としない。
「はぁ?」
 これでは帰る頃には真っ暗だ。
(ん?)
 そこで亜子は気がついた。
(夜? 二人っきり?)
 急に焦り始めた亜子。
(いや、そんなことはない。絶対にない)
 気がついたことを気がつかなかったことにした。


 目的の湖に着いた頃には西日が差していた。その湖、井川湖の名前は知っていたが、亜子が来たのは初めてだった。
「……あんまり人、いないですね」
「まぁ、時間が時間だしね」
「そうですね」
「そろそろかな」
「何がです…………え?」
 後ろから目を隠された。
「あの……先輩?」
 心臓の音がうるさい。だから、何かを喋ってないと気が気でなくなる。
「私、どうされちゃうんでしょうか」
 馬鹿みたいな問いかけしかできなかった。
「山下さんはやっぱり面白いね」
「あはは……馬鹿ですみません」
(違う)
 ―もっと、何かマシなことを言いたいのに、言葉が出てこない。
「うん、今かな」
「え?」
 両目を塞いでいた優人の手のひらが急に外された。
「あ……」
 外さないで、と思った。
 でも、直後に、その気持ちはどこかへ行っていた。
「赤い……」
 真っ赤に染まる湖。水面を照らした夕日が反射し、周囲の木々をも赤く染めていた。視界は一気に赤に埋め尽くされた。
 綺麗、とは少し違う。そんな軽やかなものではなかった。
 でも。
(心が、熱い)
 もしも心に温度があるのなら、亜子の心は真っ赤な太陽と同じ温度になっていたに違いない。
「ほら、急がないと終わっちゃうよ」
 夕焼けに見入っていた亜子に、横から画板が差し出された。
「これは……?」
 呆けたように顔だけを向けた亜子。
「描くでしょ?」
 優人は当然とばかりにそう告げた。
(そうか、先輩はそのために)
 少し残念だった。
「さすがに色までは付けられないけど、下書きだけ」
「はい……え、先輩も描くんですか?」
 自分の画板も用意し始めた優人。
「そうだけど?」
「先輩、夕焼けって赤いと思うんですけど」
 優人の絵は青を基調としている。だから、意外だった。
「ああ、別にコンクールには出さないよ。趣味で描いたっていいでしょ?」
「ですよね」
 亜子は納得する。
「そんなことより、早く描かないと日が沈んでしまうよ」
「あ、はい!」
 それから少しの間、二人は無言で絵を描き続けた。穏やかとは言いがたいせわしなさ。でも、夕焼けとそのせわしなさが妙にマッチしていた。
 そして、あっという間に日は沈んでいく。


「今日は付き合ってくれてありがとう。遅くなっちゃってごめんね」
「いえ、私こそありがとうございました」
「じゃあ、また塾で」
「はい、おやすみなさい」
「おやすみ」
 アパートまで亜子を送り届けて帰っていった優人。
 帰りの車では、なんとなく何かをしゃべる気にはなれなくて、終始無言だった。
 今日は二人きりのデートだった。会話も、少しはした。距離も、近かった。
 だけど、あの夕日を見てしまってからは、全てがちょっとだけ、遠く感じたのだ。



 翌日の日曜日。
「え、山下さんそのクマどうしたの?」
 そう声をかけてきたのは男性の塾生。
「ちょっとですね……」
 結局、昨日はあの夕焼けが目に焼き付いて眠れなかったのだ。
 亜子は足を気怠げに動かし、画板に向かった。
 それでも、手に取った筆は青。
 ―自分が目指すのは先輩の絵。
 優人も言っていた。これはコンクールには出さない、と。
 目に焼き付いた赤を消し去って、黙々と描き続ける。
(先輩の絵はこうで……こうで……)
 優人の絵をイメージしながら筆を走らせる。
(違う。こうじゃない、もっと)
 額に汗が浮かんだ頃。
「だああああ」
 筆をパレットの上に転がして、大の字になった。
(上手くいかないなぁ。お昼食べてこよう)
 亜子が教室を去ったあと、塾生たちが話し合う。
「今日はずいぶん荒れてたね」
「あの子、普段は周りのこと結構気にしてるけど」
「絵を描いてる時は完全に何も見えてないですよね」
「こんな日はたぶん……」
 皆は亜子の描きかけの絵を見た。
「大しけね……」
「これ、湖ですよ……」
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