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141 心菜のために

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 その場に静寂が流れる。風に揺られてハラハラと舞う枯れ葉を眺めながら、心菜はすっといつもの無表情を彼に向けた。微笑んでいるようにも見える表情には、なんの感情も浮かんでいない。そこ抜けた闇に飲み込まれそうになりながらも、立花は心菜の前に楽器を持って立った。

「………トランペットの音だけでも、………トランペットの音だけでも聞かせてやろうって思ったんだ。文化祭の演奏会を聞けなかった代わりにでもって思って」

 心菜は口も開けてポカンとした表情をした。けれど、次の瞬間にはとろけるような甘やかな表情を浮かべる。

「………聞きたい」

 甘えるような声と微笑みに1つ頷いた立花は、楽器を構えた。わくわくと上昇していく期待感に、ふわふわと高揚していく興奮。心菜はルンルンと胸を躍らせながら、じっと彼の手元を見つめる。
 滑らかな骨張った手に、少し膨れた喉仏。心菜は彼の姿を見つめながら、今か今かと演奏の開始を心待ちにする。

「じゃあ、5曲演奏する」
「うん」

 今流行りのポップスから始まって、アニソンにジャズ。クラシックも混ざっていた。ふわふわと身体を揺らしながら、心菜は自分のためだけに演奏される演奏は心にすんなりと入ってきて、心菜はすっと瞳を閉じる。
 たくさんの楽器がハーモニーを奏でる華やかな演奏ではない。けれど、今まで聞いたどんな演奏よりも、圧倒的な存在感を放つ、美しい音色だった。学校で聞いた吹奏楽部の演奏はもちろん、ミュージカルやオーケストラにも引けをとらなくて、心菜はそんな気分に疑問を抱く。でも、今この一瞬の演奏を集中していたくて、思考をすぐに追い出した。
 滑らかに動く手から紡がれる特別な演奏。心菜は、その演奏に長い間酔いしれることとなった。

「~~~♪っ、」

 ーーーパチパチパチパチ、

 彼が息切れを起こしながら終えた演奏に手を叩いて、ふんわりと微笑む。

「とっても、………とっても素敵だった」

 目に涙が滲んでしまっていて、目の前がぼやぼやと歪んでいる。こんなたくさんの人が見ているかもしれない場所で本当は泣きたくない。けれど、泣かずにはいられなかった。元気づけられるような心のこもった演奏に、寄り添うような柔らかなメロディー。心菜は自然と微笑みを浮かべて、彼の前にたった。
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