敷かれたレールのその先

龍春

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一つの婚約破棄

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「グローリア! 貴様との婚約は今この場を持って破棄する! 貴様は己の妹に嫉妬し、周囲の印象を操作して孤立するように仕向け、さらには盗賊に襲わせるという暴挙までやってのけた! そのような女にこの国の貴族としての資格はない! その罪を持って国外追放とするッ! これは我が父である国王陛下も了承済みだ!」

学園の卒業式典、その式典が無事に滞りなく済んだ直後のことだ。
私の婚約者だった第二王子殿下がこの場を借りて伝えねばならぬことがあると言い出し、舞台上に立ったかと思えばそんなことを叫んだ。
身に覚えはないが私の名を語って好き勝手やっていた令嬢や貴族が居たことは知っている。
一応、そういうことは止めるようにと伝えたし、私が対処できるものに関しては対処して止めさせておいたけれど私一人では限度がある。
私には家にも学園にもどこにも味方が居ない。それもこれも強引な祖父母の悪評のせいだし、私を差し出した癖に私が祖父母に従順だと思い込んでいる両親は、私を悪いようにしか見ない。
幼少期はそれでも両親が恋しくて泣きついたこともあるが、それを振り払われてまるで悪魔を見るような目で見られて以来、私は家族にも希望を失くした。
婚約者との関係も歳を重ねるごとに妹と比較され、私が感情を表に出さないことに違和感と不信感を募らせ、それがどういう環境から来るものか等考えもせずに終いには両親の言葉だけを信じるようになった。
婚約者の視線が好意を含まなくなったのに気付いた時点で、こちらについても心を開くことを諦めた。

「さようでございますか。では、そのように」

私の心はとうの昔に痛みを感じることがなくなった。婚約者、いえ、元婚約者の言い分にも興味はない。
どうせ私はやっていないと言ったところで周囲の貴族が結託して隠しているのだ、たかが小娘の私が動いたところでどうにもならない。
我が家の使用人たちとて、私よりも妹の方を大切に思っている。これを機に私がいなくなれば、祖父母が亡くなった我が家の当主は父になる。
今、父ではなく私が当主代理として領地を動かしている理由は偏に、死ぬ前に祖父が書いた遺書と王命をもぎ取った書類のせいだ。
それも私の悪行と共に破棄されれば万々歳ということだろう。
私にはこの茶番に付き合う気力もない。国外追放で野垂れ死にでもこの世から消えられるならこれ以上の喜びはない。
そう思って、漸く張っていた気が抜けた気がして口元が緩む。
どんな表情になったのかなど私には興味がない。ただ、スカートを持ち上げ片足を後ろに大きく引いて最後のカーテシーをする。

「それでは皆様、どうぞお幸せに。邪魔者である私はもう二度とここに戻りはしません。生きることも出来ぬでしょうから、忘れてくださいませ」

漸く終わると心からの安堵に、最後の最後で漸く動いた表情は笑みだったのかもわからないがもうどうでもいい。
私の最後の表情を見て何かにハッと気づいたような顔をしたのは誰だったのか、それすらもどうでも良く踵を返して立ち去ろうとしたのに後ろから声がかかる。

「待て! 貴様は謝罪することも出来ないのかッ!」
「……何故、謝罪をしないといけませんの?」
「なんだとッ?! 貴様が彼女に、実の妹に行った悪行に対してッ!」
「……どうせ信じませんでしょう? 私がその子と姉妹だったことなど一度もありませんもの。私はそこの父親だという男性から祖父母に与えられたただの玩具ですわ。彼らと家族であったこともなければ、誰かに愛されたこともないただの道具。道具が何を思うと思いますの?」
「な、に……?」
「やっぱり、アナタも私を見てはいなかったのですね。私は物心つく頃には公爵家を盛り立てる道具として祖父母に引き取られましたの。そこの彼も、自分の嫌いな母親に面差しがそっくりな私を守ることなどせず、好きにすれば良いと差し出したのですわ。丁度その頃、そこの可愛らしい彼女が生まれたばかりで、彼女はその彼が愛して止まない奥様にそっくりでしたから。私は本宅で一人、祖父母の言いなりになるしか生きる術のない人形になりましたの」

そちらの三人は、まぎれもなく家族でしょうけど。私は唯の道具ですわ。彼らの安穏を守るための道具。祖父母が満足を得るための自慢できる有能な道具。誰も私を私だと気づかない、表情が無くなったのがいつからかなど覚えても居ない。
祖父母の気に食わぬことをすれば激しい折檻が待っていたし、子供らしさ等を見せれば激しく罵られた。私に自由などない。
五歳の幼女に完璧な当主像を押し付けてくるような祖父母だった。私が祖父母が望む完璧な公爵令嬢のふるまいを出来るようになった頃、年齢からくる老衰で祖父母が相次いで他界した。
当主が父になるものだと思っていたが、役人が持ってきた書類により成人を待って私が当主だと言われた。
多分、それは国王陛下からの温情だったのだろう。けれど、私はその時にはもう心が枯れていた。その一年前に婚約者となった第二王子は私への興味が薄く、離れに住んでいた妹への興味が強かった。
それはそうだろう、淑女教育は受けているが安穏と守られて生きてきた妹だという女性は、儚げな守ってあげたいような容姿と雰囲気をしていたのだ。
私は長年の祖父母からの虐待まがいの教育と周囲に味方が居ないという環境で表情はきつくなり、感情は表に出なくなった。
作り笑いは出来るが、微笑んでも誰もが顔を引きつらせるのだから無表情の方がマシだろうと微笑むこともなくなった。
誰も、彼も、妹だという彼女とその両親を憐れむけれど、同時に蹴落とす材料としても虎視眈々と狙っていたのだ。

「私は、そちらの方たちの家族ではありませんの。共に食事をしたこともなければ、同じ家で暮らしたこともない。私には味方になってくれる使用人も居なければ、心許せる場所も相手も居ないのです。ようやっとこれから解放されて一人静かに終われるのですから、どうでもよろしいことを押し付けないでくださいませ。ああ、でも、そうですわね。私の名前を語って巧妙に隠して、全ての罪を私に押し付けた方々は善意で持ってされたのでしょうからそのままでよろしいのでしょう。だって、私がいなくなれば公爵家は周囲が御しやすいそちらの彼が当主になりますもの」

後はお好きになさって、と言い放ち絶句しているらしい元婚約者や家族だと言い張る彼らを置いて今度こそ踵を返す。
たどり着いた扉には息を切らした国王陛下がお見えになったけれど、了承済みだと言うからもう私のことを利用価値のないと判断したのでしょう。
溺愛している第二王子の虫よけにはちょうど良かったのですものね。一応の良心の呵責があったのか、公爵家の当主代理として領地経営をする私への補助は手厚かったがそれだけだ。
私の顔を見た国王陛下もまた目を見開いて驚愕のまま固まられたので、カーテシーをしてその場を去る。
第二王子はあれでいて手回しも良かったので、国境まで私を運ぶ馬車は用意されているだろう。もしかしたら、私を片付ける手筈も整えているかもしれない。
けれど、それで構わない。私はもう疲れたのだ。何もしていないのに、領地の経営だって祖父母に代わって行う様になってからは祖父母の目を欺きながらも改善してきたつもりだった。
それでも、領民にすら私は悪の象徴とされている。どれほど一人で頑張っても、誰にも認められないというのは苦行以外の何物でもなかった。
それでも、私は私の稔侍を保つために間違ったことだけはすまい、と必死に行動していたのだ。
誰一人鑑みられない私など必要ないのは解っていても、もしかしたら一人くらいはと願って結局最後まで裏切られたのだからもうこの世界に私など必要ないのだ。
後ろから声が追いかけてきた気がするけれど、私はもう足を止めることはしなかった。馬車留めまでたどり着くと案の定、みすぼらしい馬車が一台止まっていた。
私を見るとすっと扉を開けるのだからそれに乗れということなのでしょう。この先で私がどれほど汚されようと、無残に殺されようとこの国に住む全ての人にとって私は悪なのだろうから気にならないでしょう。

『この世界に未練はないのか?』
「どなたか知りませんけれど、ありませんわ。だって、私の声を聴き留めてくださった方は一人も居ないのですもの」
『だから見るからに怪しいこの馬車にも乗った、と?』
「ええ。だって私がどのような最後を遂げようと、誰の記憶にも残りませんもの。確かめにも来ないでしょうから」
『……何故』
「何故でしょうか? けれど、この世界には私を見てくださる神すらいなかったのですから、もうよろしいですわ」
『そうか。ならば、私と共に来ないか?』
「え……?」

粗末な馬車に乗り込み、扉が閉まって動き出したのを確認して目を閉じた私に話しかけてくださる方が初めて現れて目を開けたけど誰も居ない。
このような壁の薄い馬車ならば、御者が最後の最後で哀れに思ったのかもしれない。けれど、私にはもう関係のない事。
けれど、最後の道行ならば初めて私を私として見てくださる方との会話が出来るかもしれないと返事をすれば、困惑の雰囲気を纏った声が会話を続けてくださった。
姿も見ていないけれど、漆黒を纏っていたように思うと再び目を閉じて乗る直前に見た御者の後ろ姿を浮かべてみる。
この国の誰にも未練など残っていない。心残りになりそうなものなど一つもない。
たった一つどうしても気になると言えば幼い頃、庭に居た怪我をした漆黒の小鳥だけだろう。けれどその小鳥も三日ほどで治るような怪我だったのか、直ぐにいなくなってしまった。
でも、もしかしたら私が怪我をさせたと思った使用人が保護してどこかへ返していたのかもしれない。
もう探す術などないし、私も儚くなるのであれば気にするだけ無駄だ。ただ、私を恐れず手のひらの上で愛らしく鳴いてくれたあの小鳥を不意に思い出して、泣かなくなってから初めて涙が零れた。
ぽろぽろと零れ落ちてくる雫に目を瞬かせていると、不意に聞こえてきた言葉が信じられずに聞き返す。

『私は貴女が幼い頃、助けてくれた小鳥ですよ。貴女がくれた真心が私を癒してくれた。だから、ずっと見守っていたのです』
「まさか……」
『でも、貴女が小鳥を助けたことは貴女と小鳥しか知らない、でしょう?』
「だって、あの時の私はあの子を手当することも出来なかったのに……」

ふわりと、気づけば目の前に真っ白な翼の美丈夫が座っていて、目を見開く私に困ったように微笑んで首を傾げる。
クイッと右に僅かに傾いて見てくるその瞳は、あの時見た金混じりの菫色。首の傾げ方も確かにあの小鳥にそっくりで、でも背後の翼の色が違うからまじまじと見つめてしまう。
私はもうあの世へと旅立っていたのだろうか。あの馬車に乗る直前に毒でも刺されていたんだろうか? そうでなければこれほどに美しい天界人と出会うはずもない。

『貴女の優しさが、私の穢れを解いてくれたから今ここに居られます。父上に許可は頂いております。貴女がここに未練がないのであれば、私の国へお越しください』
「……でも、私は」
『貴女はこれまで虐げられてもやり返すことはなく、家族であったことがないと言ったのにあの血がつながっただけの人間たちを守ってきました。嫌われていると知っていても祖父母が敷いた悪政をコツコツと改善された。誇るべきことです』
「っ……だっ、だれもっ、そんなことッ!」
『貴女を守るべき人間たちは皆、貴女を虐げた。それでも己の稔侍を、人として正しくあろうとした貴女は正しいのですよ。そして、全てを見放してもなお壊そうとしないその心根は優しい、と私は思います。ですから、私と来ませんか? もう、貴女は休んでも良い。もう貴女は、守られる側になっても良いのですよ』
「……でも、もう一度捨てられるのは嫌。もう、こんな想いは耐えられないッ!」
『ええ、解っています。もう二度とそんな想いはさせません。もし、そうなるようでしたら違うことなく私が貴女を安らかな眠りへ導きましょう』
「ほんと?」
『ええ』

約束です、そう私の前で微笑む絶世の美青年に私は我慢の限界だった。
誰も信じてくれないけれど、どれほど頑張っても誰も鑑みてくれなかったけれど、必死に頑張ったのだ。誰かのために、いつか自分を認めてくれる誰かがいたらと願って、願って、それが叶わないと思い知らされたあのパーティーで、けれど今目の前に伸ばした手を掴んで抱きしめてくれる腕に辿り着いた奇跡が残ってた。
これが開けてはいけない箱の底だったとしても構わない。どうせ私には何も残ってはいないんだから、最期を必ず与えてくれると約束してくれたから。
私が取った手は大きく、温かく、やっぱりあの一度だけ手に乗せた小鳥とは思えなかったけれどそんなものはどうでも良かった。
あの頃から私を見ていてくれたという事実が嘘でも本当でも、それすらどうでも良い。今、この時、私自身を見てくれたという事実だけで良いのだ。
彼の手を取って、私はまばゆいばかりの光に包まれてその場から消えた。
後に残ったのは動かなくなった空のボロ馬車だけで、やはり私を襲う様に手筈が整えられていたようだけれど馬車の中は空っぽ。
困惑したその者たちが馬車は空だったと報告を上げた頃には私は私の国とは真逆にある、不思議な国のお城で迎えに来てくれた方と幸せな生活を送り始めていた。
私を鑑みなかったあの国の方々がどうなったのか、私は思うこともなくただただ温かなその世界で一生を終えたのだ。
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