敷かれたレールのその先

龍春

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グローリア

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私の一番古い記憶は三歳の誕生日だ。
父親である男性からは、なんとなく自分が嫌われていると感じていた。
向けられる視線は厳しく、抱っこを強請った私の手を一度も取ったことがないのだから流石に幼くても好かれていないことは理解できる。
むしろ、幼いからこそ自分が疎まれていると察してしまい、彼に懐くことはなかったんじゃないかと思う。
母親である女性からは少なくとも、三歳の誕生日までは普通に接して貰ったんじゃないだろうかと思う。
思うだけで三歳以前の記憶は残っていないし、正直なところ母親の温もりというものを感じたこともないので自信はない。
ただ、私の分岐点はその三歳の誕生日だったということは理解している。
三歳の誕生日を迎えた日、それまで一度も会ったことがなかった祖父母という人たちが公爵家の離れであった家を訪れた。
気難しそうな顔をした祖父と私を品定めするように見る祖母。二人の印象が言い訳がなく、両親、とりわけ母親に縋ろうとしたけれど父親にさり気なく避けられてしまった。
そして、記憶では最初で最後だろう背中に触れた大きな手が強く私を祖父母の方へと押し出した。

「約束通り、その娘は貴方たちに差し上げよう。代わりに、私と妻、そして今後の子供には二度と干渉しないでくれ」
「良いだろう。丈夫そうだし、我が公爵家の色が良く出ている。金もお前の望んだように、毎月一定額を渡そう」

私をじろじろと見ていた祖父母は、父だった彼の言葉に一度視線を上げ、もう一度私を見てから頷いて紙の束を渡すと両親だった夫妻は家の中へと入って私が追いかけようと手を伸ばした目の前で扉が閉められた。
バタンっと拒絶するようにしまった扉に呆然としていた私は、有無を言わさず祖父母に命じられた護衛の手によって本邸へと運び込まれた。
その翌日から、私には幾人もの家庭教師が就けられ、三歳に施すとは思えないような内容を学ばされた。
出来なければ容赦なく夕飯を抜かれ、出来るまで寝ることが許されず、ありえないような量の課題を押し付けられた。
始まった当初の私はひたすら泣いていた。離れで暮らしている時に何かを教えられたことはなく、基礎もないのに応用をやれと言わんばかりの家庭教師ばかりだったのだ。
訳が分からないまま、押し付けられる課題をこなしきることも出来ず、ただ否定され続け、それでもやらねば終わらぬそれらに精神が疲弊していった。
朝昼の食事も食べれなくなったが、無理やり押さえつけられて口に流し込まれるようなやり方で摂らされるようになった。
次第に自分が悪い子だからこんな風に怒られるのだと思うようになった。
その理由は、初めて課題が出来た時に一人だけ、家庭教師が良く出来ましたと褒めてくれたからだ。
出来なかったときにはとりわけ厳しい家庭教師であったが、課題をこなせた時には良く出来ましたと今思えば棒読みであったし、詰まらなさそうな表情であったのだけど言ったのだ。
だから、私は自分が祖父母や家庭教師の望むことが出来ないから叱られると思い込み、必死に課題をこなす様になった。
いつかこの苦行が終わるかもしれないという希望を握りしめて。
それから三年の月日が経ち、私は家庭教師のほとんどから優秀という評価を頂ける様になっていた。
そうなると、心に余裕が出てきて両親がどうしているだろうかと思うようになった。同じ敷地の中にある離れに生活している両親に、私は一度も会えていない。
祖父母に頼んでも会わせて貰えず、良く判らないことを告げられて話が強制終了になる。
そろそろ領地の運営について学ぶからと言われて、翌日から祖父の視察に同行すると告げられた日は珍しく一日何もない日になった。
何気なくカレンダーを見て、私の誕生日であると何故かその時ふと気づいたのだ。
そして、無性に両親に会いたくなった。今まで頑張ったことを報告して、褒めて欲しくなったのだ。
母の腕も、父の手も、正確には覚えていないけれどきっと優しかったと勘違いしていた私は、祖父母が出かけているのをチャンスだと思って使用人たちの目を掻い潜り離れへと向かった。
駆けだした足は、自分の頑張りを褒めて貰えるだろうという希望的な観測でとても軽かった。
使用人の配置は全部把握させられていたし、その眼を掻い潜ることは私にはとても簡単な事だった。
浮かれ、喜び勇んでたどり着いた離れで、丁度庭に出ていた両親と初めて見る三つ年下の妹に目を輝かせて逸る気持ちを抑えつつ庭先に近づいた。
中低木が並ぶ垣根に隠れつつ移動した私は両親を驚かそうとしていたのだと思う。
弾む息を整え、垣根から顔を出し両親に声を掛けようとしたところで、不意に聞こえた両親の声に動きを止めた。

「そういえば、あの子は今日が誕生日ではなかったかしら?」
「あの子? 私たちの子はこの子しか居ないだろう?」
「それは……」
「三年前にあいつらに渡した子供は私たちの子ではない。あれは私にもお前にも似ていないじゃないか。強いていうなら、私たちが嫌悪する祖母にそっくりだ」
「旦那様」

困ったような表情をした母であるはずの女性は、それ以上何も言わなかった。
私は父であるはずの男性が自分をどう思っているか知り、垣根から出ることも出来ず苦しくなる息と霞む視界にその場から踵を返して駆け去ることしかできなかった。
その日はそのまま部屋で泣き続けたようにも思うけれど翌朝にはいつもの時間に起こしに来た侍女に、顔の腫れを心配されることもなく身支度をされて祖父からも何も言われないまま視察へと出かけた。
その日からだと思う。私は顔に表情が浮かばなくなった。作り笑いを浮かべることはできるが、それは淑女のマナーとして浮かべるように言われた作り笑いだ。
感情を読ませず、己の美しさを最大限に引き出した作り笑い。心から笑わなくてもそれらは出来るのだと知ったけれど、私にとって何の役にも立たなかった。

作り笑いしか出来なくなって一年した頃、庭に真っ黒な小鳥が落ちているのに気づいた。
周囲に使用人はなく、どこか頼りなげに震えているその小鳥を放っておけなくて私は庭に出るとそっと両手で掬い上げた。
金混じりの綺麗な青い瞳が私を警戒したように見つめていたが、私はそんな様子を無視して怪我の確認をする。
どうやら血を流すような怪我はしておらず、ただ翼を傷めたために上手く飛べなくなっているのだと判断がついた。
きっと野良猫の遊びに付き合わされたのだろう。そっと頭を撫で、翼を固定し、少し高めの木に付けてある巣箱を確認し庭師を呼ぶとその巣箱へと小鳥を入れさせた。
鳥の種類は詳しく判らなかったが、果物を食べる種の様だったので鳥小屋の直ぐ傍に果物をいくつか置いて傍を離れた。
野生の小鳥は籠に入れてはきっと大空に憧れてやがて元気がなくなるだろう。そんなことを強いるのはダメだと思ったのだ。

そんなことがあった更に一年後、祖父が時折病に伏せるようになった頃、祖父が動ける内にと城へ赴き国王陛下との謁見を入れられた。
その要件は公爵家の後継ぎを祖父の死後、父ではなく私に移行するようにというお願いと第二王子との婚約を結ぶためだった。
謁見の間で私は最敬礼のカーテシーを完璧にして見せ、国王陛下と祖父の話を隣で聞き、困惑の表情ながらいくつか領地に関する質問をされたのに答え驚かれながらも恙なく謁見を終わらせて帰宅した。
第二王子との婚約も、その王子の降嫁先として十分だとされ、後日顔合わせをするようにとの言葉を賜っていた。
その言葉通り、数日後に先触れが届き、翌日第二王子が公爵家を訪れたがこれも本当は私ではなく妹であるはずの公爵令嬢の方を望まれていると知った。
両親が連れ立って知人の家に訪れた時、丁度その家の嫡男と共に居た第二王子と会っていたらしい。

「いずれお前との婚約は破棄する。せいぜいこの公爵家を維持し続けることだな。お前がこの家から出された暁には、俺がこの家を彼女と共に盛り立ててやろう」

顔合わせの日、第二王子は祖父母が席を外して二人になった途端に蔑むような瞳で私を睨みつけ、そう告げた。
その言葉を聞いても何も思わなかった。私は三歳のあの日、父であった人から祖父母であるはずの人たちに差し出された時から、この家を維持するただの道具なのだ。
そう悟ったのは差し出されて三年後だったが、今はもうそれらを受け入れている。
父であった人も頭が悪いわけではないというのは書斎にこっそりと、けれど大切に保管されていた学生時代の成績などの書類から察していた。
ただ、両親との折り合いが付かず、溝が埋まらないまま今に至るだけである。そして祖父母である公爵家当主とその夫人も、私を差し出せと言ったのは孫をきっかけに息子が戻ることを期待しただけ。
権力欲はあれど悪政をするような人たちではなかった。領民たちへの態度は横柄ではあるが、政策は堅実で貧民への救済措置も用意していた。
少々権力に物を言わせる部分があり領民からは怖がられているが、嫌われてはいないのは数度共にした視察で感じていた。
唯一人、私だけがこの家族の中で異物なのだ。私は祖父母にとっては孫という息子を引き寄せるための道具だったはずなのだが、息子である彼は私を娘と認めていない。
当てが外れた祖父母が私に期待を寄せなくなるのも致し方ない。それでも、息子へ領地を譲るまでにそれを維持し、可能であれば発展させるための道具は必要なのだ。
教育を施したのだから私がその道具になればよい、そういう発想でしかないのだろう。
私は第二王子の言葉にも無感動に「そうですか」と返し、それ以上会話をすることなく時間をやり過ごすと帰る第二王子を見送った。

そうして月日が流れ、漸く私の終わりを見つけることが出来た。
学園に入り、私が最終学年になった年に私の妹であるはずの彼女が学園に入学してきた。
公爵家の当主から冷遇されているという噂が立てられ、しかし、心根が優しく容姿も美しい、可憐で守ってあげたくなるような華奢な彼女は健気だと注目を浴びるようになった。
噂の出所は知っていたが対応はしなかった。両親が揃い、その両親の愛情を受けてのびのびと、しかししっかりとした淑女教育を受けた彼女のどこが哀れなのか理解できなかった。
だから私は何も言わなかった。この頃になると私はもう周囲への関心を持つことが出来なくなっていた。
領地の経営に必要であるから、流行りの情報は集め、各領地の状況や社交界にて流れている噂は出来るだけ記憶に留めていたがそれだけだ。
その中に私を貶める噂がいくつかあったが、それが家を脅かすものではないことを確認すればそこまで。
第二王子も大っぴらに妹を贔屓したり人目のある場所で特別扱いをすることもなく、表面上は私の婚約者としての立ち位置を崩さない姿勢だったので放っておいた。
どうせ学園を卒業してしまえば私という道具は切り捨てられるのが目に見えている。
それでも、私の妹ということで交流をし始める第二王子の様子に、私を貶め婚約を破棄させてあわよくばと考える令嬢が妹に手を出しそうだと情報も入る。
私はその情報を元にその令嬢たちへ手を回し、行動に移さないようにと注意していた。
当然、私一人で行うそれらには限界があり、私の目を掻い潜って妹を苛める人間も出てくる。特に、家ぐるみで画策されてはたちいかないこともある。
そうして行われたそれらは全て私のせいにされて、私の悪い噂は増える一方だったようだ。

「お前はそれでいいのか?」

ある日の夜会で、母方の祖父に会った。この頃になると父方の祖父は他界し、その奥方である祖母も体調を崩しがちで床に伏せることが多くなっていた。
公爵家当主の代行としては私が一人で夜会へ出席することも多くなっていた。そして、私が初めて一人で出席する夜会を選んだ時、丁度同じ夜会に参加していた母方の祖父に会ったのだ。
伯爵家の当主である彼は、私を見て一目で自分の孫だと判ってくれたらしい。声を掛けてくれたが、家出同然で公爵家へ嫁いでいった娘の子供に何を言うべきか迷っているようだった。
私から公爵家としてご挨拶をすれば、無表情の中に戸惑った色を浮かべながら伯爵として挨拶を返してくれた。
そこからは一貴族としての付き合いを多少交わすのみであるが、娘の安否や現状を知りたいだろうと当家の者に調べさせた書面を一度だけ送っていた。
そして書面を送った後に鉢合わせした夜会で、不意に二人だけになった時に聞かれたのだ。私の状況を書類から察したのかもしれない。
勘当同然の娘の子供などそれこそ孫でも何でもないだろうに。何も返さず首を傾げれば、どんな立場であれ親は親、祖父は祖父なのだと告げた彼は真っすぐで、その姿が私の理想の貴族に見えた。
母方の祖父母とて一貴族としてはやり手であるし、領民を大切にしているかは分からないがないがしろにはしていないのは理解していた。
それでも、立場を重んじるがゆえに平民と蔑むことを止めない人たちでもあった。領民は領地の労働力であり、いかに効率よく働かせ逃がさないかを考えているだけなのだ。
そこに人としての感情は加味されていても一割にも満たない。それゆえの、領民たちからの畏怖なのだ。

「私は漸く最期を見つけることが出来たのです。あと四年、きっと学園を卒業するとともに私は数多の罪を被ってこの国を出されるでしょう。そうして残ったのは彼らが望むべき美しい姿。私はもう疲れました」

これで良いのです。と告げた時の私は初めて意識せずに微笑みを浮かべることが出来たのかもしれない。
私の顔を見て驚く母方の祖父に頭を下げ、その場を立ち去るとそれ以降は何を言われることもなかった。
最終学年になって、突然とも言えるほどに身に覚えのない私の悪行や噂が増えていく。一方的になすりつけられるソレに同レベルで仕返しする気にはなれなかった。
それは母方の祖父に受けた感銘から得た己の稔侍に反するし、いかに上手く私の汚名を返上したところで私が望む結末はありえないと最初から判っているからだ。
それならば、数多の悪行と共に己の最期を迎える方がよほど有意義だろう。家族と認められない私が唯一、家族になりたかった彼らに送れる物だ。
勝手に押し付けられた公爵という地位も、財も、人も、本来の道に戻すだけだ。私には手に入らない物でしかない。

「……あの子は今頃可愛らしい奥方を迎えて子を成して、豊かな生を全うしたのかしら」

卒業式の前日、昼休みにふと見上げた真っ蒼な空から七歳の時に一度だけ手にした僅かな、けれど確かな温もりを思い出し思わず呟いた。
あの小鳥は三日目には姿を消していたと庭師が伝えてきた。どうなったかを連絡するようにと伝えてあったためだ。
雇い主の頼みはたとえ年端も行かない幼子の言葉でも絶対だったのだろう。面倒くさそうにしながらも鳥小屋の中を確認して、餌を置いて様子を見てくれていた。
お礼に私があげられる小さい宝石を一つ、彼の手に握らせると顔をほころばせて去っていったから問題ないと思う。
そんなことまで思い出して、どちらにしてももう二度とその小鳥とは再会することがない事実に思い当たって苦笑を浮かべる。
欲しいのは地位でも財でも何でもなかった。たった一つ、家族からの愛情だけが欲しかった。
けれど生まれた時から向けられていたのは無関心だったのだから手に入るはずもない。婚約者には初対面から嫌悪されていた。
何をどう伝わってそうなったのか分からないが、きっと父である人が友人として付き合いのある貴族たちに現状を彼の視点からの説明で伝えたのだろう。
それならば致し方ない。私は彼にとって異物。しかも不要な物なのだ。父と呼ぶことすら許されていなかったと、今になって気づいてももう傷つく心も残っていない。
凍り付いた表情も、その理由を知ろうとする人すらいないのだから私にはこの世界に居場所などないのだろう。
それでも掲げた稔侍を胸に、私は私を全うして最期を迎えることだけが誇りである。
顔を上げ、背筋を伸ばし、何も悪い事はしていないという表情で廊下を進む。擦り寄ってくるのは利益を求める者ばかり。
選別し、付き合っても大丈夫な者ばかりに絞って公爵家との縁を繋げた。使用人には私の存在は祖父母が納得するための一時的な代行で、私が卒業するのと合わせて当主は父である人になると言い含めてある。
私を心配する使用人などほぼ居ない。そのように祖父母が振舞っていたのだ、私はただこの家を維持する道具。いずれ本来の当主が引き継ぐまでの中継ぎ。
この事実を知るのは使用人と私だけである。祖母は私が学園の二学年に上がる頃に他界した。
その頃には私が公爵家を動かしている状態だったので、葬儀の準備も何もかも私が手配をして済ませたし、その後の運営にも何も問題はない。
使用人たちには判らないように、領地の経営状態、どういう方針で経営しているか、現状を一目で把握できる書類は常に更新を重ね作り続けている。
あの人にならこの書類を見るだけで現状は把握できるし運営も可能だろう。何せ、公爵家から出している金は最初の数年以後一切使われていない。
最初の数年に使用した金額も既に戻っている。父であるはずの彼は最初に使った金額で事業を興し、あの祖父母に悟られないようにしながらも一財を築き上げている。
公爵家の当主となるべくした頭脳を持っているのだ。ただ、両親との折り合いが悪かっただけ。本当にそれだけだったのだ。

「ふふふ、こうして考えると本当に私の存在など異物ね……。でも、これも今日で終わるわ。やっとゆっくりと眠ることが出来る」

卒業式の朝、私の身なりを整えた侍女たちが部屋を退室して一人になると、自然と零れ落ちた笑みと言葉に深い安堵の吐息が釣られて零れた。
もう二度と起きることのない眠りに入る用意も出来ている。その場所も用意した。卒業式の夜会で第二王子殿下が私を悪として裁き、追放する予定だという情報は掴んでいる。
胸元に下げたペンダントの小さな飾りに触れ、口角を上げると私はもう二度と戻らない自室を出た。
何もない、生活感すら怪しい私の自室にはチリ一つ、私の形跡一つ残さないようにしてある。私は誰にも看取られず一人静かに眠るのだ。
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