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第一章 桜色の初恋
13:逃れられない影1
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その頃、穏やかな日々に暗い影を落とす一点の染みのように、一時は収まっていた澤井の暴力が、季節の移ろいと共に時々顔を出すようになっていた。
特に年度始めに新しい会社に就職してからは、ストレスを抱えているからか、しばしば私を叩いた。
だがそれは単発的なものだったし、頬を赤く腫らした私に「悪い」と謝ることもあり、私はそれほど危機感を持ってはいなかった。
もともと澤井に対して期待していなかったと言ったほうが近いかもしれない。
紅君や園長先生は何度も、「いつでも『希望の家』に来ればいい」と言ってくれ、母もずいぶん私の様子を気にかけてくれていた。
だから大丈夫だと思っていた。
――あの日までは。
その日は母が残業で遅くなることが朝からわかっていた。
だから私は限界の時間まで『希望の家』に居座り、家へ帰ったのはもう外が真っ暗になる頃だった。
「危ないから」と自転車で送ってくれた紅君に別れを告げ、アパートの部屋へ帰った途端、澤井に力いっぱい殴られた。
「どこに行ってたんだ! こんな時間まで! 俺を馬鹿にしてんのか!」
怒鳴られた瞬間に、澤井がかなり酒に酔っているとわかった。
据わった目で私を睨む表情には、憎悪の感情しかなかった。
背筋がゾクリと寒くなった。
これはマズイと本能で感じた。
座りこんでいた床を蹴るようにして立ち上がり、私はすぐに部屋の外へと逃げた。
「どこ行くんだ! こらぁ!」
追いかけてくる澤井が、酔いで足がもつれてくれることを祈りながら、無我夢中で走った。
真っ暗な夜の道を、ついさっき紅君が自転車で乗せてくれた道順を遡り、ただひたすら『希望の家』へ向かって駆けた。
「待てこらぁ!」
背後から聞こえる声がだんだん近づいてくることに、全身鳥肌が立つほどの恐怖を感じる。
私は無我夢中で叫んだ。
「紅君! 紅君! 助けて!」
いつの間に彼の名前を呼んだのか、自分でも自覚がないままに叫んでいた。
聞こえる距離ではなかったはずなのに、そんな幸運などないと自分でも理解していたのに、真っ暗な夜道を私へ向かい、小さな自転車のライトが一目散に走ってくる。
「乗って、ちい!」
大きく手をさし伸べた紅君は、私の手を掴むとそのまま彼のほうへたぐり寄せ、まるで大人の男の人のような力強さで私を自転車のうしろへ引き上げた。
私が夢中で彼の背中にしがみついたのと同時に、紅君の漕ぐ赤い自転車は、いつもの倍ものスピードで走りだした。
「待て! 待て、こらぁ!」
息を切らしながら叫ぶ澤井の声が、次第に遠くなっていく。
それでもギュッと固く両目を瞑ったまま、私はいつまでも紅君の背中にしがみついていた。
いつもはドキドキして指で触れることさえとまどう背中に、強く頬を押し当てていた。
限界いっぱいの速さで自転車を漕ぎながら、紅君が切れ切れに私の名前を呼ぶ。
「ちい……ちい……大丈夫だよ……」
優しいその声に私は頷く。
何度も頷く。
「俺と園長先生が……守るから……! ちいのことは絶対守るから……!」
頼もしい声と言葉が胸に痛く、私は何度も頷きながら、紅君の背中に頬を寄せて泣いた。
「ありがとう……」
うまく彼に届いたのかわからない私の声は、真っ暗な夜の闇の中に飲みこまれて消えた。
特に年度始めに新しい会社に就職してからは、ストレスを抱えているからか、しばしば私を叩いた。
だがそれは単発的なものだったし、頬を赤く腫らした私に「悪い」と謝ることもあり、私はそれほど危機感を持ってはいなかった。
もともと澤井に対して期待していなかったと言ったほうが近いかもしれない。
紅君や園長先生は何度も、「いつでも『希望の家』に来ればいい」と言ってくれ、母もずいぶん私の様子を気にかけてくれていた。
だから大丈夫だと思っていた。
――あの日までは。
その日は母が残業で遅くなることが朝からわかっていた。
だから私は限界の時間まで『希望の家』に居座り、家へ帰ったのはもう外が真っ暗になる頃だった。
「危ないから」と自転車で送ってくれた紅君に別れを告げ、アパートの部屋へ帰った途端、澤井に力いっぱい殴られた。
「どこに行ってたんだ! こんな時間まで! 俺を馬鹿にしてんのか!」
怒鳴られた瞬間に、澤井がかなり酒に酔っているとわかった。
据わった目で私を睨む表情には、憎悪の感情しかなかった。
背筋がゾクリと寒くなった。
これはマズイと本能で感じた。
座りこんでいた床を蹴るようにして立ち上がり、私はすぐに部屋の外へと逃げた。
「どこ行くんだ! こらぁ!」
追いかけてくる澤井が、酔いで足がもつれてくれることを祈りながら、無我夢中で走った。
真っ暗な夜の道を、ついさっき紅君が自転車で乗せてくれた道順を遡り、ただひたすら『希望の家』へ向かって駆けた。
「待てこらぁ!」
背後から聞こえる声がだんだん近づいてくることに、全身鳥肌が立つほどの恐怖を感じる。
私は無我夢中で叫んだ。
「紅君! 紅君! 助けて!」
いつの間に彼の名前を呼んだのか、自分でも自覚がないままに叫んでいた。
聞こえる距離ではなかったはずなのに、そんな幸運などないと自分でも理解していたのに、真っ暗な夜道を私へ向かい、小さな自転車のライトが一目散に走ってくる。
「乗って、ちい!」
大きく手をさし伸べた紅君は、私の手を掴むとそのまま彼のほうへたぐり寄せ、まるで大人の男の人のような力強さで私を自転車のうしろへ引き上げた。
私が夢中で彼の背中にしがみついたのと同時に、紅君の漕ぐ赤い自転車は、いつもの倍ものスピードで走りだした。
「待て! 待て、こらぁ!」
息を切らしながら叫ぶ澤井の声が、次第に遠くなっていく。
それでもギュッと固く両目を瞑ったまま、私はいつまでも紅君の背中にしがみついていた。
いつもはドキドキして指で触れることさえとまどう背中に、強く頬を押し当てていた。
限界いっぱいの速さで自転車を漕ぎながら、紅君が切れ切れに私の名前を呼ぶ。
「ちい……ちい……大丈夫だよ……」
優しいその声に私は頷く。
何度も頷く。
「俺と園長先生が……守るから……! ちいのことは絶対守るから……!」
頼もしい声と言葉が胸に痛く、私は何度も頷きながら、紅君の背中に頬を寄せて泣いた。
「ありがとう……」
うまく彼に届いたのかわからない私の声は、真っ暗な夜の闇の中に飲みこまれて消えた。
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