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Bastard & Master 【2】
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【2】
二十五年前。
青年貴族のジョセフは、なかば政略結婚のように、隣国から良い家柄の令嬢ソフィアを妻に迎えた。
ジョセフは、冷淡で高慢なソフィアに伴侶としての愛情を感じる事が出来ず、結婚生活は最初から冷え切っていた。
そんなある夜――
王宮で開かれた舞踏会で、彼はマルガレーテと運命の出会いをする。
穏やかで優しく、小さな花のように可愛らしいマルガレーテに、彼は会うなり恋に落ちた。
マルガレーテもまた、妻の存在を知りながらも、ジョセフに惹かれる気持ちを抑える事は出来なかった。
誰に知られる事もなく、密やかに二人は愛を育み、二年が過ぎた。
マルガレーテは男の子を産んだ。
二人はその子をヴィクトール・レオンと名付けた。
ジョセフとソフィアは、広大な屋敷の東と西の端にそれぞれの寝室を設け、言葉を交わす事もほとんどない夫婦であった。
もはやジョセフにとっての家族は、マルガレーテとヴィクトールであり、彼女の別荘に入り浸る毎日が続いた。
唯一、夫婦が対面するのが晩餐の時間であった。しかしジョセフが現れない日々が続くと、さすがの妻も夫の連日の不在を不信に思うようになる。
ソフィアは夫の身辺を調べさせた。
ほどなく彼女は、マルガレーテとヴィクトールの存在を知る事となる。
ジョセフの地位と財産があれば、好きに遊んでいられる今の夫婦関係を、ソフィアは都合がいいとさえ思っていた。
自身にも、連日のように公然と出入りする家庭教師という名の恋人がいる。
しかし、彼女にとって、それとこれとは別の話。
プライドだけは人一倍高い女であった。
夫の恋が浮気ではなく、真実の愛情であると悟った時、彼女の嫉妬心は激しく暴走した。
マルガレーテの別荘が炎に包まれた。
ソフィアの手の者による放火であった。
危険を素早く察知したマルガレーテは、ヴィクトールを抱いて逃亡した。
ソフィアは追っ手を放った。
マルガレーテは三日間逃げ回ったが、とうとう追い詰められ、ロッソの森の崖から身を投げたと言う。
しかし、その腕にヴィクトールの姿はなかった。
「その後、ソフィアは神の怒りに触れたのか、突然の病でこの世を去ったと言われています。けれど、ジョセフ殿の手に掛かったというのが、本当の所でしょう……」
クリステルが静かに語り終えた。
ヴィクトール・レオンのルーツ――彼をこの世に生み出した、哀しい恋人たちの真実の物語であった。
アーヴィンが深い吐息をついた。
「可哀想に、あの娘さんは亡くなったのか……。泣きながら、何度も何度も振り返りながら、森の奥へ走り去って行った……。私らは、この子に追われる事情があるならと、レオンという名の方で呼び、育てたのです」
職人の沈んだ声に、クリステルは黙って頷いた。
客間などないこの家で、ダイニングの椅子に腰掛け、一同はしばらく伏せがちな瞳をテーブルの上のカップに注いでいた。
「それで……今頃になって、俺にどういう用だと言うんだ?」
ややあって、レオンが低い声で訊く。クリステルはレオンに向き直った。
「ジョセフ殿は、ずっとあなたの行方を探しておられました。しかし、手掛かりはなく、月日が流れ……七年前にお亡くなりになりました」
レオンと、その育ての両親は言葉をなくした。
クリステルは続ける。
「亡くなる間際、ジョセフ殿はフォンテーヌ王に願い出ました。自分の亡き後、息子ヴィクトールを探して欲しいと……。ジョセフ殿は信じておられたのです。あなたが必ず生きていると……。マルガレーテという女性が、どれ程あなたを愛していたかを思えば、過酷な逃亡中、もしあなたが先に亡くなっていたなら、その遺体は必ずマルガレーテと共にあるはずだ……と……。しかし、遺体はなかった。ならば、答えはひとつのみ。彼女はあなたを逃がすため、あなたと別行動をとったのだと、訴えておられたそうです」
結果は、その通りだったわけである。
家具の修理の依頼を受けて遠出をしていたアーヴィンは、その帰り道、ロッソの森に差し掛かったところで、赤子を抱き締めた若い母親と出くわしたのだ。
高価そうな衣服はドロドロに汚れ、やつれて青白い顔をしていたが、それでもなお、美しい娘だったという。
あまりな姿に憐れになり、手持ちの水を勧めたアーヴィンに、娘は思いつめた様子で、この子を助けてやって下さい……と懇願したのである。
その様子が尋常ではなく、アーヴィンに断る事は出来なかった。
なにより、その胸に抱く赤子の美しい事――
身を呈して、この、命の輝きを衣に纏ったような我が子を生かしてやりたいと切望する母親の想いを、アーヴィンは引き継ぐ事を受け入れた。
その経緯を話して聞かせると、クリステルは深く息を吐きながら、そうだったのですか……と、呟いた。
「ジョセフ殿の領地は今、彼の従兄弟であるアナトール殿が守っておいでですが、アナトール殿にも、そのお父上から受け継ぐ領地がございます。アナトール殿のお父上はご高齢で、アナトール殿が隣国のご自分の領地に帰らねばならない日が近付いております」
クリステルは一瞬言葉を止め、レオンを真っ直ぐに見た。
「フォンテーヌ王は手を尽くし、漸くあなたの消息を掴み……一刻も早く都へお連れするよう、私を遣わされたのです」
ようやく、ここへ来た目的が告げられた。
レオンは弾かれたように顔を上げた。
「い……行かねぇよ! 俺は行かない!」
「行かねばなりません」
うろたえるレオンに、クリステルは強く言い放った。
射るようにレオンを見据える。
「あなたが行かねば、ジョセフ殿の領地はソフィアの親戚筋の手に落ちます。候補に上がっている男は、ソフィアとよく似た気性で、冷淡で浪費家です。領民たちの幸せはないと思わねばなりません。……フォンテーヌ王もアナトール殿も、ジョセフ殿の領地と領民を守りたいと思っておられるのです」
レオンは絶句した。
クリステルの口ぶりからすると、実の父ジョセフは良い領主だったようである。
そこへ踏み込んで来るのは、産みの母親を死へ追いやった憎むべき一族の者――
選択の余地はなさそうであった。
しかし、自分が出て行ったら、ここにいる年老いた両親はどんなに悲しむであろう。
「行きなさい、レオン」
迷っているレオンに、サラーが言った。
「子供に恵まれなかった私達だけど、お前が来てくれてから、たくさんの幸せをもらった。お前の本当のご両親に、この幸せの恩返しをするとしたら……今、お前を送り出してやる事が一番の恩返しなんだろうと思うんだよ」
強い母親だ……と、クリステルは思った。
さっきまでの取り乱した様子はもうどこにもない。
目の前のこの落胤は、本当に愛されて育ったようであった。
「でも、おふくろ……」
躊躇うレオンの言葉を、父親が遮った。
「お前が行った事で救われる人々がいるんだ。わしらも育てた甲斐がある。やはりお前は、生き延びねばならなかったんだよ」
そう言って、アーヴィンはサラーの肩を抱いた。
サラーは、エプロンの裾で、そっと涙を拭った。
レオンは、しばし何かを考えるように両親を見つめて――
やがてクリステルを正面から見た。
瞳に、強く清廉な光が宿る。
「都へ行く」
短く、しかしはっきりとした口調で告げた。
つづく
二十五年前。
青年貴族のジョセフは、なかば政略結婚のように、隣国から良い家柄の令嬢ソフィアを妻に迎えた。
ジョセフは、冷淡で高慢なソフィアに伴侶としての愛情を感じる事が出来ず、結婚生活は最初から冷え切っていた。
そんなある夜――
王宮で開かれた舞踏会で、彼はマルガレーテと運命の出会いをする。
穏やかで優しく、小さな花のように可愛らしいマルガレーテに、彼は会うなり恋に落ちた。
マルガレーテもまた、妻の存在を知りながらも、ジョセフに惹かれる気持ちを抑える事は出来なかった。
誰に知られる事もなく、密やかに二人は愛を育み、二年が過ぎた。
マルガレーテは男の子を産んだ。
二人はその子をヴィクトール・レオンと名付けた。
ジョセフとソフィアは、広大な屋敷の東と西の端にそれぞれの寝室を設け、言葉を交わす事もほとんどない夫婦であった。
もはやジョセフにとっての家族は、マルガレーテとヴィクトールであり、彼女の別荘に入り浸る毎日が続いた。
唯一、夫婦が対面するのが晩餐の時間であった。しかしジョセフが現れない日々が続くと、さすがの妻も夫の連日の不在を不信に思うようになる。
ソフィアは夫の身辺を調べさせた。
ほどなく彼女は、マルガレーテとヴィクトールの存在を知る事となる。
ジョセフの地位と財産があれば、好きに遊んでいられる今の夫婦関係を、ソフィアは都合がいいとさえ思っていた。
自身にも、連日のように公然と出入りする家庭教師という名の恋人がいる。
しかし、彼女にとって、それとこれとは別の話。
プライドだけは人一倍高い女であった。
夫の恋が浮気ではなく、真実の愛情であると悟った時、彼女の嫉妬心は激しく暴走した。
マルガレーテの別荘が炎に包まれた。
ソフィアの手の者による放火であった。
危険を素早く察知したマルガレーテは、ヴィクトールを抱いて逃亡した。
ソフィアは追っ手を放った。
マルガレーテは三日間逃げ回ったが、とうとう追い詰められ、ロッソの森の崖から身を投げたと言う。
しかし、その腕にヴィクトールの姿はなかった。
「その後、ソフィアは神の怒りに触れたのか、突然の病でこの世を去ったと言われています。けれど、ジョセフ殿の手に掛かったというのが、本当の所でしょう……」
クリステルが静かに語り終えた。
ヴィクトール・レオンのルーツ――彼をこの世に生み出した、哀しい恋人たちの真実の物語であった。
アーヴィンが深い吐息をついた。
「可哀想に、あの娘さんは亡くなったのか……。泣きながら、何度も何度も振り返りながら、森の奥へ走り去って行った……。私らは、この子に追われる事情があるならと、レオンという名の方で呼び、育てたのです」
職人の沈んだ声に、クリステルは黙って頷いた。
客間などないこの家で、ダイニングの椅子に腰掛け、一同はしばらく伏せがちな瞳をテーブルの上のカップに注いでいた。
「それで……今頃になって、俺にどういう用だと言うんだ?」
ややあって、レオンが低い声で訊く。クリステルはレオンに向き直った。
「ジョセフ殿は、ずっとあなたの行方を探しておられました。しかし、手掛かりはなく、月日が流れ……七年前にお亡くなりになりました」
レオンと、その育ての両親は言葉をなくした。
クリステルは続ける。
「亡くなる間際、ジョセフ殿はフォンテーヌ王に願い出ました。自分の亡き後、息子ヴィクトールを探して欲しいと……。ジョセフ殿は信じておられたのです。あなたが必ず生きていると……。マルガレーテという女性が、どれ程あなたを愛していたかを思えば、過酷な逃亡中、もしあなたが先に亡くなっていたなら、その遺体は必ずマルガレーテと共にあるはずだ……と……。しかし、遺体はなかった。ならば、答えはひとつのみ。彼女はあなたを逃がすため、あなたと別行動をとったのだと、訴えておられたそうです」
結果は、その通りだったわけである。
家具の修理の依頼を受けて遠出をしていたアーヴィンは、その帰り道、ロッソの森に差し掛かったところで、赤子を抱き締めた若い母親と出くわしたのだ。
高価そうな衣服はドロドロに汚れ、やつれて青白い顔をしていたが、それでもなお、美しい娘だったという。
あまりな姿に憐れになり、手持ちの水を勧めたアーヴィンに、娘は思いつめた様子で、この子を助けてやって下さい……と懇願したのである。
その様子が尋常ではなく、アーヴィンに断る事は出来なかった。
なにより、その胸に抱く赤子の美しい事――
身を呈して、この、命の輝きを衣に纏ったような我が子を生かしてやりたいと切望する母親の想いを、アーヴィンは引き継ぐ事を受け入れた。
その経緯を話して聞かせると、クリステルは深く息を吐きながら、そうだったのですか……と、呟いた。
「ジョセフ殿の領地は今、彼の従兄弟であるアナトール殿が守っておいでですが、アナトール殿にも、そのお父上から受け継ぐ領地がございます。アナトール殿のお父上はご高齢で、アナトール殿が隣国のご自分の領地に帰らねばならない日が近付いております」
クリステルは一瞬言葉を止め、レオンを真っ直ぐに見た。
「フォンテーヌ王は手を尽くし、漸くあなたの消息を掴み……一刻も早く都へお連れするよう、私を遣わされたのです」
ようやく、ここへ来た目的が告げられた。
レオンは弾かれたように顔を上げた。
「い……行かねぇよ! 俺は行かない!」
「行かねばなりません」
うろたえるレオンに、クリステルは強く言い放った。
射るようにレオンを見据える。
「あなたが行かねば、ジョセフ殿の領地はソフィアの親戚筋の手に落ちます。候補に上がっている男は、ソフィアとよく似た気性で、冷淡で浪費家です。領民たちの幸せはないと思わねばなりません。……フォンテーヌ王もアナトール殿も、ジョセフ殿の領地と領民を守りたいと思っておられるのです」
レオンは絶句した。
クリステルの口ぶりからすると、実の父ジョセフは良い領主だったようである。
そこへ踏み込んで来るのは、産みの母親を死へ追いやった憎むべき一族の者――
選択の余地はなさそうであった。
しかし、自分が出て行ったら、ここにいる年老いた両親はどんなに悲しむであろう。
「行きなさい、レオン」
迷っているレオンに、サラーが言った。
「子供に恵まれなかった私達だけど、お前が来てくれてから、たくさんの幸せをもらった。お前の本当のご両親に、この幸せの恩返しをするとしたら……今、お前を送り出してやる事が一番の恩返しなんだろうと思うんだよ」
強い母親だ……と、クリステルは思った。
さっきまでの取り乱した様子はもうどこにもない。
目の前のこの落胤は、本当に愛されて育ったようであった。
「でも、おふくろ……」
躊躇うレオンの言葉を、父親が遮った。
「お前が行った事で救われる人々がいるんだ。わしらも育てた甲斐がある。やはりお前は、生き延びねばならなかったんだよ」
そう言って、アーヴィンはサラーの肩を抱いた。
サラーは、エプロンの裾で、そっと涙を拭った。
レオンは、しばし何かを考えるように両親を見つめて――
やがてクリステルを正面から見た。
瞳に、強く清廉な光が宿る。
「都へ行く」
短く、しかしはっきりとした口調で告げた。
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