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さりげなく癒して【3】
しおりを挟むさりげなく癒して
【3】
「み~どりちゃんっ!」
エレベーターを降りてフロアーに出た吾妻は、インフォメーションカウンターに近付くと、受付け嬢の原田美鳥(はらだ みどり)に声をかけた。
「あら、吾妻さん。営業の方が、こんな所に何の御用ですか?」
美鳥はにこやかに、しかしつれないセリフを吐いた。
吾妻の所属する営業部は二階。ここは販売促進部のある五階のフロアーである。
機密事項を抱えながらも、外部からの人の出入りの多い部署には、エレベーターフロアーにインフォメーションカウンターを設けてあった。
人の出入りをチェックし、客なら迷わないように案内するためである。
吾妻はこの五階担当の受付け嬢が気に入っていて、果敢にアタックしているのだが、美鳥の方は、気付かぬ振りを決め込んでいる。
いつものように軽くあしらわれ、吾妻は苦笑した。
「早瀬、来てるって聞いたんだけど」
吾妻が言うと、美鳥は破顔して頷いた。
そんな嬉しそうな顔、すんなよぉ~。
いきなり泣きが入りそうな吾妻である。
「はい。いらしてますよ~。そろそろ会議が終わる時間だと思うんですが……」
そう言って、会議室の方に視線を向けた美鳥が、あ……と、声を上げた。
「綺麗な絵柄……」
うっとりと呟く。
美鳥の視線を追った吾妻は、彼女の言った意味がわかり、なるほど……と、頷いた。
会議室からエレベーターホールまで真っ直ぐ伸びた通路を、瞳子と祐貴が並んで歩いて来るのである。
打ち合わせの確認でもしているのだろうか、祐貴が何事か話すのを、瞳子が頷きながら聞いていて、時折、相槌を打っている。
二人が通り過ぎるのを、社員達が仕事の手を止めて――休めているのではなく、固まっているといった感じで――見惚れていた。
あいつ……フェロモン、パワーアップしてやがる。
吾妻は苦笑した。
その時――
祐貴が何事か言ったのに対して、瞳子が答えようとする刹那だった。
吾妻と美鳥は同時に息を呑んだ。
恐らくそれを見たのは、真正面の位置にいた吾妻と美鳥の二人だけであろう。
氷の美女と謳われる瞳子が、微笑みの一歩手前のような、信じられないほど柔らかい表情を浮かべたのだ。
「今の、見ました……?」
美鳥が吐息混じりに呟いた。
吾妻は頷いて、少し考え込むようにした後、言った。
「……口止め、させてもらってもいいかな?」
「え……?」
美鳥が吾妻に視線を戻した。
通路では、瞳子と祐貴が、深々と頭を下げて挨拶をしている。
「女の子たちが、早瀬の事で騒いでるのは俺も知ってる。そこへ来て緑川女史の、らしくない態度だろ? 他の人間に知れたら、あっという間に噂の的だ」
吾妻の言葉に、美鳥は小さく頷く。自分も、この大騒ぎにちょっぴり参加しているクチであった。
「……でも早瀬にとっては、初めて掴んだデカイ仕事なんだ。出来るだけ雑音なしに、思い切り打ち込ませてやりたいんだよ」
頼めないかな……? と、こちらを見る吾妻の顔は、今まで美鳥が知っている、どの吾妻とも違う表情だった。
いつもおちゃらけていて、飄々としていて――軽い男、という吾妻のイメージが、大きく変化した一瞬だった。
それが友達のためだと思うと、なんだか感動さえしてしまう美鳥であった。
美鳥は大きく頷いた。
「わかりました。二人だけの秘密ですね」
美鳥は固い決意で、吾妻の耳元に囁いた。
み、みどりちゃ~~ん……
思わず蕩けそうになった吾妻であったが、ぐっと堪える。
冗談だと思われるのはごめんだったのだ。
「ありがとな」
やっとそれだけ言って、照れ臭そうに笑った吾妻を、美鳥はこれまでと違う感情を持って見詰めたのだった。
瞳子と別れてエレベーターホールまで歩いてきた祐貴は、インフォメーションカウンターの受付け嬢と何事か話し込んでいる吾妻に気付いた。
「あれ、吾妻……」
祐貴が声を掛けると、吾妻はこちらを向いて、よぉ、と言った。
「なんだ、またサボリか?」
祐貴が苦笑しながら言う。
「人聞きの悪い事を言うな。お前が来てるって聞いたから、昼飯でもどうかと思ってな」
吾妻もまた、苦笑しながら言った。
丁度、お昼の時間である。
「じゃ、美鳥ちゃん。頼むな」
エレベーターに乗り込む間際、吾妻は受付け嬢に声をかけた。
「はい。いってらっしゃいませ」
にこやかに言われて目尻を下げた吾妻に、祐貴は吹き出すところであった。
「お前さ、うちの女子社員のハート、総ナメにする気か?」
吾妻の唐突な物言いは、いつも祐貴を咽させる。
「な、何だよ、それ……」
祐貴は困ったような表情で、グラスの水を飲んだ。
どうせ午後から外回りだから……と、吾妻は社有車を出した。
それに乗って、二人は郊外のレストランに来たのだった。
「自分でわかってる? お前、フェロモン、パワーアップしてっぞ……いや、バージョンアップかな……」
吾妻は言いながら、豚肉の生姜焼きを口に運ぶ。
「訳のわからん事を言うな」
祐貴は吐息をついた。
「その顔で『いい人』やってっから、女子社員が騒ぐ騒ぐ……。学生時代、女片っ端から食ってた頃より、格段にオトコマエだよ。レベルが違う」
祐貴はまた咳き込んだ。
「片っ端から食ってた……って……あんまりな言い方だなぁ……」
吾妻は祐貴の反応を楽しんでいるのか、カラカラと笑った。
「放っておいても女の方から寄って来るもんだから、文字通り、片っ端から食ってただろうが。あの頃のお前は、キケンな香りがムンムンのイケナイお兄さんだったぞ。それが今や癒し系だ。どうなってんだ? ホントの所は」
祐貴は、知らねぇ……と言いながら、ハンバーグをひとかけら口に放り込んだ。
「お、美味いっ」
呟くと、吾妻がじぃぃ~~っとこちらを見ている視線と出くわした。
吐け……と、その瞳が脅迫している。
祐貴は苦笑した。
「前にも言っただろ? ギラギラしないでいるのって、楽なんだよ」
それだけじゃないだろう? と、言いたげな視線が、まだこちらを射抜いている。
祐貴は、やれやれ……と首を横に振った。
「ある時、思ったんだ。ちゃんとした恋愛がしたいって。で、本当に好きだと思える女が現れるまで、自分から動くのをやめた……。吾妻とスケジュールが合わなくなった頃からだから……もう三年近く、独り身だ」
吾妻は呆けたように口をぽかんと開けていた。
そんな吾妻の顔を見て、急に照れ臭くなった祐貴は、わざとあっけらかんと続ける。
「本気になれる相手がいれば、その女だけ見ていればいい。それ以外は、その他大勢……。シンプルだろ?」
こ……こいつ……
究めたねぇ……。
吾妻はただ呆然と、祐貴を見詰めた。
こうなると、フェロモンバージョンアップどころか、頭の中はまるで別人だった。変われば変わるものである。
祐貴の方は、ハンバーグをぱくぱく食べながら、この店の美味い、お気に入りに追加だ……などと、にこにこしながら呟いている。
吾妻は溜息を吐き出した。
可愛くなっちゃって……。
ホント、まさかの癒し系……。
そこまで考えて、ふと、先刻見た瞳子の様子を思い出した。
あれも、癒しの効果なのか……?
吾妻は、ごくり……と喉を鳴らした。
「……なぁ、早瀬……」
「ん?」
祐貴は口をもぐもぐさせながら、吾妻を見た。
「俺……さ……。見ちまった……」
吾妻は言いたい事が上手く言葉にならないのか、口篭もって、水を飲んだ。
「だから、何?」
じれったくなった祐貴が、ナイフとフォークを置いた。
吾妻は突然、ニヤリと笑った。
「はじめて見た……。微笑む一歩手前の柔らかい表情……。あの緑川女史が、お前に向けたんだぜ」
数日後の土曜日。
仕事が休みのためいつもよりゆっくりめに目覚めた祐貴は、すぐには起き上がらず、布団の中でごろごろしながら考え事をしていた。
あの日、レストランで食事をしながら吾妻が言った事に、祐貴は過剰な反応をしてしまったのだ。
そして、逃げ出してしまいたいほど、からかわれる羽目になった。
「何だ……ターゲットロックオンしていながら、自分で気付いてなかったのか?」
吾妻はそう言って、他の客が振り返るほど豪快に笑い出したのだ。
祐貴はそれを思い出す度、ひとりで赤くなってしまう。
吾妻の言う通りだったからだ。
バフっと布団を頭から被る。
日照りボケ
吾妻はそう称した。
反論の言葉もないよ……。
あんなに気になっていたくせに、恋愛感情が始まっている事に、自分で気付かなかったなんて……。
「だぁぁぁ~~~っ! ダセェ俺~~~っ!」
布団を被ったまま身悶えしてゴロゴロと寝返りを打ち、自ら簀巻きになって叫んだ。
布団の中で腹が鳴った。
溜息と共に、祐貴は漸く布団から這い出した。
カーテンの隙間から、明るい日差しが差し込んでいる。外はいい天気だった。
「洗濯して、メシ食おう……」
ひとりごちて、う~~ん、とのびをした。
しかし、このところ忙しくしていたため、キッチンの食材は底をついていた。
仕方なく朝食は後回しにして、溜まっていた洗濯をしながら、顔を洗い歯を磨く。
部屋の掃除が終わる頃、洗濯機が終了のブザーを鳴らしていた。
それらを干してしまうと、祐貴は買い物に出かけた。
冷蔵庫も戸棚も空っぽになっていたので、本格的に買出しをする必要があったが、大きなスーパーが開店するまで、まだ少し時間がある。
とにかく、盛大に歌っている空きっ腹を黙らせるために、祐貴はコンビニへ向かった。
空腹の時は、見るもの何でも食べたくなる。
祐貴はおにぎりもサンドイッチも菓子パンも買ってしまった。他には、サラダとミネラルウォーターと、雑誌。
精算を済ませて店を出る。
するとどうしても、目の前にそびえるマンションに祐貴の意識は捕らわれてしまう。
レンガタイルの敷かれたエントランスには数段の階段があって、祐貴は何となくそれを見上げた。
数日前に会った時、瞳子は疲れているようだった。
休みを取っていないとも言っていた。
とーこさん、元気にしてるかな~。
そんな祐貴の想いが通じたのか――
階段の上に、不意に瞳子が現れたのだ。
二人揃って一瞬固まっていたが、やがて祐貴が微笑んで言った。
「おはようございます、緑川さん」
瞳子は我に返って、小さく会釈をした。
「おはようございます……。今日はお休みでいらっしゃるの?」
祐貴のジーンズにトレーナーというラフな格好を見て、瞳子が訊いた。
そう言う瞳子の方は、スーツ姿だった。ヒールを履いた綺麗な足が階段を下り始めると、一歩近付く度に、瞳子の顔色がこの前よりも良くない事が見て取れた。
祐貴は吐息をついた。
やっぱり……無茶してる……。
「休みですよ。ここでちょっと買い物」
祐貴はそう言って、買い物袋を掲げて見せた。
「緑川さんは、休日出勤ですか?」
訊くと、瞳子はちょっと済まなそうな表情をした。
祐貴が心配してくれた事を、瞳子はもちろん覚えていたからだ。
「……ええ……」
やはり済まなそうな声で答える。
その瞳子の顔から、すぅ……と血の気が失せたのを、祐貴は見た。
ゆっくり階段を下りていた瞳子の身体が、ぐらり、と揺らいだ。
「緑川さんっ!」
咄嗟に荷物を放り出し、祐貴は瞳子の身体を受け止めた。
上から落ちてきた勢いに押され、祐貴は瞳子を抱き留めたままタイルの上に座り込んだ。
「緑川さん……しっかりして……っ!」
腕の中でぐったりとしている瞳子の顔は、蒼白だった。
つづく
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