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さりげなく癒して【6】
しおりを挟むさりげなく癒して
【6】
翌朝。
昨日より格段にいい気分で、瞳子は目覚めた。
意外にも、昨夜はぐっすり眠れたようだった。
のそのそと上半身を起こすと、開け放しの扉の向こうから、味噌汁のいい香りが漂って来る。
自分以外の誰かが、この家にいる……。
しかもそれは男だ。
瞳子が何よりも警戒し、信用ならないと思っている『男』という生き物が、昨夜この家に泊まったのだ。
もちろん部屋は別にしてもらった。
一人で暮らすには広すぎるこの家には、家具さえ入っていない部屋が二室もある。それとは別に、ロフトも手付かずで空けてあった。
男は瞳子の寝室に程近い部屋を選び、しかし、両方の部屋の扉は一晩中開け放しにされた。
用があったら、夜中でも遠慮なく大声で呼んで下さい。
そう言った男の瞳は、誠実な色をたたえていた。
自分がそれを許した事も、そんな『男』が存在する事も――
なにもかも、もしかしたら夢なのかも知れない。
味噌汁の香りに鼻腔をくすぐられてもなお、瞳子はそんな事をぼんやりと思った。
しかし――
現実は、屈託のない笑顔と共に、瞳子の目の前に現れた。
「あ……とーこさん、起きました?」
廊下を通りかかった祐貴は、ベッドに上半身を起こしている瞳子に気付いて笑顔を向けた。そのまま寝室へ入って、ベッドの側に寄る。
「おはようございます」
寝起きで、ふにゃふにゃした顔の瞳子が可愛くて、祐貴はつい頬を緩めながら言った。
「おはよう……」
そう返す声もまた、すこし掠れて、ふにゃふにゃした感じだ。
祐貴がくすっと笑うと、瞳子は、何? というようにこちらを見上げた。
「気分はどうですか?」
祐貴が訊くと、瞳子は前髪をかきあげて、吐息をひとつついた。
ちょっと眉根を寄せて考えるような顔をした後、言った。
「……お風呂……」
祐貴は苦笑した。
気分はいいという事らしい。
昨夜、口論の後で、今度は瞳子が風呂に入りたいと駄々をこねて、祐貴を困らせたのだ。
明日の朝、様子を見てからにしましょう、と説得し、瞳子は渋々了承したのだった。
「約束でしょ……?」
上目遣いに言われては、祐貴ももう反論出来ない。
しょうがないですね……と言って、また苦笑した。
「浴槽にお湯を張って来ますから、待ってて下さいね」
祐貴は立ち上がってそう言うと、バスルームへと向かった。
浴槽を軽く洗い流し、栓をして、祐貴はぬるめに温度設定した湯を溜めた。
合間にキッチンで朝食の仕度の続きをやり、頃合を見て湯を止めに行く。
主婦にしたいほど、絶妙な時間配分だ。
「とーこさん、お湯溜まったよ~……あれ……?」
寝室に瞳子の姿はなかった。
リビングかな……と、祐貴が踵を返した所で、隣の衣装部屋のドアが開いて瞳子が出て来た。手に着替えを持っている。
昨日よりは幾分しっかりした瞳子の足取りに、祐貴はほっとした。
それでも、瞳子が脱衣所のドアノブに手を掛けるのを見た途端、これから彼女が自分の目の届かない場所に篭るのだと思うと、また急に不安になる。
「本当に大丈夫ですか? ご飯食べて、ちょっと落ち着いてからにしません?」
祐貴が駄目元で言ったが、やはり瞳子は首を横に振った。
「俺、何かお手伝いする事ないですか?」
他意はなかった。ただ心配のあまり、深く考えずに出た言葉だったが――
瞳子の強烈な肘鉄が鳩尾に入り、祐貴は前のめりになってうめいた。
「ち……違います……って……。そういう意味で言ったわけじゃなくって……」
苦しみながらも慌てて言い訳をしたが、瞳子は無表情な一瞥をくれると、祐貴の目の前でバタンと扉を閉めた。
「と~こさぁぁん……誤解ぃ~~」
祐貴は床にずるずると座り込んで、情けなく訴えるのだった。
「ふぅ……」
瞳子はバスタブに身体を沈めて吐息をついた。
さっきはちょっと可哀想な事をしたかしら……
脱衣所の扉の向こうから訴えてくる祐貴の声を思い出し、そんな事を考える。
彼の言う通り、自分を気遣って何気なく出た言葉なのだろう。
過剰に反応してしまったのは自分の方だ。
瞳子はぶくぶくと、顔半分がお湯に浸かる程、深く身を沈めた。
頬が上気しているのは、身体が温まったからだけではないのを自覚していた。
不思議なひと……
男は敵だと思っている瞳子が、かつて心を許したのは祖父だけであった。
それなのに、今、自分は会って間もない男の世話になっている。
警戒心をすっかり無くしている瞬間がある。
電車の中で酔っ払いに絡まれた時、幼い頃に植え付けられた恐怖心に捕らわれ、動く事も出来なくなってしまった瞳子を、救い出してくれたのは祐貴だった。
祐貴に手を引かれて歩きながら、恐怖心が急速に安心感へとすり替わっていくのを感じた。
瞳子が大声を上げて人の視線に晒された時も、祐貴の大きな手は、あっという間にそこから連れ出してくれた。
体調の良くない事に、ただ一人気付いてくれたのも祐貴だった。
穏やかな笑顔の前では、仮面の被り方を忘れてしまう自分がいる。
そして、そんな自分になれる場所を、ずっと探していた自分も、どこかにいる。
あの人は……違うの……?
わからない……
でも……
瞳子の心を占める氷は、いつの間にか緩み始めていた。
瞳子が風呂場で倒れたりしないかと、気が気ではなかった祐貴は、脱衣所の扉が開閉する音を聞くなり、リビングを飛び出して行った。
廊下に出て来た瞳子は、ダッシュで駆け寄ってくる祐貴に驚いて、目を見開いた。
二人の視線が絡んだ。
それっきり、祐貴の目は瞳子に釘付けになってしまった。
緩くウェーブしたミディアムショートの髪は艶やかに濡れて、雫が光を放っている。
温まって上気しているのは頬だけではなく、シルクのパジャマの襟元から覗く素肌も、桃色に染まっていた。
暖かい体温が、ボディーシャンプーの甘い香りを立ち上らせ、祐貴の吐息を誘う。
う……美しすぎる……
まずい……目が離せない……
剛速球ストレート。
どストライクで、クリーンヒットで……
改心の一撃で、痛恨の一撃で……
そんな言葉が祐貴の脳裏をぐるぐる回る。
自分を惚けたように見詰めている祐貴を、瞳子もまた、息を詰めて見詰め返していた。
すべてを見透かされてしまいそうな祐貴の瞳の奥に、甘美な輝きが熱っぽく揺らめいているのを、瞳子は見た。
も……もしかして……
見惚れているの……? 私に……
そう意識した途端に、体温が上がるのを感じた。
こんな風に見られる事には慣れていた。
しかしそれに伴う瞳子の感情は、常に嫌悪感に満ちていた。いつだってそんな視線を、冷たい無表情で跳ね除けて来たのだ。
それなのに――
見詰めて来るのが祐貴の瞳だと思うと、嫌悪感とは全く別の感情が、瞳子の胸を震わせた。
そんなに見詰めないで……
私は……今、どんな顔をしているの……?
暴走を始めた感情に不安になる気持ちと、甘く疼く胸の痛みに瞳子は翻弄された。
祐貴の耳に聞こえてしまうのではないかと思うくらい、心臓が大きく早鐘を打つ。
体温は上がり続け、呼吸が苦しい。
それは、祐貴もまた同じ思いだったに違いないのだが……。
先に音を上げたのは、瞳子の身体の方だった。
緊張に耐えかねて糸が切れるように、瞳子は、くたっ、と廊下にしゃがみ込んでしまった。
「うわぁぁぁ~~~っ! とーこさんっ、大丈夫?」
魔法が解けたように祐貴が反応して、慌てて手を差し伸べる。
「の……のぼせてしまったみたい……」
その手につかまりながら、瞳子は弱々しく言った。
例によって祐貴に抱き上げられてリビングのソファへと運ばれた瞳子は、扇いでもらったり、水を飲ませてもらったりと、甲斐甲斐しく世話を受けた。
その上、今はドライヤーで髪を乾かしてもらっている。
瞳子にしてみれば、恥ずかしくて余計にのぼせてしまいそうだ。
しかし祐貴の方は、世話を焼くのが楽しくて仕方がないという風に、にこにこしている。
「まったく……心配しましたよ。とーこさん、のぼせるほど長湯するから」
ドライヤーのスイッチを切り、コンセントを抜きながら、祐貴が苦笑した。
「食事の支度出来てますから、朝ご飯にしましょうね」
のぼせてしまったのは……あなたのせいじゃない……。
瞳子は、ぷっと膨れた。
「あ……そんな可愛い顔で睨んでもだめですからね。ご飯はちゃんと食べてもらいます。お昼には博之さんが往診に来てくれる事になってますから、少しでも良くなってないと、付き添った俺が叱られるんですからね」
ドライヤーのコンセントをまとめながら、祐貴が言った。
「わかってます。おっしゃる通りにするわ」
ぷいっとそっぽを向いて、瞳子は立ち上がった。
途端にふらり……と身体がよろめく。
すぐさま支えにやって来る、祐貴の大きな手。
「だめだよ、とーこさんっ。いきなり立ち上がっちゃぁ……」
瞳子は吐息をついた。
いつだって、自分を助けてくれる優しい手。
こんなに頼りにしてしまって、自分はいつか、この暖かい手を突き放す事が出来るのだろうか。
またひとりで、歩く事が出来るのだろうか……。
暖かさに慣れない瞳子は、また心に新たな不安を生み、抱えてしまうのだった。
つづく
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