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さりげなく癒して【9】
しおりを挟むさりげなく癒して
【9】
いつもの駅から乗るいつもの電車。
日常が始まろうとしていたが、祐貴の心は先週とは違っていた。
昨夜、食事の後も、リビングでお茶を飲みながら、ふたりはいろんな話をした。
瞳子が自然体で笑顔を見せてくれる事が嬉しくて、祐貴の心は弾んだ。
知り合ってから、いろいろな瞳子を見てきた。
職場で会うクールビューティーな瞳子は、人形のように研ぎ澄まされた美しさだった。
電車で会った瞳子の、今にも泣きそうな顔、驚いた顔。
側に付き添うようになって見せてくれる、怒った顔、困った顔。
寝顔。寝起きの顔。風呂上りの顔。
赤くなったり、そっぽを向いたり。
どの瞳子も、惚れた男にとっては可愛くてしょうがないものだったが――
笑った顔は、鮮烈だった。
花がほころぶように微笑む瞳子。
くすくすと首をすくめるようにして笑う瞳子。
声を立てて笑う瞳子。
女神の微笑が自分だけに向けられている事に、死んでもいいと思える程の幸せを感じた。
いや、違う――
生きて、ずっと側で、その微笑を見詰めていたい。
緩みそうになる頬を苦労して引き締めながら、祐貴は電車を降りて、会社までの道を歩いていた。
その祐貴のポケットで、携帯電話が鳴った。
ディスプレイには、吾妻の名前が表示されている。
「もしもし?」
「あ、早瀬? 俺、吾妻。今、会社で小耳に挟んだんだけどさ……」
祐貴は苦笑した。
おはよーくらい言うだろ、普通。
「何だ?」
ま、いいか……と、訊き返す。
「あの緑川女史が休み取ってるんだ。過労で倒れたって」
何かと思えば、そんな話か……と、祐貴は思った。
「ああ……そうなんだよ」
つい、ぽろっと、言ってしまった。
「そうなんだよ……って……何でお前が知ってんだよっ!」
途端に喚き始めた吾妻の声に、祐貴は電話を耳から遠ざけた。
「落ち着けよ、吾妻」
「話せっ。今ここでだ」
祐貴は吐息を付いた。
「土曜日ばったり会って、立ち話してた時に、俺の目の前で倒れたんだ。まともに歩けないほど衰弱してるのに、面倒見てくれる身内もいないって言うから、放っておけなくて……俺が世話してる」
泊まり込みで……とは口が裂けても言えない。
しかし、吾妻は見透かしたように、ふふん、と笑った。
「俺さ、ちょっと早瀬に相談したい事があって、お前ん家、行ったのな。土曜の夜、かなり遅い時間に……。あんな時間に留守だったって事は……そういう事だよな?」
う……
こいつって、なんて間の悪い……
祐貴は絶句した。
「何だよ、そういう事、って……。言っただろ? 放っておけなかったのっ! それより、お前の相談って、何だ?」
ようやく祐貴がそう言うと、吾妻は、んなの今度でいいよ……と言った。
一瞬の間を置いて、吾妻が口を開いた。
「……なぁ、早瀬ぇ~」
あ……嫌な予感……
「ちゅ~くらい、した?」
やっぱり~~~。
祐貴は苦笑した。
「するかっ! エロじじい!」
「何だ……慎重なんだな」
吾妻はなぜだかちょっと残念そうに言って、笑った。
「でも……」
祐貴は、すこしだけ自慢したくなって言った。
「笑ってくれるように、なったんだ」
吾妻晴彦は感動していた。
笑う……?
あの、緑川瞳子が……?
くだらない冗談でも言おうものなら、周りの気温さえ下げてしまうような、冷たい一瞥をくれるという話は有名だ。
決して表情を緩める事のない、美貌の氷の女王――
その瞳子が笑うなど、吾妻には想像も及ばない。
笑ってくれるように、なったんだ。
嬉しさを押し殺したような、祐貴の照れた声が、まだ吾妻の耳に残っている。
すごいぞ、早瀬。
ヒーリングパワー、全開じゃんか。
あの氷の女王を、癒してるんだ……。
俺は、猛烈に感動してるぞ。
「よ~~し、俺も頑張るぞぉ~」
「何を頑張るんですか?」
思わず呟いた吾妻のすぐ後ろで、声がした。
ぎょっとして振り返ると、原田美鳥の笑顔があった。
「み……美鳥ちゃん……」
途端に固まってしまった吾妻に、美鳥はちょっと首を傾げて可愛く笑った。
「おはようございます。吾妻さん」
「朝早くから、こちらにいらっしゃるなんて、何か御用ですか?」
にこやかに訊かれて、吾妻は口篭もってしまう。
その御用の相手に、いきなりとびきりの笑顔を投げかけられて、激しく動揺しているのだ。
祐貴に相談に行ったのは、美鳥の事だった。
吾妻はマジだった。
普段チャラチャラとものを言うくせに、本気の「好き」はなかなか言えないのが、吾妻という男であった。
祐貴には肩透かしを食らったが、日曜日に一人でずっと考えた挙句、ようやくデートに誘う決心をした。
その決心が鈍らないうちに……と、朝一番で五階のフロアーに上がって来たのだが、早すぎたために、美鳥はまだ持ち場についていなかったのだ。
そこで瞳子の欠勤の話を聞き、慌ててその場で祐貴に電話を掛けた。
祐貴の報告に感動し、気合を入れたところなのに――
「え……うん……まぁ……」
自分で自分が情けなくなる吾妻であった。
「あのね、吾妻さん。友達が美味しいパスタのお店を教えてくれたんです。今度一緒にどうですか?」
信じられないような事を、美鳥が言った。
真っ白になりかけた頭で、懸命に考えた吾妻は、やがて妥当な答えに行き着いた。
心の中で溜息を付きつつ、訊く。
「それって、合コンのお誘いかな?」
ところが、美鳥はいきなりぶんむくれて吾妻を睨むと、ぷいっと踵を返した。
すたすたと、持ち場のインフォメーションカウンターへ歩き去って行く。
も、もしかして……っ
信じられないような事が、本当に起こったらしい。
吾妻は漸くそれに気付いて、慌てて美鳥の後を追った。
後ろから美鳥の腕をぐいっと掴んで、力一杯言った。
「美鳥ちゃんとふたりでなら、絶対行くっ!」
美鳥は一瞬呆気に取られた後、蕩けるような笑顔で頷いた。
瞳子はひとりで簡単な昼食を済ませた後、皿を洗っていた。
昨夜、とうとう仮面を取り去った瞳子は、すべての力を抜いて自然体になった。
祐貴の優しい心遣いや楽しい会話に、久しぶりにたくさん笑った。
おかげで、今日はとても気分が良い。
仕事に出かける間際、祐貴は、瞳子をひとりにする事をとても心配していた。
食事はちゃんと取って下さいね。
すこしは身体を動かす事も必要かも知れないけど、無理をしない事。
疲れないように、ちゃんと横になって休んで下さいね。
用があったら、いつでも電話して下さい。構わないですから。
俺も電話入れますからね。
口うるさい程に言う祐貴に、遅刻するわよ……と、瞳子が言って、漸く慌てて出かけて行ったのだ。
そんな事を思い出し、瞳子はくすっと笑った。
約束通り、電話は午前中に一度あった。
大丈夫ですか? ……と気遣う声が嬉しかった。
いつの間にか皿を洗う手が止まり、水が出しっ放しになっている事に気付いて、瞳子は赤くなる。
どうしてもつい、ぼんやりと祐貴の事を考えてしまうのだ。
気を取り直して、一気に洗い物を済ませてしまうと、瞳子は溜息をついた。
和食ばっかり続いて、飽きちゃったでしょう?
洋食のメニュー、考えなくちゃなぁ……。
朝食の席で、祐貴がそう言ったのを思い出す。
瞳子は、祐貴の作ってくれる食事にとても満足を感じていたが、祐貴の方はそうではないらしい。
瞳子はふと、思い付いた。
帰って来る祐貴のために、彼が食べたがっている洋食を用意しておいてあげよう……と。
にわかに高揚する気分で、瞳子は献立を考えようと冷蔵庫を開けた。
野菜室も覗き、冷凍庫もチェックしていると、電話が鳴った。
「もしもし……」
出る前から、相手は誰だか瞳子にはわかっていた。
「とーこさん……早瀬です」
電話口から聞こえる声は、普段ふざけている時より少し低い声で、耳元で囁かれるような錯覚に、瞳子はくすぐったさを覚える。
「具合はどうですか?」
つい二時間ほど前にもらった電話の時と同じ事を訊かれて、瞳子はくすくすと笑った。
「大丈夫です。ちゃんと食事もしました」
先手をとってそう言うと、祐貴はほっと吐息をついた。
夕食は私が用意するから……瞳子がそう言おうとした時――
「ごめんっ、とーこさんっ」
突然祐貴が謝った。
「俺、急に出張しなくちゃならなくなって……」
え……
瞳子は、祐貴の言った意味が、すぐには理解出来なかった。
「先輩が担当してる、地方のレストランの仕事なんだけど……今日から打ち合わせで出張する事になってたのに、先輩、インフルエンザで寝込んじゃって……」
インテリアの得意な先輩が担当しているのだが、祐貴がデザインしたロゴマークが採用になった事から、サブにつく事になった仕事であった。
先方も今日のために予定を組んで、設計士や建築会社とスケジュールを合わせていたためキャンセル出来なくて、先輩の代わりに祐貴が出張を言い渡されたのだった。
その事を説明しながら、祐貴の声がどんどん落ち込んで行くのが、瞳子にもわかった。
「とーこさんが大変な時に……」
祐貴の方が病人みたいな苦しげな呟きが胸を打つ。
「私は大丈夫。気にしないで」
「でもっ……心配です……。何日かかるかわからないし……」
瞳子は吐息を付いた。
「私のためにあなたの仕事に支障があるようでは、その方が申し訳なくて、返って具合が悪くなってしまうわ。心配しないで、いってらっしゃい」
「とーこさん……」
まるで駄々っ子だ。
瞳子はくすっと笑った。
「帰って来たら、今度はお礼に私が御飯を作ってあげる。だからしっかりお仕事、していらっしゃいね」
自分が言って驚くほど、優しい口調で告げた。
祐貴が息を呑むのがわかった。
「その代わり……時々電話をちょうだいね。退屈で、どうにかなってしまいそうだから……」
初めての、小さなわがまま――言えただけでも奇跡だと思った。
「俺、必ず電話します。頑張って仕事片付けて、出来るだけ早く帰りますから」
「ええ……気を付けていってらっしゃい」
受話器を下ろして、放心したように、瞳子は電話を見詰めていた。
やがて、のろのろとソファに腰を下ろし、抱えたクッションに顔を埋めた。
つづく
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