十人十色の恋愛模様

黒蓬

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雨音と約束の距離

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朝のホームルームが終わると同時に、教室の窓を激しい雨音が叩いた。まるで「外に出るな」と言わんばかりの勢いだ。

「今日も降ってるのか…」

窓際の席に座る僕、篠原直樹は、ため息混じりに呟いた。梅雨入り直後の六月、ここ一週間ほど雨が降り続いている。そろそろ日に当たりたいというのに、空は僕の気持ちを無視するかのように、灰色の雲で覆われていた。

教室内は放課後の喧騒で溢れている。部活に向かう者、昼寝を始める者、友達とおしゃべりに興じる者。そんな中、僕はいつものように一人、読書に没頭していた。

「篠原くん、あのさ…」

突然、声をかけられて顔を上げると、クラスメイトの佐々木美月が立っていた。短めのボブヘアに大きな瞳が特徴的な、クラスでも人気のある女子だ。普段はほとんど話さない相手。

「何?」

僕の素っ気ない返事に、彼女は少し困ったように眉を寄せた。

「図書室に行こうと思ってるんだけど、一緒に行かない?」

予想外の誘いに、僕は読んでいた本から目を離し、彼女をじっくり見た。図書室といえば僕の聖域。なぜ彼女が僕を誘うのか、理解できなかった。

「なんで?」

質問が素っ気なさすぎると思ったが、後の祭りだ。しかし、彼女は笑った。

「篠原くんって、いつも面白そうな本を読んでるから。私、最近読書を始めたんだけど、どんな本がいいのか分からなくて…アドバイスが欲しいなって」

彼女の瞳が真剣さを湛えていた。嘘を言っているようには見えない。僕は少し考えてから、重い腰を上げた。

「分かった。行こうか」

彼女の顔がパッと明るくなった。

「ありがとう!」

廊下は意外と人が少なかった。雨音だけが二人の間を埋める。なぜか緊張感があった。

「篠原くんは、どんな本が好きなの?」

沈黙を破ったのは美月だった。

「ファンタジーかな。あとはミステリー」

「へぇ!私もファンタジー好きかも。でも、読んだことあるのは『ハリー・ポッター』くらいなんだよね」

「定番だね。でも、入門書としては悪くない」

会話が続くことに少し驚きながら、図書室へと向かう。

図書室のドアを開けると、静寂と本の匂いが二人を迎えた。いつも通りの光景に、少しだけ安心する。しかし、いつもと違うのは隣を歩く佐々木美月の存在だった。

「わぁ、こんなに本があるんだ…」

彼女は目を輝かせて、書架を見回している。その表情は、まるで宝物を見つけた子供のようだ。

「普段、図書室には来ないの?」

「うん。なんとなく入りづらくて…」

照れたように頬を赤らめる彼女を見て、僕は不思議な感覚に襲われた。クラスでは常に友達に囲まれ、明るく振る舞う佐々木美月。そんな彼女が図書室を「入りづらい」と感じているなんて、意外だった。

「どんな本が読みたい?」

「うーん…」

彼女は首を傾げて考え込む。その仕草が、どこか愛らしい。

「恋愛小説とか…いいかな」

「恋愛小説?」

思わず聞き返してしまった。僕の中の佐々木美月像と、恋愛小説を読みたがる少女像が重ならなかったからだ。

「あ、変かな?」

「いや、変じゃないよ。ちょっと意外だっただけ」

彼女は照れたように笑った。

「実は、友達には言えないんだけど…恋愛小説、好きなんだ」

その「友達には言えない」という言葉に、僕は何か特別なものを感じた。佐々木美月の知らない一面を、僕だけが知ったような気がした。

「恋愛小説なら、この辺りにあるよ」

僕は彼女を連れて、書架の一角へ向かった。そこには、様々な恋愛小説が並んでいる。

「わぁ、すごい。篠原くん、詳しいんだね」

「まあ、よくここに来るから」

彼女は真剣な眼差しで本棚を見つめていた。その横顔に、僕は少し見とれてしまう。普段のクラスでは見られない表情だった。

「あ、これなんかどう?」

僕は手に取った本を彼女に差し出した。村上春樹の『ノルウェイの森』だ。

「これ、有名だよね。読んでみたかったんだ!」

彼女は目を輝かせて本を受け取った。その指が僕の指に触れた瞬間、小さな電流が走ったような気がした。

「あとは、これもいいかも」

次に僕が選んだのは、『バナナ剥きには最適の日々』。文学的な要素と恋愛が絶妙に絡み合う小説だ。

「二冊も?大丈夫かな…読めるか心配」

「無理しなくていいよ。一冊から始めてみれば」

「でも、篠原くんのおすすめなら、両方読んでみたい」

彼女の言葉に、胸の奥がほんのり暖かくなった。

二人は本を借りて、図書室を後にした。廊下に出ると、まだ雨は降り続いていた。窓ガラスを伝う雨粒が、不思議な模様を描いている。

「ねえ、篠原くん」

突然、彼女が立ち止まった。

「何?」

「私、この本読み終わったら、また感想を聞いてもらってもいい?」

予想外の申し出に、僕は少し戸惑った。しかし、彼女の真剣な表情を見て、断る理由は見つからなかった。

「いいよ。感想、聞かせてくれ」

「約束だよ!」

彼女は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔が、僕の心に静かに染み込んでいく。

それから一週間、雨は降り続き、僕と美月は毎日図書室で顔を合わせるようになった。最初は本の話だけだったが、次第に学校の話、友達の話、家族の話…と会話は広がっていった。

「篠原くんって、なんで一人でいることが多いの?」

ある日、彼女がぽつりと聞いてきた。

「別に理由はないよ。一人が気楽だから」

「寂しくないの?」

「寂しいと感じたことはないかな」

僕の答えに、彼女は少し不満そうな顔をした。

「でも人と話すのって楽しいよ。こうして篠原くんと話してるの、私、すごく楽しい」

率直な言葉に、僕は何と返していいか分からなかった。ただ、心臓の鼓動が少しだけ速くなるのを感じた。

「…そう」

「もう!そっけないなぁ」

彼女はふくれっ面をした後、くすくすと笑った。その笑い声が、図書室の静寂に溶け込んでいく。

「私ね、篠原くんと話すの、好きになっちゃった」

突然の告白に、僕は本を読む手を止めた。

「え?」

「だから、これからもっと話したいな。篠原くんのこと、もっと知りたい」

彼女の言葉に、僕の心は混乱していた。好きになったというのは、どういう意味だろう?友達として?それとも…

「ぼ、僕も…話すの、悪くないかな」

言葉につまる僕に、彼女は優しく微笑んだ。

「良かった。これからも一緒に本、読もうね」

そう言って、彼女は自分の本に目を戻した。僕も本を開いたが、文字が目に入ってこない。隣に座る彼女の存在が、妙に気になって仕方がなかった。

梅雨が明けた七月の初め、図書室の窓からは久しぶりの青空が見えた。まぶしいほどの晴天だ。

「わぁ、やっと晴れたね!」

美月は窓際に立ち、空を見上げていた。陽光に照らされた彼女の横顔が、まるで絵画のように美しい。

「そうだね」

僕も窓の外を見た。雨に洗われた世界は、一段と鮮やかに見える。

「篠原くん、あのね…」

彼女は少し緊張した様子で、僕の方を向いた。

「明日、一緒に街に行かない?本屋さんに行きたいんだけど…」

学校以外で会うという提案に、僕の心臓が跳ね上がった。

「本屋…か」

「う、嫌なら無理しなくていいよ!」

彼女は慌てて言った。その慌てぶりが可愛らしくて、僕は思わず笑ってしまう。

「行くよ。僕も本屋、好きだし」

「ほんと?やった!」

彼女の顔が喜びで輝いた。そんな彼女を見て、僕も自然と笑顔になった。

翌日、駅前で待ち合わせた僕たちは、大型書店へと向かった。休日の彼女は、いつもの制服姿とは違い、淡いピンクのワンピース姿。その姿に、僕は少し動揺してしまう。

「どうしたの?」

「いや、なんでもない」

彼女に視線をそらされないように、僕は懸命に平静を装った。

本屋では、二人で様々な棚を巡った。僕の好きなファンタジー小説、美月の好きな恋愛小説…互いの好みを知るたびに、少しずつ距離が縮まっていくような気がした。

「あ、これ素敵!」

美月が手に取ったのは、『雨の日の約束』というタイトルの小説だった。表紙には、雨の中で傘を差す少年少女の後ろ姿が描かれている。

「なんだか私たちみたいじゃない?」

彼女の言葉に、僕は少し照れた。確かに、雨の日に始まった二人の関係…どこか似ているかもしれない。

「買ってみれば?」

「うん!」

本屋を出た後、二人はカフェに入った。窓際の席で、美月は早速新しい本を開いている。その姿を見て、僕は不思議な感覚に包まれた。

かつて一人だった図書室の時間。今は彼女と共有する大切な時間になっていた。読書という共通点から始まった関係が、いつの間にか特別なものに変わりつつある。

「ねえ、篠原くん」

彼女が本から顔を上げた。その瞳には、何か決意のようなものが見えた。

「実は、私…」

彼女の言葉が途切れたとき、店内のスピーカーから音楽が流れ始めた。穏やかなピアノの旋律。

「なんだか素敵な曲だね」

美月は言葉を変えた。そして、少し照れながら続けた。

「この曲みたいに…私たちの関係も、ずっと続いていくといいな」

その言葉に、僕の心は大きく揺れた。彼女の本当に言いたかったことは、もしかして…

「美月」

初めて彼女の名前を呼んだ。彼女は少し驚いたように目を丸くした。

「ありがとう」

「え?なんで急に?」

「僕に図書室への扉を開いてくれたから」

彼女は優しく微笑んだ。

「違うよ。扉を開けたのは篠原くん自身だよ。私はただ…隣にいただけ」

彼女の言葉に、僕は胸が熱くなるのを感じた。確かに、変わったのは僕自身かもしれない。一人の世界に閉じこもっていた僕に、彼女は優しく手を差し伸べてくれた。

「これからも…隣にいてくれる?」

言葉に詰まりながらも、僕は勇気を出して尋ねた。彼女の瞳が優しく揺れる。

「もちろん。ずっと隣にいるよ、直樹くん」

初めて名前で呼ばれたことに、僕の心は躍った。カフェの窓から差し込む陽光が、二人の間に淡い光の橋を架ける。

十人十色の過ごし方があるように、十人十色の恋愛模様がある。僕と美月の恋愛模様は、雨の日の図書室から始まった。静かで、穏やかで、でも確かな温もりを感じる関係だ。そう思いながら、僕は彼女の笑顔を見つめていた。
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