1 / 37
序章
しおりを挟む
京師、清初のある年。
夜は墨を流したように濃く、宮城の暮れの鼓が遠くから響き、胸の奥を打つように重かった。
李守義は狭い一室に独り座し、机の上には数日かけて書き写した兵法や詩稿が散らばっていた。
彼は漢人の世家に生まれ、幼少より武芸を修め、詩文にも通じていた。十余年の
寒窓苦学と沙場での鍛錬……望むはただ、殿試で一挙に科第し、祖先に栄誉をもたらすこと。
だが結果は無情であった。名は落ち、さらに「権門の暗箱、売榜欺世(科挙の不正)」との噂が流れる。李守義の胸は冷え、まるで祖先が棺の中で長嘆する声を聞くかのようであった。
漢人武挙の身では、文武兼備であろうとも、所詮は添え物にすぎぬのだ。
荒涼たる思いが胸を覆い、耳には列祖列宗の哀しみの声が響く。
「忠勇の家風、百余年。われ一代にして宗廟に愧じるのみ……」
彼は立ち上がり、粗縄を梁に掛け、自らの手で固く結んだ。油灯の薄明かりの下、その影は長く伸び、まるで幾代もの祖霊が静かに見下ろしているかのようであった。
「もし来世あるならば、一片の天地を得て、この拳脚を存分に振るいたい。」
低く呟き、踏み台を蹴り倒した。
その刹那、大地は轟然と揺れた。梁は裂け、瓦は雨のごとく落ちる。京城はまるで地底の巨獣が身を翻すがごとく震え、屋宇は傾き、鼓声と轟鳴が重なり合い、世の終わりの咆哮と化した。
…
2015年、東京。
春の寒気が残り、風がホームの柵を「ガタン」と鳴らした。
高橋惠美は両膝を抱え、暗いホームの隅に身を縮めていた。
手の中のスマホが冷たい光を放ち、画面には絶え間なく文字が流れていく。
『怪物女』
『気持ち悪い』
『死ねよ、今すぐ消えろ』
――針のような言葉が、何度も、何度も、瞳に突き刺さる。
息は荒く、掌は冷たい汗で湿っていた。周囲には誰もいない。
聞こえるのは遠くの風音と、迫り来る電車の轟き。足下のコンクリートがかすかに震える。
ゆっくりと立ち上がる。足は鉛のように重い。
一歩。二歩。黄色い警戒線の方へ。
暗い照明に照らされたその線は、氷のように冷たく光っていた。
――その瞬間。
ホームが大きく揺れた。鉄路が轟き、灯りが揺らぐ。
惠美の身体は傾き、虚空へと踏み出しかける。
視界の最後に映ったのは、ひび割れた床と、指の間から滑り落ちるスマホの光。
黒い闇の中へ、ただ一つの灯りが落ちていった。
……
『これからは……よろしく頼む』
……
声は消え、天地は混沌へと沈む。
黒と白が入り混じり、砕け散った記憶が意識を襲う。
殿試の号角。教室の喧騒。スマホの青白い光。
――互いに属さぬ断片が次々と流れ込んでくる。
李守義の胸は押し潰され、呼吸は断たれそうになる。
次の瞬間、水中から跳ね上がるように、光が視界を貫いた。
激しい息苦しさに目を見開く。
そこは見慣れた斗室でも、京城の宮殿でもなかった。
あるのは刺すような白光。耳に残るのはレールの轟音と雑踏の声。鼻をつく焦げた電気の匂い。
彼は反射的に起き上がり、周囲を見回す。
人々が輪になり、自分を見下ろしている。囁き、叫び、戸惑い――そのすべてが奇妙な言葉で、しかし何故か理解できる。夢の中の幻音のように。
視線を落とした瞬間、心臓が凍りつく。
青布の衣ではない。短く軽薄な制服。
膝下に伸びるのは、細く白い少女の脚。
李守義の拳が震える。喉から迸ったのは咆哮。
「ここは何処だ!? 無礼を働くな!」
だが耳に響いたのは――澄んだ少女の声。
「……っ!」
自分の声に驚き、息が止まる。
人々の囁きはさらに大きくなる。
「やばい、様子がおかしいぞ」
「駅員を呼べ!」
冷たい視線。戸惑い。憐憫。
視界が白く染まり、後頭部から眩暈が込み上げる。
砕けた記憶が雪崩れ込み、己の記憶と混ざり合い、何が夢で何が現かも分からない。
よろめき、背を柱に預ける。
ふと、ガラスに映る影が目に入った。
そこにいたのは――細い眉、青ざめた顔、風に乱れた長い髪。
見知らぬ少女が、自分と同じ動きで目を見開いていた。
「……これは……」
喉が締め付けられ、言葉にならない。
麻縄、号角、宗廟の嘆き――すべてが砕け散り、その顔に飲み込まれていく。
震える指先。
その細い身体。その白い脚。
――今、確かに自分のものだった。
李守義はようやく悟る。
彼は、もう彼自身ではなかった。
後書き
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
作者の盛桃李(もり ももり)です。
私は日中ハーフで、今回が初めての日本語での小説創作となります。まだ表現にぎこちない部分や、不自然に感じられる言い回しもあるかと思いますが、どうか温かく見守っていただければ幸いです。
本作は、武人の魂と現代女子高生の生活が交錯する物語として、笑いと熱血、そして少しの涙を込めて執筆しました。日本の読者の皆さまに楽しんでいただけるよう、これからも表現を磨いてまいります。
最後まで読んでくださった皆さまに、心から感謝いたします。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
盛桃李
夜は墨を流したように濃く、宮城の暮れの鼓が遠くから響き、胸の奥を打つように重かった。
李守義は狭い一室に独り座し、机の上には数日かけて書き写した兵法や詩稿が散らばっていた。
彼は漢人の世家に生まれ、幼少より武芸を修め、詩文にも通じていた。十余年の
寒窓苦学と沙場での鍛錬……望むはただ、殿試で一挙に科第し、祖先に栄誉をもたらすこと。
だが結果は無情であった。名は落ち、さらに「権門の暗箱、売榜欺世(科挙の不正)」との噂が流れる。李守義の胸は冷え、まるで祖先が棺の中で長嘆する声を聞くかのようであった。
漢人武挙の身では、文武兼備であろうとも、所詮は添え物にすぎぬのだ。
荒涼たる思いが胸を覆い、耳には列祖列宗の哀しみの声が響く。
「忠勇の家風、百余年。われ一代にして宗廟に愧じるのみ……」
彼は立ち上がり、粗縄を梁に掛け、自らの手で固く結んだ。油灯の薄明かりの下、その影は長く伸び、まるで幾代もの祖霊が静かに見下ろしているかのようであった。
「もし来世あるならば、一片の天地を得て、この拳脚を存分に振るいたい。」
低く呟き、踏み台を蹴り倒した。
その刹那、大地は轟然と揺れた。梁は裂け、瓦は雨のごとく落ちる。京城はまるで地底の巨獣が身を翻すがごとく震え、屋宇は傾き、鼓声と轟鳴が重なり合い、世の終わりの咆哮と化した。
…
2015年、東京。
春の寒気が残り、風がホームの柵を「ガタン」と鳴らした。
高橋惠美は両膝を抱え、暗いホームの隅に身を縮めていた。
手の中のスマホが冷たい光を放ち、画面には絶え間なく文字が流れていく。
『怪物女』
『気持ち悪い』
『死ねよ、今すぐ消えろ』
――針のような言葉が、何度も、何度も、瞳に突き刺さる。
息は荒く、掌は冷たい汗で湿っていた。周囲には誰もいない。
聞こえるのは遠くの風音と、迫り来る電車の轟き。足下のコンクリートがかすかに震える。
ゆっくりと立ち上がる。足は鉛のように重い。
一歩。二歩。黄色い警戒線の方へ。
暗い照明に照らされたその線は、氷のように冷たく光っていた。
――その瞬間。
ホームが大きく揺れた。鉄路が轟き、灯りが揺らぐ。
惠美の身体は傾き、虚空へと踏み出しかける。
視界の最後に映ったのは、ひび割れた床と、指の間から滑り落ちるスマホの光。
黒い闇の中へ、ただ一つの灯りが落ちていった。
……
『これからは……よろしく頼む』
……
声は消え、天地は混沌へと沈む。
黒と白が入り混じり、砕け散った記憶が意識を襲う。
殿試の号角。教室の喧騒。スマホの青白い光。
――互いに属さぬ断片が次々と流れ込んでくる。
李守義の胸は押し潰され、呼吸は断たれそうになる。
次の瞬間、水中から跳ね上がるように、光が視界を貫いた。
激しい息苦しさに目を見開く。
そこは見慣れた斗室でも、京城の宮殿でもなかった。
あるのは刺すような白光。耳に残るのはレールの轟音と雑踏の声。鼻をつく焦げた電気の匂い。
彼は反射的に起き上がり、周囲を見回す。
人々が輪になり、自分を見下ろしている。囁き、叫び、戸惑い――そのすべてが奇妙な言葉で、しかし何故か理解できる。夢の中の幻音のように。
視線を落とした瞬間、心臓が凍りつく。
青布の衣ではない。短く軽薄な制服。
膝下に伸びるのは、細く白い少女の脚。
李守義の拳が震える。喉から迸ったのは咆哮。
「ここは何処だ!? 無礼を働くな!」
だが耳に響いたのは――澄んだ少女の声。
「……っ!」
自分の声に驚き、息が止まる。
人々の囁きはさらに大きくなる。
「やばい、様子がおかしいぞ」
「駅員を呼べ!」
冷たい視線。戸惑い。憐憫。
視界が白く染まり、後頭部から眩暈が込み上げる。
砕けた記憶が雪崩れ込み、己の記憶と混ざり合い、何が夢で何が現かも分からない。
よろめき、背を柱に預ける。
ふと、ガラスに映る影が目に入った。
そこにいたのは――細い眉、青ざめた顔、風に乱れた長い髪。
見知らぬ少女が、自分と同じ動きで目を見開いていた。
「……これは……」
喉が締め付けられ、言葉にならない。
麻縄、号角、宗廟の嘆き――すべてが砕け散り、その顔に飲み込まれていく。
震える指先。
その細い身体。その白い脚。
――今、確かに自分のものだった。
李守義はようやく悟る。
彼は、もう彼自身ではなかった。
後書き
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
作者の盛桃李(もり ももり)です。
私は日中ハーフで、今回が初めての日本語での小説創作となります。まだ表現にぎこちない部分や、不自然に感じられる言い回しもあるかと思いますが、どうか温かく見守っていただければ幸いです。
本作は、武人の魂と現代女子高生の生活が交錯する物語として、笑いと熱血、そして少しの涙を込めて執筆しました。日本の読者の皆さまに楽しんでいただけるよう、これからも表現を磨いてまいります。
最後まで読んでくださった皆さまに、心から感謝いたします。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
盛桃李
2
あなたにおすすめの小説
異世界転生した女子高校生は辺境伯令嬢になりましたが
初
ファンタジー
車に轢かれそうだった少女を庇って死んだ女性主人公、優華は異世界の辺境伯の三女、ミュカナとして転生する。ミュカナはこのスキルや魔法、剣のありふれた異世界で多くの仲間と出会う。そんなミュカナの異世界生活はどうなるのか。
最強令嬢とは、1%のひらめきと99%の努力である
megane-san
ファンタジー
私クロエは、生まれてすぐに傷を負った母に抱かれてブラウン辺境伯城に転移しましたが、母はそのまま亡くなり、辺境伯夫妻の養子として育てていただきました。3歳になる頃には闇と光魔法を発現し、さらに暗黒魔法と膨大な魔力まで持っている事が分かりました。そしてなんと私、前世の記憶まで思い出し、前世の知識で辺境伯領はかなり大儲けしてしまいました。私の力は陰謀を企てる者達に狙われましたが、必〇仕事人バリの方々のおかげで悪者は一層され、無事に修行を共にした兄弟子と婚姻することが出来ました。……が、なんと私、魔王に任命されてしまい……。そんな波乱万丈に日々を送る私のお話です。
第5皇子に転生した俺は前世の医学と知識や魔法を使い世界を変える。
黒ハット
ファンタジー
前世は予防医学の専門の医者が飛行機事故で結婚したばかりの妻と亡くなり異世界の帝国の皇帝の5番目の子供に転生する。子供の生存率50%という文明の遅れた世界に転生した主人公が前世の知識と魔法を使い乱世の世界を戦いながら前世の奥さんと巡り合い世界を変えて行く。
勇者の様子がおかしい
しばたろう
ファンタジー
勇者は、少しおかしい。
そう思ったのは、王宮で出会ったその日からだった。
神に選ばれ、魔王討伐の旅に出た勇者マルク。
線の細い優男で、実力は確かだが、人と距離を取り、馴れ合いを嫌う奇妙な男。
だが、ある夜。
仲間のひとりは、決定的な違和感に気づいてしまう。
――勇者は、男ではなかった。
女であることを隠し、勇者として剣を振るうマルク。
そして、その秘密を知りながら「知らないふり」を選んだ仲間。
正体を隠す者と、真実を抱え込む者。
交わらぬはずの想いを抱えたまま、旅は続いていく。
これは、
「勇者であること」と
「自分であること」のあいだで揺れる物語。
醜悪令息レオンの婚約
オータム
ファンタジー
醜悪な外見ゆえに誰からも恐れられ、避けられてきたレオン。
ある日、彼は自分が前世で遊んでいたシミュレーションRPGの世界に転生しており、
しかも“破滅が確定している悪役令嬢の弟”として生きていることに気付く。
このままでは、姉が理不尽な運命に呑まれてしまう。
怪しまれ、言葉を信じてもらえなくとも、レオンはただ一人、未来を変えるために立ち上がる――。
※「小説家になろう」「カクヨム」にも投稿しています。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
追放された味噌カス第7王子の異種族たちと,のんびり辺境地開発
ハーフのクロエ
ファンタジー
アテナ王国の末っ子の第7王子に産まれたルーファスは魔力が0で無能者と言われ、大陸の妖精族や亜人やモンスターの多い大陸から離れた無人島に追放される。だが前世は万能スキル持ちで魔王を倒し英雄と呼ばれていたのを隠し生まれ変わってスローライフを送る為に無能者を装っていたのだ。そんなルーファスはスローライフを送るつもりが、無人島には人間族以外の種族の独自に進化した先住民がおり、周りの人たちが勝手に動いて気が付けば豊かで平和な強国を起こしていく物語です。
出来損ない貴族の三男は、謎スキル【サブスク】で世界最強へと成り上がる〜今日も僕は、無能を演じながら能力を徴収する〜
シマセイ
ファンタジー
実力至上主義の貴族家に転生したものの、何の才能も持たない三男のルキウスは、「出来損ない」として優秀な兄たちから虐げられる日々を送っていた。
起死回生を願った五歳の「スキルの儀」で彼が授かったのは、【サブスクリプション】という誰も聞いたことのない謎のスキル。
その結果、彼の立場はさらに悪化。完全な「クズ」の烙印を押され、家族から存在しない者として扱われるようになってしまう。
絶望の淵で彼に寄り添うのは、心優しき専属メイドただ一人。
役立たずと蔑まれたこの謎のスキルが、やがて少年の運命を、そして世界を静かに揺るがしていくことを、まだ誰も知らない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる