武徳JK ~山川異域、風月同天!

盛桃李もりももり

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序章

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  京師けいし清初しんしょのある年。

 夜は墨を流したように濃く、宮城の暮れの鼓が遠くから響き、胸の奥を打つように重かった。
 李守義りしゅぎは狭い一室に独り座し、机の上には数日かけて書き写した兵法へいほう詩稿しこうが散らばっていた。

 彼は漢人の世家に生まれ、幼少より武芸を修め、詩文にも通じていた。十余年の
 寒窓苦学かんそうくがく沙場さじょうでの鍛錬……望むはただ、殿試でんしで一挙に科第かていし、祖先に栄誉をもたらすこと。

 だが結果は無情であった。名は落ち、さらに「権門けんもん暗箱あんばく売榜欺世ばいぼうぎせい(科挙の不正)」との噂が流れる。李守義りしゅぎの胸は冷え、まるで祖先が棺の中で長嘆する声を聞くかのようであった。
 漢人武挙かんじんぶきょの身では、文武兼備ぶんぶけんびであろうとも、所詮は添え物にすぎぬのだ。

 荒涼たる思いが胸を覆い、耳には列祖列宗れっそれっそうの哀しみの声が響く。
忠勇ちゅうゆう家風かふう百余年ひゃくよねん。われ一代にして宗廟そうびょうじるのみ……」

 彼は立ち上がり、粗縄あらなわはりに掛け、自らの手で固く結んだ。油灯ゆとうの薄明かりの下、その影は長く伸び、まるで幾代いくよもの祖霊それいが静かに見下ろしているかのようであった。

「もし来世あるならば、一片の天地てんちを得て、この拳脚けんきゃくを存分に振るいたい。」
 低く呟き、踏み台を蹴り倒した。

 その刹那せつな、大地は轟然ごうぜんと揺れた。梁は裂け、かわらは雨のごとく落ちる。京城けいじょうはまるで地底の巨獣が身を翻すがごとく震え、屋宇おくうは傾き、鼓声こせい轟鳴ごうめいが重なり合い、世の終わりの咆哮と化した。
 
 …

 2015年、東京。

 春の寒気が残り、風がホームの柵を「ガタン」と鳴らした。

 高橋惠美たかはしめぐみは両膝を抱え、暗いホームの隅に身を縮めていた。
 手の中のスマホが冷たい光を放ち、画面には絶え間なく文字が流れていく。


 『怪物女』

 『気持ち悪い』

 『死ねよ、今すぐ消えろ』

 ――針のような言葉が、何度も、何度も、瞳に突き刺さる。

 息は荒く、掌は冷たい汗で湿っていた。周囲には誰もいない。
 聞こえるのは遠くの風音と、迫り来る電車の轟き。足下のコンクリートがかすかに震える。

 ゆっくりと立ち上がる。足は鉛のように重い。
 一歩。二歩。黄色い警戒線の方へ。
 暗い照明に照らされたその線は、氷のように冷たく光っていた。

 ――その瞬間。

 ホームが大きく揺れた。鉄路が轟き、灯りが揺らぐ。
 惠美の身体は傾き、虚空こくうへと踏み出しかける。

 視界の最後に映ったのは、ひび割れた床と、指の間から滑り落ちるスマホの光。
 黒い闇の中へ、ただ一つの灯りが落ちていった。

 ……

『これからは……よろしく頼む』

 ……

 声は消え、天地は混沌こんとんへと沈む。
 黒と白が入り混じり、砕け散った記憶が意識を襲う。
 殿試でんし号角ごうかく。教室の喧騒けんそう。スマホの青白い光。
 ――互いに属さぬ断片だんぺんが次々と流れ込んでくる。

 李守義りしゅぎの胸は押し潰され、呼吸は断たれそうになる。
 次の瞬間、水中から跳ね上がるように、光が視界を貫いた。

 激しい息苦しさに目を見開く。

 そこは見慣れた斗室としつでも、京城けいじょう宮殿きゅうでんでもなかった。
 あるのは刺すような白光。耳に残るのはレールの轟音ごうおん雑踏ざっとうの声。鼻をつく焦げた電気の匂い。

 彼は反射的に起き上がり、周囲を見回す。
 人々が輪になり、自分を見下ろしている。囁き、叫び、戸惑い――そのすべてが奇妙な言葉で、しかし何故か理解できる。夢の中の幻音げんおんのように。

 視線を落とした瞬間、心臓が凍りつく。
 青布せいふの衣ではない。短く軽薄な制服。
 膝下に伸びるのは、細く白い少女の脚。

 李守義りしゅぎの拳が震える。喉から迸ったのは咆哮。

「ここは何処だ!? 無礼を働くな!」

 だが耳に響いたのは――澄んだ少女の声。

「……っ!」
 自分の声に驚き、息が止まる。

 人々の囁きはさらに大きくなる。
「やばい、様子がおかしいぞ」

「駅員を呼べ!」
 冷たい視線。戸惑い。憐憫。

 視界が白く染まり、後頭部から眩暈が込み上げる。
 砕けた記憶が雪崩れ込み、おのれの記憶と混ざり合い、何が夢で何が現かも分からない。

 よろめき、背を柱に預ける。

 ふと、ガラスに映る影が目に入った。

 そこにいたのは――細い眉、青ざめた顔、風に乱れた長い髪。
 見知らぬ少女が、自分と同じ動きで目を見開いていた。

「……これは……」

 喉が締め付けられ、言葉にならない。
 麻縄あさなわ号角ごうかく宗廟そうびょうの嘆き――すべてが砕け散り、その顔に飲み込まれていく。

 震える指先。
 その細い身体。その白い脚。

 ――今、確かに自分のものだった。

 李守義はようやく悟る。

 彼は、もう彼自身ではなかった。


 後書き

 ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
 作者の盛桃李(もり ももり)です。

 私は日中ハーフで、今回が初めての日本語での小説創作となります。まだ表現にぎこちない部分や、不自然に感じられる言い回しもあるかと思いますが、どうか温かく見守っていただければ幸いです。

 本作は、武人の魂と現代女子高生の生活が交錯する物語として、笑いと熱血、そして少しの涙を込めて執筆しました。日本の読者の皆さまに楽しんでいただけるよう、これからも表現を磨いてまいります。

 最後まで読んでくださった皆さまに、心から感謝いたします。
 これからもどうぞよろしくお願いいたします。

 盛桃李
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