この感情を何て呼ぼうか

逢坂美穂

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5.Next day. -翌日-

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 ずっとずっと一緒に居た。

 暗い所と高い所が苦手で、男らしくない外見が大嫌いで、さらに泣き虫の自分が大嫌いだった。そんなガキだった頃から、俺の傍らには莉依子が居た。
 寝つきが悪かった俺が、そのぬくもりと一緒に布団に入るとあっという間に眠りに落ちた。

『龍とりいこちゃんは仲良しね。兄妹みたい』
『そろそろりいこちゃんの方がお姉さんになるかな?』

 年月を重ねていく中、周囲の大人たちがそんな風に言っていたのを覚えている。誰もかれも俺と莉依子を交互に見遣っては微笑ましそうに目を細めていた。

 ……莉依子、という漢字を当てて呼んでいたのは俺だけだ。

『僕の名前には漢字があるから、りいこにもつけてあげるね』

 小学校高学年に差し掛かった頃だった覚えがある。きっかけは忘れたけれど、図書カードか何かで国語辞典を手に入れた時だ。
 知らない言葉や漢字を知ることが楽しくて、あらゆるものに漢字を当てていた。

 その中のひとつが、莉依子だ。

 由来なんてとうに忘れた。多分当時家にあったジャスミンからとったものだろう。
 目を開けてベルトの端をつまみ、目の前に垂らしてみる。

 ——RIIKO KUZUMI——

 迷子になった時のためと印字された文字が、もう掠れてしまってよく見えない。
 それは同時に、莉依子がずっと首にしていたという証でもある。
 常に身につける首輪に刻印する印字も漢字にしてほしいと親にせがんだけれど、苦笑気味に断られた。
 なんでだよケチだとか言いまくった覚えがある。今なら予想できる。おそらく単純に、漢字の印字が不可だったのだろう。
 だから本当に俺だけが漢字をつけて呼んでいたし、書いていた。

 フルネーム、久住莉依子。 
 ……俺がガキだった頃から傍に居た、猫の名前。

 雑種で毛が短くて、全体的に茶色の猫。
 身体の所々に黒の縦じまが走っていたけど、その中でも特に耳と耳の間に3本の太い縦縞が面白くて、まだ飼いはじめたばかりの頃しょっちゅうそこをつつこうとしては莉依子に威嚇されたのを覚えている。
 足先だけ靴下をはいているように白い毛が混じっているのも、特徴だった。 

 3日間一緒に過ごした莉依子は、本当に俺の知る莉依子だったのだろうか。
 そもそもどうして俺は莉依子の事を『隣に住む幼馴染』だなんて思い込んでいたのだろう。
 駅で会った莉依子を見た時、太陽を見てしまったように目をすがめた事は覚えている。太陽なんて出ていなかったのに、眩しいものを見たような感覚。
 次の瞬間には『なんでここに居るんだ』と、ごく普通に迎える心情になっていた。

 全てが仕組まれていたと言われたらそれまでだ。
 誰に、なんて考えるのはよそう。
 第一、 猫が人間になって一緒に暮らしていただなんて理解できるわけがないし誰も信じない。
 大学の連中の誰かが同じことを言い出したりしたら、頭がおかしいとしか思えないだろう。俺だって未だに信じられない。信じる方が無理だ。
 でも考えたって仕方がない。現実はこれだ。
 親指と人差し指でつまんだベルト———莉依子の首輪をプラプラ揺らすと、陽の光が当たり金具がキラリと光った。眩しさに顔を顰め、思わず視線を逸らす。

「ん?」

 ソファに横になったことで、視線が普段より低い。逸らした目線が、テーブルの裏側でぴたりと止まった。

「……何だ?」

 這うようにテーブルの下へと腕を伸ばし、セロハンテープでくっつけられていたそれを剥がす。改めてソファに座り直すと、カサ 、という乾いた音と共にゆっくりと開いた。
 そこに書かれた文字に目を走らせる。

「………」

 そりゃ頭のどこかで予想はしていた。
 俺は部屋を綺麗にしている方だと思う。掃除もわりとマメにこなしている。だから間違いなく、この間まではこんなもんはなかったはずだ。
 あいつが去った後、こんな風に、まるで隠すようにあるのはあいつからの何かだって、頭ではわかっていたけど。

「……勘弁してくれよ、マジで…」

 呟いたところで受け止める人間は、この部屋に誰も居ない。



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