この感情を何て呼ぼうか

逢坂美穂

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5.Next day. -翌日-

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「まだ帰ってねーの?」
『え?』
「こっちにはもういねーから帰ったんだろうと思ったんだけど。始発で出たのか?あいつ……それにしては時間かかりすぎだよな」
『龍』
「でもまぁもうすぐ帰ると思うよ。おばさんにもそう言って安心させてやったら」
『ちょっと待って。ねえ龍、さっきから何言ってるの?』
「は?」
『母さんはりいこちゃんの話をしてるのよ』
「わかってるよ。だから莉依子が……」

 ———莉依子が、何だ?

 眉間に皺が寄っていく。
 積もった違和感。何かがおかしいという予感。

『そもそもおばさんって誰よ。ウチのりいこちゃんの事よ』

 ———ウチの、莉依子?

 弾かれるように、テーブルに置いた小さな革製のベルトを見つめた。

「莉依子……」
『そうよ。少し前から居なくなっちゃって、あんたにも伝えておかなきゃって思ったんだけど全然電話出ないから……忙しい中何度も連絡して悪かったとも思ってるけど』
「……や、いい……俺も出れなくて悪かったし……」

 母親に応えながらも俺は気が遠くなりそうになっていく。

 俺の中の小さな違和感。全てが合致した。いや、合致じゃない。全部思い出した。

 そうだ。そうだったんだ。
 昨日莉依子の頬に手を触れて、何かがおかしいと思ったのは。おかしいと思いながらもどうしようもない程の懐かしさを覚えたのは。 
 ……呆れるくらいに莉依子が言葉やものを知らなかったのは。

 目を伏せて、小さく深呼吸をして息を整える。
 電話の向こうに居る母親はおそらく泣くのを我慢しているのだろう。合間合間に何かを堪える気配が伝わってくる。

『龍?ねえ聞こえてる?』
「……ごめん何でもない、莉依子がどうしたの」
『……あのね、……りいこちゃんが……』

 嗚咽に交じり消え入りそうなその言葉を、俺は静かに受け取った。
 終電までには帰るからと告げて電話を切る。テーブルにスマホを置くと同時に、ソレをつまみ上げてソファへ仰向けに寝転んだ。

 隣のおばさん、なんて居ない。
 俺に年下の幼馴染なんて居ない。
 隣に住む莉依子という幼馴染は、居ない。

 何がどうしてそうなったのか、俺には分からない。現実にこんなことがあり得るのか、正直信じられない部分も否めない。けれど。

「……証拠、があっちゃなぁ。信じるしかねーよな……」

 手のひらにすっぽり収まってしまうソレを握りしめ、俺はもう1度瞼を伏せた。

 夢で見た幼い俺が持っていた、ひらひらと揺れるモノ。
 長方形の紙。
 あれは七夕の短冊だ。1枚は幼稚園のクラスの皆で書いて、残った短冊は持ち帰ってもいいと先生が言った。家族のみなさんと一緒に書いて飾るのも素敵だねという、まぁよくある話だ。

 だから俺は真っ先に見せたいと思ったんだ。あいつは何て書くだろうと、今思い返せば子供らしい考えで。

 ………だって、あいつは短冊に願いごとなんて書けない。


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