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第七話
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男の名は、施安(しあん)といった。白藍の世話係の一人で、いつも生真面目に働いている童顔の若者である。興行が終わり、たまたま同じ店に行くと言うので、二人で少し離れた仕立て屋へ行こうと誘った。
「高延亮殿がお亡くなりになられて、白藍殿は少し変りました。ぼうっと空を眺めている時間が、多くなったように思います」
「そうか」
「自分がこうして生きていられるのは、本当に奇跡に近いことだとも仰られて。やはり、身内の死を肌で感じると、どうも考えさせられてしまうのですね」
それは、自分も同じだった。人が、死ぬ。まるでただの『もの』としか思えなかった高延亮の死体が、時々生々しく脳内に甦ってくることがある。あれが死なのかと思うと、いつもぞくりとした。
「……あ」
妓楼の前に、何故か人集りが出来ていた。女が大半で、何かを嬉嬉として話している声がざわざわと聞こえてくる。
「ほら、例の文官が妓楼に入っていったようです。今日は見つかるかなあ」
施安が言う。俺は少し立ち止まって、その人集りをしばらく見つめていた。
「……例の、文官?」
「たまに、興行を見物していく美男子ですよ。田旭という」
「あれか」
「あれとは、また失礼な物言いを……」
「しかし、妓楼とはな。科挙に通った男でも、やはり好色なのか」
施安が、少し笑った。それから首を振って、
「彪林殿は、あの男について何も知らないのですね」
と言った。べつに知りたいとは思わなかったが、施安が知っているということに俺はちょっと驚いた。
「……何が?」
「あの男は、女を抱く為に妓楼に入っている訳ではないのですよ。探している女がいるのです」
「嫁探しか?」
「いえ。詳しいことは俺も知りませんが、その女の名前は確か……練、と言ったでしょうか」
練。聞いたことはなかった。急に、関心が高まってくる。
「それで、妓楼に?」
「はい。開封府中の妓楼を巡り歩いて、中にいる女ひとりひとりの顔を眺めては、お前は練ではない、違う、お前も違う……を繰り返しているのだそうです」
「暇人だな。文官のくせに」
「それは、確かにそうですね」
「そこまでして、探す女なのか。よほどの美女なのだろう」
「他にもいろいろな噂が立っていますが、真偽はわかりません。でも、その練という人を代わりに探し出して、褒美を貰おうとしている人までいるみたいですよ」
「ふうん」
それ以上眺めている理由もなかったので、俺と施安はその場から立ち去った。女たちは皆、自分が『練』であることを夢見ているのだろうか、とふと思った。
*
帰ってきて、度肝を抜かれた。厳つい顔をした五、六人ほどの男たちが、拠点の前でなにやら喚いていたからだ。
「ふん。証拠もないくせに。さっさとここから出ていかねえのなら、俺らが無理やりにでも追い出してやろうか」
一人の男が、そう言って腕をまくし上げる。その前に、扈珀が冷静な表情を崩さずに突っ立っていた。
「お引き取り下さい。私たち一座は、断じて潔白であります」
「さっきからそれしか言えないのか、愚図め。ぼったくり商売にも程があるわ。まずなあ、見物料が高えんだよ。一回の見物料が」
「それは、興行をご覧になって感心された方のみから頂く、ということになっておりますので。お気に召さなかったのでしたら、払わなくても結構です」
「なんだ、その物言いは」
顔の赤黒くなった男が、鼻息を荒くする。何があったのかは知らないが、俺と施安は恐ろしくて、なかなかそこに近づけずにいた。
「扈珀様」
ふと、拠点の中から使用人がひとり、小走りで出てきた。使用人が扈珀に何かを耳打ちすると、手に持っていた小袋のようなものを扈珀に手渡した。
「……」
扈珀が、眉間に皺を寄せている。
「……これで、お引き取り願えますか」
手にしていた小袋を、男の前に差し出す。銀だ、と分かった。男はそれをひったくると、顔に卑しい笑みを浮かべながら去っていった。
「うわあ。あれが狙いだったんですよ、最初から。腹が立つなあ」
施安が言う。前に来た時は、こんなことはなかったはずだった。扈珀は、いかにも不機嫌そうに拠点の中に戻っていく。
「最近、人気が出てきましたもんねえ。龍翠殿が、あんな化粧をするようになってからでしょうか。客が増えるのはいいことですが、その分人の妬みも強くなってくるんですかね」
言った施安の表情は、複雑そうだった。龍翠、か。あいつが来てから、やはり変わっていったものがある。でも、それについて考えると怖くなってくるので、あまり考えないようにしていた。余計なことは、考えない。俺はただ、以前のように客の前で犬芸をしていればいいのだ。それで、いいではないか。龍翠に抱いた思いも、もういい加減忘れてしまいたかった。
*
「また、いなかった」
部屋に入り、腰を下ろして出てくるのはため息ばかりだった。机の上に山積みになっている、大量の書類に目をやる。練を探すために文官になったのに、これじゃあ書類のことばかりで練を忘れていく一方だ。……忘れていく、か。思って、自分で自分をわらった。忘れられるわけがない。一生。床にも散らばっている書類を、俺は拾って集めた。
「練」
声に出して、呼んでみる。あの無邪気な笑顔が、頭にぼんやりと浮かんできた。この世のものとは思えないほどに、愛くるしい顔立ち。今じゃきっと、どれだけの美女になっているだろうか。それが、妓楼で男の慰みものになっていると考えると、はらわたが煮えくり返るような思いに駆られる。もう、ほとんどの妓楼は見て回った。もしかすると、既に他の男に買われているのか、それとも……。
考えたく、なかった。でも、会いたかった。自分のすべては、練だと言ってよかった。このまま、探し求めた末に自分も果ててしまうのか。やはり、怖くなってくる。名前を、変えているかもしれない。だから、ひとりひとりの顔を眺めてまで調べているのだ。田旭という名も、開封府にいればいずれは耳に届いてくるはず。それでも向こうから現われないのは、何か理由があるに違いなかった。
「だとしたら、必ず俺が」
見つけるよ、と言う前に、眠気が襲ってくる。結局書類には手をつけないまま、俺はそのまま床に寝転がった。
「国を去って 三巴遠し、
楼に登る 万里の春、
心を傷ましむ 江上の客、
是れ故郷の──」
「……故郷の」
ふと、あの……旅芸人の、化け物の歌声が聴こえてきたような気がした。嫌悪しているはずなのに、何故か心を奪われそうになる歌声。
……心、を? ……なるものか。奪われて、なるものか。あの、化け物ごときに。
「故郷の、人ならず」
俺の心は、ずっと昔から、練のものなのだ。
「高延亮殿がお亡くなりになられて、白藍殿は少し変りました。ぼうっと空を眺めている時間が、多くなったように思います」
「そうか」
「自分がこうして生きていられるのは、本当に奇跡に近いことだとも仰られて。やはり、身内の死を肌で感じると、どうも考えさせられてしまうのですね」
それは、自分も同じだった。人が、死ぬ。まるでただの『もの』としか思えなかった高延亮の死体が、時々生々しく脳内に甦ってくることがある。あれが死なのかと思うと、いつもぞくりとした。
「……あ」
妓楼の前に、何故か人集りが出来ていた。女が大半で、何かを嬉嬉として話している声がざわざわと聞こえてくる。
「ほら、例の文官が妓楼に入っていったようです。今日は見つかるかなあ」
施安が言う。俺は少し立ち止まって、その人集りをしばらく見つめていた。
「……例の、文官?」
「たまに、興行を見物していく美男子ですよ。田旭という」
「あれか」
「あれとは、また失礼な物言いを……」
「しかし、妓楼とはな。科挙に通った男でも、やはり好色なのか」
施安が、少し笑った。それから首を振って、
「彪林殿は、あの男について何も知らないのですね」
と言った。べつに知りたいとは思わなかったが、施安が知っているということに俺はちょっと驚いた。
「……何が?」
「あの男は、女を抱く為に妓楼に入っている訳ではないのですよ。探している女がいるのです」
「嫁探しか?」
「いえ。詳しいことは俺も知りませんが、その女の名前は確か……練、と言ったでしょうか」
練。聞いたことはなかった。急に、関心が高まってくる。
「それで、妓楼に?」
「はい。開封府中の妓楼を巡り歩いて、中にいる女ひとりひとりの顔を眺めては、お前は練ではない、違う、お前も違う……を繰り返しているのだそうです」
「暇人だな。文官のくせに」
「それは、確かにそうですね」
「そこまでして、探す女なのか。よほどの美女なのだろう」
「他にもいろいろな噂が立っていますが、真偽はわかりません。でも、その練という人を代わりに探し出して、褒美を貰おうとしている人までいるみたいですよ」
「ふうん」
それ以上眺めている理由もなかったので、俺と施安はその場から立ち去った。女たちは皆、自分が『練』であることを夢見ているのだろうか、とふと思った。
*
帰ってきて、度肝を抜かれた。厳つい顔をした五、六人ほどの男たちが、拠点の前でなにやら喚いていたからだ。
「ふん。証拠もないくせに。さっさとここから出ていかねえのなら、俺らが無理やりにでも追い出してやろうか」
一人の男が、そう言って腕をまくし上げる。その前に、扈珀が冷静な表情を崩さずに突っ立っていた。
「お引き取り下さい。私たち一座は、断じて潔白であります」
「さっきからそれしか言えないのか、愚図め。ぼったくり商売にも程があるわ。まずなあ、見物料が高えんだよ。一回の見物料が」
「それは、興行をご覧になって感心された方のみから頂く、ということになっておりますので。お気に召さなかったのでしたら、払わなくても結構です」
「なんだ、その物言いは」
顔の赤黒くなった男が、鼻息を荒くする。何があったのかは知らないが、俺と施安は恐ろしくて、なかなかそこに近づけずにいた。
「扈珀様」
ふと、拠点の中から使用人がひとり、小走りで出てきた。使用人が扈珀に何かを耳打ちすると、手に持っていた小袋のようなものを扈珀に手渡した。
「……」
扈珀が、眉間に皺を寄せている。
「……これで、お引き取り願えますか」
手にしていた小袋を、男の前に差し出す。銀だ、と分かった。男はそれをひったくると、顔に卑しい笑みを浮かべながら去っていった。
「うわあ。あれが狙いだったんですよ、最初から。腹が立つなあ」
施安が言う。前に来た時は、こんなことはなかったはずだった。扈珀は、いかにも不機嫌そうに拠点の中に戻っていく。
「最近、人気が出てきましたもんねえ。龍翠殿が、あんな化粧をするようになってからでしょうか。客が増えるのはいいことですが、その分人の妬みも強くなってくるんですかね」
言った施安の表情は、複雑そうだった。龍翠、か。あいつが来てから、やはり変わっていったものがある。でも、それについて考えると怖くなってくるので、あまり考えないようにしていた。余計なことは、考えない。俺はただ、以前のように客の前で犬芸をしていればいいのだ。それで、いいではないか。龍翠に抱いた思いも、もういい加減忘れてしまいたかった。
*
「また、いなかった」
部屋に入り、腰を下ろして出てくるのはため息ばかりだった。机の上に山積みになっている、大量の書類に目をやる。練を探すために文官になったのに、これじゃあ書類のことばかりで練を忘れていく一方だ。……忘れていく、か。思って、自分で自分をわらった。忘れられるわけがない。一生。床にも散らばっている書類を、俺は拾って集めた。
「練」
声に出して、呼んでみる。あの無邪気な笑顔が、頭にぼんやりと浮かんできた。この世のものとは思えないほどに、愛くるしい顔立ち。今じゃきっと、どれだけの美女になっているだろうか。それが、妓楼で男の慰みものになっていると考えると、はらわたが煮えくり返るような思いに駆られる。もう、ほとんどの妓楼は見て回った。もしかすると、既に他の男に買われているのか、それとも……。
考えたく、なかった。でも、会いたかった。自分のすべては、練だと言ってよかった。このまま、探し求めた末に自分も果ててしまうのか。やはり、怖くなってくる。名前を、変えているかもしれない。だから、ひとりひとりの顔を眺めてまで調べているのだ。田旭という名も、開封府にいればいずれは耳に届いてくるはず。それでも向こうから現われないのは、何か理由があるに違いなかった。
「だとしたら、必ず俺が」
見つけるよ、と言う前に、眠気が襲ってくる。結局書類には手をつけないまま、俺はそのまま床に寝転がった。
「国を去って 三巴遠し、
楼に登る 万里の春、
心を傷ましむ 江上の客、
是れ故郷の──」
「……故郷の」
ふと、あの……旅芸人の、化け物の歌声が聴こえてきたような気がした。嫌悪しているはずなのに、何故か心を奪われそうになる歌声。
……心、を? ……なるものか。奪われて、なるものか。あの、化け物ごときに。
「故郷の、人ならず」
俺の心は、ずっと昔から、練のものなのだ。
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