紅の呪い師

Ryuren

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第十四話

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「柊麗という山へ、行きたいのです」
 荷馬車を引いている男が、顔を顰めた。しばらくして、そんな名前は聞いた事がないと首を振る。私は、地図に描かれた場所を指さし、男に見せた。
「……げえっ。こんな遠いとこへ行くのか、お嬢さん」
「通り道では、ないのですか?」
「途中まではな。ただ、そっからが問題だ。お嬢さんが一人で歩いて行くのは、まず無理だろう。見てみろ、柊麗って山の近くに集落があるだろう。そこに行くまでが大変なのが、わかるか」 
 改めて、地図をよく見る。確かに、柊麗の近くには村があった。しかしこの荷車と別れる場所からそこに行くまでは、かなりの距離がある。そのかなりの距離──の間に、村という村も見つからなかった。
「どうしても、行くのか?」
「……はい。どうしても。たとえ途中で、果てたとしても」
 男がじっ、と私の目を見つめる。しばしの、沈黙。それから、男は俺の隣に乗れ、と合図した。ありがとうございます、と頭を下げて、私は荷車の前に乗った。馬に鞭を入れると、荷車はゆっくりと動き出した。
「いくつだ、お嬢さん」
「十二です」
「十二、だと?」
「はい」
「にしては、大人だなあ。俺はてっきり、十五くらいだと思ってたよ。どっちにしろ、その年頃で旅なんて……何か、理由があるのかい」
「両親が、病で死にました。遺書に、親戚の家に行け、と。その親戚が、柊麗というところにいるらしいのです」
 言うと、男は少し黙ったようだった。そのあとで、男が
「……そうか。身寄りがなくなったんだな、すまねえことを聞いた」
 と言った。
「べつに、いいです」
「──まあでも、妓楼に売られるよりましだと思うぜ。お嬢さん、なかなかの別嬪だ。好きな男と結婚して、幸せになるんだな」
 口の中で、はい、とだけ喋る。流れていく景色を、ただただ見つめた。乱暴に揺れる荷車の乗り心地が、今の私にはちょうどよかった。



三日かかって、ようやく例の分かれ道にたどり着いた。いろいろよくしてくれたお礼を、と私は銭を渡そうとしたが、男はそれを受け取らなかった。
「ほんとは、目的の場所まで送ってやりたかったが。まあ、願うなら、また会えたらいいな。いつかその、柊麗ってとこにも行くかもしれねえし」
 男が、そう言ってちょっと顔を赤らめる。私も微笑んで、深々と頭を下げた。祖母が死んでから、初めて笑った、と思った。

 踵を返し、地図を改めて見直す。何も考えることはなかった。ただ、進むべき方向に足を出すだけだ。ここからが、本番。宿を取ってくれる人も、ご飯を奢ってくれる人もいない。    疲れは、不思議と感じなかった。先程より狭く荒れかかった道を、私は歩く。歩いた。歩く、だけだった。歩いて、時々側の木の下に腰を下ろす。びっくりした。疲れなど全く感じていなかったくせに、一度座り込んでしまうとなかなか立ち上がれなくなったのだ。自分は今、どれくらい歩いたのだろう。距離はわからなかった。日の位置で、なんとなく時間はわかる。腹が減ったと思った頃に、買い溜めしていた饅頭を少しずつ食べた。それから、荷車の男に貰った干し肉。水は、少し道を逸れて湧き水のようなものを探したりしながら、なんとか補給した。呪いを使えば、道に迷うこともなかった。

 何日、そうして歩き続けていただろうか。ただ、赫連定という名だけを頭に。

 とうとう……疲労感に耐えきれずに、私は道の真ん中にうずくまった。ずしり、と体が重くなるような感覚。頭が、くらくらした。もう、──少しだけ、いいかな。そのまま、寝転がろうとしていた……時、だった。

「にん、げん」

 声が、聞こえた。薄ら、私は目を開ける。
「……」
「にん、げん……」
 お化けだ、と思った。何が何だかわからないまま、私はその顔をまじまじと眺める。結わずに腰まで長く垂らした、艶やかな黒髪。白すぎるほどに白い肌に、不思議な色をした眼──灰色、だろうか。青にも、見えなくもない。
「てい」
「てい……?」
 お化けが、顔を顰めた。次の瞬間、腕をものすごい力で掴まれる。
「い、痛い!」
「て、い」 
 無理やり、立ち上がらせられた。その時、ようやくその──お化けが、私と同じくらいの背の高さであることに気付いた。
「……何を、言っているの。君は」
 不思議と、怖くはなかった。ただ、何か違和感を覚えて仕方がない。確かに顔をよく見ると、私と同い歳……という気がする。でも、少年か少女なのかが、わからなかった。やはり物の怪の類かもしれない。

 いつの間にか、疲れなど忘れていた。

 お化けが、腕を引っ張ってくる。歩け、と言っているようだった。
「まって……」
 その方向は、違う。道から外れて、お化けは山道へと入って行った。山道。不思議だ。けもの道のように目立たないが、そこには確かに『道』があった。
「ねえ、わたしは、赫連定という人に会わなければいけないの。離して」
 なんとか、抗おうとする。しかし、お化けは構わずにぐいぐいと進んでいった。速い。それはいかにも慣れたような足取りで、私はそれについて行くのにとにかく必死だった。いや、ついて行ってはいけないのだ。それでも、足が言うことを聞かない。お化けの黒髪が、龍のように風に靡いた。

 半ば気を失いながら、ただ腕を引かれるままに進む。時々、転がっている木の根や石に躓きそうになる。人間の体力のほどを知らない、さすがは物の怪だ。もう、そんなことも考えられなくなってきた。息が切れて、そろそろ限界に達しそうな──そんな、時だった。

 お化けが、急に足取りを緩めた。はっとして、顔を上げる。
 目の前に、一軒家が見えた。まさか。幻か。目を、疑う。確かに、人の姿が見えるのだ。こんな、山奥に。お化けが、腕を離す。同時に人が、軽やかな足取りで私に近づいてきた。

「よく来たね。さすがは小娥の孫だ」

 背の高い、男が言った。声が、この世のものとは思えないほどに美しい。顔中を覆った白い布から、薄紅の唇だけがちらりと覗いている。その唇が、くいと吊り上った。

「赫連定という」

 赫連、定。その言葉を聞いた瞬間、足から力が抜けた。頽れたのだと思う、次の瞬間、地面の硬い感触を全身で感じた。衝撃だけが、遅れて体内に響いてきた。


 
「喬、もっとゆっくり歩かせてやればよかったのに。ただでさえ、練は疲れていたんだ」
 遠くに、そんな声が聞えてくる。そっと、目を開いた。柔らかい寝台と、布団。寝かされているのだ、と気づいた。
「おや」
 男──赫連定が、私の顔を覗きこんで笑った。相変わらず白い布を頭から被っているが、唇だけしか見えなかった顔が、今度は薄い色の瞳まで見える。肌も、あのお化けと変わらないくらい白い、と私は思った。
「粥を作ってあるよ。起き上がれそうな時に、起き上がってごらん。喬が持ってくるから」
「きょう……?」
「君をここに連れてきた、あれのことだよ」
  赫連定が、寝台に腰掛ける。この人を見ていると、私はどっちがお化けでどっちが人間かわからなくなってきた。もしかしたらどっちも人間で、あるいはどっちもお化けなのかもしれない。
「安心しなさい。僕は人間だ、それから喬も……多分、ね」
 どきり、とした。心を読まれているのか、と一瞬だけ不安になる。
「多分……?」
「僕にも、あれについてはよくわからない。未ださ。まあ、わからなくてもいいという気がするよ。人間でも化け物でも、僕にとってはどちらでもいいんだ」
 何を言っているのだ、この人はと思う。粥の匂いが漂ってくるのと同時に、あのお化け──喬が、椀を持って近づいてきた。
「てい」
「ああ、ありがとう。そこに置いといてくれないか」
 赫連定がそう言うと、喬は椀を近くの台の上に置いた。それから、ちょっとだけ私を眺めて、去っていった。
「あの。てい、ってなんですか」
 私が言ったのを聞いて、赫連定はそっと微笑む。
「僕の名さ。喬が話せるのは、『人間』と『定』と……それから、少しの言葉だけなんだ。新たに、『練』と覚えさせなくちゃならないね」
「なぜ、わたしの名を知っているのですか?」
 赫連定が、しばらくの間黙り込む。
「あとでゆっくり話してあげるよ。疲れを取る呪いをかけておいたから、もう少ししたら粥を食べなさい。そうだな……もう、そのまま寝てしまっても構わないよ。もうじき日も暮れるし」
 喬、と赫連定は呼んだ。とてとて、と音がして、喬が走ってくる。
「この子は練。今日からここで、一緒に暮らすんだ」
「……?」
「練」
「れ、ん……?」
 少しずつでいいよ、と赫連定が笑う。喬が私の顔を、深く覗き込んだ。黒髪がぱさり、と私の肩に落ちてくる。
「にんげん?」
「僕と同じさ」
「……にんげん、いや」
──急にいや、と言われたので、私はびっくりした。赫連定も戸惑って、薄い色の顔に苦笑いを浮かべる。
「じゃあ、僕も嫌なのかい?」
喬が顔を顰めて、薄ら首を振った。不意に、眠気が襲ってくる。もうどうでもいいから、私は早く寝たかった。
「れん、いや!」
喬の、叫び声。じゃあなんで私を連れてきたんだ、と思う。これからの行く末を心配しながら、私はそっと目を閉じた。
「でも、君は喜んで練を迎えに行ったじゃないか」
「いや、いや!」 
眠ろうとした。無理に。──喬の走り回る音がなり止むうちに、意識が少しずつ遠ざかっていく。粥の匂いも、だんだんと薄れてきた。



 結局、次の日の朝になった。疲労感は、嘘のようにすっかり消えて無くなっていた。いくらか軽い足取りで、私は寝台を下りる。
「おはよう、気分はいいみたいだね。昨日の粥を温め直すから、少し待ってて」
 赫連定の姿を見て、私は改めて今の自分の居場所を理解する。そうか、来てしまったんだった。開封から離れて、こんな遠いところまで。些か、不思議な気分に包まれる。
「……喬が、起きてこないね」
 赫連定が、何やら独り言を言っている。

「僕が、あんなこと言ったからかなあ」
  粥を食べていると、目の前で赫連定がそう言った。
「あんなこと?」
「最初に君を迎えに行ってくれと頼むと、喬はものすごく嫌がったんだ。相手が人間だ、という理由で。でも、ご褒美に飴をあげると言ったら、喜んで出ていったんだよ」
「……それが、なぜ」
「まさか、君と一緒に暮らすことになるなんて思わなかったんだろう。連れてきて、ちょっと面倒見て、すぐに帰るくらいならいいや……って思ってたんじゃないかな」
「ああ……」
「まあ、慣れるまでよろしく頼むよ」
 粥の味は、まあまあだった。家の中を見る限り、質素ではあるがとても山の中の暮らしとは思えない。近くの村までそれほど遠くないのだろうか、と私は思う。

 喬が、人間を嫌う理由。気になりはしたが、あえて聞かないでおこう、と思った。
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