紅の呪い師

Ryuren

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第三十一話

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 紅成様は、驚くほどに賢かった。呪いは使えないものの、さすが書物を読み込んでいるだけあって、考えが次から次へと浮かんでくるのだ。大きなものを大胆に使うより、小さな呪いを複合しながら使う。それをすることによって、多少は安全になる。そう言いながら、紙面に何かを懸命に書き込んでいる紅成様は、どこか生き生きとしていた。
「まずは、父上と扈珀の観察をしなくちゃならない。どの時間帯に自室にいて、いつ出ていって、いつ寝つくのか。そういうこと、俺でさえよく知らないんだからな。確実に寝ついている間に潜入しなければ、危ない」
「……かなり、時間がかかりそうですね」
「お前の、呪いの腕にもよるだろう。鄭義が言うなら、まあ本当に良いんだろうが」
「それで、どんな呪いを使うと……?」
 聞くと、紅成様は呪いの本を取り出して、頁を捲りはじめた。
「できる限り安全な方法でいくなら、この呪いとこの呪いを合わせて、『監視』の目を作る。これで、二人の行動を調べるんだ。……あ、事前に二人の部屋に侵入しておいて、枕にも呪いを仕込んでおこう。深く眠れる呪いを、だ。それから、音を少量に抑えるために、この呪いとこの呪いを……」
 赫連先生のもとで修行をしなかったら、確実にわからなかっただろうな、と私は思った。ただでさえ目が回りそうになるが、理解できないこともない。ただ、呪いの模様が少々、複雑すぎる。
「紅成様。この『昏睡』の呪い、私も過去に学んだことがあります。でも、この本に載っている模様とはちょっと違って……もっと、単純なものでした」
「そうなのか?」
 そこで、私は赫連先生の話を思い出した。
「ええ。呪いの内容は同じでも、模様は地域によって異なる場合もある。そう教わりました。ここは、私が知っているものを使った方が良いかもしれません」
「お前、一体誰にそんなこと……」
「赫連定という、腕のいい呪い師のもとで、三年ほど修行をしたことがあるのです」
 言いながら、ふと懐かしくなる。が、振りきった。懐かしさ、愛しさ、切なさ。そんなものは、捨ててしまった方がいいのだ。
「……俺は、お前が羨ましいよ。龍翠」
 紅成様が、寂しそうに言う。私は、黙り込んだ。紅成様に、私の苦しみはわからない。けれど、私にも紅成様の苦しみはわからない。羨ましいなどと思っても、無駄だと思った。
「今日は、ここまでにしよう」
 本が、そっと閉じられる。私は、自分の頬に静かに手をやった。
「紅成様。私、頬に刺青を入れようと思うのです」
 紅成様が、顔をあげる。
「刺青?」
「はい。心が、乱れてしまわないように」
「でも、刺青って痛いんだろ?」
「痛みなど、耐えればどうにでもなります」
「強いな、お前」
 そんなことは、ない。強くなんか、けしてないのだ。ただでさえ、兄者や彪林殿のことで心が乱れそうになっているのだから。そんなものに心を動かされていながら、強いなどとはとても言えない。が、口には出さなかった。
「そろそろ、稽古に戻ります」
 言って、私はそっと紅成様の部屋を出ていった。



 準備は、着々と進められていった。捕まえた鼠に呪いをかけ、その鼠を紅隆と扈珀の部屋に放し、また回収する。鼠の見た世界を、また呪いを使って覗く。鼠の見た世界は曖昧で、なにがなんだかよくわからなかったが、とりあえず二人の就寝と起床の時刻は知ることができた。二、三日同じように試して見ても、やはり時刻は決まっていた。これを元に、安全な侵入の時間を割り出す。
「しかし、あんな高度な呪い、お前はよく平然とやってのけるな」
 紅成様が、感心したように言う。
「修行を、積みましたので」
「父上と扈珀がお前のことを知ったら、欲しがらずにはいられないだろうな。お前の父親が、呪い師だったんだっけ?」
「はい」
「どうして父上は、その父親が死んだあと、お前をすぐにわがものにしておかなかったんだろう。それが不思議だな」
「鄭義殿は、もう呪いに関心を失ったのではないか、と言っておられました」
「本当かな」
「さあ」
 紅隆の、心の内を直接覗く。そんなことが出来たら、どんなに楽だろうかと思う。しかし、そんな呪いは今までに見たことがないので、どうしようもなかった。こうなったら、極限まで紅隆を追い詰めて、無理に語らせる。一瞬だけ考えたが、そのことについては後まわしにしようと思いなおした。
「明日の夜、実行しよう。いよいよだ」 
 


 鄭義殿に計画の一部始終を話すと、俺が見張りに部屋の外に立っていよう、と言った。地下に入るのは、私と紅成様だけ、ということだった。
「鄭義……やっぱりどうしても、ついて来れないのか?」
「なんだ、こわいのか」
「べつに」
「何かあったら、そこの呪い師を盾にすればどうにでもなるだろう」
 鄭義殿が、私を見て笑う。笑っていい、ところなのだろうか。眉間に皺を寄せていると、鄭義殿が懐から何かを取り出して、私に差し出してきた。
「これは?」
「鍵だ。おそらく、地下への扉の」
「こんなもの、誰が……」
「例の、地下の在り処を聞き出したやつ」
「その話、あとでしてくれよな」
「無事に、帰ってこられたらな」
「やめろよ。そういうこと言うの」
 不安を煽るようなことを言って、実は安心させているのかもしれない。紅成様の表情も、いくらか柔らかくなっている。
「そうだ。それから、どうせ地下に入るなら、銀も盗んでこい。ついでだ」
「はあ?」
「あとで役に立つだろうからな。頑張れよ」
「……」
  頑張れよ、ということばは、それほど役にも立たない。そういうものなのだろう、となんとなく思った。



 夜になった。普段は派手に結い上げられている紅成様の髪も、別人かと疑うほどに簡潔にまとめられていた。その姿がなんだかおかしくて、思わず笑ってしまう。
「笑うな、緊張感のないやつめ」
「すみません」
「……早く、行くぞ」
 蝋燭に火を灯し、灯りを作った。もう、皆が寝静まる時刻だ。白藍殿だけは、たまに夜遅くまで起きていることがあるので、油断はならない。静まり返った廊下を、私は歩いた。
 紅隆様の、部屋の前に立つ。少しの間立ち止まって、紅成様と顔を見合わせる。呼吸の音さえも低めながら、戸をそっと開けた。
 部屋は、広い。奥の方に、紅隆様が横たわっていた。呪いのせいか、まるで死んでいるようにも見える。紅成様の表情が、これでもかというほどに固まっていた。
 じわじわと、胸中に広がる嘔気を、私は辛うじて堪えていた。今なら、殺せる。……違う。今は、まだ、その時ではないのだ。
「ここの壁だよな」
 震えたようなささやき声で、紅成様が壁に触れる。注意深く、私も触れて確かめてみた。……が、隠し扉のようなものは、見つからない。
「……なぜ……」
 焦った。胸の高鳴りが、強くなってくる。堪えきれない様子で、一旦出よう、と紅成様は言った。急いで、私は一度部屋を出る。外にいた鄭義殿が、若干驚いたような顔をした。
「どうした?」
「扉が、ありませんでした」
「まさか」
「わかりません。でも……」
 紅成様が、息を荒らげながら言う。
「扈珀の部屋も、一応見てみようと思う」
「……はい」
 鄭義殿は、微かに頷いただけだった。一度深呼吸をして、私は扈珀の部屋に入る。部屋はやはり広かったが、書類のようなものがたくさん散らばっていて、あまり綺麗とは言えなかった。
「──」
 息が、詰まった。扈珀が、机の上にうつ伏せになって寝ていたのだ。昏睡の呪いをかけたのは、枕である。それに気づいた紅成様が、凍りついたような表情をする。
 ふと、壁に手を置いた。みし、と軋む音がして、私は跳ね上がった。その辺りを、手で探って確かめる。確かに、違和感がある。よく見てみると、壁の一部に小さな長方形が刻まれているのに気づいた。その部分を、でたらめに手で押した。端の方を押した時に、片方の端から取手のようなものが出てきた。紅成様と、顔を見合わせる。迷った。引いて、中に入るべきか。が、決心した。好奇心に、抗えなかった。戸惑った様子の紅成様をよそに、私は取手を引いた。壁の一部が、動き出す。
 戸の向こう側は、闇だった。

 急いで中に入って、戸を閉める。かなり狭かったが、地面には古い木の板のようなものがついていた。鍵穴も見える。地下と言うのは、きっとここだろう。
「紅成様」
 慌てて、紅成様が鄭義殿から貰った鍵を取り出す。しゃがみこみ、鍵穴に鍵をさそうとするも、手の震えでなかなか入らない。私が代わって、鍵を開けた。重い木の板を、ゆっくり持ち上げる。
 石づくりの階段が、下へと伸びていた。
「龍翠、行くのか。俺、いやだ。吐き気がしてきた」
 それは、自分も同じだった。恐怖……というか、この……胸の中が、ざわつく感じ。黒い影。怨念、だろうか。しかし、ここで立ち止まっては、何も進まない。私は、思いきって階段に足を踏み入れた。
 手にしていた蝋燭の炎が、不安げに揺れている。



「……広い……」
 紅成様が、震える声でそう呟いた。そうですね、と私は小さくそれに応える。何かを言わないと、不安で仕方がなかった。
 肌寒い。灯りをかかげ、周囲をよく見回す。棚のようなものが、いくつもあった。倉庫のようになっているのだろうか、と思う。
「ここを、もっと詳しく調べます。何か手がかりになるものを」
 言うと、紅成様は微かに頷いた。片っ端から、棚にあるものをひとつひとつ調べていく。意味のわからないものが、多かった。だが、どれも高価そうではある。旅芸人だ。各地で手に入れたものを、ここにまとめて貯蔵しているのかもしれない。
「何か、あったか?」
「……」
 できれば、書物のようなものが欲しかった。ここに、あまり長い時間いてはいけない。
「龍翠。銀があった」
「少し、頂いていきましょう」
「頂く……」
   紅成様が、懐に銀を少し入れる。しばらくの間、私は棚を漁っていた。が、それらしいものはなかなか見当たらない。
「ここは、あまりにも広すぎます。ものを漁ることは一旦諦めて、中の構造をよく見ておきましょう」
「何、ということは……」
「また明日、ここに来ます」
「えぇ」
 いかにも嫌そうな声を、紅成様が発した。構わずに、私は歩き出す。歩く度に、足音が周りに響き渡った。靴を持ってきておいてよかった、としみじみ思う。

 奥へ進むと、部屋がいくつかあった。鍵はない。恐る恐る、私はその戸を開ける。
「ここは……」
 一見、なにもなかった。いや、目を凝らしてみれば、たしかにそこには──何かが行われたようなあと、があった。
「待て、龍翠。俺、ここは嫌だ。帰りたい」
 紅成様が、しゃがみこむ。私も、限界に近かった。紅成様をおいて、私は部屋の中に入った。鉄格子などはないが、雰囲気は……牢屋だ、と思った。牢屋。中央に、高い寝台のようなものがある。養生所のようにも、見えなくもない。本当にそうだったら、どれだけましだろうと思う。
「ここで、一体何が……」
 ふと、振り返った。紅成様は、未だしゃがみこんで震えている。一旦、私は部屋を出た。こんどは、その隣の部屋に近づく。
「……うっ」
 嘔気が、込み上げてくる。黒い影が、強く反応をしたようだった。戸を、開けた。生々しい、嫌な空気だけが私の鼻を刺してきた。心臓が、破裂しそうなくらいに高鳴っていた。怖い。背筋に、冷たい汗が一筋流れた。
 思いきって、足を踏み入れる。寝台のようなものは、そこにはなかった。ただ、壁から垂れている鎖と鉄の輪が、なんとも言えない雰囲気を生み出していた。
「──そうか」
 地面に滲んだ、血の跡のようなものを見て、私は察した。なんとなく、だ。私は、急いで部屋を出て、紅成様の元へ行った。うずくまっている紅成様の肩を、強く掴んで揺さぶる。
「一度、出ましょう。早く」
 言うと、紅成様はふらふらと立ち上がって、頷いた。死んだ目をしている。よほどつらかったのだろう、と思う。私も、かなりつらかった。それでも、力を振り絞って階段を登った。鍵をかけ、またそっと扉を開ける。
 扈珀は、寝台に寝転がっていた。一度起きたのだと思うと、背筋がぞっとした。
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