紅の呪い師

Ryuren

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第三十九話

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 白藍は、とある富豪の商人のひとり娘だった。しかし、素行が悪いと近所では有名な女らしく、確かに言動から行動まで何もかもが荒かった。せっかくの美女なのに勿体ない、と思うほどだ。白藍は、自分の屋敷の近くで一座が興行をしているのを見ると、すぐに私のもとへ飛んできた。
「なああんた、あたしも仲間に入れてくれないか。あたしも、ああいうふうに芸をしてみたい」
 目を輝かせて、白藍がそう言ったのだ。その気迫に満ちた姿に、私は思わず腰が引けてしまう。あまり得意な類の女ではない、と感じた。
「名は。年齢は?」
「白藍。今年で十七だ」
 ここ最近でも稀に見る、美貌の持ち主だった。もしかすると、芸人と比べてもいちばんの美女かもしれない。だが、目の光が少々強すぎる。
「私は責任を取らん。紅隆様に聞け。それと、この一座は各地を旅をしながら芸をするのだ。やめない限り、ここには滅多に帰れないぞ」
「それでいい。家にいるのは、もう嫌なんだ。上品にしろだとか訳のわからないことは言われるし、興味のない男と結婚しろとは言われるし。自由に生きたいんだよ、あたしは」
 厄介な、お転婆娘か。むっとして、私は白藍を睨む。
「旅芸人になることが、お前の自由なのか?この一座は、そんな甘い所ではない」
「べつに、ちがう。そういう意味じゃない。あたしがやりたいと思ったことを、やる。それが自由なんだ。あたしは、芸人になって芸をしたい。だから」
「もういい。わかった」
 やはり、苦手な女だ。そう思いながら、私は紅隆を呼んだ。紅隆は、白藍の顔をしばらくの間眺めてから、屋敷の者に許可を取ってこいと言った。許可があれば入座を認めるということを知ると、白藍は嬉嬉として屋敷の方に駆けていった。

 ため息をついて、私は紅隆を見る。
「扈珀が苦手そうな類の女だな、あれは」
「どうして、わかるのです」
 紅隆は、何も言わなかった。ただ目を伏せて、くつくつという笑い声をあげただけだ。眉間に皺を寄せて、私は視線を紅隆から逸らした。
 正直にいえば、女という生き物自体、得意ではなかったりする。だからといって、どうというわけでもない。得意になる必要など、かけらもないのだ。紅隆がそこら辺をどう思っているのかは、いまいちよくわからなかった。




 ただのお転婆だと思っていた私の想像を、白藍は遥かに超えていた。噺家と歌うたいの師を一人ずつ付けたのだが、どちらもみるみる間に上達していったのだ。稽古は、とても厳しいものには見えなかった。師によれば、白藍は稽古をすることそのものを、心から楽しんでいるのだという。自分のやりたいことが、ようやく見つかった。楽しみながらやれば、自分でも驚くくらいに成長できるのだ。……そう、白藍は師に話したらしい。まあ、出来のいい芸人が増えることは、悪いことではなかった。悪いことではなかったが、ただ、やはり白藍は自分にとって少し苦手な女である。何か用事があってもなくても、ひとりで仕事をしている私に話しかけてくるのだ。正直、それが鬱陶しかった。私と話したところで、一体何の得があるというのだろうか。どんな意図があるのかは、全くわからなかった。

「扈珀、何してるの」
 今後の旅路をどうしようかと、地図を眺めていた時だった。白藍が肩に腕を回してきて、耳元でそう囁いた。生あたたかい吐息が吹きかかってくるのに、私は顔を顰めた。
「見ればわかるだろう」
「地図を、見てる」
「そうだ。邪魔するな、早く出ていけ」
「あ、ここがあたしの生まれたところだ。今いるのが、ここ? ずいぶん遠くまで、来たものだね」
「聞こえなかったか。出ていけ」
「いやだ」
 言って、白藍が含み笑いを洩らした。もう夜は更けているが、化粧はまだ落していないらしい。近くにある顔から、白粉の匂いが漂ってくる。あまり、好きな匂いではなかった。
「まだ、眠くないから」
「どうでもいい。私の仕事の、邪魔だけはするな」
「あたしのことなんか気にしないで、続けてよ」
「馬鹿をいえ。ほら、離れろ」
 この女と、長く話をしたくはない。しかし、どんなに素っ気ない返事をしても、きついことを言っても、白藍は自分から離れようとしないのである。幼い子どものする嫌がらせとしか、思えなかった。ふと、白藍が自分の目をじっと見つめてきた。地図が見えない、邪魔だと手で仕草をしたが、白藍はそれを無視した。
「──扈珀、似てる。水晶の目に」
「……何を」
 白藍が、呟くように言った。急に水晶の名が出てきたので、私は少し驚く。名だけでも嫌悪感を覚えるのに、似ているとまで言われたのだ。嫌な気分になった。
「目つきが、かな。周りのもののすべてを、じっと冷たい目で見るの。ねえ、もしかして血が繋がってたりしない?」
「しない。全くの他人だ」
「へえ。でも扈珀、紅隆様を見る時だけ、目の色が変わるよね。あの人のこと、ほんとに好きなんだね。いや、あの人のことだけが、ほんとに好きなんでしょう」
「もう、黙れ。怒るぞ」
「いいよ、怒って。あたしはそんなあんたの目が、好きだから。ちょっと紅隆様が羨ましい、って気もするけど」
 言葉の意味を考える前に、私は勢いよく白藍の体を跳ね除けていた。出ていけ、と今度は強めの口調で言う。しばらくの間、白藍の目をじっと睨んだ。諦めたのか、先に白藍の方が口角をくいと上げる。それから、颯爽と部屋を出ていってしまった。

「……ふん。厄介者めが」
 小声で、呟いた。わけがわからない。なぜか、心臓が高鳴っている。その理由も、考えたくなかった。白藍が消えた戸の向こう側を、私は暫しぼうっと見つめていた。

 はっとして、地図に目を戻す。無駄な時間を、過ごしてしまったものだ。そう、思うことにした。白藍のことも、すぐに頭から追い払った。
 白粉の匂いだけは、未だ鼻の奥に残ったままでいる。



 呪い師というものは、そう簡単に見つかるものではない。わかってはいたが、やはりここまで来ると紅隆も苛立ちはじめていた。その度に、紅隆は鄭義を呼び出して、訳のわからない説教をした。まだ少年である鄭義は、いかにもぼうっとした表情で、「はあ」だとか「そうですね」などという適当なことを返していた。それにまた紅隆が怒って、もっと真剣に探してこいと鄭義を外に放り出すのだった。まあ、無茶な話ではある。
 そんな理由で、水晶の呪いは慎重に試していかなければならなかった。水晶は、いつの間にか驚くほどに紅隆に従順になっていた。相変わらず目の色は暗いが、紅隆が水晶に何かしたのだろうか。何度か、紅隆の部屋から水晶の喘ぎ声が聞えてきたことはある。一応夫婦ではあるし、房事も人並みにはやっているようだ。呪い師の、子を産ませようとしているのかもしれない。しかし、水晶に懐妊の様子は一向に見られなかった。それでも、紅隆は水晶を妻として見ているのか。なにも、わからなかった。

「扈珀。今年でお前は、いくつになるのだったかな」
 紅隆と、酌み交わしていた夜だった。時々、こうして二人で酔いつぶれるまで酒を飲む日がある。素っ気ないふりをしながら、実はひっそりと楽しみにしていたことだった。どんな人間をも惹きつけてしまう紅隆を、自分がひとりじめできるのだ。
「二十三……いや、二十四です。確か」
「頭脳明晰な男でも、自分の年齢は曖昧なのだな」
「自分のことなど、どうでもいいと思っていますから」
 言うと、紅隆が微かに笑った。私も笑い返して、紅隆の盃に酒を注ぐ。笑顔を、紅隆以外の人間に見せたことはない。
「二十四、か。俺はもう三十だが……扈珀、自分の残りの人生が、あとどれくらい長いと考えている?」
「長さ、ですか?」
「ああ、いや、長いか短いか、でいい」
 少しの間、私は考えた。二十四といえば、まだ若いと言えるのかもしれない。しかし、いつ死ぬかもわからないのだ。自分の、両親のように。ふとしたときに、死んでしまうこともある。
「わかりません。死など、いつ来てもおかしくないものです」
 素直に、そう答えた。紅隆がしばらくの間黙りこんだあと、酒を一口だけ飲む。
「だろうな」
「なぜ、そのようなことを?」
「……先が長いと思えば、呪い師を探すことも、急かす必要はないのかもしれないと思った」
「それは」
 何と返せばいいのか、わからなかった。確かに、自分たちは今急いている。しかし、結局急いてものんびりしても、変わらないとも考えられそうだった。
「どちらにせよ、同じことなのかもしれません。少しずつでも水晶の呪いを試していけば、もうじき殆どわかると思います。水晶が一体、どれほどの呪いを使えるのか」
「何が問題だと思う、扈珀。呪いの力は模様を描くことで解き放たれる。水晶は、限られた数の模様しか知らぬのだ」
「あ……」
 一昨日、もう覚えている分の呪いはほぼない、と水晶が訴えたのを思い出す。嘘という可能性もあるが、それでも今まである程度の呪いを試してきたのだ。水晶が持っている呪いの書物にも、大した呪いの模様は記されていなかった。この世に存在する呪いの数は、もっとあるかもしれない。それを知るためにも、やはり呪い師の数はもっと必要なのだ。
「たとえば、人殺しの呪いがあったりとかは、しないのだろうか」
「見たことがありませんね。あったとすれば、恐ろしいものです」
「人に関する呪いが、気になるな。記憶を消し去ったり、逆に違う記憶を植え付けたり。人を操ることだって、できるかもしれない」
「魅力的です。とても」
「いいか、扈珀。俺はそんな呪いそのものに興味があるのであって、たとえばそれを使って天下を取ろうとか、そういったことには何も関心がないのだ」
 紅潮した顔で、紅隆が言う。知っていますよ、と私は微笑んだ。そういう所が、好きなのだ。野望などではない。ただ、好奇心と探究心のみがあるだけだ。
「それから、自分が力を使ってみる感覚。これも気になる。いちばん、気になるかもしれない。さぞ、心地が良いのだろう」
「高度な呪いを使ったあとの父と母は、苦しそうでしたよ」
「わからぬぞ、それだけでは。自分の体で、経験してみなければ。なあ、お前も呪いの力が、欲しいと言っていたな」
「ええ。欲しいですよ」
 その理由が、どんなものだったかははっきりと思い出せない。それでも、ただ欲しいという思いは、やはり強かった。紅隆も、同じように思っている。それが何より、嬉しかった。
 同じ志を持っているのだと考えられるから、私は急いて取り乱すことがないのかもしれない。取り乱しそうになった時は、互いに宥めあいながら心を落ち着かせる。紅隆と私なら、それができるという気がしていた。

「白藍という娘は、どうなのだ?」
 紅隆が、急に話題を変えた。あまりにも予想外な内容で、私は思わずどきりとする。
「どうなのだ、とはどういう……」
「随分と、お前に懐いているようだが」
「そんなこと」
 ぐっ、と酒を飲み干す。いかにも不機嫌そうに、私は紅隆をじっと見た。紅隆は顔をにやつかせて、自分の盃に酒を注いでくる。
「可愛らしい娘ではないか」
「私は、苦手です。とんだ困者だと思います」
「そうか。しかし、頭でっかちで根暗なお前に近づく女など、白藍ぐらいのものだろう」
「さっきから、何が言いたいのですか」
 目の光を、強めた。紅隆が、またも笑う。翻弄されているような気がして、嫌な気分になった。
「妻にしてみないか、白藍を」
 全身が、硬直する。
「……妻、ですと……」
 紅隆が、今度は声をあげて笑った。もう、完全に反応を楽しんでいるとしか思えない。怒りのせいか、顔がこれでもかというくらいに熱くなっている。
「鈍いのだな、お前は」
「もう、やめてください。この話は」
「すまん、すまん。酒が回ってきた」
 結局、紅隆の話をひとつも理解できないまま、私はもう一度酒を一気に飲み干した。喉が焼けたような感覚のあとに、眠気が襲ってくる。今日もこれで終わりか、と私はぼんやりと考えていた。
「おい。俺より先に寝るのか、扈珀」
 紅隆の低い声が、心地よく耳に響いてくる。意識が、ふらりと飛んでいくような気がした。
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