紅の呪い師

Ryuren

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第四十七話

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「これを見よ、珀。見事な燕尾蝶《※アゲハ蝶》ではないか」
 暗闇の中で、水晶の、声がした。──何故、聞える? 何故、水晶が。
「見よ、と言っているだろう。目を開けろ」
  ……何故。飛び起きた。夢ではない。目の前に、水晶がいる。頭に血が上っていくような、感覚をおぼえはじめる。どうして、ここに居るのだ。わけがわからないまま、出ていけ、と私は怒鳴ろうとした。

 声が、出なかった。開いた戸から射し込む、僅かな朝日の光が水晶の青白い顔を照らした。立っている水晶は、見たことも無いような、藍色の美しい着物に身を包んでいる。
「何を……」
 黙って、水晶が両手を動かして見せた。着物の袖が、まるで花のようにさっと広がる。着物には、大きな燕尾蝶の刺繍が施されていた。陽の光を浴びて、まるで本物のように輝いている。
 ──見とれている、場合ではないのだ。
「出ていけ。ここで何をしている」
「紅隆様が私に与えてくださったのだ。生地も上質で良い」
「話を聞け」
 無理に追い出そう、と思った。しかし、水晶の体に触れたくはない。為す術もなく、私は水晶の目をじっと睨んでいた。
「誰が、仕立てたと思う」
「……知るものか」
「李玲玉」
 黙り込む。だから、なんだと言うのだ。お前は、一体何がしたいのだ。睨んでいる目の力を、強めた。
「こんな見事な着物を仕立てる女を、殺すというのか。少々惜しい気もする」
「殺すのは、お前だろう」
「私は、紅隆様の言ったことに従うのみだ」
「着物姿を自慢しに来ただけか、おい。早く出ていけ。何度も言わせるな」
 水晶が、笑った。懐から、何か紙のようなものを取り出して、自分に投げつけてくる。何か、用があって来てはいるらしい。
 黙って、そっと紙を開いた。

「これは……」
「白藍からの伝言だ」
 ──『私が私でなくなることを、どうか許してください』。震えたような文字で、そう記されてあった。唖然としながら、その文を眺める。
「わかるか。白藍が、もう我を保てずにいることを」
「何故……」
「お前のせいだ。幸せそうに暮らしている龍庸と李玲玉を、羨んで、妬んで、憎んで」
 顔を上げ、水晶の目をじっと見つめた。読めない。ただ不気味な光が、その目に湛えられているだけだ。
「愚か者め。自ら地獄を招こうとしているのだぞ、珀」
「私は、知らぬ」
「もうじき、知ることになるさ。既に、李玲玉には死の呪いを施している。子を産むとともに、李玲玉は死ぬのだ。龍庸の嘆き狂う様を、その目で見ているがいい。そして、また」
 水晶の口角が、上がる。
「お前は、ひとりになる」
「──やめろ」
 怒鳴った。水晶の体から、得体の知れないものが溢れ出ているような気がした。何か。何か、恐ろしいものが。自分の体を、恐怖が包み込んでいくかのようだった。
「水晶、お前は、白藍が好きなのだろう。なら、お前が白藍を慰めてやれよ。何故、壊れゆくあいつを放っておけるのだ」
「さあな。気づいてしまった、からかな」
「何を」
 水晶の瞳が、動いた。艶めかしく。かつ、泥のように。

「私は、お前が苦しみ、もがく様が見たいだけなのだ」

 息が、詰まった。背筋に、ぞわぞわと寒気のようなものが走っていく。水晶が、もう一歩近づいて、言った。
「白藍のことは、好きだったさ。でも、今はもうどうでもよくなった。私が、本当に興味があるのは」
「やめろ。貴様、私に復讐をしたいだけなのだな。そうだ。両親が死んで、私はお前を道具のようにこき使った。だから、なのだろう。だがお前は、幼かった私を──」
 水晶が、含み笑いを漏らした。思わず、言葉を失う。

「呪いの力と、己の欲しいものを、その手にしてみよ。珀」

 途端に、強烈な目眩が自分を襲った。ぐらり、と視界が歪む。輝いていた刺繍の燕尾蝶が、一瞬蠢いたように見えた。そのまま、見ているもののすべてが、暗闇へ溶けていく。
「なあ、珀よ」
 水晶の声だけが、今だ脳内に延々とこだましていた。水晶が見せたものでもいい。夢であることを、願っていた。

 燕尾蝶が、夢と現実の狭間を行き来している。



 何度目かの、朝がきた。龍庸の子が無事に産まれ、李玲玉は死んだ、という知らせが一番に入ってきた。無事に。何が、無事なのだろう。いまいち、よくわからなかった。

 李順が、龍庸の様子をしばらく監視しているのだという。辺りの家中に響き渡るくらい、龍庸は泣き叫んでいたらしい。いい方向に、進みつつありそうだった。同情の余地など、自分にはなかった。
 産まれたのは、娘なのだそうだ。呪いの力をちゃんと継いでいるか、鄭義に探らせようと考えていると、李順が血相を変えて私のもとへやってきた。
「鄭義が、いません」
 それは、と顔を顰めてみせる。内心、舌打ちをした。鄭義を失いたくはない。ちゃんと見張っておくべきだった、と後悔した。
「探せ。何としてでも、連れ戻してこい」
 李順が、走って拠点を出ていく。馬鹿な男めが、と思った。李玲玉が死んだという噂は、龍庸の泣き声せいであっという間に広がった。元同僚の身を思ってか、それに嘆き悲しむ芸人も多かった。興行は、やむを得ず中止した。

 白藍が、笑っていた。何も言わずに、ただ笑うだけだ。自室に閉じこもって、狂ったように笑っている。その声を聞いていると、自分までおかしくなっていくような気がした。
 ことは、上手く進んでいるのだ。それだけを、考えていればいい。考えて、いろ。耳を塞いで、私はそう何度も頭の中で繰り返した。
 自分の心が、麻痺していくまで。何度も、何度もそう繰り返した。



 龍庸が落ち着くまで、とりあえず様子を見よう、という話になっていた。娘の世話は、龍庸の母がやっているらしい。当の本人は、死んだようになりながらも酒浸りになっているのだという。もっと、溺れてしまえ。その方が、扱いやすいのだ。間違っても自害しないように、そこは見張っていなければならなかった。

三日後に、ぼろぼろになった鄭義が拠点に戻ってきた。連れてきた李順によれば、川のそばで身投げをしようとしていたところを、李順が引き留めようとして殴り合いになったらしい。鄭義の目は、虚ろだった。使用人を呼んで、すぐさま二人の手当をさせる。まったく、手の焼ける男たちだった。鄭義には、未だ李玲玉の死を単なる不運としか知らせていない。確実に、今は話すべき時ではないのだ。それくらいは、さすがの私にもわかる。
 鄭義から、目を離すな。李順には、そう伝えておいた。

「娘が、呪い師であることを願うのみだな」
 二人で酌み交わしていた、夜。紅隆が、酒を飲みながらそう言った。やはり、平静としている。これが正常な反応なのかもしれない、と思うことにした。
「鄭義の怪我が治ったら、すぐに向かわせます」
 鄭義について、紅隆は何も言わなかった。李玲玉に惚れていたことも、たぶん察していたのだろう。事実を知られたら、まずいという気もする。

「……紅隆様。本当にこの方法で良かったのだろうか、という気がしてしまうのです」
 思わず、口にしていた。自分でも驚いて、俯く。 
「今更、何を言うのだ」
「いえ……」
「嘆き悲しむ者たちに、情が移ったのか?」
「違います。はじめてのことで、混乱しているのです。嫌な気もするし」 
「それは、そうだろうな」
 紅隆は、逆になぜそこまで落ち着いていられるのか。聞こうと思ったが、やめにした。
「安心しろ。これで、いい。周りの者が、どのような変化を遂げたとしても。まだ、失敗に終わったというわけではない」
 顔を、上げた。自分には、そんな考え方はできない、と思った。
「無理に、俺のようにどっしり構えていろと言う気はないが」
 紅隆が、微かに笑う。その笑みを見ていると、なんとなく自分の中のわだかまりが薄れていくような──そんな、気がした。
 今日は、とりあえず忘れるまで飲む。それがいちばん、良いのかもしれなかった。



 鄭義が、娘は呪い師であるということを知らせに来た。それを聞いて、ひとまず安心する。龍庸は相変わらず酒に溺れていて、最近では博打や妓楼にも通いつめるようになったそうだ。誘惑の多い開封でそうなってしまうのは、少々危険すぎることだった。だが、今はそっちの方が都合がいい。鄭義をまた金貸しに扮させて、龍庸のもとへ銀を送り込んだ。ここ最近で、その額がかなり膨れ上がってきた。

 李玲玉のことは、災難だった。そう言って、鄭義の肩を叩いた。鄭義は俯いて、黙り込んだだけだった。

 女に狂った者は、やがて金と酒に溺れ、自分の身さえ滅ぼしてしまう。あれが愛だというのなら、愛とはなんと愚かしいものか、と考えた。龍庸を見ても、鄭義を見ても。そして、自分も。愚かしい。やはり、愚かしいものなのだ。快楽も熱情も、一瞬の瞬きにすぎない。自分とはもう二度と縁のないもの、と思い込みたかった。

 朝焼けの美しさように、それは一瞬なのである。永遠にしたいという欲望は、もう湧いてこなかった。



 とある、夜。生暖かい風の吹くような、そんな日だった。

「玲玉」
 声が、聞えた。嗄れた、醜い声音である。拠点の外から、それは徐々に近づいてきていた。紅隆が、まさか、と呟いた。緊張をおぼえて、私は動きを止める。
「白藍。待て」
 何を思ったか、ふらりと玄関に赴く白藍を、紅隆が止めた。聞きもせずに、白藍が外へ出ていく。声が、更に近づいてくる。
「玲玉」
 耳を割くような、叫び声。思わず、耳を塞ぎそうになった。声が、また大きくなる。途端に、がさり、という物音が響いた。

「紅隆様。この男、自ら首を打たれに来たようですわ」

 白藍の、声。男が、その足元に頽れるのが見えた。
 白藍が、甲高い声をあげて、わらっていた。
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