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第五十五話
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「紅隆様」
言って、早足で紅隆の前まで行く。紅隆が、驚いたように目を見開いた。合図も待たずに、私は床に座り込む。
「どうした」
「私に、すべてを話してください。何一つ、隠すことなく」
「はあ?」
紅隆が、顔を顰める。睨むようにして、私は紅隆の目を見た。しばらくの、沈黙。私の顔を眺めながら、紅隆が薄ら鼻で笑った。
「すべてとは、何かな」
「李順から、聞きました。鄭義を怪しんでいるのでしょう」
「あやつか」
「鄭義は、龍翠と紅成としきりに何かを話しているそうではないですか。それについて、何故私に相談しないのです」
「お前には、関係のないことだと思った」
かっ、と顔が熱くなる。関係ない。自分、には。そんなはずは、ないのだ。
「……紅隆様……」
「それから、もうその件は水に流してくれ。俺の思い違いらしかったのでな」
「何を」
「鄭義が、龍翠と紅成と仲が良い。それだけだろう」
言葉が、出なかった。握りしめた拳が、震える。
「話すことは無い。出ていって、いいぞ」
今度は、紅隆の方が苛立ったようだった。怒りを通り越した何かが、自分を襲う。何を言っても、無駄な気がした。
「……私は、あなたが、怖いです」
紅隆が、視線を上げる。そのまま、黙って部屋を出る。
今宵は、ひとりで酒を、と考えた。酔いつぶれて、すべて忘れることができたら、どれだけ楽になるだろう。思ったが、飲んでもすぐに現実に戻されるということは、いい加減わかっていた。
李順には、続けて見張りをさせた。何かおかしなことがあったら、自分に言ってくるように命令する。李順は、それに素直に従った。しかし、紅隆から伝えられた『次の仕事』だけは、いつまで経っても話してくれなかった。
揺らぐ。何もかもが、揺らいで見える。何かに、つかまりたい。助けを、求めたい。それなのに、自分の周りにはなにもなかった。もしかすると、既に自分はもう、孤独なのではないのか。そんな気さえ、してきた。
紅隆を手離し、いっそのこと一人になるか。それとも、何も分からないままでいいから、紅隆の傍に居続けるか。
視界は、揺らいでいる。なんとかして、立たなければ。
なんとかして、私は──ふたつある選択肢の、どちらかを選ばなければならなかった。
*
すぐに、心の中の蟠りは違うもので塗り替えられた。高延亮が、大怪我をしたのだ。軽業で、失敗をして。医者によれば、打ちどころがあまりにも悪く、手足は二度と動かないというらしい。もう、頭の中が破裂してしまいそうだった。有名一座が、恥をかく。それに加えて、芸人も失う。いい加減にしてくれ。言っても、仕方のないことだと分かっていても、頭を抱えてしまう。
何か、偶然の出来事ではないような気がした。だとしたら、とんだ大事である。これまでの嫌な予感が、すべて繋がっているものだとしたら──。
こめかみに、指を当てた。考えろ。冷静になって、物事を考えることが、自分には出来るはずだ。自分は、馬鹿ではない。幼い頃から、何のために勉学に励んできたのか。
……私、は。
とりあえず、高延亮の処理をしなければならない。紅隆と話し合って。紅隆との距離を考えるのは、それからだ。鄭義や、龍翠のことも。
自分には、やらなければならないことが、たくさんある。
「芸の世界とは、こういうものなのだ。自ら技を磨くことができなければ、奇怪な見た目を売るしかない」
紅隆が、酒をゆっくり注いでいる。なんの感情も抱かないまま、私はそれを見ていた。
「その見た目というのは、なんとも不便なことが多いものだ。旅芸人となれば移動は大変だし、本人にまず強い痛み苦しみが伴う。しかも、客の一部からは気味が悪いという目で見られる。そしてやがて飽きられ、捨てられる」
酒には、手をつけなかった。ここで酔う気は、欠片もないからだ。
「だが、使い物にならなくなったものを、せめてもの怪奇な見た目にして売ろうと考えることは、何も都合の悪いことではない。むしろ、放っておいたら死ぬ者を、僅かな間でも有効に使えるのだ。最後まで芸人として、生きられるというのは、幸せなことではないか」
紅隆が、一体何を考えているのか。なんとなく、わかるような気がした。
「高延亮を、熊男にする」
一瞬の、沈黙。
「──熊男」
だるま女と同じく、見世物小屋がよくやっているというのを聞いたことがある。成功するのは稀で、ほとんどは人間の皮膚を剥がし、熊の毛皮を貼り付けるという過程で、死んでしまうらしい。
それで、死ぬというなら。高延亮は、どれだけ哀れに死ぬこととなるだろうか。
「他の、考え方は……」
「ない」
きっぱりと、紅隆が言う。もう、声が出せなくなった。見世物小屋の連中は、人の心を失っていて、嫌いだ。旅芸人の一座の頭である紅隆が、その連中と同じことを考えている。ああ、この方は元からこういう人間だった。どんな人をも惹き付ける魅力の裏には、やはり常人のものとは言い難い冷酷な性質《たち》があったのだ。
逆らう気は、ない。逆らえる気も、してこない。
自分も、一度冷酷になりきったことがある。今更何を、という気がしていた。
*
高延亮の弟子に、皮膚を剥がさせる。私は、見張りの為に部屋の前に立っていたが、耳を裂くような叫び声は、きっと拠点の隅から隅までに聞こえたのだと思う。すぐに、ぞろぞろと人間が集まってきた。野次馬めと言い、使用人をさっさと散らせる。
「帰れ」
未だ残っていた張引に、怒鳴るようにして言った。張引が、信じられないという目で自分を見る。睨み返す。しばらくすると、張引がくるりと踵を返した。その後ろで呆気に取られている彪林もまた、視線で帰らせた。誰も残らず、耳には未だ高延亮の叫び声だけが、ただ響いていた。
二刻ほど経った頃に、弟子が泣きながら部屋を出てきて、そのままどこかへ走り去った。重苦しいような静寂が、辺りを包む。部屋の中に入ろうという気は、どうしてもしなかった。
自分は一体、ここで何をやっているのだろうか。
「扈珀」
「悪い。今は忙しい」
「……」
張引の横を、顔も見ずに通り過ぎる。誰にも会いたくなかった。ひとりで、いたかった。何も考えずに、やるべき仕事をひとりでこなすだけだ。
変わらず興行は続けたが、高延亮が怪我をしてからも、客が大幅に減るということはなかった。場所と時間帯を、大胆に変えたからだろう。芸人の演技に、どことなくぎこちない雰囲気が漂っている。特にそれが目立っている者を、時々叱咤した。お前に芸など出来ぬくせに、という目で見られるが、それは違う。長年、自分は芸を見てきたのだ。いい芸人と悪い芸人の違いを見極める力は、十分に蓄えていた。
その目を持っているからこそ、わかるのだ。
高延亮の失敗は、本人によるものではない、と。
*
紅隆が、高延亮に十日の猶予を与えている。十日目には、無理にでも全身の皮膚を剥がし、熊男にするというらしい。その意図は、十日経ってみるまで、わからなかった。
「──おい」
声をかけたが、返事がない。明らかに、何かがおかしいと思った。近くまで行って、察する。高延亮が、死んでいた。ただならぬ気配だけが、肌にひしと伝わってきた。死因を、少しの間調べる。首を絞めた後も、斬った跡もなにもなかったが、自殺とは思えない。病死とも、また。予感はするだけで、いつまで経ってもはっきりとしたものにならなかった。
「そうか、死んだのか」
紅隆が、静かに呟く。状況を説明すると、紅隆はしばらくの間黙ったあと、微かに頷いた。そのまま、目を瞑る。
「何も、無かったのだな。他殺とはっきりわかるような、証拠も」
「はい」
「それでも、他殺という気がしている」
高延亮が、仲間の芸人に殺してくれと乞うている。そんな話は、李順から聞いていた。どちらにせよ、死ぬのは同じなのだから、どちらでもいいという気はしていた。しかし、殺人となれば、事件扱いになるのだ。面倒なことになってしまう。
「……なあ、扈珀」
ちら、と紅隆が顔を上げる。緊迫した、空気。注意深く、私は紅隆の目を見つめた。
「そろそろ、という気がしているから、一つだけお前に言っておく」
「──はい」
何がだ。何の、話だ。……と、今は思っても問うべきことではない。聞くだけだ。
「これがすべて、呪いの力によるものだとしても。お前は、何もするなよ」
にやり、と紅隆が笑う。息が、止まった。呪い。何年ぶりに、聞いた言葉だろうか。
*
鄭義が、怪しい。紅成。龍翠の、刺青。──模様。何かが、関連している。銀の窃盗。高延亮の、死。
地下に、入った。銀のほかに、盗まれているものはないか。三刻ほど、念入りに探し回る。まさかと思って、棚の下にある戸に手をかける。そっと、開いて中を見た。
……ない。しまっておいたはずの、日記が。
「──はぁ」
ふらり、とよろけて、そのまま地面に座り込む。あれには、全てを記しているのだ。自分が、かつて行ったこと。考えたこと。誰にも、けして話さなかったこと。すべてが、記されてあるのに。一体、誰が。紅隆には、関係がないだろう。だとすれば、……。
鄭義と、龍翠と、紅成。紅成はさておいて、龍翠がもし龍庸の娘であるとして──鄭義が、それを隠している。何故。龍庸、そして李玲玉の、復讐か。ああ、駄目だ。納得がいってしまう。
紅成、は? 紅成は、なんなのだ。
「……水晶……」
震えた。蹲り、頭を抱える。奴らの目的が、すべて自分に向けられていることだとしたら。復讐。自分が、かつて殺した者の。
事件の、すべての真相を知る。その為に、地下を漁り、日記を盗んだのだろう。呪いの力で、地下に入り。物の怪だと思っていた女は、やはり呪い師だったのだ。しかも、それに紅隆は気付いていた。一体、いつから。
『お前は、何もするなよ』。何故。何故、紅隆はこう言ったのだろう。なるがままになってしまえ、というのだろうか。奴らの狙いは、私──もしくは、紅隆だ。
だとしても、いくつか引っかかるものがある。鄭義が、いつからその企みを立てていたのか。龍翠の、頬の刺青にも意味があるはずだ。……紅成が、紅隆と不仲なのはよくわかる。しかし、水晶は紅隆を愛していた。愛する母が、愛していた、それもまた父なのだ。
恐怖が、込み上げてくる。微妙に残された謎と、疑い。地下の空気は、暗かった。龍庸が、見ているような気がする。こわかった。かといって、地上にも出たくない。
何もするな。何もするな、と。本当に、何もせずにいたら、自分はどうなってしまう?
そろそろ、本気で選ばなければならない。あの、ふたつから。紅隆が、自分を騙している、と知った今。
言って、早足で紅隆の前まで行く。紅隆が、驚いたように目を見開いた。合図も待たずに、私は床に座り込む。
「どうした」
「私に、すべてを話してください。何一つ、隠すことなく」
「はあ?」
紅隆が、顔を顰める。睨むようにして、私は紅隆の目を見た。しばらくの、沈黙。私の顔を眺めながら、紅隆が薄ら鼻で笑った。
「すべてとは、何かな」
「李順から、聞きました。鄭義を怪しんでいるのでしょう」
「あやつか」
「鄭義は、龍翠と紅成としきりに何かを話しているそうではないですか。それについて、何故私に相談しないのです」
「お前には、関係のないことだと思った」
かっ、と顔が熱くなる。関係ない。自分、には。そんなはずは、ないのだ。
「……紅隆様……」
「それから、もうその件は水に流してくれ。俺の思い違いらしかったのでな」
「何を」
「鄭義が、龍翠と紅成と仲が良い。それだけだろう」
言葉が、出なかった。握りしめた拳が、震える。
「話すことは無い。出ていって、いいぞ」
今度は、紅隆の方が苛立ったようだった。怒りを通り越した何かが、自分を襲う。何を言っても、無駄な気がした。
「……私は、あなたが、怖いです」
紅隆が、視線を上げる。そのまま、黙って部屋を出る。
今宵は、ひとりで酒を、と考えた。酔いつぶれて、すべて忘れることができたら、どれだけ楽になるだろう。思ったが、飲んでもすぐに現実に戻されるということは、いい加減わかっていた。
李順には、続けて見張りをさせた。何かおかしなことがあったら、自分に言ってくるように命令する。李順は、それに素直に従った。しかし、紅隆から伝えられた『次の仕事』だけは、いつまで経っても話してくれなかった。
揺らぐ。何もかもが、揺らいで見える。何かに、つかまりたい。助けを、求めたい。それなのに、自分の周りにはなにもなかった。もしかすると、既に自分はもう、孤独なのではないのか。そんな気さえ、してきた。
紅隆を手離し、いっそのこと一人になるか。それとも、何も分からないままでいいから、紅隆の傍に居続けるか。
視界は、揺らいでいる。なんとかして、立たなければ。
なんとかして、私は──ふたつある選択肢の、どちらかを選ばなければならなかった。
*
すぐに、心の中の蟠りは違うもので塗り替えられた。高延亮が、大怪我をしたのだ。軽業で、失敗をして。医者によれば、打ちどころがあまりにも悪く、手足は二度と動かないというらしい。もう、頭の中が破裂してしまいそうだった。有名一座が、恥をかく。それに加えて、芸人も失う。いい加減にしてくれ。言っても、仕方のないことだと分かっていても、頭を抱えてしまう。
何か、偶然の出来事ではないような気がした。だとしたら、とんだ大事である。これまでの嫌な予感が、すべて繋がっているものだとしたら──。
こめかみに、指を当てた。考えろ。冷静になって、物事を考えることが、自分には出来るはずだ。自分は、馬鹿ではない。幼い頃から、何のために勉学に励んできたのか。
……私、は。
とりあえず、高延亮の処理をしなければならない。紅隆と話し合って。紅隆との距離を考えるのは、それからだ。鄭義や、龍翠のことも。
自分には、やらなければならないことが、たくさんある。
「芸の世界とは、こういうものなのだ。自ら技を磨くことができなければ、奇怪な見た目を売るしかない」
紅隆が、酒をゆっくり注いでいる。なんの感情も抱かないまま、私はそれを見ていた。
「その見た目というのは、なんとも不便なことが多いものだ。旅芸人となれば移動は大変だし、本人にまず強い痛み苦しみが伴う。しかも、客の一部からは気味が悪いという目で見られる。そしてやがて飽きられ、捨てられる」
酒には、手をつけなかった。ここで酔う気は、欠片もないからだ。
「だが、使い物にならなくなったものを、せめてもの怪奇な見た目にして売ろうと考えることは、何も都合の悪いことではない。むしろ、放っておいたら死ぬ者を、僅かな間でも有効に使えるのだ。最後まで芸人として、生きられるというのは、幸せなことではないか」
紅隆が、一体何を考えているのか。なんとなく、わかるような気がした。
「高延亮を、熊男にする」
一瞬の、沈黙。
「──熊男」
だるま女と同じく、見世物小屋がよくやっているというのを聞いたことがある。成功するのは稀で、ほとんどは人間の皮膚を剥がし、熊の毛皮を貼り付けるという過程で、死んでしまうらしい。
それで、死ぬというなら。高延亮は、どれだけ哀れに死ぬこととなるだろうか。
「他の、考え方は……」
「ない」
きっぱりと、紅隆が言う。もう、声が出せなくなった。見世物小屋の連中は、人の心を失っていて、嫌いだ。旅芸人の一座の頭である紅隆が、その連中と同じことを考えている。ああ、この方は元からこういう人間だった。どんな人をも惹き付ける魅力の裏には、やはり常人のものとは言い難い冷酷な性質《たち》があったのだ。
逆らう気は、ない。逆らえる気も、してこない。
自分も、一度冷酷になりきったことがある。今更何を、という気がしていた。
*
高延亮の弟子に、皮膚を剥がさせる。私は、見張りの為に部屋の前に立っていたが、耳を裂くような叫び声は、きっと拠点の隅から隅までに聞こえたのだと思う。すぐに、ぞろぞろと人間が集まってきた。野次馬めと言い、使用人をさっさと散らせる。
「帰れ」
未だ残っていた張引に、怒鳴るようにして言った。張引が、信じられないという目で自分を見る。睨み返す。しばらくすると、張引がくるりと踵を返した。その後ろで呆気に取られている彪林もまた、視線で帰らせた。誰も残らず、耳には未だ高延亮の叫び声だけが、ただ響いていた。
二刻ほど経った頃に、弟子が泣きながら部屋を出てきて、そのままどこかへ走り去った。重苦しいような静寂が、辺りを包む。部屋の中に入ろうという気は、どうしてもしなかった。
自分は一体、ここで何をやっているのだろうか。
「扈珀」
「悪い。今は忙しい」
「……」
張引の横を、顔も見ずに通り過ぎる。誰にも会いたくなかった。ひとりで、いたかった。何も考えずに、やるべき仕事をひとりでこなすだけだ。
変わらず興行は続けたが、高延亮が怪我をしてからも、客が大幅に減るということはなかった。場所と時間帯を、大胆に変えたからだろう。芸人の演技に、どことなくぎこちない雰囲気が漂っている。特にそれが目立っている者を、時々叱咤した。お前に芸など出来ぬくせに、という目で見られるが、それは違う。長年、自分は芸を見てきたのだ。いい芸人と悪い芸人の違いを見極める力は、十分に蓄えていた。
その目を持っているからこそ、わかるのだ。
高延亮の失敗は、本人によるものではない、と。
*
紅隆が、高延亮に十日の猶予を与えている。十日目には、無理にでも全身の皮膚を剥がし、熊男にするというらしい。その意図は、十日経ってみるまで、わからなかった。
「──おい」
声をかけたが、返事がない。明らかに、何かがおかしいと思った。近くまで行って、察する。高延亮が、死んでいた。ただならぬ気配だけが、肌にひしと伝わってきた。死因を、少しの間調べる。首を絞めた後も、斬った跡もなにもなかったが、自殺とは思えない。病死とも、また。予感はするだけで、いつまで経ってもはっきりとしたものにならなかった。
「そうか、死んだのか」
紅隆が、静かに呟く。状況を説明すると、紅隆はしばらくの間黙ったあと、微かに頷いた。そのまま、目を瞑る。
「何も、無かったのだな。他殺とはっきりわかるような、証拠も」
「はい」
「それでも、他殺という気がしている」
高延亮が、仲間の芸人に殺してくれと乞うている。そんな話は、李順から聞いていた。どちらにせよ、死ぬのは同じなのだから、どちらでもいいという気はしていた。しかし、殺人となれば、事件扱いになるのだ。面倒なことになってしまう。
「……なあ、扈珀」
ちら、と紅隆が顔を上げる。緊迫した、空気。注意深く、私は紅隆の目を見つめた。
「そろそろ、という気がしているから、一つだけお前に言っておく」
「──はい」
何がだ。何の、話だ。……と、今は思っても問うべきことではない。聞くだけだ。
「これがすべて、呪いの力によるものだとしても。お前は、何もするなよ」
にやり、と紅隆が笑う。息が、止まった。呪い。何年ぶりに、聞いた言葉だろうか。
*
鄭義が、怪しい。紅成。龍翠の、刺青。──模様。何かが、関連している。銀の窃盗。高延亮の、死。
地下に、入った。銀のほかに、盗まれているものはないか。三刻ほど、念入りに探し回る。まさかと思って、棚の下にある戸に手をかける。そっと、開いて中を見た。
……ない。しまっておいたはずの、日記が。
「──はぁ」
ふらり、とよろけて、そのまま地面に座り込む。あれには、全てを記しているのだ。自分が、かつて行ったこと。考えたこと。誰にも、けして話さなかったこと。すべてが、記されてあるのに。一体、誰が。紅隆には、関係がないだろう。だとすれば、……。
鄭義と、龍翠と、紅成。紅成はさておいて、龍翠がもし龍庸の娘であるとして──鄭義が、それを隠している。何故。龍庸、そして李玲玉の、復讐か。ああ、駄目だ。納得がいってしまう。
紅成、は? 紅成は、なんなのだ。
「……水晶……」
震えた。蹲り、頭を抱える。奴らの目的が、すべて自分に向けられていることだとしたら。復讐。自分が、かつて殺した者の。
事件の、すべての真相を知る。その為に、地下を漁り、日記を盗んだのだろう。呪いの力で、地下に入り。物の怪だと思っていた女は、やはり呪い師だったのだ。しかも、それに紅隆は気付いていた。一体、いつから。
『お前は、何もするなよ』。何故。何故、紅隆はこう言ったのだろう。なるがままになってしまえ、というのだろうか。奴らの狙いは、私──もしくは、紅隆だ。
だとしても、いくつか引っかかるものがある。鄭義が、いつからその企みを立てていたのか。龍翠の、頬の刺青にも意味があるはずだ。……紅成が、紅隆と不仲なのはよくわかる。しかし、水晶は紅隆を愛していた。愛する母が、愛していた、それもまた父なのだ。
恐怖が、込み上げてくる。微妙に残された謎と、疑い。地下の空気は、暗かった。龍庸が、見ているような気がする。こわかった。かといって、地上にも出たくない。
何もするな。何もするな、と。本当に、何もせずにいたら、自分はどうなってしまう?
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