恋愛掌篇小説集

髙橋P.モンゴメリー

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恋愛掌篇小説集

夕暮れコーヒー

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駅前の喫茶店に、また同じ時間の光がさしこんでいる。
 放課後と夜のあいだ、世界が少しだけゆるむ時間。

 ガラス越しに見えるバスロータリーを、制服の人たちが行き交う。
 期末テスト前だからか、みんなノートを抱えて、少しだけ真面目な顔をしている。

 窓際の席で、今日も新くんはノートを広げていた。 数式と、ところどころに落書きのギター。
 その端っこに、シャーペンで小さく書かれたメモ。

 「バイト代 貯金」

 私は向かいの席で、ミルク多めのコーヒーを両手で包んだ。
 湯気が、すぐに窓ガラスの冷たさに負けて、細くほどけて消えていく。

「ねえ、新くんってさ」

 そう切り出してから、言葉が続かない。
 何度も心の中で練習したはずなのに、喉の手前でつっかえてしまう。

 好き、って言ったら、きっとこの静かな時間が壊れてしまう。
 でも言わなかったら、いつまでも「ただの同級生」のままだ。

「なに」

 ボールペンをくるくる回しながら、新くんが顔を上げる。
 夕暮れの色が、横顔に薄く貼りついて、いつもより少し大人っぽく見えた。

「最近、ここから見える空、前より好きだなって思って」

 言った瞬間、自分で自分にがっかりする。 違う。言いたいのはそれじゃない。
 でも口から出てくるのは、平気なふりをした言葉ばかりだ。

「そう? たぶんさ」

 新くんは窓の外を見て、少し笑った。

「一緒に見る回数が増えたからじゃない」

 心臓が、コーヒーカップの中に落ちたみたいにドクンと鳴る。

「ど、どういう意味」

「そのまんまの意味」

 新くんはまたノートに視線を戻した。 だけど、口元の笑いは消えない。
 耳たぶが、さっきよりほんの少しだけ赤い。

 机の下で、私のつま先がそわそわ動く。 言えばいい。今、言えばいい。
 この店のBGMとアイスの溶ける音が、味方してくれている。

「あのさ、新くん」

 私はストローを指で押しつぶしながら、やっと名前を呼んだ。

「期末テスト終わったらさ、どっか行かない?」

「どっかって、どこ」

「どこでも。新くんが行きたいとこ」

「んー、じゃあギター見に行きたい」

「また楽器屋?」

「うん。バイト代、そろそろたまるからさ」

 ノートの端っこに書かれた「貯金」がちらっと目に入る。
 そこに、小さく「ふたりで」と書き足したくなる。

「ギター買ったら、最初に聴かせてよ」

「いいよ。じゃあ、曲作るわ」

 新くんはさらりと言う。

「誰に聴かせる曲かは、もう決めてるし」

「え、それって……」

 のどの奥で、言葉がつかえてほどけない。

「秘密」

 そう言って、彼はコーヒーに口をつけた。
 マグカップの影で隠れた口元よりも、少しだけ赤くなった耳たぶが、ぜんぶの答えみたいに見える。

 窓の外、ビルの隙間に夕日が沈んでいく。
 この時間が終わってほしくないと願うたびに、時計の針は、いつもより早く進む気がした。

 テーブルの真ん中に置かれた伝票を、私はそっと手前に引き寄せた。

「今日は、私が出すね」

「なんで」

「夕暮れコーヒー代。次からは、デート代って呼びたいから」

 一瞬、新くんの手が止まり、それからゆっくり笑う。

「じゃあ、次のデート代は、俺が出す」

 その言葉を聞いた瞬間、喫茶店の空気が少しだけ変わった。
 いつもの席も、いつものコーヒーも、同じじゃなくなる。

 ドアのベルが、カランと鳴る。
 外はもう、夜の手前の色だ。

 レシートを折りたたんでポケットにしまう。
 たぶん、捨てられない記念日が、ひとつ増えた。



      ◆



 それから一週間、私たちはちゃんと「テスト前の高校生」をやった。
 夜はさすがに喫茶店に行けないから、LINEが私たちの喫茶店代わりだった。

 数学の写真。 英単語テストの愚痴。
 眠気をごまかすための、どうでもいいスタンプ。

 「眠い」「ねむ」「ね」
 だんだん文字数が減っていく私に、新くんは

 「寝ろ」

 とだけ送ってきて、しばらくしてから

 「寝た?」

 ともう一通送ってきた。
 既読をつけないまま、それを見つめている時間がいちばん眠れなかった。

 テスト最終日。
 最後のチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一気に軽くなる。

「終わったー!」

 友達の叫び声を聞きながら、私の頭の中には、答案用紙よりも先に「楽器屋」の三文字が浮かんでいた。

「放課後、駅で待ってる」

 休み時間、新くんから届いたメッセージ。
 角ばった字のくせに、どうしてこんなにやさしく見えるんだろう。



 放課後、約束の時間よりも少し早く駅に着くと、新くんはもう改札前のベンチに座っていた。 制服のジャケットは脱いで、白いシャツの袖をラフにまくっている。
 それだけのことなのに、知らない誰かみたいに見えた。

「おつかれ」

「おつかれさま」

 お互い同じ言葉で笑う。
 それだけで、一週間分の眠気が少し軽くなった気がした。

「じゃあ、行きますか。俺の、人生二本目のギターを選びに」

「一本目は?」

「古いやつ。兄貴のお下がり。フレット磨きすぎて、もはや家族」

「じゃあ今日は、新しい家族を迎えに行く日だね」

「そういう言い方されると緊張するな」

 ふたりで歩く商店街は、いつもより狭く感じた。
 横に並ぶ距離が、気になって仕方ない。

 楽器屋のドアを開けると、チリン、と喫茶店とは違う音が鳴った。
 壁一面にぶらさがるギターたちが、夕暮れ前の光を反射している。

「うわ……」

 私が思わず声を漏らすと、新くんは少し得意そうな顔をした。

「いいでしょ、この感じ」

「なんか、喫茶店のコーヒーカップみたい」

「それ、どういうたとえ?」

「並んでるだけなのに、一個一個、選ばれるの待ってる感じ」

 店員さんに会釈しながら、新くんはいつも見ているらしいコーナーへ真っすぐ進んでいく。
 私はその少し後ろをついていきながら、ギターのヘッドに付いた小さな値札をちらちらと眺めた。

「この前言ってたやつ、まだあるかな」

 そうつぶやいて、新くんは茶色いボディの一本を手に取る。
 指板をそっと撫でる仕草が、思ったよりもやさしくて、胸がじんわり温かくなる。

「持ってみる?」

「えっ、いいの?」

「そりゃあ、今日のデート代、俺が払う予定の相手だし」

「ギターの話?」

「さあ。どっちだろうね」

 からかうような声。
 でも目は、ちゃんとこっちを見ている。

 渡されたギターは思ったよりも重くて、ストラップもついていないから、不器用に抱きかかえる形になった。
 ふいに、新くんの手が、私の手の少し上を支える。

「落とすなよ、家族だから」

「まだ家族かどうか分かんないじゃん」

「もう決めた」

 あっさりと言い切るその声を聞きながら、私は自分の胸の中の「決めてること」を思い出す。 好きだという気持ち。
 喫茶店の夕暮れで、やっと自分に認めたばかりの気持ち。

 店員さんの前で、新くんは少し背筋を伸ばして

「これ、ください」

 と言った。
 レジ前の小さなカウンターで、お札とコインが移動する音を聞きながら、私は少しだけ感動する。

 人が何かを買う瞬間って、ほんの少しだけ未来を選んでるんだな、と。



 楽器屋を出る頃には、空はすっかりオレンジから群青に近づいていた。
 新しいギターを背負った新くんのシルエットは、見慣れた制服なのに、どこか知らない街にいるバンドマンみたいだった。

「どこ行く?」

「川。遠回りだけど、歩ける?」

「もちろん」

 駅とは反対側に伸びる坂道を降りていく。
 住宅街を抜けると、ゆっくり流れる川と、低い土手が現れる。

「なんかさ」

 土手に座りこみながら、私は制服のスカートを整えた。

「いつも思うんだけど」

「ん?」

「こうやって新くんと歩いてると、テストの点数とか、将来何になりたいとか、どうでもよくなる」

「それ、褒めてる?」

「たぶん、褒めてる」

 夕暮れと夜のあいだの空は、喫茶店の窓から見るよりもずっと大きかった。
 川面に映る街灯が揺れて、少し寒い風が頬を撫でていく。

「ちょっとだけ、弾いていい?」

 新くんが、ギターケースを土手の上で開けた。
 ここが川原であることを忘れそうになるくらい、丁寧な手つきだった。

「え、ここで?」

「ここだからいいんでしょ。最初の音は、静かなとこがいい」

「喫茶店じゃないんだ」

「喫茶店はさ、なんかもう、ふたりの途中にあるとこって感じだから」

 最初の一音が、夜の手前の空気を震わせた。 まだ弦が硬くて、そんなにうまい音じゃない。
 でも、新くんの指先が少しだけ躊躇いながら和音を探す様子を、私は息を詰めて見つめていた。

「まだ途中だけどさ」

 そう前置きして、新くんはゆっくりとコードを鳴らす。
 簡単な進行なのに、不思議と懐かしい感じがした。

「タイトルは?」

 私は聞いてから、自分でも驚く。
 曲のタイトルを聞くなんて、ずいぶんと特別扱いをしている質問だ。

「決まってるよ」

 新くんは川の向こうを見ながら答えた。

「夕暮れコーヒー」

「……それ、喫茶店の?」

「喫茶店の、っていうか」

 彼は一拍置いて、少し笑った。

「あそこで一緒にコーヒー飲んでる時間の曲」

 胸の奥に、じんわりとあたたかいものが広がっていく。
 思わず、土手の草を指でいじりながら、視線を足元に落とした。

「その曲、誰に聴かせるの?」

 喫茶店で聞けなかった続きを、やっと口にする。

「さっきも言ったろ。決めてるって」

「だから、その決めてる相手が誰かを」

 最後まで言い切る前に、音が止んだ。
 新くんの手が、弦の上で静かに乗る。

「じゃあさ」

 彼はギターをそっと横に置き、私の方に体を向けた。

「テストも終わったし、ギターも買ったし、夕暮れコーヒーも飲んだし」

「うん」

「そろそろ、告白してもいい頃かなって思ってる」

 風の音が、一瞬だけ遠のいた気がした。

「それ、今?」

「今」

 新くんは、まるで難しい数式を解き終えたときみたいな顔をしていた。
 少しだけ緊張していて、でもどこかすっきりした顔。

「俺さ」

 その言葉に、心臓がまたカップの中に落ちたみたいに鳴る。

「喫茶店の窓から見る空、ひとりで見てたときより、今の方が好きなんだよね」

「……うん」

「一緒にいるとさ、なんか、ちゃんと現実なんだなって思う。
 テストとか、将来とか、全部まとめて、ちゃんと生きてる感じがする」

 言葉を探しながら話す新くんを、私は黙って見つめる。

「だから、その、なんていうか」

 彼は少し息を吸って、短く吐き出した。

「好き。たぶん前からずっと」

 それは驚くほど、まっすぐな声だった。
 もっと回りくどく言うタイプだと思っていたから、余計に胸に刺さる。

「……たぶんじゃなくて、いいよ」

 気づけば、そう返していた。

「え?」

「たぶん、ってつけなくていいよ。私も、ちゃんと、好きだから」

 言葉にした瞬間、恥ずかしさが、一気に肩まで押し寄せてきた。
 でも、後悔はどこにもなかった。

 新くんは、ゆっくりと笑った。
 さっきまでより、少し涙のにおいが混ざった笑い方で。

「じゃあ、言い直してもいい?」

「どうぞ」

「好き。すごく。夕暮れコーヒー飲んでる時の君が、いちばん」

 風が、川面を撫でていく。
 街灯が少しずつ増えて、世界が夜に寄っていく。

「ねえ、新くん」

「なに」

「今日のこれは、さっきのギターより先に、家族にしてもいい?」

「それ、どういうたとえ?」

「なんか、私の中で、もう一生捨てられない記念日になったから」

 新くんは一瞬きょとんとしてから、照れくさそうに頭をかいた。

「じゃあ」

 彼はさっきのレシートみたいに、言葉を大事そうに折りたたむみたいにして言った。

「これからも、一緒に夕暮れコーヒー飲んでください。
 テスト前でも、社会人になっても、どこに住んでても」

「……それ、プロポーズみたいだよ」

「今のところ、高校生なりの全力告白です」

 私は笑いながら、ポケットから一週間前のレシートを取り出した。
 少しくしゃくしゃになった紙を、夜風に飛ばされないように握りしめる。

「じゃあさ」

「ん?」

「このレシートと、今日のギターのレシートと、いつかもっと大きい何かのレシート、全部まとめてアルバムに貼ろうよ」

「それ、何のアルバム?」

「ふたりの“夕暮れコーヒー代”の歴史」

 新くんは、少しだけ目を細めて笑った。

「じゃあ、次のページは俺が埋める。ちゃんとデート代として」

「期待してる」

 空を見上げると、最初の星がひとつだけ光っていた。
 喫茶店の窓から見上げるより、ずっと遠くて、近い気がした。

 川の音とギターの響きと、まだ慣れない「好き」という言葉。
 それらを全部まとめて、私は胸のいちばん大事なところにしまい込む。

 きっと明日も明後日も、駅前の喫茶店には同じ時間の光がさしこむ。
 でも、あの日を境に、私たちの夕暮れコーヒーは、もうただの放課後じゃない。

 そのことに気づいてしまったから、今日もまたレシートを折りたたんで、ポケットにしまう。
 たぶん、捨てられない記念日は、これから何枚も増えていく。
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