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井辺杉花蓮さんの唯一な日々。―― 川べり図書館で「一度きり」をあつめる話 ――
第3話 唯一のページ
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午後の仕事は、いつもどおりに進んだ。
新聞を読みに来る人がいて、調べものをする高校生がいて、子どもが少し騒いで、館長が「しー」と静かに注意する。
表面だけ見れば、きょうの図書館も、よくある平日の一日だった。
ただ一つ違うのは、カウンターの端に、淡い青い本が一冊だけ、じっとこちらを向いていることだ。
向井さんが去ったあと、その本をワゴンの上から下げようかと思った。
職員用の棚に移してしまえば、少なくとも利用者の目には触れなくなる。けれど、そうすることに、なぜか少し抵抗があった。
――きょう中に決めてください。ここに残す本と、戻す本を。
あの言葉が、カウンターの内側の空気にうすく残っている。
決める、という行為は、意外と体力を使う。
しかも、どちらが正解か分からない種類の選択は、なおさらだ。
結局わたしは、そのままワゴンの上に置いておくことにした。
ときどき貸出機の画面から顔を上げるたびに、その背表紙が視界の端に入ってくる。視界から完全に消してしまうには、まだ早い気がした。
館長には、まだ何も話していない。
「同じ本が二冊あるんですが」と言った瞬間、「ああ、重複登録かな」と答えが返ってきそうな気がした。それはきっと、正しい答えのひとつだろう。
でも、いまのわたしには、もうひとつの答えが必要だった。
閉館時間が近づくと、人はまばらになっていく。
最後の一人が本を抱えて扉をくぐり抜け、ガラス越しに頭を下げた。わたしもカウンターから軽く会釈を返す。
「そろそろ閉めましょうか」
館長が立ち上がりながら言った。
わたしは「はい」と返事をして、館内放送のスイッチを入れる。
「本日はご利用ありがとうございました――」
自分の声が、少し上ずっている気がした。
マイクを切り、館長といっしょにざっと館内を見回る。
空いている椅子を机の下に収め、開きっぱなしの本を閉じ、電気を消す準備をする。
二階の見回りは、わたしが担当した。
階段を上がるときの足音が、いつもより少しだけ大きく聞こえる。
川べりの夜が、窓の外に広がりはじめていた。
例の棚の前で、一度立ち止まる。
淡い青い背表紙が、ちゃんと一冊だけ、そこにある。
そこにあるはずなのだが――わたしの胸の中では、もう一冊分の重さが行ったり来たりしていた。
見回りを終えて一階に戻ると、館長はすでに帰り支度をしていた。
「きょうは静かでしたね」
「そうですね」
本当は、きょうほど静かでない日も珍しいのだけれど、そう答えておいた。
髪に白いものの多い館長は、「じゃあ、戸締まりよろしく」と言って先に帰っていった。裏口の自動ドアが閉まると、図書館の中に、わたしひとりだけが残った。
返却ワゴンの前に立つ。
淡い青い本は、きちんとそこにある。
わたしはその本を両手で持ち上げ、カウンターの上に置いた。
メモ用紙も、いっしょに出す。
――この本は、本当はここには一冊しかない。
読み慣れないインクの色が、蛍光灯の白い光をうすくはじいていた。
わたしはポケットから、自分のボールペンを取り出した。
メモ用紙を裏返し、その端に小さく文字を書く。
『どちらを残せばいいですか』
書いてみてから、それが少しずるい質問な気がした。
決めるのはわたしで、誰かに決めてもらうべきではないのかもしれない。それでも、やっぱり聞きたかった。
メモを半分に折りたたみ、青い本の奥付のあたりにはさみ込む。
最後のページをそっと閉じると、紙の感触が、うすく紙の層の中に沈んでいくようだった。
時計を見ると、もうすぐ十九時になるところだった。
わたしはカウンターの照明だけを残し、他の電気をすべて落とした。図書館の中は、一段暗くなり、川の音だけが遠くから届くようになる。
カウンターの椅子に腰を下ろし、青い本をもう一度開いた。
冒頭の数ページをめくる。
――川の向こう側に、小さな図書室がある。
最初の一文は、それだけだった。
あまりにも、ここにぴったりすぎる始まり方だったので、少し笑ってしまいそうになった。
物語の中の「わたし」は、川の向こうの図書室で働いている。
川べりの道を歩いて、毎朝そこへ通う。
建物の形も、窓の数も、棚の並び方も、どこか見覚えがあるような、ないような。
ページをめくるごとに、わたしは現実の記憶と、紙の上の記述を同時に追っていく。
似ているところと、少しだけ違うところ。
同じようでいて、こちらとあちらを完全には重ねないように書かれている感じがあった。
しばらく読んで、ふと手を止めた。
物語の中の図書室には、「返却ポスト」がなかった。
代わりに、人々は直接カウンターに本を返しに来る。
その代わり、棚の奥から、ときどき「返した覚えのない本」が出てくるのだと書いてあった。
わたしは顔を上げ、図書館の返却ポストのほうを見た。
薄暗い廊下の先に見えるその口は、閉じたまま、何も言わない。
ページを先に進めていくと、ときどき、見覚えのあるような苗字が出てきた。
新聞を読みに来る老人と同じ名字。
よく絵本を借りていく親子と同じ名字。
この町ではありふれた苗字ばかりだから、偶然と言えばそれまでだ。
それでも、自分の胸にだけ刺さる偶然というものは、たしかに存在する。
しおりとして挟まれていたのは、図書室の貸出カードのコピーだった。
上部には、「川向市立図書室」と印刷されている。
この町の名前は「川向市」ではない。もっと違う名前だったはずだ。
裏表紙をめくり、奥付を確認する。
発行所には聞いたことのない出版社の名前があり、その下に小さく、こう書かれていた。
――印刷・製本:川向市立図書室
図書室が、自分の本を自分で刷っている。そんなことが本当にあるのかどうか、わたしには判断できない。けれど、「向こう側」の図書室なら、もしかしたらありえるのかもしれない、とも思った。
わたしは本を閉じ、深く息をついた。
胸の中で、いくつかの点がまだ線にならずに、ばらばらと浮いている。
もう一冊のほう――二階の棚にある本――の奥付は、どうなっていただろう。
きちんと見た覚えがない。
時計の針は、十九時を少し過ぎていた。
この時間なら、もう誰も来ない。
わたしはカウンターに「館内巡回中」と書かれた札を立て、青い本を手にして階段を上がった。
二階は、さっきよりも暗くなっていた。
窓の外には、川沿いの街灯がぽつぽつと灯っている。水面にうつる光が揺れて、天井のほんの隅の影までもが、ゆっくりと形を変えているように見える。
例の棚まで行き、そこにあるもう一冊の背表紙を指先でなぞった。
『川の向こうで読む本』。
淡い青色。白い文字。ラベルの番号も、やはり同じ。
そっと引き抜き、奥付を開く。
そこには、見慣れた名前が印刷されていた。
――印刷・製本:町立川べり図書館
わたしが働いている図書館の正式名称だ。
現物を目の前にしているのに、どこか現実感の薄い文字列だった。
二冊を、両手に一冊ずつ持つ。
片方は「川向市立図書室」で刷られた本。
片方は「町立川べり図書館」で刷られた本。
どちらも、背表紙には同じ番号。同じタイトル。同じ装丁。
――増えたぶんだけ、どこかが少しだけおかしくなる。
向井さんの言葉を思い出す。
増えたのは、本なのか、世界なのか。
それとも、わたしのほうが、少しだけおかしくなっているのか。
わたしは「川べり図書館」の奥付のついたほうを、そっと棚に戻した。
こちら側で刷られた本は、こちら側に置いておくべきな気がした。
もう一冊、「川向市立図書室」の本を胸に抱え、階段を降りる。
カウンターに戻り、二冊目のほうを開いてみる。
やはり中身は、さっき読んでいた本とほとんど同じだった。
ただ、最後のページだけが、ほんの少し違っていた。
終章の最後の行までは、まったく同じ文章が印刷されている。
「わたし」は川沿いの道を歩き、図書室の鍵を閉め、家に帰る。
そのあとにあるはずの余白が、この本にはなかった。
余白のはずの場所に、細い文字が一行だけ印刷されていた。
――この本は、本当はここには一冊しかない。
メモ用紙に書かれていたのと、まったく同じ文だ。
ただしこちらは、印刷として紙に刻まれている。
さっき自分が挟んだメモのほうに目をやる。
ページを裏返すと、そこには何も挟まっていなかった。
わたしは、しばらく動けなかった。
インクの色を、指でなぞる。こすっても消えない。
印刷なのか、手書きなのか、もはや判別がつかないような文字だった。
メモ用紙は、カウンターの上にうつ伏せで置かれていた。
さっき裏に書き込んだはずの問い――『どちらを残せばいいですか』――を確かめたくて、わたしはそれをひっくり返した。
そこには、わたしの字ではない文字が増えていた。
『あなたのいるほうに残してください』
自分が書いた一文のすぐ下に、同じ色のインクで、行を揃えるようにして書き足されている。
わたしの「どちら」と、向こうからの「あなたのいるほう」が、紙の上でゆっくりと折り重なっている。
「……ずるい」
思わず声に出た。
決めてほしくて質問したのに、結局、決めるのはわたしだということに変わりはない。
それでも、「どちらでもいい」と突き放されるよりは、すこしだけ優しい答えなのかもしれない。
わたしは、本のほうを見た。
「川向市立図書室」で刷られた本。
奥付に、その名前が印刷されている。
――あなたのいるほうに残してください。
わたしが「いるほう」は、たぶんこちら側だ。
ここで働いていて、ここで暮らしていて、ここで川を見ている。
向こう側に立ったことはない。あったかもしれないけれど、覚えていない。
ということは、この本は、本当はここに残すべきではないのかもしれない。
わたしの「いるほう」に残すべき本は、さっき棚に戻したほう――川べり図書館で刷られた本――のほうなのだろう。
すると、これは。
「戻す本……」
思わず、向井さんの言い方をまねてつぶやいていた。
戻すとしたら、どこに戻せばいいのだろう。
『川の向こうで読む本』という題名は、急に具体的な指示のように思えてくる。
わたしは本を閉じ、メモ用紙をその間にはさみこんだ。
カウンターの電気を消し、戸締まりを確認する。
ガラス扉の鍵をかけ、返却ポストの前で一瞬立ち止まる。
ポストの口は閉じたまま、何も返すことを求めていないようだった。
外に出ると、川沿いの空気は、図書館の中よりも冷たかった。
街灯の光が、濡れた路面に長く伸びている。
青い本をトートバッグの中に入れ、肩に掛ける。
ほんの少しだけ、いつもより重く感じた。
家に帰るには、川にかかる小さな橋を渡らなければならない。
わたしはいつもの道を選び、ゆっくりと歩き出した。
橋の手前で、足を止める。
川は、昼間よりも暗く見える。
水面に映る街灯の光だけが、静かに揺れている。
わたしはバッグから本を取り出し、橋の欄干にもたれかかるようにして開いた。
メモ用紙の感触を、指先で探す。
最後のページのあたりにあるはずのそれを挟んだまま、一枚だけ紙をめくる。
そこには、また文字が増えていた。
『あなたのいるほうに残してください
ただし、「戻す本」は水の上でしか開いてはいけません』
行を替えて書かれた二行目は、さっきはなかったはずだ。
紙はもう、何度か折りたたまれたように少しくたびれているのに、インクの色だけはやけに新しく見えた。
水の上でしか開いてはいけません。
わたしは橋の下を流れる川を見下ろした。
川の向こう側は、暗くてよく見えない。
それでも、対岸の家の窓から漏れる灯りが、ところどころに島のように浮かんでいる。その灯りのひとつひとつにも、誰かの唯一な日があるのだろう。
わたしはメモを指先でつまみ、もう一度本のあいだに挟みなおした。
風がページを少しだけめくる。その音が、思ったよりも大きく聞こえた。
――水の上でしか、開いてはいけない。
橋の真ん中に立つと、川の音が両側から同じように聞こえてきた。
こちら側と向こう側の境界が、いちばん曖昧になる場所だ。
わたしは本を胸に抱えたまま、しばらく動かなかった。
決めるのは、やっぱりわたしだ。
この本を、本当に「戻す」のかどうか。
戻すなら、どちらの世界に。
夜風が、ページの端をそっと持ち上げては、また戻していく。
川の流れは、何事もなかったように、ただ下流へ向かっていた。
新聞を読みに来る人がいて、調べものをする高校生がいて、子どもが少し騒いで、館長が「しー」と静かに注意する。
表面だけ見れば、きょうの図書館も、よくある平日の一日だった。
ただ一つ違うのは、カウンターの端に、淡い青い本が一冊だけ、じっとこちらを向いていることだ。
向井さんが去ったあと、その本をワゴンの上から下げようかと思った。
職員用の棚に移してしまえば、少なくとも利用者の目には触れなくなる。けれど、そうすることに、なぜか少し抵抗があった。
――きょう中に決めてください。ここに残す本と、戻す本を。
あの言葉が、カウンターの内側の空気にうすく残っている。
決める、という行為は、意外と体力を使う。
しかも、どちらが正解か分からない種類の選択は、なおさらだ。
結局わたしは、そのままワゴンの上に置いておくことにした。
ときどき貸出機の画面から顔を上げるたびに、その背表紙が視界の端に入ってくる。視界から完全に消してしまうには、まだ早い気がした。
館長には、まだ何も話していない。
「同じ本が二冊あるんですが」と言った瞬間、「ああ、重複登録かな」と答えが返ってきそうな気がした。それはきっと、正しい答えのひとつだろう。
でも、いまのわたしには、もうひとつの答えが必要だった。
閉館時間が近づくと、人はまばらになっていく。
最後の一人が本を抱えて扉をくぐり抜け、ガラス越しに頭を下げた。わたしもカウンターから軽く会釈を返す。
「そろそろ閉めましょうか」
館長が立ち上がりながら言った。
わたしは「はい」と返事をして、館内放送のスイッチを入れる。
「本日はご利用ありがとうございました――」
自分の声が、少し上ずっている気がした。
マイクを切り、館長といっしょにざっと館内を見回る。
空いている椅子を机の下に収め、開きっぱなしの本を閉じ、電気を消す準備をする。
二階の見回りは、わたしが担当した。
階段を上がるときの足音が、いつもより少しだけ大きく聞こえる。
川べりの夜が、窓の外に広がりはじめていた。
例の棚の前で、一度立ち止まる。
淡い青い背表紙が、ちゃんと一冊だけ、そこにある。
そこにあるはずなのだが――わたしの胸の中では、もう一冊分の重さが行ったり来たりしていた。
見回りを終えて一階に戻ると、館長はすでに帰り支度をしていた。
「きょうは静かでしたね」
「そうですね」
本当は、きょうほど静かでない日も珍しいのだけれど、そう答えておいた。
髪に白いものの多い館長は、「じゃあ、戸締まりよろしく」と言って先に帰っていった。裏口の自動ドアが閉まると、図書館の中に、わたしひとりだけが残った。
返却ワゴンの前に立つ。
淡い青い本は、きちんとそこにある。
わたしはその本を両手で持ち上げ、カウンターの上に置いた。
メモ用紙も、いっしょに出す。
――この本は、本当はここには一冊しかない。
読み慣れないインクの色が、蛍光灯の白い光をうすくはじいていた。
わたしはポケットから、自分のボールペンを取り出した。
メモ用紙を裏返し、その端に小さく文字を書く。
『どちらを残せばいいですか』
書いてみてから、それが少しずるい質問な気がした。
決めるのはわたしで、誰かに決めてもらうべきではないのかもしれない。それでも、やっぱり聞きたかった。
メモを半分に折りたたみ、青い本の奥付のあたりにはさみ込む。
最後のページをそっと閉じると、紙の感触が、うすく紙の層の中に沈んでいくようだった。
時計を見ると、もうすぐ十九時になるところだった。
わたしはカウンターの照明だけを残し、他の電気をすべて落とした。図書館の中は、一段暗くなり、川の音だけが遠くから届くようになる。
カウンターの椅子に腰を下ろし、青い本をもう一度開いた。
冒頭の数ページをめくる。
――川の向こう側に、小さな図書室がある。
最初の一文は、それだけだった。
あまりにも、ここにぴったりすぎる始まり方だったので、少し笑ってしまいそうになった。
物語の中の「わたし」は、川の向こうの図書室で働いている。
川べりの道を歩いて、毎朝そこへ通う。
建物の形も、窓の数も、棚の並び方も、どこか見覚えがあるような、ないような。
ページをめくるごとに、わたしは現実の記憶と、紙の上の記述を同時に追っていく。
似ているところと、少しだけ違うところ。
同じようでいて、こちらとあちらを完全には重ねないように書かれている感じがあった。
しばらく読んで、ふと手を止めた。
物語の中の図書室には、「返却ポスト」がなかった。
代わりに、人々は直接カウンターに本を返しに来る。
その代わり、棚の奥から、ときどき「返した覚えのない本」が出てくるのだと書いてあった。
わたしは顔を上げ、図書館の返却ポストのほうを見た。
薄暗い廊下の先に見えるその口は、閉じたまま、何も言わない。
ページを先に進めていくと、ときどき、見覚えのあるような苗字が出てきた。
新聞を読みに来る老人と同じ名字。
よく絵本を借りていく親子と同じ名字。
この町ではありふれた苗字ばかりだから、偶然と言えばそれまでだ。
それでも、自分の胸にだけ刺さる偶然というものは、たしかに存在する。
しおりとして挟まれていたのは、図書室の貸出カードのコピーだった。
上部には、「川向市立図書室」と印刷されている。
この町の名前は「川向市」ではない。もっと違う名前だったはずだ。
裏表紙をめくり、奥付を確認する。
発行所には聞いたことのない出版社の名前があり、その下に小さく、こう書かれていた。
――印刷・製本:川向市立図書室
図書室が、自分の本を自分で刷っている。そんなことが本当にあるのかどうか、わたしには判断できない。けれど、「向こう側」の図書室なら、もしかしたらありえるのかもしれない、とも思った。
わたしは本を閉じ、深く息をついた。
胸の中で、いくつかの点がまだ線にならずに、ばらばらと浮いている。
もう一冊のほう――二階の棚にある本――の奥付は、どうなっていただろう。
きちんと見た覚えがない。
時計の針は、十九時を少し過ぎていた。
この時間なら、もう誰も来ない。
わたしはカウンターに「館内巡回中」と書かれた札を立て、青い本を手にして階段を上がった。
二階は、さっきよりも暗くなっていた。
窓の外には、川沿いの街灯がぽつぽつと灯っている。水面にうつる光が揺れて、天井のほんの隅の影までもが、ゆっくりと形を変えているように見える。
例の棚まで行き、そこにあるもう一冊の背表紙を指先でなぞった。
『川の向こうで読む本』。
淡い青色。白い文字。ラベルの番号も、やはり同じ。
そっと引き抜き、奥付を開く。
そこには、見慣れた名前が印刷されていた。
――印刷・製本:町立川べり図書館
わたしが働いている図書館の正式名称だ。
現物を目の前にしているのに、どこか現実感の薄い文字列だった。
二冊を、両手に一冊ずつ持つ。
片方は「川向市立図書室」で刷られた本。
片方は「町立川べり図書館」で刷られた本。
どちらも、背表紙には同じ番号。同じタイトル。同じ装丁。
――増えたぶんだけ、どこかが少しだけおかしくなる。
向井さんの言葉を思い出す。
増えたのは、本なのか、世界なのか。
それとも、わたしのほうが、少しだけおかしくなっているのか。
わたしは「川べり図書館」の奥付のついたほうを、そっと棚に戻した。
こちら側で刷られた本は、こちら側に置いておくべきな気がした。
もう一冊、「川向市立図書室」の本を胸に抱え、階段を降りる。
カウンターに戻り、二冊目のほうを開いてみる。
やはり中身は、さっき読んでいた本とほとんど同じだった。
ただ、最後のページだけが、ほんの少し違っていた。
終章の最後の行までは、まったく同じ文章が印刷されている。
「わたし」は川沿いの道を歩き、図書室の鍵を閉め、家に帰る。
そのあとにあるはずの余白が、この本にはなかった。
余白のはずの場所に、細い文字が一行だけ印刷されていた。
――この本は、本当はここには一冊しかない。
メモ用紙に書かれていたのと、まったく同じ文だ。
ただしこちらは、印刷として紙に刻まれている。
さっき自分が挟んだメモのほうに目をやる。
ページを裏返すと、そこには何も挟まっていなかった。
わたしは、しばらく動けなかった。
インクの色を、指でなぞる。こすっても消えない。
印刷なのか、手書きなのか、もはや判別がつかないような文字だった。
メモ用紙は、カウンターの上にうつ伏せで置かれていた。
さっき裏に書き込んだはずの問い――『どちらを残せばいいですか』――を確かめたくて、わたしはそれをひっくり返した。
そこには、わたしの字ではない文字が増えていた。
『あなたのいるほうに残してください』
自分が書いた一文のすぐ下に、同じ色のインクで、行を揃えるようにして書き足されている。
わたしの「どちら」と、向こうからの「あなたのいるほう」が、紙の上でゆっくりと折り重なっている。
「……ずるい」
思わず声に出た。
決めてほしくて質問したのに、結局、決めるのはわたしだということに変わりはない。
それでも、「どちらでもいい」と突き放されるよりは、すこしだけ優しい答えなのかもしれない。
わたしは、本のほうを見た。
「川向市立図書室」で刷られた本。
奥付に、その名前が印刷されている。
――あなたのいるほうに残してください。
わたしが「いるほう」は、たぶんこちら側だ。
ここで働いていて、ここで暮らしていて、ここで川を見ている。
向こう側に立ったことはない。あったかもしれないけれど、覚えていない。
ということは、この本は、本当はここに残すべきではないのかもしれない。
わたしの「いるほう」に残すべき本は、さっき棚に戻したほう――川べり図書館で刷られた本――のほうなのだろう。
すると、これは。
「戻す本……」
思わず、向井さんの言い方をまねてつぶやいていた。
戻すとしたら、どこに戻せばいいのだろう。
『川の向こうで読む本』という題名は、急に具体的な指示のように思えてくる。
わたしは本を閉じ、メモ用紙をその間にはさみこんだ。
カウンターの電気を消し、戸締まりを確認する。
ガラス扉の鍵をかけ、返却ポストの前で一瞬立ち止まる。
ポストの口は閉じたまま、何も返すことを求めていないようだった。
外に出ると、川沿いの空気は、図書館の中よりも冷たかった。
街灯の光が、濡れた路面に長く伸びている。
青い本をトートバッグの中に入れ、肩に掛ける。
ほんの少しだけ、いつもより重く感じた。
家に帰るには、川にかかる小さな橋を渡らなければならない。
わたしはいつもの道を選び、ゆっくりと歩き出した。
橋の手前で、足を止める。
川は、昼間よりも暗く見える。
水面に映る街灯の光だけが、静かに揺れている。
わたしはバッグから本を取り出し、橋の欄干にもたれかかるようにして開いた。
メモ用紙の感触を、指先で探す。
最後のページのあたりにあるはずのそれを挟んだまま、一枚だけ紙をめくる。
そこには、また文字が増えていた。
『あなたのいるほうに残してください
ただし、「戻す本」は水の上でしか開いてはいけません』
行を替えて書かれた二行目は、さっきはなかったはずだ。
紙はもう、何度か折りたたまれたように少しくたびれているのに、インクの色だけはやけに新しく見えた。
水の上でしか開いてはいけません。
わたしは橋の下を流れる川を見下ろした。
川の向こう側は、暗くてよく見えない。
それでも、対岸の家の窓から漏れる灯りが、ところどころに島のように浮かんでいる。その灯りのひとつひとつにも、誰かの唯一な日があるのだろう。
わたしはメモを指先でつまみ、もう一度本のあいだに挟みなおした。
風がページを少しだけめくる。その音が、思ったよりも大きく聞こえた。
――水の上でしか、開いてはいけない。
橋の真ん中に立つと、川の音が両側から同じように聞こえてきた。
こちら側と向こう側の境界が、いちばん曖昧になる場所だ。
わたしは本を胸に抱えたまま、しばらく動かなかった。
決めるのは、やっぱりわたしだ。
この本を、本当に「戻す」のかどうか。
戻すなら、どちらの世界に。
夜風が、ページの端をそっと持ち上げては、また戻していく。
川の流れは、何事もなかったように、ただ下流へ向かっていた。
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