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2.調べ物
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ハヤテはコダマに連れられ、目的の秘術師が住むという町の大通りを歩いていた。旅に出てすでに三日が経っている。昨夜一晩を宿で過ごし、いまは朝方だった。
通りには、仕事場へと急ぐ人が溢れていた。飯屋の軒先では、若い見習いが声を張り上げて客を呼び、油で揚げた菓子や、甘辛く煮た野菜を挟んだパンなど、簡単な朝食を売っている。先に宿で朝食を済ませていたのだが、店を見ていると小腹が空き、ハヤテはちょっとした菓子を買って齧っていた。
コダマの進むまま、いくつか道を折れて、細い通りに入った。そこは工房の多くある地区だった。見習いたちはたいてい工房に住み込むから、すでに起き出していて、扉を開けて軒先や仕事場の清掃をしている。道を行く職人たちは自分の持ち場に近づくと、若い後輩に親しげに挨拶し、戸口へと次々吸い込まれていく。
ハヤテはそんな朝の光景を見るとはなしに見ながら、主人の一歩後ろを歩きつつ、その背中を見守っていた。秘術師は何かを探して、しきりに視線を動かしていた。
やがて目当てのものを見つけたのか、コダマはある店先で足を止めた。ハヤテが目を上げると、表に掲げられた看板には、真ん中に人の眼を配した五芒星が描かれていた。
店の扉は閉まっていた。だがコダマは気にした様子もなく、戸口に近づくと、軽く叩いた。すぐに、入るようにと促す返事が来て、若い秘術師は戸を開けて中に入る。ハヤテもそれに続いた。
工房の中はがらんとしていた。壁際には机や棚があるが、中央には何も置いていない。窓と扉から差し込む光で、部屋は暗くはなかった。
親方であろう、ほっそりとした初老の人が、壁際の椅子の一つに腰掛けていた。それからがっしりとした壮年者と、見習いと見える痩躯の若者が、奥から出てきた。壮年者が、声をかける。
「朝から早く来られましたな。急ぎの用ですか。」
「急ぎではありませんが、仕事で異界への入口を探しています。」
コダマは答えると、自分の名を言ってから、故郷の名を告げた。壮年者は頷いて、初老の秘術師に顔を向ける。師は微笑んでいた。
「そろそろ来る頃だろうと思っていました。年毎に訪ねて来られますものね。」
そう言って、二人は挨拶を交わした。それから、老いた秘術師が訊ねる。
「それで、今回はどれをお望みですか。」
「水をお願いします。少し、切らしはじめているようで。」
コダマはそう答えた。いったいなんの話をしているのやらとハヤテは思ったが、口は挟まなかった。見ていると、コダマは腰に下げていた袋の一つを取って、壮年者に渡した。受け取ると、相手はその中身を少し確かめて頷いた。
「確かに、承りました。」
壮年者は、初老の秘術師に顔を向けた。初老の人は頷く。それから、壮年者と見習いは、すぐに動きはじめた。恰幅のいい壮年者が、部屋の隅から広くて薄い銅の水盤を持ち出してくる。水盤は、部屋の中心に据えられた。ハヤテはその水盤をしげしげと眺めた。円く、縁には細かな模様か、それとも文字が刻まれているようだった。実用のものとも美品とも思えず、何か呪的な道具といった印象だった。
見習いのほうは部屋の奥に消え、それから大きな桶を持って来て、その中身の水を水盤に空ける。水盤は薄いから、その一度で水をなみなみと湛えた。
「ありがとう。助かります。」
師が微笑んで二人の弟子を見た。それから立ち上がると、扉を閉ざし、窓の木戸を、ほんの少しだけ隙間を残して閉める。すると部屋の中は暗くなったが、ものが見えぬというほどでもない。
それから、師は棚から白い紐を取り出し、水盤に近づいた。他の二人は、すでに水盤のそばであぐらをかいていた。
ハヤテは不思議に思いつつ三人の様子を見ていたのだが、ふとコダマがこちらを振り返り、口を開いた。
「いまから術をはじめるから、喋るなよ。それから、いまから描く、あの円を超えるな。できれば歩くな。いや、もう、座っちまおう。そうすりゃ邪魔にならない。」
コダマは言って、固い床にこだわりなく座る。ハヤテはやや困惑しながらも、それに従った。ここは秘術師の仕事場なのだから、秘術師の言いつけに従わねばならないだろう。普段は少年らしいコダマが、いまは一種の自信のようなものを身にまとっていた。それは仕事を知る者としての自信なのだろう。
二人の見る前で、秘術師は白い紐を床に伸べて、まるく円を描いた。あれが主人の言う円かとハヤテは思ったが、いったいなんのためにそんなことをするのかは分からなかった。見ている者が近づくのを禁止しているのだろうか。しかしそれなら口で言えばよさそうなものだった。
ハヤテが見ていると、円の中の三人のうち、まずは壮年の者が動いた。両の手の指で、水盤の縁にそっと触れる。そうして、静かに何事かを唱えはじめた。低い声で聞き取りづらい。耳を傾けると、こんなことを言っていた。
「土より生じ、火をもって鍛えられた者よ。水を湛える者よ。お前の内に水は囚われ、戒められ、凍てつき、その面は鏡のごとく輝く。お前は大地、その上に水はたゆたう。土より生じ、火をもって鍛えられた者よ――」
それは呪文のようだった。これがただの独り言だとしたら、かなり変な人物だろう。しばらく聞いていたが、いったい何を言っているのかよく分からず、次第に興味を失ってしまった。
やがて壮年者は水盤から手を離すと、額を手の甲で拭った。疲れているらしい。いったい何に疲れたのやら、ハヤテにはさっぱり分からない。横目でコダマを窺うと、若い秘術師は他の秘術師たちの仕事を食い入るよう見入っていた。
今度は、見習いが動いた。水盤のすぐ近くに手をつき、屈む。そして静かな水面に向けて、小さな声で囁く。
「水よ、まるい水よ。お前は鏡。お前は窓。深きところへと至る、小さな扉。隠り世の源、幽かな海へと続く、小さな穴。水よ、まるい水よ――」
見習いはそんなことを繰り返し唱えていた。ハヤテはやはり興味を失し、顔は動かさず、視線だけをいろいろなところに向けていた。しかし部屋の中にはそれほど目を引くものもなく、大して面白くはなかった。
やがて見習いは身を起こし、手の甲で額を拭った。大仕事をした後といった風情だった。何か術を施したのだということは、さすがにハヤテにも察しがついた。もちろん、それがどんな仕事であるかは少しも分からなかったが。
やがて、老師が呪文を唱えはじめた。両手を水盤の縁に置き、その目は暗い水鏡に向けられていた。
「降りる、降りる、降りる。暗い水面に、私の足が触れる。深い水へと私は降りる。かの世の海へと、私は降りる――」
詠唱は長く続いた。呪文を唱える声が、だんだんと細く小さくなり、やがて消えた。老師はただ黙ったまま、少しの身じろぎもせずに座っていた。ハヤテは眉を顰めた。老秘術師は、まるで座ったまま死んでしまったように見えた。
しばらく、物音が絶えた。窓の隙間から入ってくる、遠くから聞こえる微かな喧騒だけが、みょうにしらじらと聞こえた。ハヤテはしばらく秘術師たちの顔を見比べ、老師があのままで大丈夫なのかと心配した。だが誰一人として気にかけている者がいないことを見て取ると、心配は無用なのだろうと思い直した。呪師というのは訳の分からない連中だから、心配しても損というものだろう。
それで、ハヤテはすっかり飽きて、しかし言いつけに従って座ったまま、あくびを噛み殺して過ごしていた。外で待っていたほうが良かったなと、後悔した。いや、コダマは外で待つかと訊ねてもくれなかったから、結局選択肢はなかったのかもしれない。
突然、老師の体がかしいだ。本当に死んでしまったのかと、ハヤテはぎょっとして声を漏らしかけた。壮年者がすぐに老師を支えた。老師は息を切らし、その額には汗が浮かんでいた。きっと疲れているのだろう。見習いや壮年者よりも長いこと何かをしていたから、それだけ疲労も大きいに違いなかった。
しばらく、秘術師は息を荒らげていた。やがて息を整えると、老師は背筋を伸ばし、コダマとハヤテに微笑みを向けた。
「さあ、終わりました。どうぞ、楽にしてください。」
その言葉に、ハヤテは詰めていた息をはあっと吐き出した。立ち上がると、腕を軽く動かす。親方はそれを、目を細めて見つめた。
壮年者が円を描いていた白い紐を手繰り、円を破った。見習いは立って工房の裏に向かった。老師は座ったまま、しばし弟子が紐を巻き取る様を見つめていた。
「それで、どうですか。井戸は見つかりましたか。」
コダマが老師にたずねた。老師は顔を上げ、頷く。
「ええ。ここから、十日ほどでしょうかね。道を教えましょう。ただ、少し待ってください。もう少し、落ち着かないとね。」
そう言っている師に、裏手から戻ってきた見習いが、盃を手渡した。老師は一口飲むと、一つ溜め息をついた。そしてまたコダマに言う。
「大まかな方向と距離は知ることができました。地図と突き合わせて、旅程を考えましょう。ただその前に、一つ。」
そう言って、老師は少し難しい顔をする。
「どうも、目的の狭間は氏族領にあるようです。」
老師の言葉に、コダマは頷いた。その顔には陰りが浮かんで見えた。
通りには、仕事場へと急ぐ人が溢れていた。飯屋の軒先では、若い見習いが声を張り上げて客を呼び、油で揚げた菓子や、甘辛く煮た野菜を挟んだパンなど、簡単な朝食を売っている。先に宿で朝食を済ませていたのだが、店を見ていると小腹が空き、ハヤテはちょっとした菓子を買って齧っていた。
コダマの進むまま、いくつか道を折れて、細い通りに入った。そこは工房の多くある地区だった。見習いたちはたいてい工房に住み込むから、すでに起き出していて、扉を開けて軒先や仕事場の清掃をしている。道を行く職人たちは自分の持ち場に近づくと、若い後輩に親しげに挨拶し、戸口へと次々吸い込まれていく。
ハヤテはそんな朝の光景を見るとはなしに見ながら、主人の一歩後ろを歩きつつ、その背中を見守っていた。秘術師は何かを探して、しきりに視線を動かしていた。
やがて目当てのものを見つけたのか、コダマはある店先で足を止めた。ハヤテが目を上げると、表に掲げられた看板には、真ん中に人の眼を配した五芒星が描かれていた。
店の扉は閉まっていた。だがコダマは気にした様子もなく、戸口に近づくと、軽く叩いた。すぐに、入るようにと促す返事が来て、若い秘術師は戸を開けて中に入る。ハヤテもそれに続いた。
工房の中はがらんとしていた。壁際には机や棚があるが、中央には何も置いていない。窓と扉から差し込む光で、部屋は暗くはなかった。
親方であろう、ほっそりとした初老の人が、壁際の椅子の一つに腰掛けていた。それからがっしりとした壮年者と、見習いと見える痩躯の若者が、奥から出てきた。壮年者が、声をかける。
「朝から早く来られましたな。急ぎの用ですか。」
「急ぎではありませんが、仕事で異界への入口を探しています。」
コダマは答えると、自分の名を言ってから、故郷の名を告げた。壮年者は頷いて、初老の秘術師に顔を向ける。師は微笑んでいた。
「そろそろ来る頃だろうと思っていました。年毎に訪ねて来られますものね。」
そう言って、二人は挨拶を交わした。それから、老いた秘術師が訊ねる。
「それで、今回はどれをお望みですか。」
「水をお願いします。少し、切らしはじめているようで。」
コダマはそう答えた。いったいなんの話をしているのやらとハヤテは思ったが、口は挟まなかった。見ていると、コダマは腰に下げていた袋の一つを取って、壮年者に渡した。受け取ると、相手はその中身を少し確かめて頷いた。
「確かに、承りました。」
壮年者は、初老の秘術師に顔を向けた。初老の人は頷く。それから、壮年者と見習いは、すぐに動きはじめた。恰幅のいい壮年者が、部屋の隅から広くて薄い銅の水盤を持ち出してくる。水盤は、部屋の中心に据えられた。ハヤテはその水盤をしげしげと眺めた。円く、縁には細かな模様か、それとも文字が刻まれているようだった。実用のものとも美品とも思えず、何か呪的な道具といった印象だった。
見習いのほうは部屋の奥に消え、それから大きな桶を持って来て、その中身の水を水盤に空ける。水盤は薄いから、その一度で水をなみなみと湛えた。
「ありがとう。助かります。」
師が微笑んで二人の弟子を見た。それから立ち上がると、扉を閉ざし、窓の木戸を、ほんの少しだけ隙間を残して閉める。すると部屋の中は暗くなったが、ものが見えぬというほどでもない。
それから、師は棚から白い紐を取り出し、水盤に近づいた。他の二人は、すでに水盤のそばであぐらをかいていた。
ハヤテは不思議に思いつつ三人の様子を見ていたのだが、ふとコダマがこちらを振り返り、口を開いた。
「いまから術をはじめるから、喋るなよ。それから、いまから描く、あの円を超えるな。できれば歩くな。いや、もう、座っちまおう。そうすりゃ邪魔にならない。」
コダマは言って、固い床にこだわりなく座る。ハヤテはやや困惑しながらも、それに従った。ここは秘術師の仕事場なのだから、秘術師の言いつけに従わねばならないだろう。普段は少年らしいコダマが、いまは一種の自信のようなものを身にまとっていた。それは仕事を知る者としての自信なのだろう。
二人の見る前で、秘術師は白い紐を床に伸べて、まるく円を描いた。あれが主人の言う円かとハヤテは思ったが、いったいなんのためにそんなことをするのかは分からなかった。見ている者が近づくのを禁止しているのだろうか。しかしそれなら口で言えばよさそうなものだった。
ハヤテが見ていると、円の中の三人のうち、まずは壮年の者が動いた。両の手の指で、水盤の縁にそっと触れる。そうして、静かに何事かを唱えはじめた。低い声で聞き取りづらい。耳を傾けると、こんなことを言っていた。
「土より生じ、火をもって鍛えられた者よ。水を湛える者よ。お前の内に水は囚われ、戒められ、凍てつき、その面は鏡のごとく輝く。お前は大地、その上に水はたゆたう。土より生じ、火をもって鍛えられた者よ――」
それは呪文のようだった。これがただの独り言だとしたら、かなり変な人物だろう。しばらく聞いていたが、いったい何を言っているのかよく分からず、次第に興味を失ってしまった。
やがて壮年者は水盤から手を離すと、額を手の甲で拭った。疲れているらしい。いったい何に疲れたのやら、ハヤテにはさっぱり分からない。横目でコダマを窺うと、若い秘術師は他の秘術師たちの仕事を食い入るよう見入っていた。
今度は、見習いが動いた。水盤のすぐ近くに手をつき、屈む。そして静かな水面に向けて、小さな声で囁く。
「水よ、まるい水よ。お前は鏡。お前は窓。深きところへと至る、小さな扉。隠り世の源、幽かな海へと続く、小さな穴。水よ、まるい水よ――」
見習いはそんなことを繰り返し唱えていた。ハヤテはやはり興味を失し、顔は動かさず、視線だけをいろいろなところに向けていた。しかし部屋の中にはそれほど目を引くものもなく、大して面白くはなかった。
やがて見習いは身を起こし、手の甲で額を拭った。大仕事をした後といった風情だった。何か術を施したのだということは、さすがにハヤテにも察しがついた。もちろん、それがどんな仕事であるかは少しも分からなかったが。
やがて、老師が呪文を唱えはじめた。両手を水盤の縁に置き、その目は暗い水鏡に向けられていた。
「降りる、降りる、降りる。暗い水面に、私の足が触れる。深い水へと私は降りる。かの世の海へと、私は降りる――」
詠唱は長く続いた。呪文を唱える声が、だんだんと細く小さくなり、やがて消えた。老師はただ黙ったまま、少しの身じろぎもせずに座っていた。ハヤテは眉を顰めた。老秘術師は、まるで座ったまま死んでしまったように見えた。
しばらく、物音が絶えた。窓の隙間から入ってくる、遠くから聞こえる微かな喧騒だけが、みょうにしらじらと聞こえた。ハヤテはしばらく秘術師たちの顔を見比べ、老師があのままで大丈夫なのかと心配した。だが誰一人として気にかけている者がいないことを見て取ると、心配は無用なのだろうと思い直した。呪師というのは訳の分からない連中だから、心配しても損というものだろう。
それで、ハヤテはすっかり飽きて、しかし言いつけに従って座ったまま、あくびを噛み殺して過ごしていた。外で待っていたほうが良かったなと、後悔した。いや、コダマは外で待つかと訊ねてもくれなかったから、結局選択肢はなかったのかもしれない。
突然、老師の体がかしいだ。本当に死んでしまったのかと、ハヤテはぎょっとして声を漏らしかけた。壮年者がすぐに老師を支えた。老師は息を切らし、その額には汗が浮かんでいた。きっと疲れているのだろう。見習いや壮年者よりも長いこと何かをしていたから、それだけ疲労も大きいに違いなかった。
しばらく、秘術師は息を荒らげていた。やがて息を整えると、老師は背筋を伸ばし、コダマとハヤテに微笑みを向けた。
「さあ、終わりました。どうぞ、楽にしてください。」
その言葉に、ハヤテは詰めていた息をはあっと吐き出した。立ち上がると、腕を軽く動かす。親方はそれを、目を細めて見つめた。
壮年者が円を描いていた白い紐を手繰り、円を破った。見習いは立って工房の裏に向かった。老師は座ったまま、しばし弟子が紐を巻き取る様を見つめていた。
「それで、どうですか。井戸は見つかりましたか。」
コダマが老師にたずねた。老師は顔を上げ、頷く。
「ええ。ここから、十日ほどでしょうかね。道を教えましょう。ただ、少し待ってください。もう少し、落ち着かないとね。」
そう言っている師に、裏手から戻ってきた見習いが、盃を手渡した。老師は一口飲むと、一つ溜め息をついた。そしてまたコダマに言う。
「大まかな方向と距離は知ることができました。地図と突き合わせて、旅程を考えましょう。ただその前に、一つ。」
そう言って、老師は少し難しい顔をする。
「どうも、目的の狭間は氏族領にあるようです。」
老師の言葉に、コダマは頷いた。その顔には陰りが浮かんで見えた。
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