境への旅

火吹き石

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11.山歩き

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 一つ尾根を登り切ると、コダマが足を止めた。ハヤテもまたそれに従って立ち止まる。手の甲で額に浮かんだ汗を拭う。夏の日差しは強いが、山手であるから空気は涼しかった。

 尾根は左の前方へと伸び、峰の一つへと続いている。その峰の向こうにまた別の峰が連なり、尾根が波打つ巨大な襞のように建ち並んでいた。後ろを振り返ると、そちらにも山々が連なっていた。峰々の灰色の岩肌が、大きく西に傾いた日差しを受けて、半ば輝き、半ば影に暗く沈んでいた。

 そこは岩がちな土地だった。細い川が流れ、流れに沿って、背の低い灌木の茂みが点々としている。剥き出しの岩が至るところに突き出ていて、その間に広がる痩せた土には、白や黄の小さな花々が散らすように生えていた。どこを見ても、人里らしきものは見えなかった。

 コダマは振り返ると、フチに目を向けた。

「ここまでも、来たことがあるのか?」

 訊ねると、フチは頷いた。

「ああ。このあたりは、まだ我々の里に近い。だが度々来るということではない。一度だけだ。」

 コダマは頷いて、ふたたび前を見た。遠くを見る眼差しが、不思議と精悍な印象を与えた。ハヤテはしばしその横顔に見入った。

 族長の館を出て、すでに四日が経っていた。いまこの場には、ハヤテとコダマと、フチしかいなかった。シズクは館を出る時に、異邦人の世話をフチに任せ、元いた村に帰ったのだった。

 一行は五日ほど族長の館に滞在した。両界の狭間でする仕事の許可については、呆気なく思えるほど簡単に了承された。一つの村で決定したことは、よほど大きな理由がない限りは覆されないということなのだろうか。

 コダマはすぐにでも仕事をはじめたかっただろうが、族長は滞在し、疲れを取るようにと強く勧めた。コダマはそれを受けたのだが、実際のところ、これは一種の取引のようだった。

 滞在して最初の日に、コダマの下に怪我人が連れてこられた。鎌で切ったらしく、脛に深い傷ができていた。治療師であり、しかももてなしを受けている身であるからには、コダマはもちろん治療を施した。氏族の人々は喜び、秘術師に深く謝意を示し、ますます多くの珍味を捧げた。

 その次の日も怪我人が訪れた。秘術には消耗が付き物であるから、コダマは疲れていた。それでも治療を施した。やはり治療師たるもの、治療を望む者がいて、それを無下にすることはできないのだろう。

 だが三日目にも怪我人がコダマの下を訪れると、さすがに疲れ、厭気いやけを感じたらしい。それも怪我と言ってもそれほど深くなく、本当なら自然に治るのを待つような傷だったから、なおさらだろう。

 おそらく、治療は仕事の許可と滞在への支払いだったのだろうとハヤテには思われた。贈与の体裁を取ってはいるが、そのようにしか見えなかった。やがて、これ以上大したことのない傷を治療させられてはたまらないと、コダマがいよいよ旅に出るのだと族長に告げると、族長は滞在と治療に感謝し、旅の手配をし、食料も与えた。

 ハヤテは、実のところ旅立ちを残念に思っていた。コダマに仕事をさせてやりたいという思いはあるものの、族長の館での滞在は楽しかった。昼間は若い連中と遊んだり仕事を手伝ったりし、夜は遅くまで淫らな遊びをして楽しんだ。シズクとは毎晩遊んだし、族長とも床を共にした。

 そうした夜の遊びに、コダマは一度も加わりはしなかった。族長の広間に、少年らとフチとともに滞在した。しかし興味がないわけではなく、若い連中が暮らす長屋に出かけるハヤテとシズクを、いつも物欲しそうな顔で見送っていたのだった。コダマの羞恥心はなかなか根深いなと、ハヤテは思った。

 旅の間、一行は途上の村で宿った。すでに人が送られていたようで、いつでも村の広間で暖かな歓迎を受けることができた。もちろん、治療を受けるべき怪我人も館に連れられていた。コダマは食事をし、治療し、それから休んだ。

 里で泊まったのは三日だけだった。そしてこの日の朝に、一行は最後の村を出た。

 そんなこんなを思い出しながら、ハヤテは周りの風景を見ていた。そこは荒涼としている。山を登るにつれて、岩場が増えていった。ごつごつとした岩が剥き出しになっているこのような景色は、ハヤテがこれまで旅してきたどんな場所とも似ていなかった。寂しさが漂ってはいるが、それよりも無骨な力強さ、荒々しい美しさが感じられた。

 そうやってハヤテが景色に見入っていると、フチが口を開いた。手を目の上にかざし、西に落ちようとしている太陽に顔を向けていた。

「もうじき暮れる。そろそろ寝床を考えたほうがいい。この尾根を降りよう。向こうの茂みがちょうどいいと思う。」

 フチは一行のいる場所から下ったところにある、灌木の茂みを示した。コダマが頷くと、フチは先に立って歩いた。

 茂みといっても、腰ほどまでの高さのものだった。それがいくらか密集している。フチは腰に下げていた鉈で下草をいくらか刈り取ると、今度は灌木の枝をいくらか払い、空いたところに草を積んだ。ハヤテもその仕事を手伝った。

 コダマはどうやらいまいち勝手が分からないようで、そわそわとして落ち着きがなかった。やがて近くの小川で水を汲むようにとフチに言いつけられると、うれしそうに従った。そのさまが先輩の手伝いをして喜ぶ子どものようで、ハヤテは思わず笑みを零した。

 一行は火を使わず、冷たい食事を取った。食事の間、コダマはもう目的地が近いと話した。

「近いって、どのくらい近いんだ。」

 ハヤテが酒を飲みながら訊いた。コダマはある方角を見て、眉根を寄せた。

「たぶん、明日の昼頃かな。遅くても夕方には着く。」

 この日の昼頃に、コダマは一度術を使って、境界の場所を再確認していた。そのせいで長い休みを取る必要ができたのだが、必要な仕事らしい。しばらく人里で暮らしているうちに、目的地の場所が分からなくなってしまうということだった。

 まあ、とコダマは呟く。

「おれが足を引っ張らなけりゃ、だけど。ちょっと自信ないなあ。」

 いじけたような声に、ハヤテは笑った。コダマは少しむっとした顔をしながらも、苦い笑いを浮かべていた。

 道なき道は、小柄な秘術師には険しかった。このあたりは岩場で、どの氏族も拠点を持っていない。黒鱗族の里が近いから、訓練中の少年たちはこの土地で滞在し、山野での活動を学ぶのだそうだが、普段は誰も暮らしておらず、通ることもないところだった。手を使って登らねばならない場所も多くあり、力仕事に慣れないコダマの手足には、小さな切り傷がついていた。

 ハヤテは傷を見つめながら笑った。

「まあ、怪我しても大丈夫だろ。治療師さまがいるんだ。」

「治療師が怪我したら、誰が治療師を治すと思ってるんだ。」

 コダマはそう言って、冗談交じりに睨めつけた。ハヤテは小首をかしげた。フチも不思議そうに眉を上げている。

「治療師って、自分を治療できないのか。」

 ハヤテが言うと、コダマは頷いた。

「呪術には精神の集中が必要だからな。血ぃだらだら流しながら、瞑想なんてできないだろ。」

 ハヤテは、ああ、と呟いた。コダマは続ける。

「自分の治療は、理屈ではできるよ。この手足の傷だって治せるさ。だけどこんな傷、別に呪術で治さなくても自然に治るだろ。でも呪術で治さなきゃいけないような怪我があったら、呪術なんて使えないんだ。まあ、鉄のような意志の力があったらできるかもしれないけど、おれには無理だね。」

 へえ、とハヤテは呟くと、コダマの横顔をまじまじと見つめた。秘術師は自分の手足についた傷を見ていて、ハヤテの視線には気づいていなかった。普段は少年らしいコダマだが、自分の専門である呪術の話をする時には、いつも何か真剣で凛々しい面持ちになる。この若い秘術師が他人ひとの腕の中ではどんな顔をするのか、ハヤテは見てみたい気持ちになった。

 ふとコダマは視線を上げると、ハヤテを睨んだ。

「なんだよ、なんでそんなに見てるんだ。」

「いやあ、かっこいいなあって。まじないのことを話してる時のお前、なんか凛々しくってかっこいいよな。」

 おだててやると、コダマはくしゃりと顔をしかめた。笑顔になりそうなのを抑えて、無理やりおこった顔を作ろうとしている感じだった。

「かっこよくなんてないだろ、おれなんて。自分だって器量よしとは思わねえよ。」

 コダマは両手で頬を軽く捏ねるように触る。可愛らしい仕草に、ハヤテは口元をにやりと歪ませてしまう。するとコダマはまた睨んだ。

「なんだよ、なんで笑ってんだ。――あ、お前、いやらしいこと考えてたんだろ。」

「なんでだよ。そんなこと考えてねえ。まあ、お前がやりたいってんなら、喜んでお相手するけどな。」

 ハヤテは笑顔を向けた。コダマは顔を赤くして視線を逸し、一瞬だけ黙ったが、すぐに手を振って腰を浮かせた。

「いやだね、今夜は野宿だってのによ。明日も早いんだ。とっとと寝よう。」

 そう言って、コダマは用意された寝床に向かう。続いてフチもぱっと立ち上がる。ハヤテはゆっくりと腰を上げ、フチについていこうとした。すると氏族の青年は足を止め、ちらりと振り返った。

「あまりからかうのは逆効果ではないかな。」

 フチはあきれたような苦笑を浮かべていた。ハヤテは小さく笑って肩をすくめた。

「いやあ、あれは脈ありだと思うね。」

 ハヤテが小声で答えてから、二人は連れ立って、すでに横になったコダマの両隣で横になった。
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