境への旅

火吹き石

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12.前夜

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 朝早くから起き出して、一行は慎ましい朝食を取った。それから移動をはじめる。コダマが示す方向へと、フチが導いていく。荒涼とした山地にある歩きやすい箇所を、氏族の青年は熟知しているのだった。ときおり思い出すように立ち止まりながら、ほとんど迷うことなく歩いた。

 一旦山を登った後、いまはひたすら下っていた。コダマは、狭間はきれいなふちのある、小さな滝のそばにあるはずだと言った。大まかな距離と方角を示すと、フチはその場所を知っていた。少年時代に訪れた水場の一つのようだった。

 昼頃に長い休憩を挟み、それからまた歩き出す。

 移動している最中、コダマは何度も足を止めては、フチを呼び止めた。そして、そちらではなく、あちらに境界への扉が開いているのだと言う。それに対してフチは決まって、秘術師の指す方向には切り立った崖や難しい岩場があるから、遠回りをしなければいけないのだと説明した。言われて渋々コダマは引き下がるのだが、心残りそうに後ろを見るのだった。

 そのやり取りを何度も目にして、やがてハヤテは笑いながら口を挟んだ。

「コダマ、ここはフチに任せておけよ。お前、ぜんぜん道が分かってないじゃないか。」

「だけど、あっちに境界があるんだ。」

 コダマはそう言って、遠くを指差す。

「だから、そっちには崖だかなんだかがあるんだろ。」

「そうなのか?」

 コダマがフチに目を向けると、黒鱗族の青年は苦笑しながら頷いた。ハヤテは腰に手を当て、やれやれと呟いた。

「お前、意外と鈍いよな。そんで頑固。聞き分けのないちびさんだな。フチがいなかったら、おれたち野垂れ死にしてるな。」

「分かった、分かった。」

 コダマは顔を赤らめて、半分笑いながらも、苛々と手を振った。

「もうフチに任すよ。おれはどうせ異邦人さ。土地の人に任せるよ。」

 ハヤテは笑い、フチも苦笑を零した。

 それから一行は歩き、日が大きく傾く頃に、ある川に行き当たった。こんもりとした林が、流れに沿って生えていた。それが目的の淵から流れる川らしかった。

 川を遡って歩くことしばし、コダマがそわそわしだした。さらに歩くと、やがて川の源に辿り着いた。

 林の向こうに岩壁が見え、そこを白く泡立つ水が流れ落ちている。崖の上を見上げれば、木々の梢が張り出していた。滝壺は木々の陰になって暗い色をしているが、それほど深そうには見えなかった。全体として変哲のない景色に見えたが、あたりにはみょうな白い霧が漂っていた。

 岩壁には、人の背丈よりもいくらか高い、深い裂け目が走っていた。滝の流れが千々に裂けた帳のように、その裂け目を半ば覆っている。子どもを連れてきたら、きっと真っ先に探検したくなるだろう、見事な穴だった。実のところ、ハヤテもその中を覗いてみたいとうずうずした。

 ハヤテが景色を見ていると、フチが声を上げた。 

「あれは、何だ。」

 ハヤテはフチを窺った。黒鱗族の青年は、顔にありありと困惑を浮かべていた。その視線を追うと、滝か、それとも岩壁の裂け目を見ているようだった。

 コダマもフチを振り返った。

「何って、何が。」

「あの裂け目。あんな物、以前はなかったぞ。ちょっとした窪みならあったと思うが。」

 フチが言うと、コダマはその暗い穴を見つめて、息を呑んだ。

「じゃあ、あれが境界への門ってわけか。」

 コダマは唸った。

 ハヤテは首を捻った。どう見ても、岩壁にあるのは、ただの裂け目のようにしか見えなかった。黒々と深く見えるが、どうせ何歩か進めば壁に突き当たる、そんなものにしか見えない。だが秘術師が、それを境界への門と呼ぶからには、あれが異界への門なのだろう。

 みょうなところを上げるなら、とハヤテは思った。あたりに漂う白い霧が、何か不穏な感じがした。霧とは言っても、水気は感じない。水飛沫というわけでもない。砂埃のような白い粒が漂って見えるのだが、手を伸ばして掻き混ぜてみても、少しも揺れ動かなかった。手で触れられず、肌に感じることもできず、匂いもなかった。それが尋常の霧ではないということは、呪師でないハヤテにも分かる。

 これが異界の霧なのだろう。物語の中で、登場人物が異郷へと迷い込む時には、白い霧に包まれるのが決まった型だった。とすれば、ハヤテは物語の登場人物のように、これから異界へ行くのだ。それは何か不思議と高揚感を与えるが、他方で恐ろしい気持ちもした。

 ハヤテはコダマを振り返った。秘術師は腕を組み、難しい顔をしていた。

「入るのか?」

 訊ねると、ううん、とコダマは迷うように唸った。

「どうしようかな。入るのは危険だから、少し準備がしたいんだけど。」

 そう言って、空を見上げる。崖と林に縁取られた空は、刻一刻と光を失っている。

 フチがコダマを振り返った。顔には心配の色が浮かんでいる。

「時間が押しているというわけでもないのだろう。今晩のところは、休んだほうがいいのではないか。疲れてもいるだろう。」

 そうだな、とコダマは頷くと、足を擦った。一行はそのまま、林で休むことに決めた。

 コダマは滝壺の水を汲もうとしたが、フチが止めた。隠り世に近いこの場所を、明らかに警戒しているようだった。ハヤテもさすがにこの場で水を汲む気にはならなかった。コダマとしても水が飲めるかどうか確信はないようで、止められると反論はしなかった。水辺に行き当たった時に瓶に水を汲んでいたから、困ることはとくにはなかった。

 簡単な夕食を終えると、一行は休んだ。コダマとフチがひどく緊張していたから、ハヤテはつとめて気楽に振る舞ったが、その実、内心では心配していないわけではなかった。
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