精霊の庭

火吹き石

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6.王

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 次にホムラが起きた時、イシコロはすぐに目覚めなかった。最悪の事態を恐れ、ホムラがその口元に耳を近づけると、微かに吐息が感じられた。ホムラは一息ついたが、心やすらぐにはほど遠かった。何度も呼びかけてようやくイシコロは目覚めたが、首を起こすことも辛そうだった。

「イシコロ、なにか食おうな。そうすりゃ元気になる。」

 ホムラは水を汲んでくると、イシコロの肩を抱いて起き上がらせ、大きな木から伸びる太い根にもたれさせた。それから、パンを割って水に浸し、それをイシコロの口に入れてやった。

 イシコロはそれを長いこと口に含んで湿してから、顔をしかめながら噛んだ。まるで樹皮でも噛んでいるのではないかというような、苦々しい顔だった。飲み込むと、ホムラは瓶から水を飲ませてやった。ホムラはなにも食べなかった。ただイシコロが心配で、自分の分を食べることなど、思いもよらなかった。

 ホムラはイシコロを再び寝かせると、傍らに膝をついた。イシコロは苦しげに息をしながら、ホムラを見上げていた。

「おれに、なにができる。」

 ホムラはイシコロにたずねた。イシコロは、腕を上げようとしたが、その力もなく、上がらなかった。ホムラは恋人の手を握った。その手は、骨の内で火が燃えているかのように熱かった。

「愛している、イシコロ。愛している。」

 ホムラは囁きかけた。イシコロが、少し笑みを零したように見えた。それから目を瞑ると、苦しげな寝息を立てはじめた。

 それから、ホムラは啜り泣いた。

 泣き止むと、ホムラは目を、頭上を覆う枝葉に向けた。緑の葉の間から射す金色の光が美しく、腫れた目に眩しかった。

 これからどうしようかと、思いを巡らせた。おそらくイシコロを寝かせていても、熱は下がらないだろう。しかし大柄な相方を背負って歩けるとも思えない。二人で移動できないとすれば、ホムラ一人で歩き、精霊を見つけ、イシコロの下に連れて来るべきかもしれない。だが、イシコロを一人で置いて行くと考えると、身を裂かれるように辛かった。

 もしもイシコロが死ぬのであれば、そばにいておきたかった。孤独に死なせることなど、とてもではないが、できなかった。

 そうしてぐずぐずと考えていると、背後で枯れ葉を踏みしめる音が聞こえた。ホムラは飛び上がって、振り向いた。太い木々の間に、堂々たる大鹿がいた。

 その鹿は、現し世の森で見た鹿よりも、はるかに大きかった。その体高は見上げるほど高く、巨躯のイシコロの背よりもさらに高い。二本の大きな角はいくつも枝分かれしており、不思議なことに、木の枝のように緑の葉を茂らせていた。その毛皮は枯れ葉の色をしており、朝露を散らしたように、美しくつやつやと輝いていた。

 ホムラは息もできず、目を見開いて大鹿を見つめた。すがるようにイシコロの肩を掴み、揺すって起こそうとした。だがイシコロは起きず、暗い眠りに捕らわれたままだった。

 大鹿はゆっくりとした足取りで、二人に近づいてきた。ホムラは言いようのない恐れに襲われた。獣はあまりに美しく、神々しかった。精霊が一つ足を進めるごとに、ホムラは自らが卑小になっていくように感じられた。すぐにでも逃げ出したかったが、それを押し留めていたのは、眠るイシコロだった。恋人を後ろに残すことなど、できるわけがなかった。

 やがて大鹿がホムラたちのすぐ近くにまでやってきた。そしてホムラが瞬きする間に大鹿は消えていなくなり、代わりに、一人の人間と思える者がそこに立っていた。だが、もしもそれが人間なら、異様な出で立ちをしていた。

 その人は巨体のイシコロよりも一回り大きく、がっしりとしており、さながら塔のよう、あるいはこの森の巨木のようだった。裸の上半身は筋肉に覆われ、腰に苔の色をした布――それとも苔そのもの――を巻いている。片手に太い杖を持ち、その杖からは生きた緑の枝葉が伸び、滴る露に輝いていた。まるで若木をそのまま杖にしているようだった。

 だがなにより異様なのは、その頭だった。その人は、どう見ても本物としか見えぬ、鹿の頭を被っていた。あるいは被り物ではなくて、鹿の頭を持った人間なのだろうか。それとも、人の体を持った鹿と言うべきなのだろうか。ホムラには判断できなかった。

 鹿の頭の者は、その目をホムラに注いでいた。ホムラは畏れ、たじろぎ、戸惑いながらも、すがるような気持ちを胸に懐きつつ、口を開いた。

「私は黄金火の氏族のホムラ。そしてここに横になっておりますのは、青枝の氏族のイシコロ。私たちは青枝の精霊を求めてこの地へ参りました。あなたが精霊であるなら、私たちをお助けくださいますよう、お願い申し上げます。」

 ホムラは跪いて敬意を表した。鹿の頭の者は、くぐもった声で答えた。

「我らは我ら。この森とあの森との主であり、主に仕える者。それが青枝の精霊であるというのなら、我らは青枝の精霊であるのだろう。

 だが、お前は黄金火の氏族の者。なぜ黄金をよろう火竜に祈願せぬのだ。人間は、自分たちの精霊を定めては、いつもそれに願いをかけるのではなかったのか。」

 精霊の言う火竜が、ホムラの氏族の精霊である火竜を指していることは明らかだった。青枝の精霊が黄金火の精霊のことを知っているということを、ホムラは意外に思った。そしてはたと、精霊と氏族の関係は知っていても、精霊同士の関係がどのようなものなのか、知らないということに思い至った。

 だがいまは、そうした不思議に思いを馳せる時ではなかった。ホムラは青枝の精霊の問いに答えて言った。

「私はまだ黄金火族の一員ですが、やがては青枝の氏族に加わる者です。また、このイシコロの恋人です。私はまだあなたのお名前を存じ上げませんが、あなたの他にすがることのできる方はおりません。」

 鹿の頭の人は、喉を鳴らした。まるで笑っているようだったが、どうにも人間の笑い声には聞こえず、風と水が虚ろな洞穴で戯れて立てているような、不気味な音に聞こえた。

「そしてお前はまた、誓った。光に身内を焼かれるお前の恋人に、死ぬまで仕えると。」

 ホムラは一瞬、精霊がなにを言っているのかが分からなかった。だがすぐに、十日以上も前に、村の広間でなした誓約であると気づくと、驚いた。

 鹿の頭の精霊は、また喉を鳴らした。

「お前は大地にかけて誓っておきながら、大地の精霊がその誓いについて知らぬと思っているのか。若者よ、誓いを立てるときには気をつけるがいい。我々はお前の誓いを聞いているのだから。」

「でしたらなおさら、お願い申し上げます。私の恋人をお救いください。私ができることならば、あるいは持っているものであるならば、なんであれ差し上げます。」

 ホムラは腰から銀の柄の短剣を鞘ごと抜くと、顔を伏せ、それを捧げ持った。精霊が言った。

「我らはお前からなにも求めない。また、我らはお前の恋人の身内の光を消すこともしない。それはお前の恋人を殺すことになろうから。」

 ホムラは顔を上げた。

「まさか。イシコロは火に取り憑かれているから死にそうなのですよ。あなたが、その火を取り除いてくれると思ったから、ここまではるばる参ったのです。」

 精霊はまた喉を鳴らした。

「命の根の一つを断って、生きていられるはずもなかろう。光がなく、どうやって人が生きるというのだ。我らはお前の恋人から火を奪うことはできるが、お前はそれを望むまい。」

「なら、誰がイシコロを助けられるのですか。」

 ホムラは思わず精霊への畏れを忘れ、叫んだ。鹿の頭の精霊は笑った。

「お前が助けるがいい、黄金火の若者よ。お前と、そしてその者自身とが。その者には、我らの命の息を少しばかり分け与えよう。その者は苦しみながらも、長く生きることができるだろう。お前は死ぬまで、誓いを守り、恋人に仕えるがいい。」

 精霊はイシコロのそばに来ると、片膝をつき、若者の頭に片手を置いた。ホムラは、あたりに強い匂いが立ち込めるのを感じた。それは大地とそこから生え出るものの、かぐわしい香りだった。

 精霊が立ち上がり、退くと、イシコロが目を開けた。ホムラはイシコロの顔を覗き見た。恋人の顔はなお熱によって赤く、少しばかりぼうっとしていたが、その目には生気が宿っていた。

「よかった、イシコロ。元気になったんだな。」

 ホムラはそう言うと、精霊を振り返った。だが、そのすがたはどこにも見当たらなかった。ホムラは素早く立ち上がると、左右に視線を走らせた。

 ホムラは不思議に驚嘆しながらも、イシコロのそばに膝をついた。イシコロはしっかりと目を開けて、ホムラを見つめていた。ホムラが顔を覗き込むと、イシコロは笑った。

「精霊に、会えたんだな。」

「ああ。よかった。元気になったんだ。よかった。」

 イシコロは弱々しく微笑んだ。

「違うよ。元気になったんじゃない。」

 そう言うと、呻きながら上体を起こそうとした。ホムラは肩を貸して座らせた。イシコロの体は、いまもなお、とても熱かった。ホムラはイシコロがいったいどうなったのかと思い、眉根を寄せた。すると、ホムラは笑った。

「おれはこの先、元気にはならない。ずっとこのままだ。そんな気がする。きっと、この熱は引くことがないんだ。青い角の王もおっしゃっていただろう。」

 ホムラは驚いて目を見開いた。

「あの鹿の頭の人のことかい。お前、起きていたのか。」

「いや、寝ていた。でも、ちゃんと聞こえていた。どうも、おれは呪い師になったようだな。寝ながら物事をしっかり聞くなんて、呪い師にしかできないことだろう。」

 ホムラは困惑した。イシコロがなにを言っているのか、ちっとも分からなかった。それで再び、元気になったんだよな、と同じことをたずねた。

 すると、イシコロはゆっくりと首を横に振った。

「おれは元気にならないんだ、ホムラ。ずっと火を身内に宿す定めだ。これまでと同じような体には、きっと戻らないだろう。衰えていくことはあってもな。」

 ホムラは言うべきことが見つからず、ただイシコロの肩を抱いて、じっとしていた。

 あたりに霧が漂いはじめ、一息ごとに濃くなっていった。イシコロはどこともなく見回して言った。

「どうやらここともお別れらしい。」

 そして顔をホムラに向けて、続けた。

「ねえホムラ。おれが小さく、しわくちゃになっても、おれのこと、それでもすきかな。」

 いきなりそんなことを聞かれて、ホムラは目を丸くした。

「なんだって、そんなこと。」

「おれは元気にならないんだよ。たぶんね。少しは元気になるかもしれないけど。これから力は弱くなっていくよ。おれが縮んじゃっても、ホムラは――」

「おれは、どんなことがあっても、お前がすきだよ。」

 ホムラはイシコロの言葉を遮って言った。恋人の真正面に向かい、両肩に手を置いて、その目を見つめた。

「おれはお前がすきなんだ。お前の体つきがすきなわけじゃない。おれは死ぬまで、お前に仕える。」

 ホムラは強い口調で言って、イシコロの肩を抱いた。イシコロは微笑んで、ホムラに体重を預けた。

「これから、おれはもっと弱っていくからな。」

 イシコロは言った。

「身内の火を治めるのに、力を全部使っていかなきゃならないだろうからな。」

「だったらおれが支える。できることならなんだってやる。他のやつらだっているんだ。なにがあったって大丈夫だ。生きてりゃ、なんとかなる。」

 二人は抱き合ったまま、座っていた。霧は濃くなり、やがて薄くなった。金色の光は薄れ、薄い暗がりが取って代わった。霧が晴れると、そこは元の、現し世の森だった。

 ようやくイシコロから身を離すと、ホムラは見上げた。木々の枝葉を透かして、白い日の光が差し込んでいる。日は高く、どうやら昼頃のようだった。すぐ近くに、川の流れる音がしていた。

 ホムラはイシコロに肩を貸して、ともに立ち上がった。

 ふいに、イシコロがホムラの頬に口づけした。ホムラもそれに、口づけで答えた。

 それから、二人は川のあるほうへと歩き出した。
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