精霊の庭

火吹き石

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5.精霊の森

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 ホムラとイシコロは丘に並んで立ち、前方を見やった。連なる丘と、木立こだちと、曲がりくねる川の向こうに、夕日に照らされて輝く高い山塊と、その麓に広がる深い森がある。そこが精霊の住まうとされる森だった。人里から何日も離れたところで、見渡す限りどこにも、人も建物も見えなかった。

 村を出て、すでに四日が経っていた。イシコロは、熱の割には元気だったが、それでも体力が少しばかり衰えていて、平時の速さで歩くことはできなかった。とはいえ、予定よりもひどく遅れているというわけでもなかった。

 二人は村長の言った通り、人里を歩く間、二人の戦士に付き添われていた。戦士らは、二人とも壮年の人物だった。若者組の誰もが選ばれたがり、かといって全員を連れて行くわけにはもちろんいかず、二人に絞ることもできなからだった。それに、ホムラたちが滞在することになる各村の長とのやり取りを含め、旅をするに当たって、歳上の者のほうがなにかと都合がいいだろうと村長が判断したことにもよる。

 その二人とはこの朝に別れ、ホムラとイシコロは持てるだけの食料を持って、二人だけで出かけた。そして夕方になって、ようやく目的地を見渡す丘に着いたのだった。順調に進めば明日の朝のうちに、森に入ることができるだろう。

 ホムラは、イシコロを振り返った。

「大丈夫かい、イシコロ。」

 ホムラは言った。自分自身、旅で疲れていた。病身のイシコロには、もっと辛いだろう。

 イシコロは弱々しい微笑みを浮かべ、答えた。

「大丈夫。さあ、もうじき日が暮れる。寝床を探さなくっちゃ。」

 二人は灌木の茂みを見つけると、枝を払い、下草を刈り取って積み上げ、そこに外灯を広げて寝床にした。二人は身を寄せ合わせて眠った。

 日が昇る少し前に起き出すと、二人は慎ましい食事を取った。固く焼いた塩気のあるパンに、干した果物や堅果の類だけの、冷たい食事だった。それが済む頃に、日があたりを照らしはじめた。二人は丘を下っていった。

 やがて朝の間に、二人は森の手前にまで来た。ホムラは木々を見上げた。その森の木々は背が高く、幹は太かった。こんなに立派な木を、ホムラは見たことがなかった。単に人手が入っていないからこうして生長しているのか、それとも精霊の住まう森だからなのか、いずれにせよ、ふだん見る木の大きさではなかった。

 イシコロは跪くと、木々を見上げ、小声でなにかを囁いた。精霊への祈願だろう。ホムラはそれを聞かぬよう、気を逸した。精霊の名は、氏族の外の者には禁忌だった。

 祈りが済むと、イシコロは立ち上がり、振り返って、ホムラに言った。

「さあ、行こう。」

 そうして、二人は深い森に足を踏み入れた。イシコロが先を歩き、ホムラは後ろに続いた。ここは青枝族の精霊が住まうという地であるから、青枝の者が先を行くのが適切だろうとホムラは考えた。

 森に入ってしまえば、これといって目標があるわけではなかった。精霊の住まいを示すものは、どこにもない。もしかしたらイシコロには秘伝の知識があるのかもしれないが、とにかくホムラには、なにも目印はなかった。だからいまはただ、イシコロに付いていくだけだった。

 イシコロの体力は衰えていた。魔力による熱病と旅の疲れで、休むことが増えた。いつ太い根に足を取られて転ぶともしれないから、ホムラはじっとイシコロの足取りに気をつけ、常に一歩後ろを歩いた。

 森に入ってすぐ、川を見つけると、二人はそこからできるだけ離れないようにして歩いた。帰りの道標みちしるべになるし、飲み水も必要だったからだ。

 二人は口数少なく森を歩いた。しばらく歩くと、二人は近くに森の生き物が集まっていることに気がついた。様々な色の鳥や、蝶や、小さな羽虫たち。木々の間や足元には、鼠や他の小さな獣が走ったり、跳んだりしていた。

 だがなにより目を引いたのは、立派な角の鹿たちだった。何頭もいたが、それぞれが族長のような風格で二人のことを見ていた。鹿は青枝族の象徴的な精霊であるから、二人は目を伏せて敬意を表した。

 イシコロが、鹿たちに言った。

「わたしは青枝族のイシコロ。あなたがたの王の助力を求め、この森に来ました。わたしどもに道を示してはいただけませんか。」

 鹿たちは、じっと立ったまま、身動き一つしなかったが、すぐに木の陰に隠れてしまった。だが立ち去ったわけではなく、陰からこちらをしっかりと窺っている。そのさまが侵入者を警戒しているように見えて、ホムラはぶるっと身震いした。

「おこっておられるんじゃないかい。」

 ホムラは恐る恐る囁いた。人ならぬ者は、人里にはあまり現れない。ふだん見かけるのは、小さな虫や鳥の類だけだ。これまでにも鹿を見ることはあったものの、それは村のすぐ外や道の上でのことであり、精霊の森にまで踏み込んだことはない。もしや住まいを侵されたと、森の者らがいかりを覚えているのではないかと、気が気ではなかった。

 しかしイシコロは微笑むと、ホムラに囁いた。

「大丈夫だよ、ホムラ。おこってはおられない。敵意も感じない。たぶん、人が来たから、何事かと思って見に来られただけだろう。」

 ホムラは眉を上げた。

「本当かよ。おれには、なにがなんだか分からないな。本当に、おこってないのか。」

「たぶんね。きっとおこっていたら、おれたちなんてもう追い出されているよ。それに精霊が、人間みたいにおこるものか、おれには分からない。」

 ホムラは首を傾げた。人ならぬ者ら、異類を目の前にして、イシコロは落ち着き払っていた。それはこの世の事柄しか知らぬ戦士というよりも、あの世に精通した呪術師の態度に思えた。親しい恋人に、思わず畏怖を感じてしまう。

「呪術の訓練のおかげかい。」

 しばらくして、ホムラは呟いた。イシコロは肩をすくめる。

「さあ。そうかもしれない。けど、変に期待しないでくれよ。自分の魔力を抑えるので精一杯なんだ。呪術なんて使えないからな。」

 それから、二人は歩き出した。森の生き物も、二人を遠巻きに見ていた。

 日がな一日歩き、日が暮れはじめると、二人は足を止めた。夕食を取り、大きな木の下で、柔らかく降り積もった古い枯れ葉の上で横になった。木々の枝の間から、星空がいくつもの切片せっぺんとなって見えた。

 そうして旅を続けていると、森に入ってから、早くも二日が経った。一向に精霊の気配が感じられないので、ホムラは気が急いて仕方なかった。

 二人は、いったいどこを歩いているのか、自分たちでもよく分かっていなかった。川沿いには歩いていたし、浅い池や沼地に当たって川を辿れなくなった時にも、しなやかな枝や草を結んで、目印を作ってはいた。だから、どこを歩いているのであれ、印と川を辿れば帰ることはできるだろう。だが、いったい、あとどれだけ歩けばいいのかは、まったく検討もつかなかった。

 二日目の昼頃に、薄っすらと霞が出はじめた。ホムラはみょうに思って、空を見上げた。木の葉を透かして見える空は青く、太陽は輝いていた。朝方ならばともかく、昼に霧が出るのはおかしかった。

 イシコロも同じことを感じているようで、眉をひそめてあたりを窺っていた。二人は足を止めた。ホムラの手は、村長からもらった銀の柄頭つかがしらの短剣にかかった。

 すると、ホムラの手の上に、熱病に冒されたイシコロの手が重ねられた。

「剣は必要ない。そういう、いやな感じではない。人が悪さをしているというわけじゃあない。」

 ホムラはためらいがちに柄から手を離したが、警戒心を解くことはできなかった。

「そいつは、お前の呪術師としての才覚が言わせているのかい。」

「どうだろう。そうかもしれないな。」

 二人は黙って、自分たちを取り巻く霞を見ていた。ふと、イシコロがおもむろに手を上げ、ある方向を指した。そして眉根を寄せて、考え込むような様子をしながら、言った。

「あっちから、なにかを感じる。よく分からないけど、あっちに行ったほうがいいと思う。」

 ホムラはイシコロが指を向けるほうを見たが、なにも感じられず、とくに変わったところは見えなかった。だがイシコロは、少しは呪術の訓練を受けたわけだから、ホムラよりもこの世ならざる不思議には慣れているはずだった。それに、他に行くべき道を思いつきもしない。

 ホムラは相方に向けて頷いた。

「ここはお前に任せるよ。先を歩いてくれ。ついて行くよ。」

 そうして、二人は歩き出した。イシコロが先を行き、ホムラはほんの一歩遅れてついて行く。霧はいや増し濃くなっていき、やがて十歩先を見通すことができぬほどになった。

 歩きながら、沈黙を破って出し抜けに、イシコロが言った。

「強い匂いがするね。土の匂いか、それとも木の匂いかな。いい匂いだ。」

 ホムラは眉をひそめた。空気を嗅いでみても、それほど強い匂いは感じられなかった。

「そうかな。さっきまでと変わりないと思うけど。」

 ホムラがそう言うと、イシコロは肩越しに振り返った。ふだんは感情をそれほど表さぬ顔に、ありありと驚きの表情が浮かんでいる。

「本当に? こんなに匂いがするのに?」

 ホムラはまた空気を嗅いだが、同じことだった。

「お前、鼻が悪くなったんじゃあないだろうな。けど、匂いが分からなくなるならともかく、匂いがするようになることなんてないか。」

 少し考え込んでから、イシコロが言った。

「魔力のせいかもしれない。まじない師さまが言っていた。呪い師は、ただの人には見えないものや聞こえないものが、見えたり聞こえたりするのだと。匂いもそうなのかもしれない。」

 イシコロの悩む声が、思いの外、寂しげに聞こえた。ホムラは大股に歩いて恋人に追いつくと、その肩をぎゅっと掴んだ。

「きっとよくなるよ。精霊のお力があれば、きっとよくなる。この熱だってなくなるよ。」

 それから、二人は黙って歩いた。霧はやがて薄れていった。ホムラはほっと息をついた。このまま濃い霧に包まれていたら、まったく道を見失って、迷ってしまうだろうと心配していたのだ。

 だが霧が薄れると、二人は足を止めた。目を見開き、振り仰ぐ。そこは確かに森だったが、さっきまでいた森とは違っていた。

 まず木々が途方もなく大きかった。まるで一本一本が塔のように聳え立っている。空は青々と茂る枝葉に遮られてほとんど見えず、小さな隙間から、赤みを帯びた黄金色こがねいろの光が差し込んでいるばかりだった。だがそうして空から遮られているにも関わらず、森の中はほの明るかった。ホムラが見たところ、どこにも光源はなかった。まるで空気そのものが光っているとでもいうような雰囲気だった。

 地面には枯れ葉が積み重なっており、柔らかく、あたりに大地の芳しい香りを放っていた。また、ところどころに苔や土を思わせる色をした、半透明の尖った石が頭を突き出していた。その宝石は、巨木の根本に、まるで茸かなにかのように群生していた。

 二人にずっとついていた鹿たちは、いつのまにかいなくなっていた。二人は立ち尽くして、言葉もなくあたりを見回していた。やがて霧がひとりでに、すっかり晴れてしまうと、ようやくイシコロが口を開いた。

「どうも、ここはかくり世のようだ。」

 ホムラは巨木や、その根本に生える石を見ながら、頷いた。

「そうだな。どう見ても、この世のものとは思えない。」

 そう言ってから、ホムラははっとしてイシコロに顔を向けた。

「じゃあ、ここに精霊がおられるのか。」

「そうだと思う。」

 イシコロはそう言って、跪くと、精霊に祈りを捧げた。ホムラはまた少し遠ざかって、言葉を聞かないようにした。祈りを終えると、イシコロが立ち上がった。二人は歩き出した。

 ようやく精霊に会えると思い、ホムラは喜んだ。しかしその喜びは、長くは続かなかった。

 隠り世の森に来てから、長いことさまよい歩いた。いったいどれだけの時間が経ったのか、分からなかった。というのもこの森には、夜も昼もないようだったからだ。木漏れ日はいつも黄昏のような黄金色で、木々の間にはほの明るい不思議な光がいつも漂っていた。とはいえ腹は減るし、眠りもする。そこから考えると、どうも二日か三日は経ったように思われた。

 食料は、もう半ばが尽きていた。最後に人里を離れてから、もともと十日と少しの食料しか持ってはいなかった。節約して食べてはいたのだが、それでも限度はあった。空腹はずっと感じていたし、これからは、もっとひもじい思いをすることになるだろう。幸いなことに、巨木の根本には決まって泉が湧き出しており、少なくとも渇きで死ぬことはなかった。

 だが食料よりも問題なのは、イシコロの体調だった。現し世の森を歩く間はこそそれなりに元気だったが、隠り世に来てから、いよいよ疲れが出はじめていた。顔は赤く、熱は高い。休憩を増やしたが、それで熱が下がるわけでもない。イシコロを蝕む魔力は、肉体の疲労によって、むしろ強まっているようだった。

 やがて、ホムラが肩を貸さねば、歩くことも難しくなった。

 ホムラは、イシコロを連れて旅に出たことを後悔した。旅に出れば、イシコロが苦しむことになることを分かっていたのだ。村に留まっていたら、このように苦しむことはなかっただろう。

 それでも旅に出ることを選んだのは、たとえ少しばかりやすらかだろうと、村に残れば死ぬ可能性が大きいからだった。それに、イシコロを一人で苦しめるのも心苦しかったのだ。苦しむならば、一緒に苦しみたかった。

 やがて、朝に目覚めても、木の根本で横になったまま、イシコロは起きられなくなった。ホムラが肩を貸し、ようやく座らせると、泉から汲んできた水を飲ませ、慎ましい朝食を食べさせた。だがそれからも、イシコロは立ち上がれなかった。イシコロの顔は真っ赤で、半ば眠っているかのようにぼうっとしていた。

「イシコロ、おれのイシコロ。」

 ホムラは恋人に熱い頬に、自らの頬を擦り付けながら、懇願するように言った。

「起きろよ。立つんだ。精霊を探さなくちゃいけない。出会えたら、きっとよくなる。」

 イシコロは悲しげに微笑んだ。そして、ぜいぜいと息をしながら答えた。

「ごめんよ。もう、立てそうにないや。」

「だめだ、だめだ。立つんだ。ほら。」

 ホムラはイシコロの体を抱いて持ち上げようとしたが、衰えても大柄なイシコロのこと、少ししか浮き上がらなかった。

 イシコロはホムラの手を取って、ぎゅっと握った。その手が火で炙られたかのように熱くて、ホムラは悲しんだ。

「ホムラ。可愛いホムラ。もう、旅は終わりみたいだ。」

「だめだ。言うな、そんなこと。」

「聞かなきゃならないよ、ホムラ。」

 イシコロはホムラの両肩を掴むと、自分に向き合わせた。

「旅は終わりだ。おれはもう、ほとんど歩けない。だからホムラ、お前は、帰らなきゃ。」

「そんなの、だめだ。立てよ。立つんだ。」

「ホムラ、二人で死ぬことはない。」

 ホムラはイシコロを睨みつけた。しかしおそらく、イシコロの言うとおりだった。イシコロの熱は、常人であれば死んでしまうようなものだった。これまでだって辛かったのだろう。きっともう歩けないのだ。そしてこのまま森にいるなら、死んでしまうだろう。

「もともと、村で死ぬ見込みが大きかったんだ。ホムラに助けられて、精霊を求めてここまで来た。もう、十分だ。自分でも分かる。魔力が暴れている。おれはもうじき、死ぬんだ。」

 そう言ってから、イシコロはホムラの額に口づけした。そして囁いた。

「いままで、ありがとう。」

 ホムラは首を振った。だが、それで現実を否定できるわけもない。このままでは、イシコロが死んでしまう。なんとかせねばならなかった。

「とにかく、休もう。休んだら、きっとまた歩けるようになるよ。呪い師さまだって、お前に魔力を抑える術を教えてくれたんだろう。」

「そうだな。でも、これは、もう――」

 言いかけて、イシコロは首を振った。

「いや、ホムラの言うとおりだな。まだ生きているんだ。生きている間は、頑張ってみようか。」

 それから、次に食事を取って眠るまで、二人は座ったり、横になったりして過ごした。イシコロは目を瞑り、瞑想に励んでいた。ホムラはそのそばで、恋人をずっと見守っていた。いまホムラにできることは、なにもなかった。

 しかしイシコロがつとめたにも関わらず、病は若者を蝕み、その精気を奪っていった。

 二人は寄り添って横になった。ホムラは、恋人の燃えるように熱い体に触れながら、声を上げずに泣いた。ここでイシコロが死ぬであろうことを、強く意識せずにはいられなかった。

 イシコロは身動きせず、話しもしなかった。か細い息が聞こえなければ、死んでしまっているようだった。ホムラはイシコロの体に腕を回し、その肩に繰り返し口づけした。
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