初陣

火吹き石

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1.口論

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 そこは小さな飯屋だった。部屋にはいがらっぽい煙が漂い、そこここに灯明壺の小さな明かりが灯っていた。調度の類は古びており、小汚い印象の店であったが、多くの客で賑わっている。壁際の席では数人の集まりがいくつもある。春先の夜は寒く、二つある火鉢の周りでは幾人もが肩を寄せ合っていた。

 店の中ほどではいくつかの食卓をくっつけて、十数の若い連中が集まっていた。その歳の頃は二十代の半ばから十代の終わりまで、年下の数人を除けば、みな肩から帯に通した剣を下げていた。この町の戦士団の団員たちだった。

 連中は飲み食いしながらしきりに話し込んでいた。中でもとりわけ声の大きかったのが、一人の小柄な人物だった。背丈が低く、顔立ちは幼いところのある若者で、ともすれば少年と見紛うような相貌そうぼうだった。だがその体つきは並々ならぬ鍛えようで、短衣の袖と裾から覗く手足は太く、はだけた胸元は分厚かった。話しながら盃を持った手を感情的に動かすたびに、腕や肩の筋肉が盛り上がって見えた。

 その若者タイヨウは、席を立って同僚を眺め渡しながら、語気荒く言った。

「団長は臆病だ。何であんなに戦士を出すのをいやがるんだ。おれたちは戦うために訓練してきたんだろ。それなのによう――」

 言って、タイヨウは盃をあおり、口元を手の甲で拭った。若者の顔は真っ赤で、ひと目で酔っているのだと知れた。そして実際、タイヨウは普段から酒をたしなんでおらず、酒には弱かった。

 かたわらの若者が苦笑しつつ、タイヨウの肩を掴んで座らせた。

「だからよ、それがおれたちの方針なんだって。何度も言わせるなよ。お前が一人でいきり立ったって仕方ないだろ。」

 タイヨウはその若者の腕を払うと、ふんと鼻息荒くにらんだ。

「そんな方針、糞喰らえだ。上の連中が動かないんなら、おれたちだけでも……。」

 そう言いつつ、タイヨウはふたたび席を立って集まった連中を見渡した。そしてその顔のどれもがあきれたり、苦笑したり、それとも不快そうにしかめられているのを見て、舌打ちした。

「お前らだって腰抜けだ。魔物が出たんだぞ。おれたちがやらなくって、誰がやるんだ。」

 魔物が出たという知らせは、〈霧の谷〉の近くにある農村からもたらされた。谷は異郷への道である、霧の土地の一つだった。それは不思議な土地で、入り込んだ者はどこか別の異郷へと迷い出てしまう。そこを通るのは、恐れ知らずの旅人や、故郷をなくした放浪者がおもだった。

 しかし霧の土地を出入りするのは旅人だけではない。そこは魔物が現れる土地でもあった。

 この地にはいくつかの霧の土地があるが、〈霧の谷〉はその一つであり、しかもタイヨウの住まう町にほど近いところにあった。というより、そもそもこの町自体が、本来は谷を監視するためにできた砦が成長して生まれたものだと伝えられていた。この地に住まう諸氏族の内、赤角族が建てた砦、それが核となって生まれた町なのだ。砦は〈谷守り〉と呼ばれ、それがそのままこの町の名前に引き継がれていた。

 魔物がすぐ近くにいるのだから、タイヨウはすぐにでも戦士を差し向けるべきだと思っていた。それこそが、タイヨウたちが訓練している目的なのだから、と。だが団長は、もっと慎重な方針を取っていた。

 曰く、魔物に無用な刺激を与えるべきではない。今回の魔物は、いまだ〈谷守り〉の町近くの農村には現れていない。ただ〈霧の谷〉から顔を出し、周囲を窺っているだけで、すぐに帰ってしまうかもしれないのだという。今回だけでなく、異形の魔物が現れたときには、まずは様子を見るということがずっと続く方針だった。

 その方針が、タイヨウにはまどろっこしく、臆病なものに思えた。

「魔物が出てきたんだ。おれたちの周りにいるんだ。いつ村にでも現れるかわかったもんじゃない。そいつを追い払わないで、おれたちは何のために訓練をしてるんだ。」

 タイヨウはそう言って、同僚をめつけていった。みなの顔は変わらず、タイヨウに賛同する者は一人もいなかった。クモが腹立たしげに首を振った。

「おれたちが刺激して、魔物がおこったらどうする。これまでだって魔物はちょくちょく出たんだ。ひと月かふた月に一度は出る。おれが団員になって七年、魔物と実際に戦ったのなんて十回もないくらいだぞ。放っておきゃあ、どうせどこかに行くだろ。」

「どこにって、どこに行くんだ。」

 タイヨウは肩をいからせて言った。この点が、もっとも腹立たしいところだった。

「氏族領に行くから、それで問題ないってのか。町の人じゃなけりゃ、どんな目にあっても構わないってのか。それとも、谷から異国に行くから、おれたちには関係がないってのか?」

 この地の町々は緩やかに盟約を結び、協力し合っている。辺境の戦士団はその例の一つであった。町々は魔物の出る霧の土地の近くに防御の拠点を望む。それがなければ自分たちのところにまで魔物が流れるかもしれないし、交易路が絶たれる恐れがあるからだ。多くの町は近隣の村を中心に食料を生産し、ほとんどがごく狭い範囲で自給できる。だが他の町からの商品が届かなければ、商業は立ちいかず、生活から彩りは失われ、町はやがて衰退して小村の群れになるだろう。

 そうした事態を防ぐため、霧の土地から離れた町からも共同で出資がなされ、辺境の砦を固める。この〈谷守り〉の町もその例外ではなく、〈霧の谷〉から出る魔物から町を守ることが、タイヨウらの所属する赤角戦士団の主要な義務だった。

 このように結びついた町々に対して、町の領域の外側には辺境の氏族が散らばって暮らしていた。町と直に交易する氏族もあれば、そうではなく、もっと疎遠そえんな氏族もある。町々の間であっても人の移動は少なく、商人でもなければ個人的なつながりはそれほどないが、町と辺境氏族とのあいだには、それよりもいっそう弱いつながりしか存在しなかった。

 そして〈霧の谷〉の向こうは、もはや異界と言っていいところだった。遠くの氏族よりも、なお遠い土地だった。

 クモはタイヨウを睨みつけた。

「別の土地の問題は、そこに住んでいるやつらが応じるだろうさ。おれたちの仕事は、おれたちの町を守ることだ。お前だってそれを誓ったから入団したんじゃなかったか。」

 それは事実だった。タイヨウはもちろん、戦士団の団員は〈谷守り〉の町と、その向こうの町々を守ることを誓っている。その誓いがあるからこそ、市民としては例外的に帯剣を許されている。

「お前は人助けをしたいのかも知れないけどな、そいつは必ずしもおれたちの仕事じゃない。他人の問題までおれたちが背負ったら、おれたちが守らなけりゃいけない人はどうなるんだ。おれたちの仕事を見誤るなよ、ちび。」

 クモが言うと、タイヨウは椅子を蹴って立ち上がった。クモもまたそれに応じて立つ。周りの戦士たちが、興奮した歓声を上げた。

「おれはちびだけどな、お前よりも腕っぷしは強いんだぜ。」

 タイヨウは相手を睨みつけた。クモは長身で、小柄なタイヨウは比べて少年のようだった。だが、体の分厚さではタイヨウのほうがまさっていた。腕に力を入れ、脅かすように拳を握ると、クモは顔に恐れの色をにじませた。単純な腕力でタイヨウに敵う者はそう多くはなく、闘技の腕前も加味すれば、この短躯たんくの若者は戦士団でも指折りの一人だった。

 二人は睨み合い、周りの若者たちも息を呑んで様子を窺っていた。戦士団の方針に公然と異を唱え、生意気なところのあるタイヨウをいとう者は少なくはなく、それをタイヨウ自身も知っていた。それでも、多数でもって一人を撃つような卑怯な喧嘩をする者は、この場にはいなかった。

 一同の興奮は少しずつ高まっていった。いつ殴り合いがはじまってもおかしくはなかった。壁際で飲んでいた客も、そちらに興味をそそられて視線を投げかけた。荒っぽい若者たちを止めようとする者は、その中には一人もいなかった。

 二人が身を低くし、互いに飛びかかろうとしたその時、声が割って入った。

「狭い店で何をする気だ、ちんぴらども。」

 タイヨウはちらとそちらを見た。この店の主人のミナモが、調理場からこちらを見据えていた。太い腕を組んで、厳しい顔をしている。

「喧嘩をするなとは言わんがな、うちに迷惑をかけてくれるな。するなら外でやりな。」

 そう言ってから、クモに目を転じる。

「だがお前さんは、荒っぽい遊びをするには、ちと歳を取ったんじゃないか。もう少し大らかになってもいいと思うがな。」

 クモはそう言われると、恥じるように顔を背けた。それからタイヨウに鋭い一瞥をくれてから、仲間を見渡した。

「行こう。こいつの愚痴に付き合うことなんてないからな。」

 若い戦士たちは席を立って、店を出ていった。見習いの少年たちは、ちらちらとタイヨウを振り返った。タイヨウは突っ立ったまま、連中の背中をじっと見送った。
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