初陣

火吹き石

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4.見習いの少年

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 ふと、タイヨウは気がついた。しばし自分がどこにいるのかも、何をしていたのかも思い出せなかった。自分が寝台に寝そべっていることはわかるが、天井は見慣れなかった。

 それから、自分がミナモの部屋にいることを思い出した。たしか、部屋の主が出ていってから、眠ってしまったのだ。

 時間はどのくらいだろうかと、タイヨウはぼうっと考えた。窓はあったが、木戸が閉じられていて、部屋は暗かった。よっ、と声を出しながらぴょんと飛び起きると、窓を開いた。覗いてみると、外は明るい。人通りはそう多くないが、仕事の音が聞こえる――遠くから聞こえる金槌の音が、いちばん印象に強い。おそらくは昼頃だろう。

 さすがに寝すぎたな、とタイヨウは思った。惰眠だみんを貪るのはすきではない。休みであるとはいえ、なんだか時間を無駄にしている気がする。木戸を閉じると服を手早く着て、ミナモの私室を出た。

 私室を出ると、すぐ左に物置の扉があり、目の前には垂れ布がある。布を手で払うと、そこが食堂だった。客はまだ見えなかった。昼食時の前なのだろう。もう少しすれば、道は昼食を求める客で溢れることになる。

 私室への扉の正面に、竈がしつらえられた調理場があり、その後ろには食料庫がある。ミナモはその戸口に立って、中の誰かと話をしていた。タイヨウが垂れ布を押しのけて出てくると、ミナモはそれに気づいて顔を向けた。

「やあ、ようやく起きたな。」そう言って、ミナモは笑った。「ずいぶん長いこと寝ていたな。」

「うん、寝すぎた。腹が減っちゃったよ。何か食べられる?」

 タイヨウが言うと、ミナモは眉を上げた。

「砦に帰らなくていいのか。無断の外泊は問題だと思うが。」

「問題だよ。だけどもう決まりを破っちまったんだし、飯を食う間くらい先延ばしにしたってどうってことない。」

 タイヨウの答えに、ミナモは少し思うような素振りを見せた。だが口を開こうとすると、食堂に声が響いた。タイヨウもミナモも、そちらを見る。

 ちょうど、店の裏口から見習いのカワラが出てきたところだった。両手で大きな桶を抱えている。中庭の井戸から水を汲んできたところのようだった。タイヨウを見るや、カワラは大声を上げ、にやにや笑った。竈のきわの水甕の近くに、桶を放り出すように置くと、若い戦士に向けて早足に近づいた。

「よう、お寝坊。タイヨウ、長いこと寝てたなあ。あんまり寝てたんで心配してたんだぜ。たくさん飲んだもんなあ。」

 そう、少しも心配していなさそうな口調で言う。このカワラ自身がタイヨウをうまいこと挑発し、飲み比べに誘って酔い潰したのだということは、今朝ミナモから聞いたところだった。もちろんタイヨウが酒に弱いことを知っての行動だった。

 カワラはタイヨウのすぐそばに寄ると、にやにや笑いつつ言う。

「きっとツララ隊長に大目玉を喰らうぜ。そうすりゃお前、もっと縮こまっちゃうんだろ。」

 カワラはタイヨウの頭に軽く手を置いて、くしゃくしゃと髪を撫でつつ、力を入れて押さえつけた。カワラはなかなか小柄な少年だったが、それでもタイヨウよりは背が高かった。

 若い戦士は相手の腕を簡単に払うと、その頭に手を置き、ぐっと力を込めて指先を喰い込ませつつ、押し下げた。

「心配してくれてありがとうよ、ちび。」

 タイヨウは見習いの頭を下へ下へと押し込みつつ、低い声で言った。カワラは笑い半分に痛い痛いと喚きつつ、その手を振り払おうとした。だがタイヨウのほうがよほど力が強く、少年は逃れることはできなかった。ほどなくして、タイヨウはカワラに膝を折らせ、床に座らせていた。

「昨夜は楽しかったなあ、カワラ。なんか言うことあるか?」

 タイヨウがすごんで見せると、カワラは頭を掴む手を押しのけようともがきつつ、笑いながら答えた。

「ある、あるよ――痛い痛い――待てって、話せないだろ――!」

 カワラが笑い混じりに叫ぶ。タイヨウは頭を掴む手を少し緩めた。口元ににやにやと笑みを浮かべつつ、カワラはタイヨウを上目遣いに睨んだ。

「昨日、な」と、笑いを堪えきれないといった様子でカワラは言う。

「おう。」

「げろ吐きやがったなあ。酒に弱いくせに、ばかみたいに飲みやがってよ。おれが掃除してやったんだから、感謝――」

 カワラは言葉を終えることができなかった。タイヨウがふたたび手に力を込めた。指先をぎりぎりと喰い込ませつつ、下に押した。少年は抵抗したが、酒では勝っても、力では敵わない。すぐに頭が下についた。床が張られていない、いくらか厚く藁を撒いた地面に、タイヨウは少年の顔を押さえつけた。

「こうやって遊んで欲しかったんだろ。挑発しやがって。久しぶりに可愛がってやるからな、ちび。」

 タイヨウは言った。カワラがタイヨウの手から逃れようともがいていたが、戦士は逃さなかった。気持ち体重をかけ、地面に顔を押さえつけた。それから突然力を抜くと、タイヨウは少年の体をひっくり返した。仰向けになったところで腰のあたりに跨がり、横っ腹をくすぐった。

「おいっ、このっ、止めろって――!」

 カワラは笑いながら身をよじった。だが体格のいいタイヨウに跨がられて、思うに動けなかった。手で振り払おうとするが、その手をタイヨウは掴み、膝の下に押し込んで捕まえた。両腕を押さえつけられ、これでカワラには抵抗もできない。

「久しぶりだなあ、ちび。うれしいだろ。」

 タイヨウは笑いながら言うと、ふたたびくすぐりはじめた。ここ数年は戦士団の見習いをしており、訓練にずっと忙しかった。カワラのほうでもそのあいだは少年の家の年長であったから、後輩らの面倒を見る必要があり、忙しいのは変わらなかった。こうやって遊ぶのは久しぶりだった。

 だが、二人はずっと昔から仲がよかったというわけではない。タイヨウは幼かった頃には体力が少なく、元気な時にはまじない師の下で修行することが多かったから、遊ぶ暇はそれほどなかった。児童院にいるあいだは、どちらかといえば同年代の少年と遊ぶよりも、まだ一人では満足に歩き回れない年少の子どもたちと遊んでいるほうが多かった。

 同輩たちとはしゃぎまわるようになったのは、たぶん十歳の頃だろう。いったん魔力をいくらかでも支配できるようになると、まるでこれまで熱に縛られていた鬱憤うっぷんを晴らすように、はるかに活動的になった。それからはときどき秘術師の下で訓練をする他は、砦で武術を教わるか、そうでなければ仲間を連れて剣闘の真似事をするかして、思いつく限り荒っぽい遊びをしたものだった。

 しばらくくすぐっていると、近くにミナモが来た。振り返ると、その手には深皿とパンがあった。遅い朝食、それとも早い昼食を用意してくれたのだ。

「しばらく忙しそうだな。ここに置いておくぞ。」

 ミナモは言って、食べ物を手近な食卓に置いた。タイヨウはそれに片手を上げて礼をすると、またカワラをくすぐる。少年は真っ赤な顔をミナモに向けた。

「親方、助けてくれよっ!」

「自分で挑発したんだろうが。自分でどうにかしろ。」

 ミナモは素っ気なく言うと、調理場に戻る。竈にかけられた大鍋からは、香草や香辛料の匂いが立ち昇っていた。鍋の前に立つ料理人のツバサは、床で転がって遊ぶ若い二人を苦笑混じりに見ていた。

「だってよ。」

 タイヨウは笑って後輩の頬を軽く抓った。カワラは笑いながらも、目に涙を浮かべていた。

「ひでえ親方だ! 見習いが乱暴されてるってのに!」

「あんまり遊んでいたら見習いを辞めさせるぞ。」

 ミナモの声には欠片も慈悲が込もっていなかった。それにタイヨウは笑いつつ、カワラの頬を掴んで正面を向かせた。

「疲れたか? こういう時、なんて言うんだっけな?」

 言って、またくすぐる。カワラは身をよじって抵抗するが、太く逞しい腕はびくともしなかった。カワラが非力なわけではないが、タイヨウの剛腕に敵うにはまだまだだった。

 しばらく無駄に抵抗を続けていたが、やがてカワラは折れた。

「ごめんっ、ごめんってっ――!」

 謝ったので、タイヨウは手を止めた。はあっ、はあっ、と息を荒げる少年を、楽しい気分で見下ろす。頬をぺちぺちと叩くと、ううっ、と呻く。

「懲りたか?」

 うん、と小さな答えが返ってくる。上からどいてやると、カワラは上体を起こした。とろんとした熱っぽい目でぼうっとして、髪には藁が絡まっている。それを尻目にタイヨウは立ち上がると、カワラの頭を軽く払ってやり、それからミナモが用意してくれた食事に手を付けた。

 やがてカワラは立ち上がると、はあはあと息を弾ませながら、タイヨウの隣に椅子を引いて座った。そして笑みを浮かべて口を開こうとするのを、タイヨウが言葉で遮った。

「次に何か言ってみろ。お客が来るまでずっとくすぐり続けてやるからな。」

 そう脅すと、カワラは息を飲んだ。ほんのいくつか息をするあいだ、少年はまだ何か言いたげな顔をしていた。そして言うか言うまいか迷っているうちに、店の戸口を叩く音がした。

 さすがにカワラは遊ぶのを止めて立ち上がった。はあい、と声を上げつつ、小走りに戸に向かう。タイヨウはそれを少し奇異に思って見ていた。まだミナモらは竈のところで調理をしている。客が入るには、少しばかり早いのではと感じられた。

 だが扉が開くと、タイヨウは息を止めた。そこに立っていたのは、タイヨウの所属する十人隊の隊長である、ツララだった。
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