初陣

火吹き石

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8.霧の谷

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 もうだいぶ町を離れた。あたりが夕闇に沈もうとしても、タイヨウは足を止めることはなかった。さらに時が経って闇が濃くなるとようやく立ち止まった。だが寝床を準備するわけではなかった。

 タイヨウは荷物から火打ち石と打ち金を取り出すと、短い瞑想をおこなった。自分の内側にあり、普段は抑えつけられている火に意識を集中する。それは目には見えないあの世へと伸びる根のようなもので、この世にあるすべての光と熱の源へと繋がっている。タイヨウはそこから力を汲み出す天性の力、すなわち魔力が備わっていた。

 すぐに、体の内に熱が感じられるようになった。光の元素が十分に汲み出されたのだ。するとタイヨウは打ち金と石とに息を吹きかけつつ、二つを打ち合わせた。火花が散った。だがそれは消えることなく宙に留まった。タイヨウは浮かぶ火花を両手で包み、細く長く息を吹きかけた。小さな火は徐々に膨らみ、やがて拳大の光球となり、それはあたりに炬火たいまつのように光を放った。

 それは秘術師の師匠から練習のために教わった術の一つだった。秘術師は術を使うにあたって、何らかの材料を必要とする。最高の素材は異界で採れるある種の宝石であり、それより劣るのは異界に近い場所で採れる薬草や鉱石だったが、その他の日常的な材料を使うこともできる。物質の実質的な変化を伴わない術、たとえばちょっとした明かりを作るくらいなら、尋常の火で事足りた。

 しかしタイヨウは秘術師ではなく、光の魔力を具えた魔術師であったから、本来なら火花などなくとも呪術の灯明が作れるはずだった。だがどうしてだか、この若者は自分の身内を流れる光をうまく扱うことができなかった。手で触れたものを熱したり、あるいは自分の体を炎熱から守ったりといった、皮膚のすぐ近くまでは術の効力を広げられるものの、遠くに光や熱を投じる事はどうしても難しかった。

 集中力が足りないのだ、とよく師匠は言った。あるいは想像力が足りないとも。そのとおりだとタイヨウは思っている。呪術師は望む事象をしっかりと思い描けなければできない。だがタイヨウは、直に触れられるものに対しては影響を及ぼすことができるのだが、遠くになると途端に力を使うことが難しくなる。自分から離れ、肉感から離れると、熱も光もぼやけて感じられてしまうのだった。

 それで秘術師の真似をして、火を使うことにしていた。こうすれば、実際の火があるのだから、一から想像しなくともよい。タイヨウには適した方法だった。

 そうして火花を材料に呪術の灯明を作り出すと、タイヨウは歩き出した。光球は若者の少し前方をふわふわと浮かんで、道を照らし出していた。

〈谷守り〉の町と〈霧の谷〉のあいだには、いくつも村がある。タイヨウはそれらをできる限り避けて歩いた。村人を恐がらせるかもしれないし、すがたを見られて後々面倒なことになってはいけないと考えてのことだった。村は迂回し、近づくことが必要な時には、光を弱めた――呪術に秀でているとは言えないが、そのくらいの調整は難しくはなかった。

 村々は低い丘や森のあいだにあった。やがて丘は少しずつ高く険しくなり、それに従って村は減っていった。深夜になる頃には、すでに人家は後ろになり、あたりは山がちになっていた。なくなった家に代わって、ところどころに石柱が立てられている。〈霧の谷〉の向こうからやってくる旅人のための道標みちしるべだった。

 進むにつれて、森は深くなり、足下もおぼつかなくなった。ほどなくして木々の間に獣のすがたが見られるようになった。人ならぬ者ら、鳥獣虫魚ちょうじゅうちゅうぎょの類は、人里をきらって山野に暮らす。タイヨウはそれらを刺激しないように距離を取って歩いた。異類は人類を憎んではいないが、恐ろしい力を持っている。そしてそれらは氏族の高祖の朋友ほうゆうであると考えられる精霊であり、聖なるものでもあったから、なおさら近づこうとは思わなかった。

 やがてタイヨウは足の疲れを感じ、休む場所を求めた。ある大きな木の根本にちょうどいい窪みを見つけると、いくらか下生えを刈って積み、その中に外套を被ったまま丸まった。春とはいえまだ寒いが、こうしていれば寝られるほどではあった。

 異形の魔物の襲撃がありうることは考えていたが、獣たちがいるからそれほどの心配はしていなかった。同じく異類と括られることもあるが、異形の魔物と鳥獣虫魚の四類はまったく違う存在だった。四類は人類の祖先の仲間であるが、異形はもっと別のおぞましい者たちだった。そして四類の精霊は異形を強く厭悪えんおしており、魔物がいれば四類は離れる。まだ獣たちがいるということは、このあたりには異形がいないと考えて差し支えなかった。

 タイヨウは外套に包まって浅い眠りを得た。獣たちは静かだった。もしも異形が近づいたら、きっと動きがあるからタイヨウも気づくだろう。戦士らはそういうふうに訓練されていた。

 日が昇りはじめ、あたりが白んでくると、小さな戦士は起き出した。荷からパンと干した果物を取って食べ、それからすぐに動き出した。

 木々のあいだを通り、山間やまあいをしばらく歩くと、川の流れが見えた。それに沿って歩き続けると、やがて起伏が緩やかになった。さらに歩くと広い谷間に出た。川は浅くて広く、稜線りょうせんは左右に遠かった。やがて朝日が高くなる頃に谷間は狭まり、地面は急勾配になった。視線を上げると、二つの尾根が落ち合うあたりに、白い霧がわだかまっているのが見えた。

 ついに到着したのだ、とタイヨウは緊張した。ここが〈霧の谷〉だった。谷の奥にある霧が、異界への門だった。この霧が晴れることは決してない。霧の奥には洞穴があるとも言われるが、そんなはずはない――迂回した向こうには、ただ別の谷や山があるだけなのだ。それなのに、霧に入ったら二度と出てくることはできず、霧の向こうから人や魔物が現れる。

 タイヨウはこの地をこれまでに何度も訪れた。戦士団はときおりここまで人をやって、旅人が行き倒れてはいないかを確認する。必要ならば手を貸す。単純に人助けであるだけはなく、弔われぬ死者が人に害なす亡者となることを防ぐためだった。だが、〈霧の谷〉から人里までは道標が置いてあるから、たいていの旅人はそれを辿ることができた。

 タイヨウなどは、ここに砦なりなんなりを作って、旅人が来た時に手助けすればよいと考える。だがここでも戦士団の慎重な方針が働いていた。谷の近くに人が集まれば、霧の向こうから現れる魔物と戦わざるを得なくなるだろう。それを避けようという思慮ではあるのだが、侠気きょうきに富むタイヨウからすれば、では旅人が魔物に襲われたら誰が助けるのだという気がしてくる。

 だが、そうしたことはこれから考えればいいことだった。いまは目的を優先すべきだった。魔物を探し出し、片づけ、そして帰還する。時間が有り余るわけではない。むしろ無理のある計画だった。一時も無駄にはできなかった。

 絶えず左右を窺いながら、若い戦士は槍の石突で地面を突きつつ、谷を登った。少し離れたところで流れの早い浅瀬がさらさらと音を立てている。木々が茂っており、視界はよいとは言えない。地面はこれまでよりもずっと急で、坂の下からは見えていた谷の奥にある霧も、いまは枝葉で隠れていた。

 魔物がいったいいつ、どこから現れるだろうか。胸がどくどくと高鳴り、血が沸いた。タイヨウは戦いを前にして、興奮と恐れを同時に味わっていた。これは若者の初陣ういじんだった。自分が立てると信じて止まない戦功を思っては昂ぶり、一人で敵と立ち向かわなければならないと思えば恐れた。だがはるかに興奮のほうが強かった。それはただ勝利の誉れのためだけではなく、自分の力を証し、自分の考えの正しさをも証することができると思っていたからだった。

 たとえ魔物を倒したとしても、独断で事に及ぶことが戦士としての義務に反するのだということも、魔物との戦いに敗れたらどのような事態に陥るかも、若者はこの時、考えてもいなかった。
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