初陣

火吹き石

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18.夜

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 日はすでに沈んでいた。店の中は暗く、それぞれの食卓には灯明壺の小さな光が灯っていた。灯りの周囲には空になった酒器や皿が散らばっていた。大勢の客が帰った後だった。店の中には、タイヨウとカワラ、亭主のミナモと料理人のツバサだけがいた。

 タイヨウはカワラといっしょになって食器を集めていた。ミナモの店に滞在している間、若い戦士はできるだけ仕事を手伝っていた。少しでも恩を返したいし、何もせずに仕事をしている人を見るのが面白くないということもあった。だが、こうしてカワラと一緒に仕事をするのは、今夜が最後だった。

 この夕方、タイヨウの属していた十人隊と、同じ時間に勤務していたクモの属する隊の面々とで、ささやかなうたげが設けられた。タイヨウの旅立ちを記念してのものだった。この頃には、タイヨウも恥の気持ちを強く持ってはいなかった。ただ、自分の愚かさを忘れないようにし、同じ愚行を繰り返さないようにとだけ思っていた。

 先に酒を飲まないように決めたのだが、この晩ばかりはタイヨウも酒を口にした。とはいえ、酔うほどには飲まなかった。明日は旅立ちなのだ。

 心楽しい一時だったが、それも終わった。戦士団の連中は見送りには来ない。タイヨウがそれを望まなかった。戦士団を自分から抜けたのだから、来て欲しくはなかった。この晩のお祝いとて、事前にタイヨウに伝えられたものではなかった。単に隊の仲間が集まってうたげがはじまったというだけのことだった。

 タイヨウとカワラは食器を集めると、裏手に出た。そこの井戸で食器を洗う。灯明壺の代わりに、タイヨウは呪術の明かりを作った。こうすれば明かりを手で持つ必要がない。カワラは、疲労するだろうからと無駄に呪術を使うことを咎めるが、宙を漂う光球ををいつも面白そうに眺める。その反応がうれしくて、タイヨウは疲労を厭わずに術を使った。

 水を桶に汲み上げると、二人は食器を洗った。この頃カワラの口数は少ないが、今夜はめっきり口を開かなかった。いつもは呪術の明かりに興味を示すが、それもない。タイヨウも無理に話そうとはしなかった。ただ隣で屈んで仕事を続けた。

 食器を洗うと、それを店内に運んで、調理場の棚に収めた。それから机を布巾で拭き、床を箒で掃き清めた。最後に就寝の挨拶を交わすと、ツバサは店を出て、ミナモは自室に下がった。タイヨウはカワラとともに上階に上がった。

 部屋に入ると、カワラは寝台に腰掛けた。タイヨウは奥に行き、窓の木戸を開いた。少ししか呪力を込めていなかったから、すでに灯明は消えていた。灯明壺は持ってきていたが、それほど大きな明かりではない。

 窓を開くと淡い夜の光が差し込んできて、少しは部屋が明るくなった。タイヨウは窓枠に手を置いて、しばし夜の底に沈んだ町を見ていた。

 これから寝て起きたら、この町とはお別れだった。

 あまりに現実感がなくて、それがどういう意味なのか、はっきりとはわからなかった。旅に出る決意はいささかも揺らいでいないが、これまで育ってきた場所を失うということが、いったいどういうことなのか、タイヨウにはわかっていなかった。

 後悔するかもしれない、とは考えた。だが、旅に出なかったら、それはそれで後悔するかもしれない。いずれを選ぶなら、自分の言葉と理想に正直になれるほうを選ぶ。

 タイヨウは振り返った。カワラはこちらに顔を向けていたが、視線は降ろしていた。何かを言おうとして、言葉を探しているようだった。それはタイヨウも同じだった。カワラには何か言ってやらねばならない気がしていた。

 戦士は窓辺を離れると、後輩の横に腰を降ろした。二人は目を合わさず、互いの肩を見つめ合った。黙ったまま、静かに時間が過ぎる。

 先に沈黙を破ったのはカワラだった。顔を上げると、悲しげな目でタイヨウの瞳を見つめる。

「お前がいなくなったら、たぶん、おれ、すごく恋しくなると思う。」

 そう言って、痛ましい笑みを浮かべる。タイヨウは小さく頷いた。肩を抱き寄せてやりたいと思ったが、それは止めた。カワラは慰めを求めているわけではない。何か伝えることがあるのだ。触れ合うのはそれからでいい。

 カワラは少し顔を逸らすと、言葉を探すように揺れる視線で床を見つめた。いくつか息をするあいだ、冷たい沈黙が降りる。それから顔を上げると、そこにはどこか悲壮な決意の色が浮かんでいた。

「おれ、お前のことがすきだ。」

 真っ直ぐに向けられた言葉に、タイヨウの息が詰まった。いったいどういう意味か、すぐにはわからなかった。それは想像もしていない言葉だった。

 カワラはうつむき加減に続けた。

「正直に言うよ。後悔したらいやだからな。おれ、お前に行って欲しくない。ずっとここに、一緒にいて欲しい。」

「カワラ……。」

 タイヨウは腕を上げ、後輩の肩を抱こうとした。痛ましい表情を見ていられなかった。だが、カワラは腕を軽く振り払った。

「いいよ。そんなの、いらない。」そう言って、痛々しい苦笑を浮かべる。「わかってるんだ。お前は決めたことを曲げないだろ。」

「悪い。」

 タイヨウはそう言って肩を落とした。だが確かに、自分の決意を曲げるつもりはなかった。タイヨウの行く道はすでに定まっていた。

 カワラは口元に笑みを浮かべた。

「気づいてなかっただろ、おれの気持ち。」

「うん。」

「そりゃあそうだ。おれだって知らなかったもんな。」

 言って、少年は小さく笑った。それから、タイヨウの手に自分の手を伸ばした。タイヨウは後輩の手を握ってやった。カワラは重ね合わされた手を見下ろして、溜め息をついた。

「お前が旅の準備をはじめて、いろんな人が来ただろ。それでみんなお前を思い止まらせようと、たくさん話してた。だけどお前はちっとも気持ちを変えないんだ。お前が頑固なやつだからな。だけどよう……。」

 カワラはまた溜め息をついた。言葉を探すように、視線を宙に泳がせる。タイヨウは黙ったまま、後輩の手を撫でた。

「だけど、みんなけっきょくは納得しちゃっただろ。お前は頑固でどうしうようもなくて、決めたことはやっちまうんだって。けど、おれは、そう思えなかったんだよなあ。お前には悪いけどよ。」

「そんなの、仕方ないだろ。」

「そうだなあ。」

 カワラはまた溜め息をつく。それからタイヨウに身を寄せると、真っ直ぐに向き直った。

「なあ、一緒に寝よう。」

 は、とタイヨウは声を上げた。カワラははにかんだ。

「思い出によう、今夜は一緒に寝てくれよ。」

 そう言って、小首をかしげる。タイヨウは目を見開いた。

「そんなの……。」

 寝る、というのは、閨事ねやごとをするということだろう。単に隣り合って眠るだけなら、ここ数日、毎晩していた。

 だが、カワラはまだ少年だった。確か見習いをはじめて一年しか経っていない。歳は近いし体も大きくなったとはいえ、あくまで子どもだった。

 しどろもどろにタイヨウが言うと、カワラは笑った。

「やっぱり、そう思ってたか。おれたち、本当は同輩なんだぜ。」

「嘘だろ。ちび、嘘をつくな。」

「嘘じゃねえよ。」そう言ってカワラはくすくす声を上げて笑った。「おれはお前と同じくらいなんだ。見習いになるのが遅れてただけだ。」

 少年たちは十五を数える頃から、児童院を出て見習いとして働くようになる。だが、ぴったりと十五ではじめる者ばかりではなく、一年や二年の遅い早いはあった。タイヨウなどは十五よりも早くに戦士団に入りたかったが、病気がちだったせいでまだまだ体が出来上がっておらず、なんとか頑張ってようやく十五になって入ることができた。見習いは職人としては半人前だが、必ずしも子どもというわけではなく、二十歳の見習いというのもいる。

 けど、とタイヨウは困って唸る。

「お前、小さいじゃないか。」

「それ、お前が言うか?」

 カワラは笑った。タイヨウも笑わざるを得なかった。カワラも小柄だが、背丈ならタイヨウのほうがいくらか低い。鍛えていて体に厚みがあるからタイヨウのほうが大柄な印象だが、別にカワラも取り立ててひ弱に見えるわけではなかった。

「けど、本当か? おれ、覚えてないなあ。」

 タイヨウは言って首をかしげる。カワラは二つか三つ下の後輩だと思っていた。どうも同輩だとは思えない。

 カワラはにやりと笑う。

「そりゃそうさ。お前はまじない師のところで勉強していただろ。」

 ああ、とタイヨウは呟く。六つになった頃から十になるまで、タイヨウは熱に冒されて動けない時を除けば、たいてい秘術師の下で魔力を扱うための修行をしていた。それ以前には、やはり病気がちで仲間と混じって外遊びをする機会は少なかった。元より誰も他人の歳などそう正確に覚えているわけではないが、事情があって歳の近い仲間との繋がりが薄かったので、なおのこと年齢の違いに頓着がなかったのだろう。

 そうかあ、とタイヨウは言った。

「おれ、ずっとお前が後輩だと思ってたんだけどなあ。」

「おれも、お前のことを後輩だと思ってたんだぜ。」

 カワラがそう言って笑う。首をかしげるタイヨウに、いたずらっぽく口元を歪めた。

「お前が十くらいの時かなあ。ちょっと元気になってきて、おれたちと遊ぶようになっただろ。おれ、てっきりお前がもっと年下のやつだと思ってたんだよ。こんなちびだったからさ。」

 カワラはからかうような調子で言うと、小さな戦士の髪をくしゃくしゃと撫でた。タイヨウはその手を払うと、相手の耳を抓り、体全体を引っ張り降ろした。笑いながら身をよじり、耳から手をのけようするカワラを、タイヨウは笑って見下ろした。

 タイヨウはすぐに同輩の耳を離してやった。カワラは耳を押さえ、にやにやと笑っていた。

「乱暴なやつ。もっと前は、ちっちゃくて可愛かったのによう。」

 そう言って、寝台に寝転がる。小さな戦士を見返して、いたずらっぽく笑っていた。タイヨウは同輩を見下ろすと、にやっと笑いかけた。

「もうちょっと痛い目見たいか?」

「こっちに来いよ」と、カワラは腕を広げた。「小さなタイヨウ。可愛い小さなタイヨウ。」

 横になった同輩の言葉に、タイヨウは息を止め、軽く目を見開いた。カワラは怪訝そうにする。

「どうした?」

「いや、ちょっと思い出しただけ。」そう答えて、タイヨウは首を捻る。「あれ、お前だったのか。」

「何が?」と、カワラは起き上がった。

「小さなタイヨウ、って。昔、誰かがそう言ってた気がする。熱で寝込んでた時に。」

 ああ、と零して、カワラは懐かしむように微笑んだ。

「たぶんおれだよ。昔はもっと小さくて可愛かったもんなあ。いまも可愛いけどよ。」カワラはタイヨウの額に触れた。「やっぱり熱いなあ、お前。けど、昔よりはだいぶ冷たい。前はいつも泣いてたもんな。」

「いつも泣いてたわけじゃねえだろ。」

 タイヨウは少しむすっとして答えた。

 タイヨウの肉体は、取り憑いた光の魔力の影響で他の者より熱い。だから触れられると、他人の手はいつも冷たく、心地よく感じられた。それはいまも同じだった。

「可愛いタイヨウ。小さな小さなタイヨウ。」

 カワラは囁いて、タイヨウの頬を撫でた。冷たい手の感触に、タイヨウの背にぞくりと不思議な震えが走った。タイヨウはカワラの肩を掴んで乱暴に押した。そのまま倒れるカワラと一緒に倒れ、覆いかぶさった。

 カワラは驚いた顔をしていたが、やがて挑発的に笑った。タイヨウも笑う。

「生意気なちび。」

 そう、タイヨウは囁いた。何か続けようとして、言葉が見つからなかった。胸がとくとくと脈を打っていた。心の奥底から、ちりちりと焼けるような感覚が立ち昇ってきた。

 タイヨウはカワラにぎゅっと抱きついた。カワラも腕を伸ばし、タイヨウの背に回した。
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