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奈菜とけんかをした日から一週間以上経った。
俺は何もする事もなく家の庭でぼーっと夕暮れの空を見ていた。
習慣というのは恐ろしいもので、奈菜と付き合う前は好き勝手に使っていた夜の時間も、奈菜との電話が当たり前になっていた今だと、使い道が分からずひどく空虚なものとなってしまった。
この間の電話でひどく傷つけてしまったのか、奈菜からの連絡はいまだにない。
大学でも、授業後に何度か声をかけようとしたが、授業が終わると奈菜は足早に教室を出てしまう。
おびえているような、避けられているような様子で、声をかけるのをためらってしまう。
俺はそれほどまで奈菜を追い詰めてしまったのかと自分の行いを後悔しつつも、連絡を取ろうとしてこない奈菜に苛立ちを感じていた。
もう、奈菜との関係は終わってしまったのだろうか。
奈菜は、俺みたいな臆病な彼氏などと別れて、他の優しく頼もしい人と付き合いたいと思っているかもしれない。
だめだ。
一人でいると嫌なことばかり考える。孤独に耐えられない。
数か月前までは普通に独りで過ごしていたのに。
俺は散歩をしようと家を出た。
あたりは薄暗くなり始めていたが、何もしていないと寂しさにつぶされてしまう。
身体を動かし、外の空気に触れ、頭を空っぽにしようと、足早に歩いた。
家から少し離れた場所に公園があった。
小さいころ、父親に連れられてよく遊んだ公園だ。
ブランコ、すべり台、小さな池などがあるあまり大きくない公園だ。
今は少子高齢化で遊ぶ子どももいないのか、誰もいない。
懐かしい気持ちになり、俺はブランコに腰を掛けた。
小さい頃ブランコに乗り、父親に背中を押してもらったこと、ジャンプして降りようとした際、失敗して顔から落ちたことなどを思い出した。
今度大きな公園にでも奈菜を連れて行って、散歩しながら話がしたいな。
そんなことを考えながらも、奈菜との今の関係を顧みるに、そんな日はずっと来ないのではないかと憂鬱な気持ちになった。
ふと滑り台を見ると、滑り台のてっぺんに男の子が座って、俺を眺めていた。
三、四歳といったところか。
誰もいないと思っていたので、変な事をしてそれを目撃されたりしていないか心配になった。
俺は自分の行動を振り返る。
しかし、なぜこんなに小さい子が、こんなに暗い公園に一人でいるのだろうか。
男の子は俺と目が合うと、滑り台を降りてこちらへ駆け寄ってきた。
「ねえねえ、食べ物ない?」
男の子が話しかけてきた。
ずいぶん人懐っこい子だな。
子どもが好きな俺にとっては話しかけられる事自体に問題はない。
にしても急に食べ物をねだってくるとはそんなにお腹が空いているのだろうか。
「ごめんね、無いんだ。ボク、一人で公園にきたの?」
俺は男の子の顔を見て言葉を失った。
目の周りに黒いあざができていた。
「ボク、じゃないよ。トオルだよ」
「トオルくんっていうの?」
俺はなんとか動揺を隠した。
「うん」
そう答えると、トオルは俺の隣のブランコに座って漕ぎ出した。
「トオルくんは、一人で公園にきたの?」
「うん」
「誰か大人の人は一緒じゃないの?」
「パパはお仕事。夜遅く帰ってくるから全然会えないの。ママは男の人とお家にいる」
俺はトオルがボロボロの汚れた服を着ているのが気になった。
身体もガリガリだ。
必要な栄養が取れていないのではないか。
「パパはパソコン使ったお仕事をしてるんだ。すごいでしょ!」
そう言って優人は、ポケットから小さなぬいぐるみを出した。
なんのキャラクターかは分からないが、おそらく会社のマスコットキャラクターなのだろう。
かわいらしいネズミの姿をしている。
まだ学生である俺には分からないが、パソコンを使うということはシステム関係か?
IT会社というのは深夜までの残業や徹夜がきっと当たり前なのだろう。
俺はアルバイトなどでようやく働くことの大変さを知ったが、正社員として働くことなど何も知らない子どもにとっては、父親が仕事漬けでかまってくれなかったとしたら、拗ねたり腹を立ててしまってもおかしくはない。
しかしトオルはそんなことはないようだ。
「トオルくんのパパはすごいんだね」
「うん!」
「パパが好きなんだね」
「うん、でもママはすごくないんだよー」
「え?そうなの?ママは何をしている人なの?」
「ママはねー、ただのおんな!」
まさか、こんな、昼のメロドラマの不倫女が吐くようなセリフを幼稚園児から聞くとは思わなかった。
そんなメロドラマを見たことあるのかと聞かれればノーと答えるが、俺の乏しい想像力でたとえるならそんな感じだ。
母であるより女でありたい、というような、色気を振りまき男を誘い込む口紅の濃い女が頭に浮かんだ。
かなり頭に引っかかるものがあるが、深く考えないことにした。
「それは、専業主婦ってことかな?」
「せんぎょしゅふ?」
「おうちで、お洗濯ものをしたり、ご飯をつくったりして、おうちを守る人のことだよ」
「せんぎょしゅふもすごいの?」
「専業主婦もすごいお仕事なんだよ」
家事ができない俺にしてみると、家事をこなす人は総じてすごい。
料理はまったくできないし、洗濯も干したらしわになる始末である。
得意不得意や好みのさはあれど、毎日限られた時間で家事をこなすことは、おそらくレベルの高い仕事だと思う。
「じゃあ、ママはちがう。ママはお料理しないもん」
「え、そうなの?」
「うん。いつもお菓子買ってきて、それがごはんなの。ぼくがまずいっていうと、ぶつんだよ」
この年齢のこどもの世話というのはたしかに大変だろう。
親の言うことを聞かない、いわゆる『イヤイヤ期』にあたる子どもの主張に、苛立ってしまうこともあるかもしれない。
しかし、ご飯を食べないというだけでぶつのか。
俺はそんなことをされたことはないが、他の家庭では躾に入るのか?
そもそもこんな小さな子どもにお菓子だけとはどういうことだ?
今の時代、スーパーにだってコンビニにだって惣菜などが売っている。
いくら忙しくてもきちんとした食事を与えようと思えばいくらだって与えられる。
まあ、深くは考えないことにした。
深く考えると会ったこともないトオルの母親に怒りを覚えてしまう。
「あとねーしらない男の人いろいろ連れてくるんだよー。男の人はねーぼくをぶつの。ぼくあの男の人達キライ。ママと男はねー裸ん坊で何かしてるー。見てると怒ってぶたれるから、ぼくお家いられないの」
まあ、深くは考えないことにした。
いや、無理だろ。
深く考えなくても分かってしまった。
どうやら、のママは、『母』というよりは『女』でありたいらしい。
そして、主人が汗水流して働いている間に別の男を連れ込んで、息子の前で堂々と性行為、息子には男と二人で虐待。
流石にこれは無視できない。
「そっか……」
あまりの事に言葉を失う。
俺には虐待少年にどう接したらいいのかなんて分からない。
トオルの口から出てくる言葉を聞くのがつらかった。
「お兄ちゃん名前なにー?」
トオルが俺の目を見ながら訪ねる。
こんなつらい目に遭っているのに、子どもの天真爛漫さは欠けていない。
「俺?俺は、カナトっていうんだ。よろしくね」
「カナトお兄ちゃんはここで何しているの?」
俺は答えに困ってしまった。
トオルとの会話で背けていた奈菜との問題を、急に目の前に突き付けられたような気がした。
つらい境遇に会っているトオルの前で、彼女とうまくいっていない現実から逃避するために来たなど言えることではない。
「……少し、ブランコに乗りたくなって」
苦し紛れにそう答えると、トオルは「ボクもブランコ大好き!」と無邪気に言った。
トオルが嬉しそうにブランコを漕ぎだしたので、俺は立ち上がって、背中を押してあげた。
ブランコはトオルが自力で漕ぐより高く上がり、押してあげるたびにトオルは「早い!」や「すごく高い!」と嬉しそうに騒いだ。
トオルの楽しそうな声を聞き、俺も不思議と楽しくなった。
そうして過ごしている間に空はすっかり暗くなってしまった。
「そろそろ帰らないとね」
「やだ、カナトお兄ちゃんともっと遊ぶ!」
「今度また一緒に遊ぼうね」
俺はそう言ったが、はたしてトオルを家に帰らせていいのだろうか。
虐待少年を家に帰らせたら、また酷い目に会うのは確実である。
警察や児童相談所の人に連絡した方がいいのではないか。
しかしどうすればいいのか俺には判断できない。
「うん。かえる」
トオルが案外素直に帰るといったので、とりあえず今日は帰らせる事にした。
この先様子を見て、親から虐待を受けている子どもの預け先などを調べてみよう。
「お家まで送っていってあげるよ」
流石にこの歳の男の子を一人で返すわけにはいかないので、二人で歩いて帰る事にした。
手を繋ぎながら帰る。
ここでトオルの事を知っている人に会ったら俺は誘拐犯扱いされてしまうのだろうか。
それは困るな。
徒歩で二十分ほど歩くとトオルがアパートを指を差して「ボクんちー」と言った。
見た目は綺麗なアパートだ。
しかし幼児が歩いて公園に行くには長い道のりだ。
トオルはいつもこんな道を一人で歩いているのだろうか。
「カナトお兄ちゃん、ばいばい!」
トオルは手を振ってアパートの階段を登っていった。
俺も手を振り返し、アパートを後にした。
翌日の夕方、俺はトオルのことが気になり、また公園に向かってしまった。
するとトオルは力無くブランコを漕いでいた。
日曜日だというのに家族と過ごせずに一人でポツンと遊んでいるトオルが可哀想だった。
「カナトお兄ちゃん!」
「トオル君、お腹空いてない?」
「空いたー」
俺は作ってきたおにぎりをあげた。
おかかとツナマヨ。
トオルは俺の手から奪うようにしておにぎりを入れた袋を取り、中からおにぎりを取り出して食べ始めた。
「待って。ベンチに座って食べようね」
すでにおにぎりを齧っているトオルの手を取り、ベンチまで連れて行った。
トオルの手の甲には丸い瘡蓋のような物ができていた。
おそらく火傷の跡だ。
タバコの火でも押し付けられたのだろうか。
小さな手についた苦しみの痕に、胸が痛んだ。
トオルとベンチに座っていると、公園の入り口に車が停まった。
黒のモコだ。
ここ数日間だけでも何回も目にしているところを見ると、人気車種だということもうなずける。
「ママとお兄ちゃんだ」
トオルが怯えるように言った。
どうやらママと叔父さんが迎えにきたらしい。
「トオル君、お兄ちゃんがいるの?」
「ママの弟だよー」
それはお兄ちゃんではなくて叔父さんになるのだが、まあ幼児に言っても分からないだろうし訂正するのはやめた。
姉と弟で年が離れていてかなり若いためにお兄ちゃんと呼んでいる可能性もある。
助手席から派手な見た目に女性が降りてきた。
おそらく母親だ。
運転席に乗っている人物の顔は薄暗くて確認できないが、こっちが叔父さんだろう。
こんなに暗くなってから迎えに来るなんて、忠告の一つでも言ってやりたいところだが、俺にそんな度胸はない。
荒々しい足取りで母親はこちらに近づいて来る。
「トオル!今日は出てっちゃ駄目って言ったでしょ!」
トオルを見つけるなり、開口一番がそれだった。
俺は呆れた。
「ごめんなさい」
トオルは怯えるように縮こまって謝った。
そんなトオルの頬を叩いた。
トオルは反動で尻餅をついたが、母親は仁王立ちで腕を組んでトオルを睨みつけている。
「ちょっと、何してるんですか!」
俺はトオルにかけよって抱き起こした。
「あんた誰?余計な事しないでほしいんだけど」
母親は俺を睨みつけた。
金髪で目の周りは真っ黒に化粧しており、ヒジキみたいな睫毛が付いている。
俺は非難する眼差しを母親にぶつけたが、母親は気にしていないようにトオルに手を引っ張った。
「帰るよ!」
トオルは母親に引きずられながら、モコの後部座席に乗り込んだ。
ドアが閉められる直前に思い出したように振り返り、俺に大きく手を振った。
「カナトお兄ちゃん。また遊ぼうねっ」
トオルは学芸会での劇で主役でも演じているような、わざとらしいほど大きな声、大げさな手ぶりで言った。
俺はそんなトオルに感化されてか、普段は絶対しないような程、大きく手を振った。
そんな俺達の邪魔をするように、母親はありったけの力を込めて乱暴にドアを閉めた。
そして母親が助手席に乗り込んだところで、モコは走り去っていった。
俺は何もする事もなく家の庭でぼーっと夕暮れの空を見ていた。
習慣というのは恐ろしいもので、奈菜と付き合う前は好き勝手に使っていた夜の時間も、奈菜との電話が当たり前になっていた今だと、使い道が分からずひどく空虚なものとなってしまった。
この間の電話でひどく傷つけてしまったのか、奈菜からの連絡はいまだにない。
大学でも、授業後に何度か声をかけようとしたが、授業が終わると奈菜は足早に教室を出てしまう。
おびえているような、避けられているような様子で、声をかけるのをためらってしまう。
俺はそれほどまで奈菜を追い詰めてしまったのかと自分の行いを後悔しつつも、連絡を取ろうとしてこない奈菜に苛立ちを感じていた。
もう、奈菜との関係は終わってしまったのだろうか。
奈菜は、俺みたいな臆病な彼氏などと別れて、他の優しく頼もしい人と付き合いたいと思っているかもしれない。
だめだ。
一人でいると嫌なことばかり考える。孤独に耐えられない。
数か月前までは普通に独りで過ごしていたのに。
俺は散歩をしようと家を出た。
あたりは薄暗くなり始めていたが、何もしていないと寂しさにつぶされてしまう。
身体を動かし、外の空気に触れ、頭を空っぽにしようと、足早に歩いた。
家から少し離れた場所に公園があった。
小さいころ、父親に連れられてよく遊んだ公園だ。
ブランコ、すべり台、小さな池などがあるあまり大きくない公園だ。
今は少子高齢化で遊ぶ子どももいないのか、誰もいない。
懐かしい気持ちになり、俺はブランコに腰を掛けた。
小さい頃ブランコに乗り、父親に背中を押してもらったこと、ジャンプして降りようとした際、失敗して顔から落ちたことなどを思い出した。
今度大きな公園にでも奈菜を連れて行って、散歩しながら話がしたいな。
そんなことを考えながらも、奈菜との今の関係を顧みるに、そんな日はずっと来ないのではないかと憂鬱な気持ちになった。
ふと滑り台を見ると、滑り台のてっぺんに男の子が座って、俺を眺めていた。
三、四歳といったところか。
誰もいないと思っていたので、変な事をしてそれを目撃されたりしていないか心配になった。
俺は自分の行動を振り返る。
しかし、なぜこんなに小さい子が、こんなに暗い公園に一人でいるのだろうか。
男の子は俺と目が合うと、滑り台を降りてこちらへ駆け寄ってきた。
「ねえねえ、食べ物ない?」
男の子が話しかけてきた。
ずいぶん人懐っこい子だな。
子どもが好きな俺にとっては話しかけられる事自体に問題はない。
にしても急に食べ物をねだってくるとはそんなにお腹が空いているのだろうか。
「ごめんね、無いんだ。ボク、一人で公園にきたの?」
俺は男の子の顔を見て言葉を失った。
目の周りに黒いあざができていた。
「ボク、じゃないよ。トオルだよ」
「トオルくんっていうの?」
俺はなんとか動揺を隠した。
「うん」
そう答えると、トオルは俺の隣のブランコに座って漕ぎ出した。
「トオルくんは、一人で公園にきたの?」
「うん」
「誰か大人の人は一緒じゃないの?」
「パパはお仕事。夜遅く帰ってくるから全然会えないの。ママは男の人とお家にいる」
俺はトオルがボロボロの汚れた服を着ているのが気になった。
身体もガリガリだ。
必要な栄養が取れていないのではないか。
「パパはパソコン使ったお仕事をしてるんだ。すごいでしょ!」
そう言って優人は、ポケットから小さなぬいぐるみを出した。
なんのキャラクターかは分からないが、おそらく会社のマスコットキャラクターなのだろう。
かわいらしいネズミの姿をしている。
まだ学生である俺には分からないが、パソコンを使うということはシステム関係か?
IT会社というのは深夜までの残業や徹夜がきっと当たり前なのだろう。
俺はアルバイトなどでようやく働くことの大変さを知ったが、正社員として働くことなど何も知らない子どもにとっては、父親が仕事漬けでかまってくれなかったとしたら、拗ねたり腹を立ててしまってもおかしくはない。
しかしトオルはそんなことはないようだ。
「トオルくんのパパはすごいんだね」
「うん!」
「パパが好きなんだね」
「うん、でもママはすごくないんだよー」
「え?そうなの?ママは何をしている人なの?」
「ママはねー、ただのおんな!」
まさか、こんな、昼のメロドラマの不倫女が吐くようなセリフを幼稚園児から聞くとは思わなかった。
そんなメロドラマを見たことあるのかと聞かれればノーと答えるが、俺の乏しい想像力でたとえるならそんな感じだ。
母であるより女でありたい、というような、色気を振りまき男を誘い込む口紅の濃い女が頭に浮かんだ。
かなり頭に引っかかるものがあるが、深く考えないことにした。
「それは、専業主婦ってことかな?」
「せんぎょしゅふ?」
「おうちで、お洗濯ものをしたり、ご飯をつくったりして、おうちを守る人のことだよ」
「せんぎょしゅふもすごいの?」
「専業主婦もすごいお仕事なんだよ」
家事ができない俺にしてみると、家事をこなす人は総じてすごい。
料理はまったくできないし、洗濯も干したらしわになる始末である。
得意不得意や好みのさはあれど、毎日限られた時間で家事をこなすことは、おそらくレベルの高い仕事だと思う。
「じゃあ、ママはちがう。ママはお料理しないもん」
「え、そうなの?」
「うん。いつもお菓子買ってきて、それがごはんなの。ぼくがまずいっていうと、ぶつんだよ」
この年齢のこどもの世話というのはたしかに大変だろう。
親の言うことを聞かない、いわゆる『イヤイヤ期』にあたる子どもの主張に、苛立ってしまうこともあるかもしれない。
しかし、ご飯を食べないというだけでぶつのか。
俺はそんなことをされたことはないが、他の家庭では躾に入るのか?
そもそもこんな小さな子どもにお菓子だけとはどういうことだ?
今の時代、スーパーにだってコンビニにだって惣菜などが売っている。
いくら忙しくてもきちんとした食事を与えようと思えばいくらだって与えられる。
まあ、深くは考えないことにした。
深く考えると会ったこともないトオルの母親に怒りを覚えてしまう。
「あとねーしらない男の人いろいろ連れてくるんだよー。男の人はねーぼくをぶつの。ぼくあの男の人達キライ。ママと男はねー裸ん坊で何かしてるー。見てると怒ってぶたれるから、ぼくお家いられないの」
まあ、深くは考えないことにした。
いや、無理だろ。
深く考えなくても分かってしまった。
どうやら、のママは、『母』というよりは『女』でありたいらしい。
そして、主人が汗水流して働いている間に別の男を連れ込んで、息子の前で堂々と性行為、息子には男と二人で虐待。
流石にこれは無視できない。
「そっか……」
あまりの事に言葉を失う。
俺には虐待少年にどう接したらいいのかなんて分からない。
トオルの口から出てくる言葉を聞くのがつらかった。
「お兄ちゃん名前なにー?」
トオルが俺の目を見ながら訪ねる。
こんなつらい目に遭っているのに、子どもの天真爛漫さは欠けていない。
「俺?俺は、カナトっていうんだ。よろしくね」
「カナトお兄ちゃんはここで何しているの?」
俺は答えに困ってしまった。
トオルとの会話で背けていた奈菜との問題を、急に目の前に突き付けられたような気がした。
つらい境遇に会っているトオルの前で、彼女とうまくいっていない現実から逃避するために来たなど言えることではない。
「……少し、ブランコに乗りたくなって」
苦し紛れにそう答えると、トオルは「ボクもブランコ大好き!」と無邪気に言った。
トオルが嬉しそうにブランコを漕ぎだしたので、俺は立ち上がって、背中を押してあげた。
ブランコはトオルが自力で漕ぐより高く上がり、押してあげるたびにトオルは「早い!」や「すごく高い!」と嬉しそうに騒いだ。
トオルの楽しそうな声を聞き、俺も不思議と楽しくなった。
そうして過ごしている間に空はすっかり暗くなってしまった。
「そろそろ帰らないとね」
「やだ、カナトお兄ちゃんともっと遊ぶ!」
「今度また一緒に遊ぼうね」
俺はそう言ったが、はたしてトオルを家に帰らせていいのだろうか。
虐待少年を家に帰らせたら、また酷い目に会うのは確実である。
警察や児童相談所の人に連絡した方がいいのではないか。
しかしどうすればいいのか俺には判断できない。
「うん。かえる」
トオルが案外素直に帰るといったので、とりあえず今日は帰らせる事にした。
この先様子を見て、親から虐待を受けている子どもの預け先などを調べてみよう。
「お家まで送っていってあげるよ」
流石にこの歳の男の子を一人で返すわけにはいかないので、二人で歩いて帰る事にした。
手を繋ぎながら帰る。
ここでトオルの事を知っている人に会ったら俺は誘拐犯扱いされてしまうのだろうか。
それは困るな。
徒歩で二十分ほど歩くとトオルがアパートを指を差して「ボクんちー」と言った。
見た目は綺麗なアパートだ。
しかし幼児が歩いて公園に行くには長い道のりだ。
トオルはいつもこんな道を一人で歩いているのだろうか。
「カナトお兄ちゃん、ばいばい!」
トオルは手を振ってアパートの階段を登っていった。
俺も手を振り返し、アパートを後にした。
翌日の夕方、俺はトオルのことが気になり、また公園に向かってしまった。
するとトオルは力無くブランコを漕いでいた。
日曜日だというのに家族と過ごせずに一人でポツンと遊んでいるトオルが可哀想だった。
「カナトお兄ちゃん!」
「トオル君、お腹空いてない?」
「空いたー」
俺は作ってきたおにぎりをあげた。
おかかとツナマヨ。
トオルは俺の手から奪うようにしておにぎりを入れた袋を取り、中からおにぎりを取り出して食べ始めた。
「待って。ベンチに座って食べようね」
すでにおにぎりを齧っているトオルの手を取り、ベンチまで連れて行った。
トオルの手の甲には丸い瘡蓋のような物ができていた。
おそらく火傷の跡だ。
タバコの火でも押し付けられたのだろうか。
小さな手についた苦しみの痕に、胸が痛んだ。
トオルとベンチに座っていると、公園の入り口に車が停まった。
黒のモコだ。
ここ数日間だけでも何回も目にしているところを見ると、人気車種だということもうなずける。
「ママとお兄ちゃんだ」
トオルが怯えるように言った。
どうやらママと叔父さんが迎えにきたらしい。
「トオル君、お兄ちゃんがいるの?」
「ママの弟だよー」
それはお兄ちゃんではなくて叔父さんになるのだが、まあ幼児に言っても分からないだろうし訂正するのはやめた。
姉と弟で年が離れていてかなり若いためにお兄ちゃんと呼んでいる可能性もある。
助手席から派手な見た目に女性が降りてきた。
おそらく母親だ。
運転席に乗っている人物の顔は薄暗くて確認できないが、こっちが叔父さんだろう。
こんなに暗くなってから迎えに来るなんて、忠告の一つでも言ってやりたいところだが、俺にそんな度胸はない。
荒々しい足取りで母親はこちらに近づいて来る。
「トオル!今日は出てっちゃ駄目って言ったでしょ!」
トオルを見つけるなり、開口一番がそれだった。
俺は呆れた。
「ごめんなさい」
トオルは怯えるように縮こまって謝った。
そんなトオルの頬を叩いた。
トオルは反動で尻餅をついたが、母親は仁王立ちで腕を組んでトオルを睨みつけている。
「ちょっと、何してるんですか!」
俺はトオルにかけよって抱き起こした。
「あんた誰?余計な事しないでほしいんだけど」
母親は俺を睨みつけた。
金髪で目の周りは真っ黒に化粧しており、ヒジキみたいな睫毛が付いている。
俺は非難する眼差しを母親にぶつけたが、母親は気にしていないようにトオルに手を引っ張った。
「帰るよ!」
トオルは母親に引きずられながら、モコの後部座席に乗り込んだ。
ドアが閉められる直前に思い出したように振り返り、俺に大きく手を振った。
「カナトお兄ちゃん。また遊ぼうねっ」
トオルは学芸会での劇で主役でも演じているような、わざとらしいほど大きな声、大げさな手ぶりで言った。
俺はそんなトオルに感化されてか、普段は絶対しないような程、大きく手を振った。
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