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「おい、真由子さん。支払証明書の金額、間違えてるぞ」
パソコンで会計伝票を作成していると、雑音のような不快な声が後ろから聞こえてきた。
わたしは嫌々、声の方を振り返る。
「すみません、どこでしょうか?」
「ここ、『6』じゃなくて『0』。数字を間違えるなんて経理職失格だぞ」
そう言われて支払証明書を見せられた。
金額欄には、わたしの字で「0」と書いてあるように見えたが、確かに「6」と言われれば見えなくも無い。
数字はしっかり誰が見ても分かるように書かなければならない。
あれほど注意して記入したにも関わらず、どうやらやらかしてしまったらしい。
ここ最近の寝不足が祟ったのだろうか。
「申し訳ございません、気をつけます」
「1円の違いが会社に大きな影響を与えることもあるんだぞ。もっと気を引き締めて仕事に取り組んでもらわないと」
私のストレッサーその①、管理部の部長、菅野健造。
こいつは私のミスを粗探ししては、私の成長のために時間をたっぷり取って長々とお叱りになる非常にありがたい上司である。
なお、実際にわたしの為になる話は全体の一パーセントもなく、ほぼただの嫌味である。
「キミは仕事に取り組む姿勢が甘いんだよ。だからこんなミスをするんだよ。たるんでいる!」
わたしは心を無にして受け流そうと努めた。
こいつの言っている事にいちいち反応していたら、身が持たない。
何か別のものに注意を背けよう。
遠くから「ただいま戻りました」という声が聞こえた。
営業職の人が外勤から帰ってきたのだろう。
フロア全体で「お帰りなさい」と労いの声をかける。
「こんなミスばかりするから他の部署でやっていけなくて異動ばかりさせられるんだろ?うちの部署で受け入れてもらっただけ感謝して仕事に取り組んでもらわないと」
菅野の雑音は勢いを増す。
ああ、腹が立つ。
確かにミスをしたのはわたしが悪い。
しかし、だからといって部署異動の事までネチネチと言われる筋合いはない。
管理部に異動したのは、退職を本格的に考えていた時に、人事担当の内藤さんに提案されたからだ。
「すみませんが、ミスして異動させられたのではありません。管理部への異動は内藤さんと相談して決めたことです」
我慢が出来ず、つい言い返してしまった。
黙って聞き流せば良いとは頭でわかっているのだが、口が勝手に動いてしまった。
菅野の首筋あたりがピクリと動く。血色の悪い口元を歪め、ニヤついた表情で私を見た。
「なんで言い訳するの? 自分がミスしたってこと分かってる? へえ、自分が悪いのにそうやって言い訳するんだ?」
言い返した事により、嫌味は三倍になって返ってくるだろう。
こんなことに使っている時間はない。
午前中のうちに会計伝票の作成を終わらせ、午後には銀行と備品の買い出しに行かなくてはならないのに。
「部長、その支払証明書はわたしが真由子さんに確認を頼まれていたものです。人の机から勝手に持って行かないでくださいますか?」
救いの女神の声が聞こえた。
管理部総務兼経理担当の今田さん、私に仕事を教えてくれている先輩だ。
五十代半ばで、菅野よりベテランで、彼が唯一頭の上がらないお方である。
「いや、今田さんの机の上に置いてあったの見つけて、間違えていたから見過ごせなくて」
「確認は私の仕事です。部下思いなのは良いですけど、あまりひどいとパワハラになりますよ。それより昨日お願いした決裁、早くしてもらえませんか?」
菅野はまだ嫌味を言い足りないようだが、今田さんの人睨みで渋々自分のデスクに戻った。
「気にしないでね。真由子ちゃんはよくやってくれてるから」
そう言って女神は私に個包装のチョコレートをくれた。
私は女神にお礼を言って、伝票作成に戻った。
弊社は会計や人事、勤怠管理などのシステムを自社で開発しているIT企業だ。
小さな会社のため、自社のバックオフィスは「管理部」が一括で請け負っている。
管理部長の菅野、人事担当の内藤さん、総務兼経理担当の今田さん、同じく総務兼経理担当の私と、簡単な事務をしている最近来た派遣社員の五人。
少ない人数でやっているため、人間関係は仕事に大きく影響してくる。
ムカつく人間もいるが、いちいち反発していたら仕事にならない。わたしは管理部に配属されてから二年ほどでその事を学んだ。
作業がひと段落し、ずっと我慢していたトイレに向かった。
用を済ませて手を洗い、ハンカチをデスクに忘れたことに気づいた。
手が乾くのを待ちながら、ふと鏡で自分の顔を見た。
なんだか青白く、目の下の隈が酷くなっている気がする。
今日はぐっすり寝られるといいな。
またあの花嫁を思い出す。
この化粧室が真っ白で、夢で見た光景がフラッシュバックしてきたのか。
余りにもしつこく頭に浮かんでくるのでイライラする。
仕事に集中すればきっと忘れられるはずだ。
デスクに戻ると、座っているのは菅野しかいなかった。
今田さんも内藤さんも、別の場所で他の社員と話をしている。
菅野を視界に入れないようにしながらパソコンに向き合うと、今度は耳をつんざくような甲高い声が聞こえてきた。
「真由子さん、これよろしく」
そう言って私のデスクに交通費の領収書を叩きつけるように置いてきたのは、ストレッサーその二、佐藤麻美だ。
わたしより一つ上の先輩で、営業職をしている。
わたしはできるだけ会話をしないように、小さい声で返事をした。
「このフロア暑すぎ。もっとエアコン効かせてよ」
佐藤麻美はフロア全体に響く声で言った。
彼女は声の音量調整機能が狂っているらしい。
「エアコンの設定温度は会社で決めているんです。これ以上下げると省エネにならないし、ずっとフロアにいる開発部やお客様センターの人たちが寒さで体調を崩してしまいます」
「外勤を頑張ってきた営業が、帰ってきたときに快適に過ごせるよう温度調整するべきじゃない?利益を生み出しているのはあたしたち営業なのよ?」
また始まった。
佐藤麻美はいつも営業をしている自分が一番偉いと思い込み、他部署の社員を見下してくる。
実際のところ、佐藤麻美の仕事上の評価は彼女が思っているものとは違い、あまり芳しくない。
客先の打ち合わせでは、プロジェクトマネージャーであるエンジニアさん達が話を進めているので、彼女自身はただのお飾りにすぎないし、営業会議の議事録すらまともに作れないと営業部長が嘆いていた。
だが、腐っても営業職、わたしは口喧嘩ではこの女に勝てない。
口下手なわたしと、呼吸をする様に出まかせをペラペラ言えるこの女とでは相性が悪い。
菅野同様に黙って受け流すのが最善だろう。
そんな悔しい思いをしていると、今度は救いの天使が現れた。
「空調は、あたし達お客様センターに合わせてもらっているんですけど?営業様がやらかした事に対して、毎日代わりにお客さんに謝罪しているのは誰ですかね?」
声の主はお客様サポートセンター配属、わたしの同期の武田鈴香さんだ。
「はあ?エアコンの温度と仕事の内容は関係なくない?」
「自分で言い出したんじゃないですか。そういえばさっき、麻美さん宛にお電話入ってたみたいですよ。早く折り返さないと怒られるんじゃないですか?」
武田さんの言葉で佐藤麻美は自分のデスクに戻っていった。
自分が苛立っていることのアピールなのか、ヒールの音がいつも以上にうるさい。
開発部のエンジニアさんが数名顔を顰めていた。
「武田さん、ありがとう」
「真由子さん、ちょっといい?」
武田さんはそう言って私に顔を近づけた。
「近いうち、飲まない?色々溜まっちゃってさー。さっきの女のこととか」
「いいよ。いつ?」
「今週ちょっと忙しいから、来週の金曜日は?」
「空いてるよ」
「やった!んじゃ詳しいことは後で」
嬉しい誘いにわたしは心躍った。武田さんと飲めるのは、わたしのストレス解消の一つだ。
スケジュール帳に予定を記入しようと、バッグを開けた。
スケジュール帳を探していると、ある異変に気づいた。
ポケットティッシュがなくなっている。
やられた。つい油断した。
あれほど席を外す時に私物は肌身離さないようにしていたのに。
以前から私物がなくなることはよくあった。
ポケットティッシュや生理用ナプキン、高いものだと化粧品などが盗まれた。
犯人は分かっている。
佐藤麻美だ。わたしの物が無くなると、彼女が全く同じものを使っているということが頻繁にあった。
わたしが困っている事を知りながら、平気で「真由子さん、困ってるなら使う?」と言ってわたしの名前の書いてある日焼け止めを渡してきたこともあった。
さすがに一度、腹が立って正面から文句を言ったことがある。
母から誕生日プレゼントでもらったブランドのハンカチを盗まれた時のことだ。
それは真夏の昼休み中のことだった。自分のハンカチが無くなっていることに気づいたわたしは、その日、盗みの常習犯と思われる佐藤麻美をずっと監視していた。
佐藤麻美は廊下で当時の新卒の鈴木さんという女の子に、自分がいかにデキる女かを自信満々に話していた。
なんて哀れな鈴木さん、社内で最も無駄な昼休憩の過ごし方をしている。
エアコンのない廊下で話しているものだから、二人とも汗だくだ。
佐藤麻美が例のハンカチで汗を拭いた。
今だ。
「あれ、麻美さんそのハンカチいいですね。どこで買ったんですか?」
わたしは白々しく尋ねた。
「これ?友達にもらったのよ」
「良い柄ですね! よく見せてください!」
そう言って麻美の手からハンカチを取り上げた。
そしてハンカチのタグを確認した。
「麻美さん、このハンカチ、貰い物なんですよね?ここ見てください。どうして麻美さんがわたしの名前の書いてあるハンカチを使ってるんですか?」
麻美は虚をつかれたような顔をした。
どこ? と言ってわたしの手からハンカチをぶん捕り、確認する。
しまった、という表情が見てとれた。
「これ、わたしの母がわたしにくれた物です。無くなって困っていたんです。なんで麻美さんが持っているんですか?」
普段のわたしはこんなに怒りを露わにしないが、今回は母からの大切なプレゼントだ。
絶対に取り返す。
今まで見せたことのない剣幕に、麻美は少したじろいだが、いけしゃあしゃあとこんな事を言い出した。
「間違えた、貰ったのは別のハンカチだったわ。それは落ちてたから拾ったの。落とし物は拾った人のものよ」
その開き直り方に、驚き呆れた。
そんな言い訳が通用するか。
そもそもわたしはハンカチを落としていない。
「何言っているんですか! 落とし物は落とした人のもの。普通は総務に届けるでしょ!?」
感情が昂っているせいか、文句を言う事に慣れていないせいか、わたしの主張も少しずれてしまった。
佐藤麻美が私のバッグから盗んだ事を糾弾したいのに、思ったように口が動かない。
「普通ってなに? わたしは学校で落とし物は拾った人のものって教えられたの。わたしの学校は普通じゃないってことかしら?」
「そんなことしているの、麻美さんだけですよ」
「ねえ、鈴木さんはどう思う?」
佐藤麻美は鈴木さんに同意を求めた。
二人の先輩の喧嘩を怯えながら見ていた鈴木さんは、急に土俵に上げられて動揺した。
「落とした人が悪いよねー?」
「鈴木さん、相手にしなくて良いよ」
ちなみに鈴木さんは、この出来事がきっかけか、別の理由があってか、すぐに会社を辞めてしまった。
佐藤麻美とその周囲の人間関係から発せられる毒気にやられたのだとわたしは思うが。
「なになに? どうしたの?」
言い争いを聞きつけて、仲裁者が現れた。
最悪の仲裁者だ。
ーーー菅野健造。
「何があったの?」
「真由子さんがイチャモンつけてくるんです」
「麻美さんがわたしのハンカチを取ったんです」
「拾っただけよ」
「落とし物を自分のものにしてましたよね?」
「落とし物を借りただけよ」
「じゃあ返してください」
「ずいぶん使っちゃったし、もうわたしのものよ」
さっきから佐藤麻美の発言は滅茶苦茶だ。
落とし物は拾った人のものだから自分のものだと言ったり、ただ借りただけだと言ったり。
主張がコロコロ変わっているのに、なぜこんなに堂々としていられるのか。
普通の仲裁者なら麻美の支離滅裂な発言に突っ込みを入れるだろうが、最悪な仲裁者菅野もまたぶっ飛んだ発言をした。
「大事な物を落とすのが悪い。麻美さんの言っていることが正しい」
菅野がそう言った途端に麻美は勝ち誇ったようなしたり顔になった。
怒りで涙が出そうになるが、なんとか堪える。
わたしははらわたが煮えくりかえるような思いで二人を睨め付けた。
そもそもわたしはハンカチを落としていない。
大切なものだから、使う都度、無くさないようにバッグの奥底にしまっていた。
そう言いたいところだが、100パーセント落としていないかと言われたら、そうは言い切れないし、劣勢な状態に怖気付いてしまった。
自分の気の弱さが嫌になる。
何か言い返そうとしたが、何も言葉が出てこなかった。
「もういいわ。ハンカチごときで、馬鹿みたい」
そう言って佐藤麻美はわたしにハンカチを投げつけてどこかへ行った。
おそらく喫煙所にでも行くのだろう。
菅野も後を追った。
わたしは噴き出す怒り抑えようと深く呼吸をし、涙を服の袖に滲ませるようにして拭き取った。
「ごめんね、鈴木さん。嫌なことに巻き込んじゃって」
「え、あ、いえ」
気が動転しているのか、鈴木さんは言葉にならない曖昧な返事をした。
わたしは泣き顔を見られないように化粧室へ向かった。
ハンカチは戻ってきたものの、敗北感でいっぱいだった。
母からの大事なプレゼントが、佐藤麻美に負けたという嫌な記憶を蘇らせる品になってしまった。
その一件があってからは、佐藤麻美の窃盗に真っ向から挑むのはやめた。
自分が気をつければ防げるからだ。
大事な物は鍵付きロッカーへ、頻繁に使う物は小さいバッグに入れて常に持ち歩けば良い。
そうして対策する事にした。
しかし今回は油断した。
トイレに急いでいたのもあり、バッグを机に置いて来てしまったのだ。
佐藤麻美は今田さんも内藤さんもいない隙をついて盗みを働いたようだ。
その観察力を仕事で活かせばいいのに、悪知恵ばかり働く女だ。
悔しいが、今回はポケットティッシュだけだし、あまり気にしないようにしよう。
駅周辺をうろつけば、ティッシュ配りのアルバイトにはいつでも会えるから、ポケットティッシュなんてすぐ手に入る。
今に見ていなさい、佐藤麻美。いつかあんたが抱えている爆弾に火をつけてやるから。
「ただいま」
営業第一グループのマネージャーの菊池さんが外勤から帰ってきて、響く声で帰社の挨拶をした。
フロア全体で「おかえりなさい」と声をかける。
菊池さんが帰ってきたと言うことは、同行者は社用車を駐車場に停めている頃だろうか。
彼が間もなく戻ってくる。
わたしのテンションは少し上がった。
「ただいま戻りました」
菊池さんが帰ってきてから数分経ってから、同行者の二人が帰ってきた。
そのうち一人の声を聞いて、わたしの胸は高鳴った。
一人は開発部のシステムエンジニア、わたしの同期の横山誠二君、クールな顔つきと冷静な性格の、いかにもシステムエンジニアというような人物である。
もう一人は、営業部第一営業グループの中嶋友貴哉、わたしの彼氏である。
友貴哉はわたしより2年先輩で、経験もあり実績もある、周囲からの期待を背負う営業職である。
明るくしっかりしているため、上司、後輩からの人望も厚い。
見た目に関しては取り立てて目立つわけではなく、かといって格好悪いことも無い。
武田さん曰く『中の中から中の上』とのこと。
しかし、「相手を選ぶなら外見よりも性格だよねー」と、『下の上から中の下』である男性と結婚した武田さんは言う。
わたしも見た目は気にしていないし、一般的にはイケメンではないかもしれないけど、わたしに取っては好きな顔なのだ。
しっかり者のように見えて、プライベートはのんびりしているというギャップも可愛い。
友貴哉が帰ってきて、やる気が俄然出てきたところで仕事を再開する。
すると今度は隣で乱暴に鞄を置く音と椅子に腰掛ける振動が伝わってきた。
わたしは驚いて隣を見た。
隣のデスクを見ると、一ヶ月半ほど前に派遣社員として雇われた吉川麻里奈がデスクに突っ伏すようにして座っていた。
「おはよう、吉川さん」
いつのまにか自席に戻ってきていた内藤さんが優しく声をかける。
吉川は顔を上げようともしない。
「体調は大丈夫? 風邪?」
吉川は今日、体調が悪いからといって遅刻してきたのだ。
「うーん、大丈夫じゃないですけど、我慢して来ました。女性特有のものなのであんまり聞かれると困っちゃいます」
吉川は内藤さんの気遣いに対して、迷惑そうに返事をした。
内藤さんは苦笑い、でもおそらく過去にもこういう自分勝手な人を相手にしてき手慣れているのか、あまり気にした様子ではなかった。
女性特有のもの、つまり生理だろう。
いかにも「恥ずかしい」というような雰囲気で言っているが、だったらわざわざ生理だなんて言わなければいいのに。
言うなら堂々としろよ、と心の中で毒づく。
わたしはあまり人前で生理の話をしないよう言われて育ったので、彼女の感覚は理解できない。
しかし世の中では福利厚生として生理休暇というものがある会社もあるし、女性の体調への気遣いも変わってきている。
わたしの感覚が少しずれているだけなのかもしれないから、一概に彼女を批判できない。
ちなみに彼女の『女性特有のもの』での休みは約8日間の間隔で、今月3回目。
わたしも不順な方ではあるが、流石にこんな短期に何度も来るのは異様な気がするし、病院に行った方がいいのではないかと余計なお節介を考える。
まあ、あくまで彼女の言う事が本当であればの話だが。
内藤さんは引き攣った笑顔で吉川に話し続けた。
「お願いしていた会社説明会の資料、今日の午前中までだったから、代わりに真由子さんにやってもらったから」
内藤さんの心境を考えるとこちらが心苦しくなる。
伝えたところで、彼女の反応を見ると不快になるだけだし、わざわざ伝えなくてもいいのに。
「ああ、そうですか」
吉川は素っ気なく返事をした。
ほら、思った通り。
代わりに仕事をやっておいたのに、お礼も無し。
そもそも新卒向けの会社説明会の資料を印刷するだけの単純な作業を、なぜか2回も期限を延ばしてもらったにも関わらず終わらせる事ができなかったのが、謎で仕方がない。
体調不良は仕方がないにしても、フォローをした人間に対しての態度としてそれはないだろう。
つまり、それくらいわたしが彼女に見下されているということだ。
内藤さんと吉川のやりとりを聞いていると、腹が立って仕方がない。
早く昼休憩の時間にならないかな。
吉川がのろのろとパソコンを立ち上げていると、開発部のベテランエンジニアの佐野さんが彼女の元にやってきた。
「お願いしていた今日の打ち合わせの資料、出来てる?」
佐野さんは吉川に声をかけた。
「あたし、具合が悪くて今来たばっかりなんです。代わりに真由子ちゃんがやってると思います」
二人の視線が同時にこちらに来た。
なぜわたしに話が回ってくるのか不思議で仕方がない。
「そんな話聞いてないし、やっていないですよ」
「そんな、困るよ。午後にお客さんの所に持って行かないといけないし。まだ時間があるから頼むよ」
佐野さんは私に縋るように言ってきた。
縋るなら、もともと依頼していた吉川にすれば良いのに。
わたしには関係ない。
「わたしも午後に銀行と買い出しに行かなければいけないので、吉川さんにお願いしてください」
「えー私体調悪いから、急ぐような仕事はできません」
知るか。
わたしだって忙しいのだ。
彼女は今までも様々な仕事を体調が悪いの一言で断ってきた。
今後もずっとその手を使う気なのか。
そもそも資料の印刷もできないくらい具合が悪いなら最初から会社を休めばいい。
彼女だって仕事をしに会社に来ているのだから、しっかりと時給分働いてもらわないと。
しかしわたしの考えとは裏腹に、佐野さんの視線はわたしを捉えて離さない。
「頼むよ。資料のデータはメールで送るから」
吉川に頼むとどうなるかわからないから、わたしに頼んできたのだろう。
だからといって、なぜわたしが彼女の引き受けた仕事をなんでもかんでもやらなければいけないのか。
「何時までですか?」
「12時40分くらいまでできていれば間に合うから」
佐野さんは弊社のお昼の時間は12時から13時だという事を理解しているのだろうか。
引き受けなければいいだけの話だが、断れない自分の臆病さが嫌になる。
わたしの昼休憩は何時になることやら。
「お昼行ってきまーす」
12時のチャイムがなった瞬間、吉川麻里奈は元気そうに出ていった。
わたしが佐野さんからデータでもらった資料を印刷してホチキスで束ねていることは気にも留めていないらしい。
「真由子さんはお昼食べないの?」
向かいの内藤さんが声をかけてきた。彼の隣では菅野が椅子に座ったまま昼寝をしている。
この熟睡っぷりは昼休憩の前から寝ていたに違いない。
口が半開きなのが滑稽だ。
唐辛子でも詰め込んでやりたい。
「この資料、12時40分までにしないといけないので」
「吉川さんの仕事を押し付けられたんでしょ」
今度は今田さんだ。
今田さんは先程のやりとりを見ていてくれたらしい。
「そうなんです。だから、銀行行った帰りにお昼に入るので、戻りはいつもより遅れます」
「了解。ねえ、内藤君、なんとかならないの? あの子のサボり癖。私が言っても、被害者ヅラして言うこと聞かないのよ」
今田さんも吉川に対してよほどご立腹なのだろう。
語勢を強めて言った。
「分かっちゃいるんですけど、体調不良って言われちゃうと、こちらも強く出られないんですよ。何か出来ることをこちらで探してあげないと」
内藤さんは心底困ったというような顔をした。
採用を決めたのは内藤さんと菅野で、自分が採用してしまった手前、無下にできないのだろう。
「だからといってこちらに皺寄せがきても困ります」
わたしは手を止めずに言った。テンポよく書類を束ねていくホッチキスの音が少し快感になっていた。
「何かないかな? 彼女の得意そうな事とか」
「出来ることってなんですか。締め切りも守れない、資料の印刷すら満足に出来ない、データ入力もミスばっかりで、結局こっちが尻拭いをする始末。ほかに何をさせてあげればいいんですか?」
ホチキスを押す手に力が入る。
紙が少し寄れてしまったが、これくらい許容範囲だろう。
内藤さんは答えなかった。
わたしは小さく溜息をついた。
菅野のいびきがうるさい。
せめて吉川に、少しでも感謝の気持ちがあれば違うのに。
迷惑かけてごめんなさい。わたしの代わりに引き受けてくれてありがとうーーー
たったそれだけの気持ちがあれば、わたしも少しだけ気持ちよく彼女のフォローができるのに。
しかし吉川にはそれがない。
実は彼女は昔からこうなのだ。
わたしの最大のストレッサー、吉川麻里奈。
実は小学校時代の同級生である。
彼女と最初に会ったのは小学校4年生で同じクラスになった時だ。
彼女は子供の頃から性格が悪いことで有名だった。
自己中心的で人を不快にすることに喜びを感じるタイプ。
気の弱そうな人間を狙って偉そうに命令したり、「あの子、あなたの悪口言っていたよ? ひどいよね?」などと、あたかも自分はいい人のように見せかけて、有る事無い事告げ口して、友人関係を破壊していくことに力を入れていた。
パッとしない地味な学生時代を送っていたわたじは格好の餌食で、友人関係をめちゃくちゃにされ、子どもながらに胃痛に悩まされた。
5年生になり別のクラスになってからは、もう関わることはなくなり友人関係も安定した。
しかし、まさかここに来て再開するとは思っても見なかった。
吉川の性格は悪い意味で変わっていなかった。
十数年の月日に彼女を変えることは無理だったらしい。
弊社に派遣されてきて早々、新入社員の女の子を泣かせたり、サポートセンターの先輩達を喧嘩させたり、何かとトラブルを起こしていた。
そして彼女は、自己紹介をするたびにわたしと小学校時代の同級生である事を強調した。
「真由子ちゃんと小学校の同級生なんです」と事あるごとに話していた。
先輩の中には「真由子さん、吉川さんの昔からの親友でしょ? あの子なんとかしてちょうだい!」と、彼女の苦情をわたしに言ってくる人もいた。
それくらい色々な人に言いふらしていたのだろう。
それがなんとなくわたしを落ち着かなくさせた。
自分は真由子の過去を知っているのよ、弱みを握っているのよと圧をかけられているような、言いようのない不安感がわたしを悩ませた。
実際、開発部の女性の先輩に「真由子ちゃん、昔はもっと地味でしたよ」と話しているのを聞いた。
過去に犯罪を犯したとか、やましい事があるわけではないし、所詮過去は過去。
今では、多くはないが良い友人もいるし、仕事も菅野以外からはそこそこ評価を受けている。
何か彼女とトラブルがあった時、私の味方になってくれる人はいると思う。
それでも、過去のトラウマのせいか、彼女に対し、怒りと恐怖の入り混じった感情があった。
それが彼女に対し強く出られない理由なのかもしれない。
菅野健造、佐藤麻美、吉川麻里奈、最近の不眠の原因はおそらくこの三人だ。
それでも、同じ部署の今田さんや内藤さん、同期の武田さんに横山君、彼氏の友貴哉、たくさんのいい人が社内にいる。
だから私は頑張れる、はず。
「吉川さんの更新って、3ヶ月毎でしたっけ?」
私は内藤さんに小声で聞いた。
内藤さんは無言で深々と頷いた。
彼の反応から、吉川の期間更新はないと察知した。
「それまでの辛抱だね」
今田さんも自分に言い聞かせるように呟いた。
みんな同じ気持ちなのだ。
「真由子さん、資料できた?」
少し焦り気味の佐野さんとその部下が来た。
私は資料を紙袋に入れて手渡し、そのまま外出していく彼らの背中を見送った。
どことなく哀愁を感じる後ろ姿から、彼らの行く末を想像した。
きっとお客様から無理難題を突きつけられたり、怒られたりするんだろうな。
働く上で、みんなストレスを抱えている。そんなの当たり前のこと。
つらいのは自分だけじゃないんだよ、と、私は自分に無理矢理言い聞かせた。
大事なのはストレスを溜め込まないようにすること。
私は一呼吸してドリンクボトルのお茶を一口飲んだ。
温かいお茶は喉から食道を通って私の身体を潤した。
午後は美味しいお店でランチを食べよう。
頑張ったのだからそれくらいの事、してもいいよね。
パソコンで会計伝票を作成していると、雑音のような不快な声が後ろから聞こえてきた。
わたしは嫌々、声の方を振り返る。
「すみません、どこでしょうか?」
「ここ、『6』じゃなくて『0』。数字を間違えるなんて経理職失格だぞ」
そう言われて支払証明書を見せられた。
金額欄には、わたしの字で「0」と書いてあるように見えたが、確かに「6」と言われれば見えなくも無い。
数字はしっかり誰が見ても分かるように書かなければならない。
あれほど注意して記入したにも関わらず、どうやらやらかしてしまったらしい。
ここ最近の寝不足が祟ったのだろうか。
「申し訳ございません、気をつけます」
「1円の違いが会社に大きな影響を与えることもあるんだぞ。もっと気を引き締めて仕事に取り組んでもらわないと」
私のストレッサーその①、管理部の部長、菅野健造。
こいつは私のミスを粗探ししては、私の成長のために時間をたっぷり取って長々とお叱りになる非常にありがたい上司である。
なお、実際にわたしの為になる話は全体の一パーセントもなく、ほぼただの嫌味である。
「キミは仕事に取り組む姿勢が甘いんだよ。だからこんなミスをするんだよ。たるんでいる!」
わたしは心を無にして受け流そうと努めた。
こいつの言っている事にいちいち反応していたら、身が持たない。
何か別のものに注意を背けよう。
遠くから「ただいま戻りました」という声が聞こえた。
営業職の人が外勤から帰ってきたのだろう。
フロア全体で「お帰りなさい」と労いの声をかける。
「こんなミスばかりするから他の部署でやっていけなくて異動ばかりさせられるんだろ?うちの部署で受け入れてもらっただけ感謝して仕事に取り組んでもらわないと」
菅野の雑音は勢いを増す。
ああ、腹が立つ。
確かにミスをしたのはわたしが悪い。
しかし、だからといって部署異動の事までネチネチと言われる筋合いはない。
管理部に異動したのは、退職を本格的に考えていた時に、人事担当の内藤さんに提案されたからだ。
「すみませんが、ミスして異動させられたのではありません。管理部への異動は内藤さんと相談して決めたことです」
我慢が出来ず、つい言い返してしまった。
黙って聞き流せば良いとは頭でわかっているのだが、口が勝手に動いてしまった。
菅野の首筋あたりがピクリと動く。血色の悪い口元を歪め、ニヤついた表情で私を見た。
「なんで言い訳するの? 自分がミスしたってこと分かってる? へえ、自分が悪いのにそうやって言い訳するんだ?」
言い返した事により、嫌味は三倍になって返ってくるだろう。
こんなことに使っている時間はない。
午前中のうちに会計伝票の作成を終わらせ、午後には銀行と備品の買い出しに行かなくてはならないのに。
「部長、その支払証明書はわたしが真由子さんに確認を頼まれていたものです。人の机から勝手に持って行かないでくださいますか?」
救いの女神の声が聞こえた。
管理部総務兼経理担当の今田さん、私に仕事を教えてくれている先輩だ。
五十代半ばで、菅野よりベテランで、彼が唯一頭の上がらないお方である。
「いや、今田さんの机の上に置いてあったの見つけて、間違えていたから見過ごせなくて」
「確認は私の仕事です。部下思いなのは良いですけど、あまりひどいとパワハラになりますよ。それより昨日お願いした決裁、早くしてもらえませんか?」
菅野はまだ嫌味を言い足りないようだが、今田さんの人睨みで渋々自分のデスクに戻った。
「気にしないでね。真由子ちゃんはよくやってくれてるから」
そう言って女神は私に個包装のチョコレートをくれた。
私は女神にお礼を言って、伝票作成に戻った。
弊社は会計や人事、勤怠管理などのシステムを自社で開発しているIT企業だ。
小さな会社のため、自社のバックオフィスは「管理部」が一括で請け負っている。
管理部長の菅野、人事担当の内藤さん、総務兼経理担当の今田さん、同じく総務兼経理担当の私と、簡単な事務をしている最近来た派遣社員の五人。
少ない人数でやっているため、人間関係は仕事に大きく影響してくる。
ムカつく人間もいるが、いちいち反発していたら仕事にならない。わたしは管理部に配属されてから二年ほどでその事を学んだ。
作業がひと段落し、ずっと我慢していたトイレに向かった。
用を済ませて手を洗い、ハンカチをデスクに忘れたことに気づいた。
手が乾くのを待ちながら、ふと鏡で自分の顔を見た。
なんだか青白く、目の下の隈が酷くなっている気がする。
今日はぐっすり寝られるといいな。
またあの花嫁を思い出す。
この化粧室が真っ白で、夢で見た光景がフラッシュバックしてきたのか。
余りにもしつこく頭に浮かんでくるのでイライラする。
仕事に集中すればきっと忘れられるはずだ。
デスクに戻ると、座っているのは菅野しかいなかった。
今田さんも内藤さんも、別の場所で他の社員と話をしている。
菅野を視界に入れないようにしながらパソコンに向き合うと、今度は耳をつんざくような甲高い声が聞こえてきた。
「真由子さん、これよろしく」
そう言って私のデスクに交通費の領収書を叩きつけるように置いてきたのは、ストレッサーその二、佐藤麻美だ。
わたしより一つ上の先輩で、営業職をしている。
わたしはできるだけ会話をしないように、小さい声で返事をした。
「このフロア暑すぎ。もっとエアコン効かせてよ」
佐藤麻美はフロア全体に響く声で言った。
彼女は声の音量調整機能が狂っているらしい。
「エアコンの設定温度は会社で決めているんです。これ以上下げると省エネにならないし、ずっとフロアにいる開発部やお客様センターの人たちが寒さで体調を崩してしまいます」
「外勤を頑張ってきた営業が、帰ってきたときに快適に過ごせるよう温度調整するべきじゃない?利益を生み出しているのはあたしたち営業なのよ?」
また始まった。
佐藤麻美はいつも営業をしている自分が一番偉いと思い込み、他部署の社員を見下してくる。
実際のところ、佐藤麻美の仕事上の評価は彼女が思っているものとは違い、あまり芳しくない。
客先の打ち合わせでは、プロジェクトマネージャーであるエンジニアさん達が話を進めているので、彼女自身はただのお飾りにすぎないし、営業会議の議事録すらまともに作れないと営業部長が嘆いていた。
だが、腐っても営業職、わたしは口喧嘩ではこの女に勝てない。
口下手なわたしと、呼吸をする様に出まかせをペラペラ言えるこの女とでは相性が悪い。
菅野同様に黙って受け流すのが最善だろう。
そんな悔しい思いをしていると、今度は救いの天使が現れた。
「空調は、あたし達お客様センターに合わせてもらっているんですけど?営業様がやらかした事に対して、毎日代わりにお客さんに謝罪しているのは誰ですかね?」
声の主はお客様サポートセンター配属、わたしの同期の武田鈴香さんだ。
「はあ?エアコンの温度と仕事の内容は関係なくない?」
「自分で言い出したんじゃないですか。そういえばさっき、麻美さん宛にお電話入ってたみたいですよ。早く折り返さないと怒られるんじゃないですか?」
武田さんの言葉で佐藤麻美は自分のデスクに戻っていった。
自分が苛立っていることのアピールなのか、ヒールの音がいつも以上にうるさい。
開発部のエンジニアさんが数名顔を顰めていた。
「武田さん、ありがとう」
「真由子さん、ちょっといい?」
武田さんはそう言って私に顔を近づけた。
「近いうち、飲まない?色々溜まっちゃってさー。さっきの女のこととか」
「いいよ。いつ?」
「今週ちょっと忙しいから、来週の金曜日は?」
「空いてるよ」
「やった!んじゃ詳しいことは後で」
嬉しい誘いにわたしは心躍った。武田さんと飲めるのは、わたしのストレス解消の一つだ。
スケジュール帳に予定を記入しようと、バッグを開けた。
スケジュール帳を探していると、ある異変に気づいた。
ポケットティッシュがなくなっている。
やられた。つい油断した。
あれほど席を外す時に私物は肌身離さないようにしていたのに。
以前から私物がなくなることはよくあった。
ポケットティッシュや生理用ナプキン、高いものだと化粧品などが盗まれた。
犯人は分かっている。
佐藤麻美だ。わたしの物が無くなると、彼女が全く同じものを使っているということが頻繁にあった。
わたしが困っている事を知りながら、平気で「真由子さん、困ってるなら使う?」と言ってわたしの名前の書いてある日焼け止めを渡してきたこともあった。
さすがに一度、腹が立って正面から文句を言ったことがある。
母から誕生日プレゼントでもらったブランドのハンカチを盗まれた時のことだ。
それは真夏の昼休み中のことだった。自分のハンカチが無くなっていることに気づいたわたしは、その日、盗みの常習犯と思われる佐藤麻美をずっと監視していた。
佐藤麻美は廊下で当時の新卒の鈴木さんという女の子に、自分がいかにデキる女かを自信満々に話していた。
なんて哀れな鈴木さん、社内で最も無駄な昼休憩の過ごし方をしている。
エアコンのない廊下で話しているものだから、二人とも汗だくだ。
佐藤麻美が例のハンカチで汗を拭いた。
今だ。
「あれ、麻美さんそのハンカチいいですね。どこで買ったんですか?」
わたしは白々しく尋ねた。
「これ?友達にもらったのよ」
「良い柄ですね! よく見せてください!」
そう言って麻美の手からハンカチを取り上げた。
そしてハンカチのタグを確認した。
「麻美さん、このハンカチ、貰い物なんですよね?ここ見てください。どうして麻美さんがわたしの名前の書いてあるハンカチを使ってるんですか?」
麻美は虚をつかれたような顔をした。
どこ? と言ってわたしの手からハンカチをぶん捕り、確認する。
しまった、という表情が見てとれた。
「これ、わたしの母がわたしにくれた物です。無くなって困っていたんです。なんで麻美さんが持っているんですか?」
普段のわたしはこんなに怒りを露わにしないが、今回は母からの大切なプレゼントだ。
絶対に取り返す。
今まで見せたことのない剣幕に、麻美は少したじろいだが、いけしゃあしゃあとこんな事を言い出した。
「間違えた、貰ったのは別のハンカチだったわ。それは落ちてたから拾ったの。落とし物は拾った人のものよ」
その開き直り方に、驚き呆れた。
そんな言い訳が通用するか。
そもそもわたしはハンカチを落としていない。
「何言っているんですか! 落とし物は落とした人のもの。普通は総務に届けるでしょ!?」
感情が昂っているせいか、文句を言う事に慣れていないせいか、わたしの主張も少しずれてしまった。
佐藤麻美が私のバッグから盗んだ事を糾弾したいのに、思ったように口が動かない。
「普通ってなに? わたしは学校で落とし物は拾った人のものって教えられたの。わたしの学校は普通じゃないってことかしら?」
「そんなことしているの、麻美さんだけですよ」
「ねえ、鈴木さんはどう思う?」
佐藤麻美は鈴木さんに同意を求めた。
二人の先輩の喧嘩を怯えながら見ていた鈴木さんは、急に土俵に上げられて動揺した。
「落とした人が悪いよねー?」
「鈴木さん、相手にしなくて良いよ」
ちなみに鈴木さんは、この出来事がきっかけか、別の理由があってか、すぐに会社を辞めてしまった。
佐藤麻美とその周囲の人間関係から発せられる毒気にやられたのだとわたしは思うが。
「なになに? どうしたの?」
言い争いを聞きつけて、仲裁者が現れた。
最悪の仲裁者だ。
ーーー菅野健造。
「何があったの?」
「真由子さんがイチャモンつけてくるんです」
「麻美さんがわたしのハンカチを取ったんです」
「拾っただけよ」
「落とし物を自分のものにしてましたよね?」
「落とし物を借りただけよ」
「じゃあ返してください」
「ずいぶん使っちゃったし、もうわたしのものよ」
さっきから佐藤麻美の発言は滅茶苦茶だ。
落とし物は拾った人のものだから自分のものだと言ったり、ただ借りただけだと言ったり。
主張がコロコロ変わっているのに、なぜこんなに堂々としていられるのか。
普通の仲裁者なら麻美の支離滅裂な発言に突っ込みを入れるだろうが、最悪な仲裁者菅野もまたぶっ飛んだ発言をした。
「大事な物を落とすのが悪い。麻美さんの言っていることが正しい」
菅野がそう言った途端に麻美は勝ち誇ったようなしたり顔になった。
怒りで涙が出そうになるが、なんとか堪える。
わたしははらわたが煮えくりかえるような思いで二人を睨め付けた。
そもそもわたしはハンカチを落としていない。
大切なものだから、使う都度、無くさないようにバッグの奥底にしまっていた。
そう言いたいところだが、100パーセント落としていないかと言われたら、そうは言い切れないし、劣勢な状態に怖気付いてしまった。
自分の気の弱さが嫌になる。
何か言い返そうとしたが、何も言葉が出てこなかった。
「もういいわ。ハンカチごときで、馬鹿みたい」
そう言って佐藤麻美はわたしにハンカチを投げつけてどこかへ行った。
おそらく喫煙所にでも行くのだろう。
菅野も後を追った。
わたしは噴き出す怒り抑えようと深く呼吸をし、涙を服の袖に滲ませるようにして拭き取った。
「ごめんね、鈴木さん。嫌なことに巻き込んじゃって」
「え、あ、いえ」
気が動転しているのか、鈴木さんは言葉にならない曖昧な返事をした。
わたしは泣き顔を見られないように化粧室へ向かった。
ハンカチは戻ってきたものの、敗北感でいっぱいだった。
母からの大事なプレゼントが、佐藤麻美に負けたという嫌な記憶を蘇らせる品になってしまった。
その一件があってからは、佐藤麻美の窃盗に真っ向から挑むのはやめた。
自分が気をつければ防げるからだ。
大事な物は鍵付きロッカーへ、頻繁に使う物は小さいバッグに入れて常に持ち歩けば良い。
そうして対策する事にした。
しかし今回は油断した。
トイレに急いでいたのもあり、バッグを机に置いて来てしまったのだ。
佐藤麻美は今田さんも内藤さんもいない隙をついて盗みを働いたようだ。
その観察力を仕事で活かせばいいのに、悪知恵ばかり働く女だ。
悔しいが、今回はポケットティッシュだけだし、あまり気にしないようにしよう。
駅周辺をうろつけば、ティッシュ配りのアルバイトにはいつでも会えるから、ポケットティッシュなんてすぐ手に入る。
今に見ていなさい、佐藤麻美。いつかあんたが抱えている爆弾に火をつけてやるから。
「ただいま」
営業第一グループのマネージャーの菊池さんが外勤から帰ってきて、響く声で帰社の挨拶をした。
フロア全体で「おかえりなさい」と声をかける。
菊池さんが帰ってきたと言うことは、同行者は社用車を駐車場に停めている頃だろうか。
彼が間もなく戻ってくる。
わたしのテンションは少し上がった。
「ただいま戻りました」
菊池さんが帰ってきてから数分経ってから、同行者の二人が帰ってきた。
そのうち一人の声を聞いて、わたしの胸は高鳴った。
一人は開発部のシステムエンジニア、わたしの同期の横山誠二君、クールな顔つきと冷静な性格の、いかにもシステムエンジニアというような人物である。
もう一人は、営業部第一営業グループの中嶋友貴哉、わたしの彼氏である。
友貴哉はわたしより2年先輩で、経験もあり実績もある、周囲からの期待を背負う営業職である。
明るくしっかりしているため、上司、後輩からの人望も厚い。
見た目に関しては取り立てて目立つわけではなく、かといって格好悪いことも無い。
武田さん曰く『中の中から中の上』とのこと。
しかし、「相手を選ぶなら外見よりも性格だよねー」と、『下の上から中の下』である男性と結婚した武田さんは言う。
わたしも見た目は気にしていないし、一般的にはイケメンではないかもしれないけど、わたしに取っては好きな顔なのだ。
しっかり者のように見えて、プライベートはのんびりしているというギャップも可愛い。
友貴哉が帰ってきて、やる気が俄然出てきたところで仕事を再開する。
すると今度は隣で乱暴に鞄を置く音と椅子に腰掛ける振動が伝わってきた。
わたしは驚いて隣を見た。
隣のデスクを見ると、一ヶ月半ほど前に派遣社員として雇われた吉川麻里奈がデスクに突っ伏すようにして座っていた。
「おはよう、吉川さん」
いつのまにか自席に戻ってきていた内藤さんが優しく声をかける。
吉川は顔を上げようともしない。
「体調は大丈夫? 風邪?」
吉川は今日、体調が悪いからといって遅刻してきたのだ。
「うーん、大丈夫じゃないですけど、我慢して来ました。女性特有のものなのであんまり聞かれると困っちゃいます」
吉川は内藤さんの気遣いに対して、迷惑そうに返事をした。
内藤さんは苦笑い、でもおそらく過去にもこういう自分勝手な人を相手にしてき手慣れているのか、あまり気にした様子ではなかった。
女性特有のもの、つまり生理だろう。
いかにも「恥ずかしい」というような雰囲気で言っているが、だったらわざわざ生理だなんて言わなければいいのに。
言うなら堂々としろよ、と心の中で毒づく。
わたしはあまり人前で生理の話をしないよう言われて育ったので、彼女の感覚は理解できない。
しかし世の中では福利厚生として生理休暇というものがある会社もあるし、女性の体調への気遣いも変わってきている。
わたしの感覚が少しずれているだけなのかもしれないから、一概に彼女を批判できない。
ちなみに彼女の『女性特有のもの』での休みは約8日間の間隔で、今月3回目。
わたしも不順な方ではあるが、流石にこんな短期に何度も来るのは異様な気がするし、病院に行った方がいいのではないかと余計なお節介を考える。
まあ、あくまで彼女の言う事が本当であればの話だが。
内藤さんは引き攣った笑顔で吉川に話し続けた。
「お願いしていた会社説明会の資料、今日の午前中までだったから、代わりに真由子さんにやってもらったから」
内藤さんの心境を考えるとこちらが心苦しくなる。
伝えたところで、彼女の反応を見ると不快になるだけだし、わざわざ伝えなくてもいいのに。
「ああ、そうですか」
吉川は素っ気なく返事をした。
ほら、思った通り。
代わりに仕事をやっておいたのに、お礼も無し。
そもそも新卒向けの会社説明会の資料を印刷するだけの単純な作業を、なぜか2回も期限を延ばしてもらったにも関わらず終わらせる事ができなかったのが、謎で仕方がない。
体調不良は仕方がないにしても、フォローをした人間に対しての態度としてそれはないだろう。
つまり、それくらいわたしが彼女に見下されているということだ。
内藤さんと吉川のやりとりを聞いていると、腹が立って仕方がない。
早く昼休憩の時間にならないかな。
吉川がのろのろとパソコンを立ち上げていると、開発部のベテランエンジニアの佐野さんが彼女の元にやってきた。
「お願いしていた今日の打ち合わせの資料、出来てる?」
佐野さんは吉川に声をかけた。
「あたし、具合が悪くて今来たばっかりなんです。代わりに真由子ちゃんがやってると思います」
二人の視線が同時にこちらに来た。
なぜわたしに話が回ってくるのか不思議で仕方がない。
「そんな話聞いてないし、やっていないですよ」
「そんな、困るよ。午後にお客さんの所に持って行かないといけないし。まだ時間があるから頼むよ」
佐野さんは私に縋るように言ってきた。
縋るなら、もともと依頼していた吉川にすれば良いのに。
わたしには関係ない。
「わたしも午後に銀行と買い出しに行かなければいけないので、吉川さんにお願いしてください」
「えー私体調悪いから、急ぐような仕事はできません」
知るか。
わたしだって忙しいのだ。
彼女は今までも様々な仕事を体調が悪いの一言で断ってきた。
今後もずっとその手を使う気なのか。
そもそも資料の印刷もできないくらい具合が悪いなら最初から会社を休めばいい。
彼女だって仕事をしに会社に来ているのだから、しっかりと時給分働いてもらわないと。
しかしわたしの考えとは裏腹に、佐野さんの視線はわたしを捉えて離さない。
「頼むよ。資料のデータはメールで送るから」
吉川に頼むとどうなるかわからないから、わたしに頼んできたのだろう。
だからといって、なぜわたしが彼女の引き受けた仕事をなんでもかんでもやらなければいけないのか。
「何時までですか?」
「12時40分くらいまでできていれば間に合うから」
佐野さんは弊社のお昼の時間は12時から13時だという事を理解しているのだろうか。
引き受けなければいいだけの話だが、断れない自分の臆病さが嫌になる。
わたしの昼休憩は何時になることやら。
「お昼行ってきまーす」
12時のチャイムがなった瞬間、吉川麻里奈は元気そうに出ていった。
わたしが佐野さんからデータでもらった資料を印刷してホチキスで束ねていることは気にも留めていないらしい。
「真由子さんはお昼食べないの?」
向かいの内藤さんが声をかけてきた。彼の隣では菅野が椅子に座ったまま昼寝をしている。
この熟睡っぷりは昼休憩の前から寝ていたに違いない。
口が半開きなのが滑稽だ。
唐辛子でも詰め込んでやりたい。
「この資料、12時40分までにしないといけないので」
「吉川さんの仕事を押し付けられたんでしょ」
今度は今田さんだ。
今田さんは先程のやりとりを見ていてくれたらしい。
「そうなんです。だから、銀行行った帰りにお昼に入るので、戻りはいつもより遅れます」
「了解。ねえ、内藤君、なんとかならないの? あの子のサボり癖。私が言っても、被害者ヅラして言うこと聞かないのよ」
今田さんも吉川に対してよほどご立腹なのだろう。
語勢を強めて言った。
「分かっちゃいるんですけど、体調不良って言われちゃうと、こちらも強く出られないんですよ。何か出来ることをこちらで探してあげないと」
内藤さんは心底困ったというような顔をした。
採用を決めたのは内藤さんと菅野で、自分が採用してしまった手前、無下にできないのだろう。
「だからといってこちらに皺寄せがきても困ります」
わたしは手を止めずに言った。テンポよく書類を束ねていくホッチキスの音が少し快感になっていた。
「何かないかな? 彼女の得意そうな事とか」
「出来ることってなんですか。締め切りも守れない、資料の印刷すら満足に出来ない、データ入力もミスばっかりで、結局こっちが尻拭いをする始末。ほかに何をさせてあげればいいんですか?」
ホチキスを押す手に力が入る。
紙が少し寄れてしまったが、これくらい許容範囲だろう。
内藤さんは答えなかった。
わたしは小さく溜息をついた。
菅野のいびきがうるさい。
せめて吉川に、少しでも感謝の気持ちがあれば違うのに。
迷惑かけてごめんなさい。わたしの代わりに引き受けてくれてありがとうーーー
たったそれだけの気持ちがあれば、わたしも少しだけ気持ちよく彼女のフォローができるのに。
しかし吉川にはそれがない。
実は彼女は昔からこうなのだ。
わたしの最大のストレッサー、吉川麻里奈。
実は小学校時代の同級生である。
彼女と最初に会ったのは小学校4年生で同じクラスになった時だ。
彼女は子供の頃から性格が悪いことで有名だった。
自己中心的で人を不快にすることに喜びを感じるタイプ。
気の弱そうな人間を狙って偉そうに命令したり、「あの子、あなたの悪口言っていたよ? ひどいよね?」などと、あたかも自分はいい人のように見せかけて、有る事無い事告げ口して、友人関係を破壊していくことに力を入れていた。
パッとしない地味な学生時代を送っていたわたじは格好の餌食で、友人関係をめちゃくちゃにされ、子どもながらに胃痛に悩まされた。
5年生になり別のクラスになってからは、もう関わることはなくなり友人関係も安定した。
しかし、まさかここに来て再開するとは思っても見なかった。
吉川の性格は悪い意味で変わっていなかった。
十数年の月日に彼女を変えることは無理だったらしい。
弊社に派遣されてきて早々、新入社員の女の子を泣かせたり、サポートセンターの先輩達を喧嘩させたり、何かとトラブルを起こしていた。
そして彼女は、自己紹介をするたびにわたしと小学校時代の同級生である事を強調した。
「真由子ちゃんと小学校の同級生なんです」と事あるごとに話していた。
先輩の中には「真由子さん、吉川さんの昔からの親友でしょ? あの子なんとかしてちょうだい!」と、彼女の苦情をわたしに言ってくる人もいた。
それくらい色々な人に言いふらしていたのだろう。
それがなんとなくわたしを落ち着かなくさせた。
自分は真由子の過去を知っているのよ、弱みを握っているのよと圧をかけられているような、言いようのない不安感がわたしを悩ませた。
実際、開発部の女性の先輩に「真由子ちゃん、昔はもっと地味でしたよ」と話しているのを聞いた。
過去に犯罪を犯したとか、やましい事があるわけではないし、所詮過去は過去。
今では、多くはないが良い友人もいるし、仕事も菅野以外からはそこそこ評価を受けている。
何か彼女とトラブルがあった時、私の味方になってくれる人はいると思う。
それでも、過去のトラウマのせいか、彼女に対し、怒りと恐怖の入り混じった感情があった。
それが彼女に対し強く出られない理由なのかもしれない。
菅野健造、佐藤麻美、吉川麻里奈、最近の不眠の原因はおそらくこの三人だ。
それでも、同じ部署の今田さんや内藤さん、同期の武田さんに横山君、彼氏の友貴哉、たくさんのいい人が社内にいる。
だから私は頑張れる、はず。
「吉川さんの更新って、3ヶ月毎でしたっけ?」
私は内藤さんに小声で聞いた。
内藤さんは無言で深々と頷いた。
彼の反応から、吉川の期間更新はないと察知した。
「それまでの辛抱だね」
今田さんも自分に言い聞かせるように呟いた。
みんな同じ気持ちなのだ。
「真由子さん、資料できた?」
少し焦り気味の佐野さんとその部下が来た。
私は資料を紙袋に入れて手渡し、そのまま外出していく彼らの背中を見送った。
どことなく哀愁を感じる後ろ姿から、彼らの行く末を想像した。
きっとお客様から無理難題を突きつけられたり、怒られたりするんだろうな。
働く上で、みんなストレスを抱えている。そんなの当たり前のこと。
つらいのは自分だけじゃないんだよ、と、私は自分に無理矢理言い聞かせた。
大事なのはストレスを溜め込まないようにすること。
私は一呼吸してドリンクボトルのお茶を一口飲んだ。
温かいお茶は喉から食道を通って私の身体を潤した。
午後は美味しいお店でランチを食べよう。
頑張ったのだからそれくらいの事、してもいいよね。
応援ありがとうございます!
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