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しおりを挟む「横山君、この間はありがとう。子ども達と遊んでくれて」
平川さんの元妻、松本さんは、給湯室でコップの片付けをしていた俺に声をかけてきた。
先日松本さんが残業をすることになり、子どもを保育園に迎えに行った後で預ける場所がなく困っていたため、職場に連れてくるように提案したのだ。
その日俺は客先のサーバ入替で夜十時まで残らなければいけなかったため、病院にも行けなかったし、残業をしているのは俺と松本さんだけで、他に残っている人もいなかったから、子どもがいても問題ないと判断した。
子どもとのふれあいは滅多にないため俺も楽しかった。
あどけない子ども達と遊んでいると癒される。
「いえ、お役に立てて良かったです」
「ごめんね、職場に連れてきちゃって。残業の邪魔になったでしょ?」
「いや、業務はとっくに終わってたんですよ。ただ、トラブルとかあると大変だから仕方なく残っていただけで、俺も楽しかったです。子どもと遊ぶなんて滅多にないし」
「子ども達も横山君のこと、気に入っちゃったみたい」
「それは嬉しいですね」
「離婚してから、忙しくなっちゃって。時短勤務からフルタイムになっちゃったし、保育園が終わった後に預けるところがないと困っちゃうのよね。だから、本当に助かったの。これ、お礼。食べて」
松本さんは可愛らしい包装紙にリボンで飾り付けられた箱を手渡してくれた。
中にはお菓子が入っていることが想像できた。
「いいですよ、そんな」
俺は手を激しく振った。
松本さんは負けじと俺に箱を押し付けてきた。
「受け取ってほしいの」
「では、遠慮なく」
俺は彼女の気迫に負けて箱を受け取った。
重さから、中はクッキーと予想する。お礼を告げると松本さんは歯切れ悪そうにモジモジとした。
「良かったら今日の夜、ご飯でもいかない? 子どもも一緒で悪いんだけど、横山君に懐いてるし、お礼にぜひご馳走させてほしいの」
「いえ、お礼はこれで十分です」
中途半端に気を使うと逆に迷惑だろうから、俺はきっぱりと断った。
「わたしからの誘いには乗ってもらえない?」
突然の問いに驚いた。
俺は苦笑するしかなかった。
残念ながら俺にその気はない。
「そうだよね。バツイチの子持ちのオバさんなんて嫌だよね」
松本さんは少しいじけたような顔をした。
俺は慌ててフォローする。
「違うんです。誰からの誘いでも俺は断ります」
「好きな人がいるから?」
松本さんは容赦なく続けた。
俺は何も答えなかった。
気まずい沈黙が俺たちの間を流れた。
俺は病院の面会時間のことで頭がいっぱいだった。
松本さんには悪いが一刻も早く帰りたい。
「オバさんの負け惜しみだと思って聞いてもらって構わないんだけど、きっと今の恋では、横山君は幸せになれないと思う」
松本さんは眉間に皺を寄せ、口を真一文字に結んだ。
仕事のミスをいかに傷つけない様に叱るか言葉を探っている上司の様な口調だった。
「分かっています」
「いいえ、分かってない。もっと自分が幸せになれるような人を見つけた方がいいんじゃないかしら。わたし以外の人でもいいから」
「理屈では分かっているんです。でも気持ちが追いつかないんです。感情が、その事実を受け入れられないんです」
あの時真由子さんが言っていた言葉をそのまま松本さんに伝えた。
皮肉なことに、あの時は理解できなかった言葉を、今では他の人に言っている。
納得のいっていない顔の松本さんを残して俺はオフィスを出た。
バスに乗って、病院前のバス停まで行き、バスを降りたら小走りで病院に向かう。
病院の夜間受付で入館者名簿に名前を書き、入館者カードを受け取り胸に付けた。
「こんばんは。今日も遅くにご苦労様」
顔見知りの看護師さんと会い、声をかけてもらった。
そのまま病室まで付き添ってもらう。
何度目かわからない面会を経て、俺は看護師さん達に顔を覚えてもらった。
「ありがとうございます」
「いつもえらいわね、こんな夜遅くまで会いにくるなんて」
「日課ですから」
消毒薬の匂いが漂う廊下を歩きながら、看護師さんと言葉を交わした。
あの日の出来事は、今でも脳裏に焼き付いている。
あの結婚披露宴での出来事だ。
お色直しを終えた新郎新婦が入場した瞬間、一人の式場スタッフが彼らの前に立ち塞がった。
そのスタッフは、佐藤真由子さんだった。
どうやら彼女が始めたアルバイトとはこの結婚式場での仕事だったようで、おそらくこの日のために働いていたのだと思う。
彼女は両手にナイフを一本ずつ持っており、一本を転倒した花嫁のドレスの裾に突き刺した。
周囲の人間は驚きのあまり身動きが取れなかった。
女性の悲鳴が会場に響いた。
裾が引っかかり不恰好にもがく花嫁の上に真由子さんが馬乗りになったとき、誰もが息を飲んだ。
花嫁が刺されるーー。
しかし、彼女は予想外の行動に出た。
彼女はもう一本のナイフで、自分の首を切りつけたのだ。
頸動脈に傷をつけたのか、夥しい量の血が花嫁に降りかかった。
そして今度は自分の腹にナイフを突き刺した。
花嫁は彼女の血で赤く染まっていき、彼女はそれを満足そうに笑って見ていた。
この事件があり、親族に真由子さんとの関係がバレた新郎新婦はその場で破談。
仕事を続ける予定だった新郎は気まずくなり退職、新婦はショックで流産、二人とも地に落ちた。
そして救急車で運ばれた真由子さんは、一命はとりとめたものの、意識不明の重体でずっと深い眠りについている。
どうしてこうなる前に助けてあげられなかったのか。
彼女がどれほどのものを抱えていたのか、彼女がいなくなった後の数々の騒動を見れば分かるはずだったのに。
後悔ばかりが胸に込み上げる。
「真由子ちゃん、彼氏が来たよ」
病室に入り、看護師が、ベッドで眠っている真由子さんに声をかけた。
ここでは俺が真由子さんの恋人ということになっている。
「毎日彼女に会いに来るなんて、彼女も喜んでると思うよ」
看護師は俺に笑顔を向けて、励ます様に肩をポンと叩き、病室を後にした。俺は頭を下げて見送った。
「いずれ目を覚ます可能性もあるわ。少しずつ回復を待ちましょう」
真由子さんを受け入れてくれた病院の担当医と話した時、優しい聖母のような微笑みを浮かべた。
美しい黒髪の女性で、眠る真由子さんの額を撫でる姿は、まるで女神が天使を慈しむようだった。
その光景を見て、佐藤真由子に女神の加護がありますようにと願いを込めた。
ベッドの上で目を閉じた彼女の手を握った。
二人で話したあの夜、彼女が言っていたことを俺は理解した。
俺もきっと、他の人と一緒になり、人生を歩んだ方が幸せになれるのだろうが、心が拒む。
真由子さんが中嶋友希哉を諦められなかったのと同じだ。
俺は、そばにいるのが真由子さんじゃないと、心が満たされなくなってしまった。
ーーわたしはまだ友希哉のことを愛してるの。
早く目覚めてほしいけど、目覚めたら君は、彼のところへ行くのか?
「中嶋友希哉のところへ」
俺がそう呟くと、心なしか、彼女の手に力が入った気がした。
「そうか」
やはり君は、中嶋友希哉を選ぶんだね。
だとしたら、このままずっと目覚め無い方が、俺は幸せなのかもしれない。
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