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Part 1-1
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夜の港公園は、初夏独特の生暖かい風が吹いていた。潮の香りを含んだ空気が、ゆるく、肌にまとわりつく。
金目まどかは、手すりにつかまり、潮の香りを思い切り吸い込んだ。
街灯の明かりを反射しているところだけ、波が白く艶を放ち、ぬらりぬらりと動く。黒い波。真っ黒な液体。
手すりがなければ、その境目がわからずにどこまでも吸い込まれていきそうだ。
「おーい、落ちるぞ」
後ろから有吉が声をかける。
「落ちないよ」
そう、答えたまどかの横に立ち、彼はにやりと笑った。
「でも、今日は珍しくかなり飲んだじゃん。ああ、久々に、こうやって皆で会うのもいいよな」
有吉は今来た方に向かって顎をしゃくり、まどかも振り返って見た。
山口とみちるがブラブラ歩いて来る。暗くてよく見えないが、あの距離だと二人は手をつないでいるだろう。
そして、山口の隣で吉野が、二人の邪魔にならないように気を遣いながら喋っているに違いない。
「オレ、もうすっかり一人前の大人、って思ってたけどさ、なんか、こうやってみんなに会うとつい、高校時代に戻っている自分がいるんだよな」
有吉は海の闇のずっと遠くを見ながら呟き、風にそよぐ前髪をかき上げた。
「部活が無くなったら……卒業したら、五人で集まることって無くなっちゃったよね。それぞれ忙しくて。まさか七年ぶりに、みちるから連絡がくるとは思わなかったよ」
まどかは自分の顔を両手で挟んだ。
少し頬が熱い。ーーやっぱり飲み過ぎたかも。
有吉はまどかに視線を移し、続けた。
「オレたちが就職した頃は、めっちゃ忙しかったからな。景気良くて、仕事と金は山ほどあった。そのかわり遊ぶ暇はなかったけど……でもさ、オレ、知らなかったよ。覚とみちるが付き合っているなんてさ」
「あ、みちるが久々に実家に帰ったときに地元の歯医者に行ったら、山口が跡を継いでたらしくて」
「山口歯科な。オヤジさん引退したんだ? でも、オレだったら嫌だな、知ってる奴に口の中見せるの」
「なんだよ、何の話だよ」
山口が後ろから膝で有吉の尻を蹴る。
「いて。やめろよ。金目からお前達のなれそめを聞いてたところだ。みちる、よせよせ、こんなヤブ医者。こんなのに見せてたら、あっという間に総入れ歯だぞ」
「おまえ、海に落ちろ。鮫の餌になってこい」
「あはは、やめなよ。鮫なんていないよお」
みちるは朗らかに笑いつつも、山口のシャツを咄嗟に掴んだ。
「でもね、大丈夫。私は覚じゃなくて、お姉さんの方に見てもらってるの。彼女の腕は確実だよ」
「ナチュラルにディスるな」と、山口はみちるの頭を胸に抱え込んだが、彼女はするりと逃れて舌を出した。
「とにかくね、私も久々に帰った地元で懐かしい顔を見て、つい、仕事の後にご飯でもどう? って誘っちゃったのよ」
「そうそう、誘われた」
嬉しそうにニヤニヤ笑う山口にみちるは「きっ」と眉を上げた。
「でも最終的にさんざん口説いたのはどちら様でしたっけ!」
「口説いてねーよ!」
「じゃ、今すぐ別れる!」
みちるが人差し指を突きつけると、「ごめん!」と彼はにべもなくみちるに縋り付いた。まどかはそのコントのような光景に思わず吹き出した。
「まぁまぁ、それよりもこれ、覚えてる?」
穏やかにごたごたを治めるのが、常に吉野の役目だった。彼はTシャツから首にかかっていた銀の鎖を引っ張り、そのヘッドを皆に見せた。
月明かりに光るのはアーミーペンダントだ。
高校の部活でバンドを結成したときに、みんなで注文したものだ。
銀板には、それぞれの名前と、担当の楽器が彫られていて、アクセントに小さな球状のクリスタルが埋め込まれている。
みちるがギター、山口覺がバシスト、吉野がボーカルで有吉和宏がドラム、そしてまどかはキーボードだった。
「あ、まだ持ってるんだ。実は私もキーホルダーにしてるけどね」
まどかは家の鍵をじゃらじゃらとバッグから出してみせた。
「あ、私もピアスと一緒にしまってある」
「オレのもたぶん机の中に入っている気がする」
みちるに続いて有吉が答える。
「じゃあ今度、せっかくだからこのペンダントヘッド持って、また近いうちに会おうぜ」
「まさか覚、またバンド結成しようとか!?」
呆れ顔のみちるに、それはねッス、と山口は白い歯を見せた。
「さすがに仕事があるんで、練習とか無理。でもさ、昔話で青春をもう一度、って悪くないっしょ?」
「そうだね。どうせなら地元で集まろうよ。来月はお盆だし、どう? みんな休める?」
やっぱり吉野は話をまとめるのが早い。
「いいね。お盆。私も二日だけ休めるんだ。行く行く」
久々に親の顔を見るのも孝行かもしれない。そう思い、まどかはみちるに頷いた。
「じゃあ、オレも参加しよっかな」
いやなら、来なくていいんですよ。山口が有吉にからんだ。
――それじゃ、来月。
もう一度直前にメールで連絡することを約束し、五人は駅で解散した。
それから一週間後、まどかの元に吉野からの招集メールが届き、続いて有吉からもメールがきた。
――約束より一時間早く、学校で会えないか。
そのたった一行のメールを読んだとき、まどかの耳の奥で「どくん」と心臓の音が響いた。
こうして有吉から個人的に呼び出されるのは二度目だ。思い出が一瞬でフラッシュバックする。
**
高校二年から三年にかけて、まどかの片思いの相手は有吉だった。
彼はいつも人の中心にいた。
それは、小学校の時に始めたという水泳で色の明るくなったサラサラの髪のせいだけではなく、すでに百八十センチ近くの長身と、整った面立ちにくわえ、人懐こい性格だったからだ。
長い前髪を真ん中からかきあげる癖に、よく目を奪われたのはまどかだけではないはずだった。
まどかはクラスが別で、有吉との唯一の接点は軽音部だけだったが、体育の合同授業や学年集会では、常に視線で彼を追いかけていた。
二年生の時には、ただ遠巻きに見ているだけだった。
しかし、部活でも極力普通に振る舞っていたはずなのに、三年になってみちるが同じクラスになると、『まどかは有吉が好きなんでしょ。大丈夫、私に任せてよ』と、一瞬にして見抜かれてしまった。
その時からまどかは部活のミーティングで彼と二人きりにさせられたり、みちるは山口と有吉を誘い、四人で花火大会に行ったりした。
だが、みちるの後援も虚しく、有吉が側にいると、まどかは極度の緊張から途端に口数が少なくなり、必要な会話以外はほとんど交わせずにいた。
みちるはそんなまどかを歯がゆい思いを募らせていたのだろう。ある時、まどかに迫った。
「あのね、私はお節介なんかしたくないよ。でも、何かもどかしいのよね。もう、好きなら告ればいいのに! 有吉は王道イケメンだし、バカじゃないから狙っている子、かなりいるよ。いいの? 誰かに取られても」
姉御肌のみちるは、ショートカットの頭をぶんぶんと振りながら「煮え切らない! 煮え切らない!」と、繰り返す。まどかは悪いと思いつつも正直に打ち明けた。
「みちるには感謝してる。でも……、告ってダメだったら、その後、部活とかすごく気まずくなるでしょ……みんなも。それだったら今のままで十分だし。楽しいし」
親友の、自分を思う気持ちは十分に伝わったが、それでもまどかの言葉にも嘘はなかった。
卒業まで、お互い気楽な同級生の関係を続けられれば十分で、それ以上を求めるのは贅沢だ。
それに、まどかは何よりも五人でいるのが好きだった。
「もう、あとで後悔しても知らないよ!」
突き放すような口調だったが、みちるは励ますようにポンポンとまどかの頭を軽く叩いた。
それからは、まどかに気を使ってか、彼女のお節介もぐっと少なくなった。
そんなまどかと有吉の間に夏休み明け、小さな事件があった。
「金目」
部活が終り、まどかが楽器を片付けていると、有吉が突然話しかけてきた。
「悪いけど生物のノート貸してくれない? オレ、夏休み前、風邪で学校休んでるからさ。結構抜けてるんだよ。おまえ生物得意なんだろ?」
「え……いいけど……」
まどかは傍のカバンからノートを出した。
「助かる! 今日コピーしたら明日返すわ」
有吉はにっこり微笑み、それを受け取った。
まどかは慌てて頷くように顔を伏せた。
もちろん、赤くなった顔を隠すためだ。
なんとか平静を振る舞い、「どういたしまして」と、無理に笑顔を作った。
その翌日、まどかが教室で雑誌を読んでいると、「パコン」と頭をノートで叩かれた。
「いたっ」
頭を片手で押さえたまま、まどかは机の前に立つ有吉をにらんだ。
「おう」
「ちょっ……、それが物を借りた人の態度かなあっ」
目があうと、なぜか有吉はふいっと目を逸らした。
「うるせーよ」
なんだか態度が普段と違う。
ソワソワしているというか、まず目を合わせないのが変だ。
「ノート、サンキュ」
視線はやはり、まどかの頭の上を辺りを泳いでいた。
ーーあ、山口を探しているのかも。
「山口なら資料室にプリント取りに行ったよ」
「あ、うん……」
そのとき初めて有吉の視線がまどかと交わった。そのまま数秒感、まどかも何故か目をそらせずにいた。
「おいおい、なんでお前ら見つめ合ってるの?」
突然、山口が有吉の後ろからひょいと顔を出し、有吉は漫画のように大げさに一歩後退った。
「ばっ、ばか! 見つめてっ……」
「なっ! ないし!」
二人の声が重なる。
「オ、オレはこいつにノートを返しに来ただけだし」
「ああ、そう。へーえ」
まどかと有吉に山口は疑わしげな目を向けた。
まどかは頰が熱くなるのを感じながら、負けじと山口を見上げると、そのタイミングでチャイムが鳴った。
「あ、オレ、もう行くわ……ノート、サンキュ」
有吉は一瞬普段の有吉に戻り、素早く退散していく。その後ろ姿を見送りながら、山口は「変なやつ」と呟き、再びまどかを見た。
「おまえもな」
「何よ」
そのとき教員が入って来ると、山口もまだ何か言いたそうな素振りを見せつつ、席に戻っていった。
ーーいや、変なのは絶対に有吉の方。
まどかは胸の内で返した。
その夜、まどかは部屋で生物のノートをぱらぱらと繰っていた。
まさか、このノートが原因ではないと思うが、まどかには、有吉が挙動不審になるような原因はこれ以外に思い当たらない。
その時ふと、余白の走り書きに目が止まり、まどかの体は凍り付いた。
「あ……」
すっかり忘れていた。そこには、大きくはないけどはっきりと『K.A好きだぁーー』と書かれている。
書いたのはかなり前だ。すっかり忘れていた。
退屈な授業中、有吉のことを考えていて、想いが溢れてつい、さらっとシャーペンが動いてしまった。
「やばいよ……これ……」
思わず声に出ていた。恥ずかしくて、顔が燃えている。
ーー有吉は、多分、いや、絶対にこれを見た。だから、キョドッていたんだ。もしかして、私が彼のこと好きだって、バレたのかな……。
まどかは「やばい、やばい、やばい………」と言いながら、ノートにグリグリと額を押し付けた。
だが、次の瞬間パッと顔を上げる。
「いや、ちょっと待って?」
イニシャルでK.Aなんて他のクラスにもいるし、これを見ただけですぐに有吉自身と結びつけるほど、彼も自惚れてはいないだろう。
ーーそうだ。もし、万が一、改めてツッコまれたら適当な芸能人とか漫画のキャラの名前でも言って誤摩化そう。うん。二次元で行こう。
そう自分で自分を宥め、まどかはそれを綺麗に消してから、ベッドに入った。
その後、特にまどかが心配したようなことは無かった。そして、そのショックを境にまどかの恋心も、風船が徐々にしぼんで行くように、次第に小さくなっていった。季節が秋から冬へと変化するように。
ゆっくりと、でも確実に。
決して有吉を嫌いになったわけじゃない。
ただ、あの落書きを見られたことで、気が済んだと言うか、その想いが届いたような錯覚に陥ったのだ。
その後の彼からのリアクションが無かったことも幸いして、……つまり、脈なしと受け止め、まどかは自分の淡い恋心を手放し、その心は空に羽ばたいていった。
そう、青春よ、サヨウナラ。
そのタイミングで受験勉強も本格的に追い込みに入り、部活にもほとんど行かず有吉と会う機会が減ると、まどかはやがて、あの恋焦れて胸を騒がせていた日々が、懐かしいとさえ感じるようになった。
*
終業式、十二月二十四日。
成績表をもらい、友達に別れを告げた後、みちるや山口、まどかたちメンバーは部室に集まった。
だからと言って特別に何をするわけでもなく、ただ三学期に入ったら、もうほとんど交流が無くなるであろう部員達と最後の顔合わせをするのが終業式の恒例になっていた。
まどかたちの他にも三年生はまだ数人ほどいて、それぞれが後輩たちと談笑している。
山口も相変わらずバカ話をして皆を笑わせ、「先輩は留年ですよね」といじられていた。
吉野はまどかのキーボードの伴奏で、持ち歌の得意のバラードを披露して後輩の涙を誘い、有吉は、カバンからCDを取り出し「俺たちのオリジナルを何曲か焼いたから。豪華版。先客で十名様にあげる」と、微笑しながらひらひらとそれを掲げて最後のプロモーションに勤しんだ。
すると、たちまち女子部員が欲しい欲しい!」と黄色い声を上げ、有吉を取り囲む。
まどかがその光景に目を瞬かせていると、みちるは横で「だから言ったじゃない」と囁いた。
そんなに有吉はモテるのかと驚いたが、自分がそれをすでに冷静に見ていることに、まどかは少し驚き、同時に恋も卒業したのだと、感慨に耽ってもいた。
陽が落ちた頃、解散して部員は部室を後にした。
廊下で有吉が、後輩に配ったCDを「記念だ」と、メンバーにも配った。
「金目、これはおまえの。勉強中に聴くなよ」
「なんで? 眠くなるから?」
「いや、楽器やりたくなるだろ」
真面目に言う有吉の瞳が、なんだか切実で、まどかの心がちくっと痛んだ。
「ありがとう。お互い、受験頑張ろうね!」
その痛みを無理矢理消すかの様に笑顔を作る。そうして有吉と、皆と別れた。
家で私服に着替え、まどかは早速CDを聴こうとケースを開けた。すると、タイトルカードの裏側に短いメッセージを見つけた。
『金目へ 十二月二十五日 五時にさざんか公園で』
どくん、と心臓が高鳴り、全身に鳥肌が立った。
ーーどうしよう。これって。
明日は――クリスマス。
この日に男が女に特別に話があると言うメッセージは、何を意味するのか十七年生きていたらたいてい想像はつく。
よりによって、有吉からの一番望まないメッセージ。
ーーどうして、突然。
今日まで、自分に対する有吉の態度は、仲の良い同級生の、部活仲間のそれだった。それが、どうして……。
まどかはハッと息をのんだ。
やっぱり、あの走り書きだ。きっとあの時、彼はきちんと理解していた。
まどかのそれまでの彼への態度が、仕草が、きっとあの走り書きの意味を色濃くしたに違いない。
思えば、みちるにも感づかれたほどだ。
彼はもちろん、まどかを意識した。意識は恋へ変化する。
しかし、まどかの方はすでに彼に対する気持ちを、美しい思い出としてラッピングして、心の特別な場所に仕舞ったのだ。
それなのに、有吉は昔の恋心の安らかな眠りを無理やり起こそうとしている。
そんな彼の行為が横暴で、傲慢だと思った。
自分勝手な考えだと百も承知だ。でも、それが恋ってものだろう。好きになるのも勝手、手放すのも勝手。
もう過ぎたことなのに。今更。
まどかは、自分をそっとしておいてくれない有吉に一瞬、恨んだ。
翌日、二十五日。
モカ色のピーコートを着て家を出る。
東の空の紫色から西に視線を流して、オレンジ、赤と絶妙なグラデーションが綺麗だ。空気の尖った冷たさが、この色をさらに鮮やかにしている。
そんな美しい風景も、まどかの心には冷え冷えとした一つの絵としか映らず、公園へ近づくにつれ足は重くなった。
高台へ続く急な階段を登り切ると、さざんかの植樹に囲まれた公園がある。
開けた原っぱに滑り台と砂場、ブランコがあるだけのそこに、有吉はいた。ブランコに座り、前に後ろに揺れている。
後ろから近づいて行くと、はっとして彼は顔を上げた。暗くなった空が彼の瞳に影を落とし、その目は愁いを帯びていた――。
金目まどかは、手すりにつかまり、潮の香りを思い切り吸い込んだ。
街灯の明かりを反射しているところだけ、波が白く艶を放ち、ぬらりぬらりと動く。黒い波。真っ黒な液体。
手すりがなければ、その境目がわからずにどこまでも吸い込まれていきそうだ。
「おーい、落ちるぞ」
後ろから有吉が声をかける。
「落ちないよ」
そう、答えたまどかの横に立ち、彼はにやりと笑った。
「でも、今日は珍しくかなり飲んだじゃん。ああ、久々に、こうやって皆で会うのもいいよな」
有吉は今来た方に向かって顎をしゃくり、まどかも振り返って見た。
山口とみちるがブラブラ歩いて来る。暗くてよく見えないが、あの距離だと二人は手をつないでいるだろう。
そして、山口の隣で吉野が、二人の邪魔にならないように気を遣いながら喋っているに違いない。
「オレ、もうすっかり一人前の大人、って思ってたけどさ、なんか、こうやってみんなに会うとつい、高校時代に戻っている自分がいるんだよな」
有吉は海の闇のずっと遠くを見ながら呟き、風にそよぐ前髪をかき上げた。
「部活が無くなったら……卒業したら、五人で集まることって無くなっちゃったよね。それぞれ忙しくて。まさか七年ぶりに、みちるから連絡がくるとは思わなかったよ」
まどかは自分の顔を両手で挟んだ。
少し頬が熱い。ーーやっぱり飲み過ぎたかも。
有吉はまどかに視線を移し、続けた。
「オレたちが就職した頃は、めっちゃ忙しかったからな。景気良くて、仕事と金は山ほどあった。そのかわり遊ぶ暇はなかったけど……でもさ、オレ、知らなかったよ。覚とみちるが付き合っているなんてさ」
「あ、みちるが久々に実家に帰ったときに地元の歯医者に行ったら、山口が跡を継いでたらしくて」
「山口歯科な。オヤジさん引退したんだ? でも、オレだったら嫌だな、知ってる奴に口の中見せるの」
「なんだよ、何の話だよ」
山口が後ろから膝で有吉の尻を蹴る。
「いて。やめろよ。金目からお前達のなれそめを聞いてたところだ。みちる、よせよせ、こんなヤブ医者。こんなのに見せてたら、あっという間に総入れ歯だぞ」
「おまえ、海に落ちろ。鮫の餌になってこい」
「あはは、やめなよ。鮫なんていないよお」
みちるは朗らかに笑いつつも、山口のシャツを咄嗟に掴んだ。
「でもね、大丈夫。私は覚じゃなくて、お姉さんの方に見てもらってるの。彼女の腕は確実だよ」
「ナチュラルにディスるな」と、山口はみちるの頭を胸に抱え込んだが、彼女はするりと逃れて舌を出した。
「とにかくね、私も久々に帰った地元で懐かしい顔を見て、つい、仕事の後にご飯でもどう? って誘っちゃったのよ」
「そうそう、誘われた」
嬉しそうにニヤニヤ笑う山口にみちるは「きっ」と眉を上げた。
「でも最終的にさんざん口説いたのはどちら様でしたっけ!」
「口説いてねーよ!」
「じゃ、今すぐ別れる!」
みちるが人差し指を突きつけると、「ごめん!」と彼はにべもなくみちるに縋り付いた。まどかはそのコントのような光景に思わず吹き出した。
「まぁまぁ、それよりもこれ、覚えてる?」
穏やかにごたごたを治めるのが、常に吉野の役目だった。彼はTシャツから首にかかっていた銀の鎖を引っ張り、そのヘッドを皆に見せた。
月明かりに光るのはアーミーペンダントだ。
高校の部活でバンドを結成したときに、みんなで注文したものだ。
銀板には、それぞれの名前と、担当の楽器が彫られていて、アクセントに小さな球状のクリスタルが埋め込まれている。
みちるがギター、山口覺がバシスト、吉野がボーカルで有吉和宏がドラム、そしてまどかはキーボードだった。
「あ、まだ持ってるんだ。実は私もキーホルダーにしてるけどね」
まどかは家の鍵をじゃらじゃらとバッグから出してみせた。
「あ、私もピアスと一緒にしまってある」
「オレのもたぶん机の中に入っている気がする」
みちるに続いて有吉が答える。
「じゃあ今度、せっかくだからこのペンダントヘッド持って、また近いうちに会おうぜ」
「まさか覚、またバンド結成しようとか!?」
呆れ顔のみちるに、それはねッス、と山口は白い歯を見せた。
「さすがに仕事があるんで、練習とか無理。でもさ、昔話で青春をもう一度、って悪くないっしょ?」
「そうだね。どうせなら地元で集まろうよ。来月はお盆だし、どう? みんな休める?」
やっぱり吉野は話をまとめるのが早い。
「いいね。お盆。私も二日だけ休めるんだ。行く行く」
久々に親の顔を見るのも孝行かもしれない。そう思い、まどかはみちるに頷いた。
「じゃあ、オレも参加しよっかな」
いやなら、来なくていいんですよ。山口が有吉にからんだ。
――それじゃ、来月。
もう一度直前にメールで連絡することを約束し、五人は駅で解散した。
それから一週間後、まどかの元に吉野からの招集メールが届き、続いて有吉からもメールがきた。
――約束より一時間早く、学校で会えないか。
そのたった一行のメールを読んだとき、まどかの耳の奥で「どくん」と心臓の音が響いた。
こうして有吉から個人的に呼び出されるのは二度目だ。思い出が一瞬でフラッシュバックする。
**
高校二年から三年にかけて、まどかの片思いの相手は有吉だった。
彼はいつも人の中心にいた。
それは、小学校の時に始めたという水泳で色の明るくなったサラサラの髪のせいだけではなく、すでに百八十センチ近くの長身と、整った面立ちにくわえ、人懐こい性格だったからだ。
長い前髪を真ん中からかきあげる癖に、よく目を奪われたのはまどかだけではないはずだった。
まどかはクラスが別で、有吉との唯一の接点は軽音部だけだったが、体育の合同授業や学年集会では、常に視線で彼を追いかけていた。
二年生の時には、ただ遠巻きに見ているだけだった。
しかし、部活でも極力普通に振る舞っていたはずなのに、三年になってみちるが同じクラスになると、『まどかは有吉が好きなんでしょ。大丈夫、私に任せてよ』と、一瞬にして見抜かれてしまった。
その時からまどかは部活のミーティングで彼と二人きりにさせられたり、みちるは山口と有吉を誘い、四人で花火大会に行ったりした。
だが、みちるの後援も虚しく、有吉が側にいると、まどかは極度の緊張から途端に口数が少なくなり、必要な会話以外はほとんど交わせずにいた。
みちるはそんなまどかを歯がゆい思いを募らせていたのだろう。ある時、まどかに迫った。
「あのね、私はお節介なんかしたくないよ。でも、何かもどかしいのよね。もう、好きなら告ればいいのに! 有吉は王道イケメンだし、バカじゃないから狙っている子、かなりいるよ。いいの? 誰かに取られても」
姉御肌のみちるは、ショートカットの頭をぶんぶんと振りながら「煮え切らない! 煮え切らない!」と、繰り返す。まどかは悪いと思いつつも正直に打ち明けた。
「みちるには感謝してる。でも……、告ってダメだったら、その後、部活とかすごく気まずくなるでしょ……みんなも。それだったら今のままで十分だし。楽しいし」
親友の、自分を思う気持ちは十分に伝わったが、それでもまどかの言葉にも嘘はなかった。
卒業まで、お互い気楽な同級生の関係を続けられれば十分で、それ以上を求めるのは贅沢だ。
それに、まどかは何よりも五人でいるのが好きだった。
「もう、あとで後悔しても知らないよ!」
突き放すような口調だったが、みちるは励ますようにポンポンとまどかの頭を軽く叩いた。
それからは、まどかに気を使ってか、彼女のお節介もぐっと少なくなった。
そんなまどかと有吉の間に夏休み明け、小さな事件があった。
「金目」
部活が終り、まどかが楽器を片付けていると、有吉が突然話しかけてきた。
「悪いけど生物のノート貸してくれない? オレ、夏休み前、風邪で学校休んでるからさ。結構抜けてるんだよ。おまえ生物得意なんだろ?」
「え……いいけど……」
まどかは傍のカバンからノートを出した。
「助かる! 今日コピーしたら明日返すわ」
有吉はにっこり微笑み、それを受け取った。
まどかは慌てて頷くように顔を伏せた。
もちろん、赤くなった顔を隠すためだ。
なんとか平静を振る舞い、「どういたしまして」と、無理に笑顔を作った。
その翌日、まどかが教室で雑誌を読んでいると、「パコン」と頭をノートで叩かれた。
「いたっ」
頭を片手で押さえたまま、まどかは机の前に立つ有吉をにらんだ。
「おう」
「ちょっ……、それが物を借りた人の態度かなあっ」
目があうと、なぜか有吉はふいっと目を逸らした。
「うるせーよ」
なんだか態度が普段と違う。
ソワソワしているというか、まず目を合わせないのが変だ。
「ノート、サンキュ」
視線はやはり、まどかの頭の上を辺りを泳いでいた。
ーーあ、山口を探しているのかも。
「山口なら資料室にプリント取りに行ったよ」
「あ、うん……」
そのとき初めて有吉の視線がまどかと交わった。そのまま数秒感、まどかも何故か目をそらせずにいた。
「おいおい、なんでお前ら見つめ合ってるの?」
突然、山口が有吉の後ろからひょいと顔を出し、有吉は漫画のように大げさに一歩後退った。
「ばっ、ばか! 見つめてっ……」
「なっ! ないし!」
二人の声が重なる。
「オ、オレはこいつにノートを返しに来ただけだし」
「ああ、そう。へーえ」
まどかと有吉に山口は疑わしげな目を向けた。
まどかは頰が熱くなるのを感じながら、負けじと山口を見上げると、そのタイミングでチャイムが鳴った。
「あ、オレ、もう行くわ……ノート、サンキュ」
有吉は一瞬普段の有吉に戻り、素早く退散していく。その後ろ姿を見送りながら、山口は「変なやつ」と呟き、再びまどかを見た。
「おまえもな」
「何よ」
そのとき教員が入って来ると、山口もまだ何か言いたそうな素振りを見せつつ、席に戻っていった。
ーーいや、変なのは絶対に有吉の方。
まどかは胸の内で返した。
その夜、まどかは部屋で生物のノートをぱらぱらと繰っていた。
まさか、このノートが原因ではないと思うが、まどかには、有吉が挙動不審になるような原因はこれ以外に思い当たらない。
その時ふと、余白の走り書きに目が止まり、まどかの体は凍り付いた。
「あ……」
すっかり忘れていた。そこには、大きくはないけどはっきりと『K.A好きだぁーー』と書かれている。
書いたのはかなり前だ。すっかり忘れていた。
退屈な授業中、有吉のことを考えていて、想いが溢れてつい、さらっとシャーペンが動いてしまった。
「やばいよ……これ……」
思わず声に出ていた。恥ずかしくて、顔が燃えている。
ーー有吉は、多分、いや、絶対にこれを見た。だから、キョドッていたんだ。もしかして、私が彼のこと好きだって、バレたのかな……。
まどかは「やばい、やばい、やばい………」と言いながら、ノートにグリグリと額を押し付けた。
だが、次の瞬間パッと顔を上げる。
「いや、ちょっと待って?」
イニシャルでK.Aなんて他のクラスにもいるし、これを見ただけですぐに有吉自身と結びつけるほど、彼も自惚れてはいないだろう。
ーーそうだ。もし、万が一、改めてツッコまれたら適当な芸能人とか漫画のキャラの名前でも言って誤摩化そう。うん。二次元で行こう。
そう自分で自分を宥め、まどかはそれを綺麗に消してから、ベッドに入った。
その後、特にまどかが心配したようなことは無かった。そして、そのショックを境にまどかの恋心も、風船が徐々にしぼんで行くように、次第に小さくなっていった。季節が秋から冬へと変化するように。
ゆっくりと、でも確実に。
決して有吉を嫌いになったわけじゃない。
ただ、あの落書きを見られたことで、気が済んだと言うか、その想いが届いたような錯覚に陥ったのだ。
その後の彼からのリアクションが無かったことも幸いして、……つまり、脈なしと受け止め、まどかは自分の淡い恋心を手放し、その心は空に羽ばたいていった。
そう、青春よ、サヨウナラ。
そのタイミングで受験勉強も本格的に追い込みに入り、部活にもほとんど行かず有吉と会う機会が減ると、まどかはやがて、あの恋焦れて胸を騒がせていた日々が、懐かしいとさえ感じるようになった。
*
終業式、十二月二十四日。
成績表をもらい、友達に別れを告げた後、みちるや山口、まどかたちメンバーは部室に集まった。
だからと言って特別に何をするわけでもなく、ただ三学期に入ったら、もうほとんど交流が無くなるであろう部員達と最後の顔合わせをするのが終業式の恒例になっていた。
まどかたちの他にも三年生はまだ数人ほどいて、それぞれが後輩たちと談笑している。
山口も相変わらずバカ話をして皆を笑わせ、「先輩は留年ですよね」といじられていた。
吉野はまどかのキーボードの伴奏で、持ち歌の得意のバラードを披露して後輩の涙を誘い、有吉は、カバンからCDを取り出し「俺たちのオリジナルを何曲か焼いたから。豪華版。先客で十名様にあげる」と、微笑しながらひらひらとそれを掲げて最後のプロモーションに勤しんだ。
すると、たちまち女子部員が欲しい欲しい!」と黄色い声を上げ、有吉を取り囲む。
まどかがその光景に目を瞬かせていると、みちるは横で「だから言ったじゃない」と囁いた。
そんなに有吉はモテるのかと驚いたが、自分がそれをすでに冷静に見ていることに、まどかは少し驚き、同時に恋も卒業したのだと、感慨に耽ってもいた。
陽が落ちた頃、解散して部員は部室を後にした。
廊下で有吉が、後輩に配ったCDを「記念だ」と、メンバーにも配った。
「金目、これはおまえの。勉強中に聴くなよ」
「なんで? 眠くなるから?」
「いや、楽器やりたくなるだろ」
真面目に言う有吉の瞳が、なんだか切実で、まどかの心がちくっと痛んだ。
「ありがとう。お互い、受験頑張ろうね!」
その痛みを無理矢理消すかの様に笑顔を作る。そうして有吉と、皆と別れた。
家で私服に着替え、まどかは早速CDを聴こうとケースを開けた。すると、タイトルカードの裏側に短いメッセージを見つけた。
『金目へ 十二月二十五日 五時にさざんか公園で』
どくん、と心臓が高鳴り、全身に鳥肌が立った。
ーーどうしよう。これって。
明日は――クリスマス。
この日に男が女に特別に話があると言うメッセージは、何を意味するのか十七年生きていたらたいてい想像はつく。
よりによって、有吉からの一番望まないメッセージ。
ーーどうして、突然。
今日まで、自分に対する有吉の態度は、仲の良い同級生の、部活仲間のそれだった。それが、どうして……。
まどかはハッと息をのんだ。
やっぱり、あの走り書きだ。きっとあの時、彼はきちんと理解していた。
まどかのそれまでの彼への態度が、仕草が、きっとあの走り書きの意味を色濃くしたに違いない。
思えば、みちるにも感づかれたほどだ。
彼はもちろん、まどかを意識した。意識は恋へ変化する。
しかし、まどかの方はすでに彼に対する気持ちを、美しい思い出としてラッピングして、心の特別な場所に仕舞ったのだ。
それなのに、有吉は昔の恋心の安らかな眠りを無理やり起こそうとしている。
そんな彼の行為が横暴で、傲慢だと思った。
自分勝手な考えだと百も承知だ。でも、それが恋ってものだろう。好きになるのも勝手、手放すのも勝手。
もう過ぎたことなのに。今更。
まどかは、自分をそっとしておいてくれない有吉に一瞬、恨んだ。
翌日、二十五日。
モカ色のピーコートを着て家を出る。
東の空の紫色から西に視線を流して、オレンジ、赤と絶妙なグラデーションが綺麗だ。空気の尖った冷たさが、この色をさらに鮮やかにしている。
そんな美しい風景も、まどかの心には冷え冷えとした一つの絵としか映らず、公園へ近づくにつれ足は重くなった。
高台へ続く急な階段を登り切ると、さざんかの植樹に囲まれた公園がある。
開けた原っぱに滑り台と砂場、ブランコがあるだけのそこに、有吉はいた。ブランコに座り、前に後ろに揺れている。
後ろから近づいて行くと、はっとして彼は顔を上げた。暗くなった空が彼の瞳に影を落とし、その目は愁いを帯びていた――。
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