ELYSIUM

久保 ちはろ

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Part 6-1

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 天使の夢を見た。
 黄金の髪の天使に、雲の上で丁寧にお化粧される夢だ。まどかは、天使が手にした柔らかなブラシに何度も優しく頬を撫でられ、うっとりと目を閉じる。
 と、急に下唇が軽く引っ張られる感触があった。
 そっと目を開けると、ぼやけた視界にオリーブグリーンの瞳が浮かんでいる。天使だと思った。
「あ、やっと起きた……」
 まだぼうっとその瞳を見つめていると、ゆっくりと瞳が近づいて唇が重なった。下唇を軽くくわえて、吸い上げる。
 髪が頬をくすぐった。
「鳳乱……」
「何?」
 息が耳にかかる。彼は、まどかを見つめ、次の言葉を待っている。
「私、たくさん寝ちゃってた?」
「ううん、十五分くらいかな」
「夢を見たの。天使にお化粧される夢……すごく上質の、柔らかなブラシで、ふわっと。すごく気持ちがよかった」
「ああ……」
 鳳乱は少し体を起こし、まどかの顔を覗き込む。「こんな感じ?」その長い指で頬をすっと撫でた。
「うん」
 もう一度、まどかは目を閉じた。その感触は夢でのそれと一緒だった。再び目を開ける。
「僕たちが果てた後、まどかがそのまま寝ちゃってつまらなかったから、どうしようかな、って。起こすのも悪いと思ったし……」
 今までに見たことのない、穏やかな笑みが彼の顔に広がる。
 まどかが腕を伸ばして鳳乱の頬に触れると、相手はさらに体を引き寄せて、二人、ぴたりと抱き合うかたちになった。
「すごく……気持ちがよかったの。一つになって」
 まどかは相手を見つめたまま言った。鳳乱の頬に赤みがさす。
「僕なんか……どうなるかと思ったよ……」
 そして、お互いどちらからとも無く顔を寄せ、キスをする。しばらく濡れた音が部屋に響いた。
「シャワーを浴びておいで」
 唇の上で彼は言う。
「僕、けっこう体中舐め回しちゃったから。それに今夜はまどかといろいろ話したい。僕が我慢出来なくて順番が逆になったけど、まどかは僕のこと全然知らないだろうし、僕もまどかの話を聞きたい」
 そう言われればそうだった。昨夜、初めて距離が近づいたのだ。お互い、個人的なことは全く知らない。まどかはゆっくり体を起こした。
「うん。じゃあ、このシーツ貸して」
 ぐいとそれを引っ張る。鳳乱はまどかの手を取り、指を絡めた。
「なんで? 誰もいないからそのままでいいだろ。僕はもう全部見たんだし」
 にやっと彼は口角を上げるのを見て、まどかは慌てて裸の胸を隠した。
「そんな、やっぱり恥ずかしい……」
「もう遅いのに」
 そう言いながらも鳳乱はベッドの下から篭を引き出し、バスタオルを一枚出した。
 そしてもう一度、まどかの胸に顔を埋め、
「ホントは一緒に入りたいんだけど。そうしたら、話が出来るのは夜明けになりそうだから……我慢」
 そして肌を強く吸った。
「あっ」
 彼が唇を離すと、そこにまた新しい印が一つ増えた。
「封印」
「ば、ばかっ」
 まどかはバスタオルを素早く体に巻き付け、部屋を出た。そうしないと、いつまでも彼の側から離れられなさそうだったからだ。
 後に鳳乱がシャワーを使い、何も身に付けずに戻ってきた。明かりはベッドのサイドランプだけだったが、その仄かな明かりが彼の体に均等についた筋肉の表面を照らしていた。
 二人はベッドに寛いで、鳳乱が用意したフルーツを食べた。シーツにくるまったまどかは、壁に背を預けた彼に横抱きにされていた。
 頭を凭せ掛けた広い胸から、規則正しい鼓動が直に伝わってくる。夜の帳はとっくに下りて、静かだ。
 村の人々は陽が落ちると明かりを消し、床につく。そして陽が出ると共に、目を覚ます。今頃、ジャングルの中で夜行性の動物達が木々の間を彷徨っているだろう。
「そういえば、獅子王は何処で寝ているの?」
「獅子? あいつは村に友達がたくさんいるから、何処でも寝かせてもらえる。奴は特に女性に好かれるんだ。あ、といってもそれは獅子がすぐに女に手を出すとか、そう言う意味じゃなくて。用心棒的な」
「うん。分かるよ。獅子王は色々大雑把に見えて、実は頼もしいし、シャイだよね」
 まどかが鳳乱の言葉を継ぐと、すっと腕が前に伸びて、まどかをぎゅっと抱きしめた。
「ほ、鳳乱?」
 まどかはフルーツの入った器を落とさないように、慌てて持ち直した。
「なんで、獅子のこと分かるの? もしかして、ずっと見てた?」
 少し不機嫌な口調に、胸がくすぐられる。
「鳳乱、もしかして妬いているの?」
「別に」
 彼はまどかの頭に顎を置いたまま素っ気なく言った。それ以上続ける気配がない。
 まどかは器を脇に置き、体を抱いている鳳乱の手の上に自分のを、重ねた。
「私は、ずっと鳳乱だけ見てたのに。気がつかなかったの?」
 彼の腕が弛み、まどかの髪に顔を埋める。
「気がついていた。だからなおさらその視線から逃れようとするのは大変だったよ」
 まどかが見上げると、彼は困ったように眉尻を下げた。
「それに僕、めちゃめちゃ視力いいから。鳥は目がいいからさ。だからどんなに遠くでも、まどかが僕と目が合うといちいち反応してたこととか、あの祭りの夜に有吉と体を寄せ合っていたことも、たき火越しにだけど、ばっちり見えた」
 まどかは思わず身を固くした。彼が顔を覗き込んでくる。
「ねえ、有吉とは何かあったのか? 恋人ではないんだろ。それとも、元は恋人だったのか? 彼は随分まどかに執着しているみたいだけど」
「こ、恋人でもないし、付き合ったこともないよ。私が片思いしていた時期はあったけど……それはずっと昔の話だし。私が……私がいつも有吉の優しさに甘えているだけなの。辛いときとか、弱っているときとか。彼はいつも上手に甘えさせてくれる。それだけ」
 まどかは縋るように鳳乱を見つめた。
「ふうん」
 鳳乱は短く答えた。そして、すぐに満面の笑みを浮かべる。
「じゃあ、彼の役目は終わったな。もうこれからは僕がいるから」
 その声に迷いはなく、まどかは逆に不安になった。
「鳳乱……そんなこと言うけど……私たちまだ出会って日が浅くて……それに私はもしかしたら、いつかは、元の世界に帰るかもしれないのに……」
 せっかく今こうして彼の腕の中にいるのに、やはり本音を言わずにはいられなかった。
 二人が急激に惹かれ合う一つの理由には、いつか来るだろう『別れ』が、恋を燃え上がらせる要素になっているのではないか、それを示唆しておいたほうがいいと思った。愛は、障害や禁忌があるからこそ、さらに掻き立てられるものだ。
 二人の気持ちが通じあったというのに、こんな風に現実的に考える自分もおかしかったが、この関係がずっと続くと楽天的に考えるほど、まどかは子供ではなかった。
 鳳乱と一つになれた幸せ、そして彼がまどかとの未来を描いていることを知った喜びを感じていても、やはりそれが、彼の愛に溺れることを尻込みをさせていた。
 鳳乱の顔が曇る。
「僕は、まどかを見つけたときからずっと心を奪われていた。でも、同時に僕の中の何かが警告していた。『鳳乱、これはヤバいぞ、手を出すな』って。だから、最初はそれに耳を傾けた。でも、だんだん君を見る度に、その声に抗(あらが)わずにいられなくなった。そして、あの晩……今だから打ち明けるけど、僕は一度、君の夢を覗いた。フェニックスは夢を渡り歩けるんだ。人の夢に入り、もし夢に巣食う悪魔がいたらそいつと戦ったり。昔はそうやって心を患う病人を治していたんだけど……あの、まどかの夢に入った時、僕は君に見つかってしまった。それはごく稀にしかない。夢を見ている本人に気がつかれることなんて。そんな状況が生まれる時は……その夢見人の中に、僕への意識があるってこと。だから僕がまどかの名前を呼んだ時に、君はすぐに僕に応えた。そして感じた。あの時、僕も君を感じた。そしてとても嬉しかった。まどかが僕を意識しているって知って」
 そこまで話すと、鳳乱はまどかの耳に口を寄せた。
「あの時、僕を感じただろ?」
 まどかは、相手の胸に額を擦り付けた。彼はまどかの耳たぶを指で弄ぶ。
「僕はそれが分かると、すぐにでもまどかの元に走り、関心を引きたいと思った。でも、やはり僕の心のずっと奥の方でストップがかかるんだ。恐怖。一つは、今君が言った通り、いつかは帰るという事実。二つ目は、まどかと僕が一緒になっても二人とも幸せにはなれないのではないか、ということ」
 鳳乱は大きく息を吸う。まどかの下で逞しい胸が膨らむのを感じる。
「まどか、僕にキスして」
 彼の瞳が切なげに揺れる。まどかは腕を彼の首に巻き付けた。俯く彼の、柔らかな唇を味わう。
「幸せになれないって言うのは……」
 名残惜しそうに唇を離して、鳳乱は続けた。
「僕は幸せになることに慣れていないんだ。……少し話が長くなるから、詳しい事情はまた別の時に話すけど……僕たちフェニックスには、その血統には一つ課せられた運命があって……運命と言うと大げさに聞こえるかもしれないけど、掟、伝統、責任? まあ、そういうものがあって、このユランが存在し続けるのには決して欠いてはいけないんだ。僕が子供の頃、三歳だか四歳の時、僕の父が……彼がその運命を担わなくてはいけなかったんだけど 、その責任を果たさなかったんだ。怖くて逃げた、とか、いろいろ噂されたけれど、真実は分からない」
 鳳乱はここで過去を手繰り寄せているかのように、遠くを見た。
「とにかく父は一族の掟を守らずに姿をくらました。当時、僕は小さかったから、その話は僕が物心ついた頃に聞いたんだ。その父がした事で、というよりも、しなかった事で、たくさんの人々の命が消えた、村一つなくなった、とか、とにかく、ものすごい惨事だったという話を。その頃の僕にはそれがどれだけ大変なものだったかのか想像するのは困難だった。でも今の僕なら、それが本当にどんなに悲惨な出来事だったか想像がつく。父の罪の重さも。でも僕も、僕の母もそれで人々から責められる事は無かった。僕たちが悪いわけではないから。それはこの星に住む人たちの徳の高さがあってのことだけど。ただ、人の口から語られる事実や噂が耳に入らないことは無かったし、やはり中には、僕のことを『あの男の血が流れている子供』という目で見る人たちもいた。僕は父の罪を背負う義務はないと頭では自覚していたけれど、成長するにつれて僕は、父の犯した罪を償わなくてはいけない、と思うようになった。どうやって、というのは、子供の頭で考えるには難し過ぎたけれど、それでも子供心に、『自分は人生を楽しんではいけない』って考えた。『いけない』と考えたわけではないな。例えば……僕が友達と楽しい時間を過ごしている。野を駆け、取っ組み合い、転がり、笑う。そんな時、ふっとよぎるんだ。家族を失った人たちの悲しい顔が。一度もその人たちには会ったことが無いのに。そうすると僕は、自分が何も知らないかのように笑っていることが、恥ずかしくなる。僕の父に幸せを奪われた人々が居るのに、どうして僕が楽しく日々を過ごして良いわけがあるんだろう」
 まどかは彼の引き締まった体に腕を回した。鳳乱はその肩を抱く。
「今ならもう、それはただの偽善とか、ある意味エゴだとか、何の意味もないって分かっている。でも僕はその時から今まで、ずっとそうやって生きてきたから。幸せを感じたことはないし、幸せになることに罪悪感を抱くことが癖みたいになった。幸せの気配がチラつくと、慌てて目を背けて、逃げた。……幸せを知らない者が、どうして愛する人を幸せにできるだろう? そんな僕をまどかは置き去りにして行くんじゃないかと思うと、それが怖い……」
 鳳乱の左の眼から一筋の涙が溢れた。まどかは涙を伝う頬に唇で触れた。
「鳳乱、私は自分が今、とても幸せよ。それはあなたが私を求めてくれたから。もし、あなたが『私を幸せに出来ないかも』と言うなら、私だってあなたを幸せに出来るか分からない。私にとっての幸せは、誰かに幸せにしてもらうことではないの。私は、私の望みであなたの側に居るんだし、もし去るときがあるならば、それはあなたがどうの、っていうのではなくて、やっぱり私の意思がそうさせるのだと思う。あなたも幸せを求めていいし、それを誰も責めないわ。責めているのは自分自身で、家族を失った人々が、あなたが幸せにならないことを望んでいるのではないと思う。逆に、亡くなった人の分まで幸せになって、もう二度とそんな悲しい出来事が起きないように、強い使命感と、あなたの血統に誇りを持つことを、強く望んでいると思うわ」
 鳳乱はまどかの背中にそっと両腕を回し、ゆっくりと体をベッドに横たえる。
 しばらく彼はそのまま頭をまどかの胸の上に乗せていた。まどかは両手で、その柔らかい髪の毛を梳く。
 鳳乱はまどかの片手を取り、指先に唇を押し付けた。それから手の甲に、手首に、だんだんキスは上って行く。腕を引き寄せて、体を彼の方へ向かせ、唇を重ねる。何度も角度を変え、深く舌を差し入れる。まどかもそれを喜んで受け入れた。
「僕は今、すごく幸せだ……」
 彼は吐息まじりに言い、再び首筋を唇でなぞりながら、まどかを包むシーツを優しく剥がした。
(もっといろいろ話そうと思ったのに……)
 そう思いながら、まどかは背中を滑る彼の指にの動きにため息を漏らした。

 *

 後ろから抱かれたまま、その腕の中で目が覚めた。
 ブラインドから弱い朝の陽が差し込む。まだ外は静かだった。
 身じろぎすると、そっと後ろから抱き寄せられる。くるりと体の向きを変えた。
「おはよう」
 お互いに微笑み、キスを交わした。
 その時、ピ、ピーと機械音がした。
 鳳乱はまどかの裸の肩にキスを落して、ゆっくりとベッドから出た。そしてライティングデスクの上の、鈍く光るパールホワイトの携帯電話のようなものを手に取って見た。
 彼はまどかに横顔を見せて立っていた。朝の白い光が、鳳乱の背中を白く縁取っている。肩甲骨が浮き上がり、つややかな肌の下の鍛えられた筋肉は、腰から尻に繋がるS字の緩いカーブを描き、そして尻はかたち良く、控えめに盛り上がっていた。
「何?」
 急に振り向いた鳳乱と視線が交じり合う。まだベッドの上のまどかに微笑する。「見とれていた」、と言うのが少し悔しくて、ブランケットを口元まで引き上げた。
「え……と、寝癖がついてるな、と思って……。少しだけど……」
「なんだ。見とれているのかと思ったよ」
 鳳乱は悪びれも無く言い、片手で後頭部を撫で付けた。
 ちょうどその時、彼の手の上でその小さな機械が鳴り、彼はそれを耳に当てる。
「うん、僕。大丈夫。あ、やっぱり? ……いや、朝食はそっちでとる。うん。じゃあ後で」
 機械をテーブルの上に戻すと、鳳乱はベッドの上の私に覆い被さり、髪に、瞼に鼻の上に、耳に肩に、音を立てて小さなキスをしていった。まどかはブランケットの中に潜り込もうとしたが、勢い良くそれを引き剥がされてしまった。
 私は慌てて体を起こしてそれを取り戻そうと手を伸ばすと、そのまま腕を取られて再びベッドに貼付けられる。私を静かに見下ろす。本当に美しい人。そう思ったのも束の間、彼は悪戯な笑みを見せた。
「な、何?」
「さっきの、獅子だったんだけど。やっぱり、まどかが一晩中僕のところに居たの分かってたって。ほら、獅子だから鼻が利くんだ」ていうか、まどかの靴見ればわかるよな。と言った。
「うそぉ……」
 たちまち顔が熱くなる。
「まあ、いいか。遅かれ早かれわかることだし。シャワーを浴びたら、朝食に行こう」
 彼は、子供がとりわけ素敵な悪戯をひらめいた時に見せる、そんな笑みを浮かべた。
「行こう、ってみんなのところ? そ、それは困るよ! ここは別々に行って、いつも通り……」
 まどかは慌てる。鳳乱が一夜を過ごしたと分かれば、みんなはどうするだろう。
 きっと、……楽しむに違いない……。それに有吉は……。
「嫌だね。もう昨日までと違うのに、普段通りに振る舞えるわけが無いだろう」
 はい、シャワー浴びる。と、鳳乱はベッドから下り、軽々とまどかを抱き上げた。
「わ! 自分で行くから! 下ろして」
「二人で浴びたら早く済む。それに、どちらにしろ君たちには伝えることがある」
 その声音には今までの甘さが微塵もない。
 まどかは素直に、鳳乱の首に腕を回した。
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