ELYSIUM

久保 ちはろ

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Part 9-3

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 家に着くと早速、買って来たものを整理してから料理に取りかかった。
「まどかはワインでも飲んでゆっくりしていればいいのに」
 鳳乱はそう言ってくれたが、手を動かしている方が落ち着くの、と彼の隣に立った。それでも彼は白ワインの栓を抜き、カチンとグラスを合わせた。
 鳳乱は鶏肉の塊にスパイスを手際よく、丁寧にすり込んでいく。
「あ」
「何? また前から読んでも後ろから読んでも……って言うやつ? あれは笑ったな。確かに子供の頃はそう言ってからかったこともあったが……忘れていたよ」
「そうじゃないわよ」
 まどかはシンクで野菜を洗いながら彼を睨む。
「共食いだな、と思って」
「え?」
「鶏、でしょ……」
 鳳乱はスパイスまみれの手を止めて黙ってまどかを見下ろす。その表情からは何も読めない。
「まどか……」
 しばし見つめ合った後、彼は長いため息をついた。
「おまえの頭の中では、フェニックスと、この食用の鶏が一緒に飛んでいるんだな……僕はちょっとばかり違いがあるものと思っていたけど」
 その鳳乱の脱力ぶりに、吹き出してしまった。
「そ、そうよね、ごめん……あははは」
 彼も銀色の髪を揺らして楽しそうに笑う。
「よかった。まどかが笑って」
(ああ、そうか。私、心配されていたんだ)
 きっと彼には、ルイの言葉がずっと引っかかっていたこととか、無理してたのとか、お見通しだったのだ。
「ご心配かけてます……」
 まどかは、手を洗っている鳳乱に寄りかかった。
「いやいや、僕の方こそ心配する恋人がいて幸せなので」
 その言葉に嬉しさがじわりとこみ上げてくる。それでもなんて答えれば良いか分からずに、まどかは、彼の体の脇に額をぐいぐい押し付けた。
 彼は手を拭き、まどかの頭をそっと撫でると、その天辺に音を立ててキスをした。
 それから二人は野菜の皮を剥き、ざくざく切っていった。
 ごく普通の人参があるかと思えば、見たことも無い、香りの強い野菜もあった。
「鳳乱、これ、どこまで皮を剥けばいいの?」
「鳳乱、これ、葉も食べられるの? 落とすの?」
 そんなことをいちいち訊ねながら、それらを肉と一緒にグリルプレートに乗せてオーブンへ滑り込ませた。まどかの希望で米も鍋で炊く。
「随分簡単に済んだね」
 まどかはひとくちワインを飲んだ。
「料理なんて素材が良ければ、あれこれいじくらない方がいいんだ」
 鳳乱はにやりと笑って、まどかの腰をグッと引き寄せる。
 私の持つグラスからワインが溢れて手を濡らした。彼はそれを取り上げてテーブルの上へ置くと、手を自分の口へ持っていき、私の指をしゃぶった。
 彼の舌の柔らかくて湿った感触に、ぞくりと肌が粟立つ。
「うまい」
 ぺろりと口の端を舐め、満足そうに私の顔を覗き込んだ。
「ワインが? 指が?」
 抱きしめる腕に力がこもる。そして彼の唇はすでにまどかの耳たぶをんでいた。
「言わなきゃ分からない?」
 耳元で彼は甘く囁く。
「ん……わからない……よ」
 首筋を伝う熱い吐息。急にワインの酔いが回ったようで、足元が覚束おぼつかなくなる。
 彼の首に腕を回した隙に、鳳乱はシャツの裾から手を差し入れ、ゆっくりと胸まで這わせた。
 彼はもう片方の手で背中をしっかり支えて、首を甘噛みする。同時に胸の柔らかな感触を楽しむかのように、指を食い込ませる。
「あん……」
 彼は既に『急所』を心得ているようで、それを再度、確かめるように胸を捏ねる。まどかの口から甘いため息が漏れた。
「さすがに鶏肉より柔らかいな……」
「えぇ? そんな……」
 まどかは身じろぎしたが、その瞬間に軽々と抱き上げられてしまった。同じ高さで目が合うと、彼の瞳は情事を仄めかすかのようにい色濃くなっていた。
「ちょっと前菜といっておこうか」
「わ、私が前菜? じゃあ、私の前菜は?」
「僕もかなりいけると思うけど」
 彼は寝室に向かう。
「お肉が焦げちゃう」
「火は自然に落ちるから大丈夫。もう、往生際が悪いな、まどかは。僕に捕まって逃げられると思ってるのか?」
 彼は顔を傾けると、早速唇を味見し始めた。

 *

 授業は毎日午前8時45分から、午後4時15分まで。
 昼休みは1時間。
 読み書きと会話、音声学つまり発音。
 宿題はほどほどで、小テストは二週間に一度。一ヶ月に一度のテストで合格点に満たない場合、減給だ。
 一応バーシスと『雇用契約』なるものを交わしたので、給料が発生する。
 もともと、ひと月分はピースにその一部をチャージされてあったので、今月のテストの点が悪いと、来月分がかなり減る。
 研修生は研修生なりにきちんと毎日勉強に励み、且つ結果を出さなくてはいけない。一応それが『仕事』なのですから。
「ああっ、久々に勉強すると脳みそがギチギチ言ってるよ!」
 みちるは休憩中、椅子に大きく背を仰け反らせた。
「いや、でも何となく分かる気がしないか?」
 吉野がカフェで買って来たクッキーを皆に配る。
「わかる気はしても書けない。なんか脳みそと手が連動してくれなくて嫌になる。あ~、疲れた頭に甘いもの、サイコウ!」
 みちるはサクサクとクッキーを頬張った。
「まあ、でも語学は初めは暗記じゃね?」
 有吉が机の上に腰掛け、脚を揺らすと、横から山口は間を入れずに言った。
「語学はネイティブの彼女なり彼氏なり作れば、あっという間に習得出来ると言う法則が」
「それ、あんたに必要ない法則だから」
 みちるはばっさり切り捨てる。
「じゃあ、まどかなんて得よね~。鳳乱がいるもん」
「ん~、彼は仕事で遅くなる事がほとんどだって言ってた。顔を合わせる時間も危ういよ」
「あれ、そうなんだ。それも淋しいね」
「でしょ」
 会話のトーンが落ちたところに、シェーバール教官が入って来た。二コマ目が始まる。
 教官は早速各自に課題のデータを送り、研修生は彼女の説明を聞きながら、机上のディスプレイに向かい、それらをこなしていく。
 シェーバール教官は、姿勢の正しい四十代前半くらいの女性だった。蜂蜜色の髪は肩の下で真っすぐに揃えられていて、笑うと目元に小さな皺が現れた。
 彼女の授業の進め方は、テキストの音読。とにかく短いテキストを大量に暗唱させるというものだった。パートナーを組ませて、お互いにきちんと暗唱出来るまで根気よく続けさせた。
 まどかはモイラという二十歳になったばかりの少女とパートナーになったが、彼女はとても覚えが早かった。まどかは手こずっているのに、それでも彼女は嫌な顔一つせずに、発音を正してくれさえした。文字の方はいくつかの法則を覚えれば、読めた。意味は分からずとも読めた。とにかく一日、語学づくしだった。
「お昼休みにしましょう」
 シェーバール教官が言った途端、教室全体に「プシュー」と、空気の抜けたような音が聞こえた気がした。
 皆のろのろと腰を上げてカンティーンへ向かう。まどかの脳は今、いろいろ詰め込み過ぎて、歩けば今にも覚えたものが溢れてきそうだった。
 席を立ち、みちるたちと合流しようとした矢先、肩を叩かれた。
 モイラだった。
「お昼、一緒に行きませんか」
 彼女は今習った言葉でゆっくりと言った。
 まどかは有吉と話したいと思っていたが、彼女のせっかくの申し出を断るのは気が引けた。有吉の方は授業が終わってからでもいい。それに、新しい土地での情報は集めておくべきだ。
「いいよ」
 まどかも今日一番始めに覚えた単語で答え、彼女と下へ下りた。
 大きめの野菜が入ったボウルいっぱいのスープと、パンを乗せたトレーを挟んで、二人ははテラス席に落ち着いた。
「実は私、バーシスに来てからもう一年くらい経つんですよ」
 彼女はゆっくり話し始めた。もちろん、まどかの理解力に合わせてだ。それでもどうしても通じないところは、例の便利な方の「コミュニケーション術」を交えて話を進めた。しかし、なるべくキチンと、アカルディルの言葉を使うようお互い心がけた。
「私と兄はオルネアから来たんです。オルネアはちょうどアカルディルの反対に位置する国です。ここよりもずっと緑が多くて、天候ももう少し暖かいし穏やかです」
 モイラは艶のある褐色の肌をした、まだあどけなさを残した少女だった。
 まどかは湯気の立つスープを口へ運んだ。モイラは無邪気な笑みを始終浮かべて話を続けた。
「私と兄は、手を触れずにものを動かせるんです。この力は私が十七歳になったときに急に現れたんですけど。兄も私と同じ時期に、この力が使えるようになりました。何故だか誰も分かりません。先祖にこの能力があったという話もなくて。始めは珍しくて、家族や友達も複雑な気持ちでいながらも、私たちのこの力を楽しんでいる感があったし、神から授けられたと尊敬さえされました。ーーえ? 国では他にそんな人がいなかったか? ……いませんよ。それでも力は安定してなくて、よく家の食器なんか壊しました。それだけならいいんですが、そのうち近所で、何か物がなくなると私たち兄妹を疑う人が現れてきました。証拠も何も無いのに、ですよ。……いや、証拠がないから? とにかく煙たがれたり、仲間はずれにされるまでになったんです!」
 始めは朗らかに話していた彼女の声が急に高くなって来たので、一旦落ち着かせるためにも、まどかは慌てて口を挟んだ。
「ねえ、その骨つきの肉、おいしい?」
 まどかは、自分でも呆れるほど、会話スキルは低かった。それでも、質問は彼女の興奮を鎮めるのに十分だった。
「あ、少し食べます? ここのご飯の量は私には少し多くて……どうぞ」
 彼女は手際良く肉を切り分けた。
 まどかはフォークを持ってなかったので、躊躇わず、そのまま指で肉をつまんだ。
「おいしい」
 表面がカリカリに焼けた、肉汁の詰まった肉に胡椒のきいたブラウンソースがとても合った。
「それで不安定な力を矯正するため、一年前にバーシスに来たの?」
「なんで分かるんですか?」
 彼女はきょとんとした。
「え……年の功かな……」
 話を聞いて、少し考えれば分かることだ。
「なんだあ、金目さんも心が読めるとか、そういうのかと思いましたよお」
「いや……私は何も出来ません……」
「え、でも『あの』カネラ鳳乱の恋人ですよねえ?」
 でた。また『あの』だ。
 まどかはモイラに顔を近づけた。
「ねえ、『あの』って、どういう意味?」
「知らないんですか?」
 彼女は緑がかった深い青い目を見開いた。
「知らないわ。長官も、フーアも、ミケシュさんも、みんなそんな風に鳳乱のことを言ってたけど」
 腕を胸の前で組んで、彼女は思案するように目だけで青い空を見上げた。
「うーん、この話、一部ではかなり有名なんですけどねえ。カネラ鳳乱に直に聞きました?」
「ううん」
 まどかは、器の底に残っているスープをパンですくった。
「聞いてみるといいですよ。それでも教えてもらえなかったら、話しますよ。たぶん、秘密ってほどのものでもないと思うんで」
「ハァ……」
 それから彼女は再び自分の話に戻った。力を安定させるためにここで訓練を受けたこと、そのために語学が後回しになったこと、実は教官の一人と付き合っていること、など。
 まどかはテーブルに置いたパルスを見た。昼休みの残りは少なかった。
「そろそろ行こうか」
 話し終わる気配のないモイラを促した。
 彼女を先に教室に戻して、まどかは手を洗いに行った。トイレを出ると、前を行く人に混じって見慣れた背中を見つけたので駆け寄り、思わず後ろからそのシャツを掴んだ。
「お?」
 急に後ろに引っ張られ、驚いたふうに振り返った彼は、それがまどかだと分かると優しく微笑んだ。
 その笑みを見るのは久々な気がして、つい「ひ、久しぶり」と口走る。
「久しぶり」
 一瞬目を細めて有吉も答えた。
 まどかはハッと気がついて、慌ててシャツから手を放した。その部分が少し皺になっていた。
「どうした?」
 二人は教室への階段を並んで上った。
「ちょっとね、鳳乱の友達から気になることを聞いたの。私たちにとって大切なこと」
「じゃあ、後でオレの部屋に集まる?」
「それがいいと思う。授業が終わったら」
「わかった……。で、金目は元気なの?」
「私? うん。元気よ」
「それなら、別にいいけど」
 彼は口の端を少し上げて、学生時代によくした様に、ぽん、とまどかの頭に手を置いた。その手の重みや感触が、なんだかとても新鮮なものに感じた。
 もしかしてこういう感覚なんかも薄れて行くのかな……。
 嫌な感じで胸がざわついた。
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