ELYSIUM

久保 ちはろ

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Part 11-2

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 毎朝コーヒーを淹れるのは、何時の頃からか獅子王の役目になっていた。
 別に誰が淹れても、淹れなくても構わないのだが、何故か獅子王が淹れるコーヒーが一番美味しいと誰もが言うのだった。
 獅子王は、いつものようにコーヒーを、……まどか以外(最近まどかは紅茶派らしい)人数分用意し、鳳乱、その他男三人が囲んでいるテーブルまで運ぶ。
 女二人はまだ来ていない。
「珍しいな、まどかとみちるがこんな時間まで来ないのは」
 獅子王からコーヒーを受け取った有吉が、「サンキュ」と言い、一口飲んだ。
「鳳乱が金目に無理させ過ぎてるんだろ。たまには寝坊もしたいさ」
 山口が吉野にミルクを渡しながらすかさず継ぐと、鳳乱は口に運んだカップの湯気越しに、山口を睨んだ。
 その時キッチンのドアが開き、みちるが慌てて入って来た。彼女は鳳乱に駆け寄る。
 すぐに獅子王は、みちるの顔から悪い予感を読み取った。
「まどかが熱出しちゃって。今は37,8度だったけど、少し苦しそう。食欲も無いみたいだし。薬、なんかある?」
 鳳乱はガタンと椅子を鳴らして席を立ち、みちるを見下ろした。
「熱はいつから?」
「早朝って言ってた」
「分かった。僕がに行く。きちんと調べないと薬が出せない。で、部屋には鍵がかかってるか?」
「ううん。すぐに誰か連れて行くつもりだったから」
「誰か、じゃなくて、僕しかいないだろう」
 苛立たしげに言い捨て、既に彼はドアに向かっている。
「獅子、あとは頼んだぞ」
 振り向きもせずに彼は出て行った。
「お、おう……」
 獅子王は閉まったドアに返事をした。

 広場のいつもの木のテーブルを囲んで、まどか以外の四人は、初めてここに来た時のように獅子王の集めた数々の植物を検分し、このジャングルを何の心配も無く歩けるための知識を詰め込んでいた。
「前は鳳乱で、今度はまどかが倒れるなんてね~。呪われてるのかしら。この村」
 みちるは手にしている葉をちぎり、端を噛んだ。そしてすぐにうぇっと吐き出す。
 それを横目で見ながら、獅子王は丸太を半分に切っただけのベンチの上に脚を伸ばして座り、日光浴中だ。
「今日中にこの植物全部マスターして、後で全種類集められるようにしろよ。いつも通りチーム二つに別れて。負けた方が掃除当番だからな。形、色、におい、味を覚えたら次は理論だから。成分と効能。まあ、これもいつものことだけど」 
 獅子王は大きな欠伸を一つした。
 それにしても今日は広場が賑やかだ。
 多くの男達は椅子を運んだりテントを張ったりと、せわしく体を動かし、一方女達は外に作られた石の釜戸の上に大きな鍋を幾つも掛けて火加減を見ている。子供達は色とりどりの腕輪や首飾りなどを付け、じゃらじゃらと音を立てて走り回っている。村全体に、いつもより華やかで、陽気な雰囲気が漂っている。
「なんかあるの?」
 有吉が獅子王を振り返った。
「あー、明後日の夜は祭りだからな。ここの主、蛇の祭り。かなり派手にやるから、近くの村からも人がたくさん集まるんだ。花火も上がるしな。おまえ達も見ておけよ。それはそれで楽しいぞ。可愛い子と一緒に踊ったりさ」
「おお、マジ? それは是非参加しないと」
 山口の顔が弛む。その顔にみちるは持っていた草を投げつける。
「あ、鳳乱」
 吉野は向こうから歩いて来る鳳乱を目ざとく見つけた。
 鳳乱は黙って四人の脇を通り、獅子王の座るベンチをまたいで腰掛けると、顔を寄せ、低い声で話し出した。
「獅子、まどかの病名はまだ良く分からない。ただの疲れかもしれないし、ウィルスかもしれない。フィールドワークの時に触れた小動物や昆虫の持つバクテリアかもしれない。とにかくここには血液検査をするための設備がないだろ。もう少し症状が出るか、良くなるか、経過を見ないと薬を出せない。熱は上昇。発汗、腹痛、食欲無し。発疹無し。排泄も異常なし。リンパの腫れ無し。関節痛少々」
「なんでオレに報告する?」
 獅子王は眉を片方、少し上げた。
 鳳乱は少しむっとし、話を続ける。
「おまえ、忘れたの? 僕、明日から三日間バーシスに戻ること。その間、何かあったらおまえが看病しないとだめだろ。抗生物質の知識はあいつらには全く無いんだからな」
 冷ややかな視線を、植物に鼻を埋めている四人に向ける。
「何か症状に変化が見え次第、薬を投与すること。それから……」
 鳳乱は険しい顔をさらに獅子王に近づけ、「まどかに手を出すなよ」と付け加えた。
「あんたの怖さは重々分かってるつもりだよ。分かってる上で手を出せるほどの心臓は生憎、持ち合わせてないね」
 獅子王は両手を上げ、降参のポーズをしてみせた。
 鳳乱は緊張を解くと立ち上がり、四人に向かって「理論、始めるぞ」と声をかけた。
 翌日、鳳乱がユランを発つと、獅子王は、一度まどかの様子を見に行った。
 彼女は、獅子王がベッドサイドに立つと、苦しそうに薄目を開けた。
「鳳乱、行ったのね?」
 声は弱弱しく、掠れている。
 獅子王は「ああ」と短く答えると、体温計を耳に当てて、熱を測った。
 38℃、微妙な熱だ。
「何か食べたか?」
 まどかは首をかすかに横に振る。
「水分摂ってるか?」
 首を縦に振る。
「なんか必要な事があれば、いつでもオレやみちるを呼び出せよ」
 ナイトテーブルの上にある、パルスを指先でこつこつと鳴らした。
 まどかは「ありがとう」と呟き、また目を瞑ってしまった。獅子王は足音を立てないように部屋を出た。

 まどかの症状に変化が出たのは翌日、日が沈み、祭りが始まった頃だった。
 広場には、色とりどりの花が溢れ、女達の手作りの装飾品がその髪や胸元を飾り、人々の目を楽しませていた。また近隣の村から訪れた別の種族の衣装もあでやかで目を引いた。獅子王と山口たち男三人は、出店を冷やかしたり高価な花の蜜で作った酒を堪能したりした。
 そこへみちるが、獅子王を捕まえに来た。喧噪に声をかき消されないようにつま先立ちし、耳に口を寄せる。
「まどか、発疹が出たの!」
 獅子王はみちると共にまどかの部屋に行くと、すぐに発疹が出た方の右腕の袖を肘まで捲り、丹念に調べた。直径1cmくらいの紅斑を中心に、それを囲むように赤い輪が浮き上がっていた。それが、腕に数カ所見られた。
 まどかは枕に頭を沈めたまま、薄眼を開けて獅子王を見ている。
「まどかが体を拭きたいっていうから、手伝ってあげてたのよ。そしたら腕にそれがあったの」
 みちるは獅子王の顔を覗き込んだ。
「ああ、ダニによって媒介される感染症だ。金目、おまえ外で袖を捲ってたな? だからダニにやられるんだよ。何のための長袖か前に言っただろ」
 しょうがねえな、と獅子王は軽くまどかを睨むと、彼女は消え入りそうな声で「ごめんなさい」と言い、目を伏せた。
「でも、これで薬出せるぞ。ただ、どのダニかによって薬も違うから、まず体にまだダニが残っているか見ないと。オレの部屋に移動するぞ。みちる、おまえも一緒に来い」
 そういうと、獅子王は乱暴にブランケットをまどかから引き剥がし、訊いた。
「おい、起きろ。それと、新しいシーツどこだ?」
 まどかは上体を腕で支えてなんとか起き上がると、部屋の壁際の篭を力なく指す。
「あそこにリネン類が入ってる……」
 みちるはそこから清潔なシーツを取り出すと、獅子王に渡した。それを派手にばっと広げ、まどかの体をくるむ。そして彼女の上にかがみ込み、次の瞬間には抱え上げていた。
 腕の中で、まどかはびっくりしてもがいた。
「じ、自分で……!!」
「病人が歩いてどーすんだよ。おっ。おまえ喰ってないから随分軽いな~」
 いくぞ、とみちるを促し、部屋を出る。呆気にとられていたみちるは慌てて後を追う。
 外は既に日が落ちていた。広場の中央には大きな火が焚かれ、その周りで人の群れが酒を飲み、音楽を奏で、踊っていた。犬や子供が転げ回る。そんな人の波を避け、獅子王は大股で進む。彼はふと気がついて、まどかに訊いた。
「おまえ、なんでシャンプーの匂いさせてるの?」
 慣れない腕の中で、体を固くしていたまどかは目を上げた。
「だって、今朝みちるに洗ってもらったから。洗面台に頭突っ込んで。汗かいて、あまりにもベタベタして気持ち悪かったの」
「ばーか、病人が余計なことするな」
 獅子王の口調は叱るようなそれになったが、それはそのにおいに気づいてしまった自分に向けたものだった。
 獅子王は自分のベッドにまどかを寝かせると、早速みちるに命じた。
「おまえ、こいつの服脱がせろ」
「は?」
 みちるが獅子王を見上げた。まどかの目も、驚きで見開いている。
「ダニ。ダニを見つけるんだよ。体中見てみろ。特に胸の下とか、股関節の皺の間に隠れてるから。ダニ様はよ。オレがそんなところ見るわけいかねーだろ。おまえ、やれ」
 獅子王は両手で、自分には無い胸の膨らみを持ち上げる仕草をした。女二人に安堵の溜息が漏れた。
「わ、わかったわよ。で、見つけたら?」
「触るな。オレを呼べ。鳳乱の部屋にいる」
 そして、さっさと部屋から出て行った。
 しばらくして、みちるが鳳乱の部屋をノックし、顔を覗かせた。
「見つからなかった」
「わかった」
 獅子王は薬の箱をいくつか、ピンセット他、必要な物を抱えて再び自室に戻った。きちんとパジャマを着せられたまどかは、赤い頬をし、その呼吸も速い。
 獅子王は用意したものを、机に置くと、まどかの枕元に膝をつく。
「うつ伏せになりな。そう。枕横にずらして。腕を額の下に置いて息出来るように。そうそう、いい子だ」
 まどかの髪の間に両手を差し込み、頭皮をマッサージするように手を動かし始めた。
「何してるの?」
 横で屈んで見ていたみちるが不思議そうに訊ねる。
「これもダニ探し。毛の間は特に注意しないと見落とすから。あと、耳の後ろの付け根のところとか……あ!」
 指の腹に小さな突起を感じた獅子王は、そのまま注意深く髪を分けた。そして、頭皮に喰いつくダニをみちるに見せる。ちょうどうなじと毛の生え際の辺りに、小豆大程のダニがいた。
「まどかー、みつけたよー」
 みちるは声をかける。
「んー」
 まどかはくぐもった声を出した。
 獅子王はピンセットとシャーレを手にし、今度は毛を挟まないように注意しつつピンセットで丁寧にダニをつまんで、シャーレに乗せた。その小さな感染源は、ガラスの上でせわしく足を動かしていた。
「もう普通に寝ていいぞ」
 獅子王は再びデスクに戻り、スタンドの明かりの下、パルスでダニを写真に収めながら言った。
 みちるはまどかを助けながら、その様子を興味津々で見ている。
「記念写真撮ってんの? ブログにのっけるとか?」
「ブログ? アホか。これを転送したら、バーシスのライブラリでリファレンスされて、このダニの特徴と薬の情報がすぐに送られてくる。あ、おまえもう行っていいよ。祭り、もう少ししたら花火がやるから見て来いよ。オレもこいつに薬飲ませて、落ち着いたら合流するかも。まあ、どんだけ時間がかかるか分からんけどな。あ、あとこいつは今晩ここで寝かせる。オレ、鳳乱の部屋に行くし。おまえは山口を部屋に連れ込めるだろ、久々に」
 ニヤッと獅子王は意味深に笑って見せた。
「あんたねー、友達が病気なのに、その状況を楽しめるとかって考えるわけ?」
 みちるは今にも掴み掛からん勢いだ。すると、彼女の後ろから細い声がした。
「考えないの?」
 まどかが弱々しく笑っている。
「考えないわよ」
「私は別に構わないけど……逆に利用してくれた方が嬉しいよ?」
「いい友達だな」
 獅子王は素直に感想を漏らす。
「二人ともバカッ!」
 みちるは顔を赤くし、バタンと力任せにドアを閉めて行ってしまった。
 直後、ピピピッと獅子王のパルスが鳴る。
「お、さすが。返信来た」
 そして、送られてきたデータに目を走らせる。珍しい種類だ。馴染みの無い名前。読み進めていた獅子の目の動きが急に止まる。
『このダ二に噛まれた場合、発熱、および風邪に伴う症状が現れ、さらに進むと発疹、血圧の上昇などが見られる。なお重度の場合、このダニによって媒介される菌により、気分の高揚、幻覚、一時的な人格障害など引き起こす場合がある………処方××××……』
 獅子王は、枕に頭を埋め、赤い顔をしているまどかを、ちらりと見た。
(なんか、これ、ヤバそうだな……早く薬飲ませちまおう)
 胸内でつぶやくと、まだもがいているダニを小型のバーナーで焼いた。持って来た数ある薬の中から一つを選び、タブレットを取り出した。まどかに近づき、ボトルの水をグラスに注いで、ナイトテーブルに置いた。
 ベッドの脇に腰掛け、まどかを起こすのに手を貸す。さっきより呼吸が乱れ、かなり苦しそうだ。
「ほら、これ飲め、楽になるから」
 まどかは獅子王の手の上のタブレットを黙って見つめている。ほら、と獅子王はそれをさらに突きつけた。
「やだ。飲まない」
 まどかは顔を背けた。
「なっ!」
 予想もしなかったその反応に獅子王は一瞬狼狽する。
「おまえっ、ガキじゃねーんだから、やだとか言わねーで黙って飲めよ!」
「いやな物はいや」
 まどかはで頬を染めた顔を向け、「きっ」と獅子王を睨む。
「鳳乱が獅子王の言うことを聞けって言わなかったか?」
 諭す様に獅子王は言う。まどかはグッと顎を引き、悔しそうに眉を寄せた。そして肩を震わせる。
「言ったわ……。でも……でも、ひどい……!」
 涙声でそう言うと、俯いてしまった。獅子王は慌ててパルスを机に戻すと、まどかの顔を覗き込む。
「ひ、ひどいって何がだよ。お、オレ何もしてねーぞ」
「ち、違うわよ。鳳乱……私が倒れたのに……行っちゃうなんて……」
 顔を両手で覆い、ヒクッヒクッとしゃくり上げる。
(……なんだ、ねてんのか)
 獅子王は脱力しながらも、宥めるようにまどかの肩に手を置いた。
「しょーがねーだろ。仕事なんだから。あいつだって大変なんだよ。そうじゃなきゃ、もちろんおまえの側にいるよ。だからオレにちゃんと面倒見ろって釘をさして行ったんだからさ。な、薬飲んで早く寝たら、鳳乱も喜ぶぞー」
 獅子王はなんとかさっさと薬を飲ませて、この子守りから解放されたかった。
 するとまどかは顔を上げ、潤んだ目を獅子王に向けた。
「じゃあ、獅子王が薬のませて?」
「なっ……」
 獅子王は一瞬体を退いた。
 するとまどかは再び手の平に顔を埋め、ぐずぐずと鼻を鳴らす。
「ほら~。鳳乱も獅子王も私なんてどうなったっていいと思っているんじゃない~~」
 獅子王は、涙で同情を誘うタイプの女が一番嫌いだった。自分は弱い存在だと男の前にさらすだけの、芸の無いアプローチ。男の関心を寄せる手段の内で一番安易で#佞悪醜穢__ねいあくしゅうわい__#とすら思っていた。
 普段ならば「うるせえっ、泣けばいいってもんじゃねーよ!」と一喝して去るところだが、今の獅子王の目には、打ちひしがれて翼を震わせる、小さな天使の姿が映っていた。
 獅子王はもともと、あの鳳乱が、なぜまどかに墜ちたのか不思議に思っていた節があった。
 確かに容姿は、自分のタイプかそうでないかを別としてーー女として決して派手ではないが、ふと人の目を魅くところがある。しかしまどかは普段口数も少なく、正直、何を考えているかわからない。それでいて、たまに見せる強引な性格や頑固なところが、獅子王に手を焼かせることもしばしあった。
 要するに、「顔は可愛いが面倒くさいタイプの女」、と獅子王の中ではカテゴライズされていた。
 だが、今は鳳乱がまどかを側に置きたい気持ちが、なんとなく分かる気がした。
「どうなってもいいとか、そんなふうに思ってないし」
 大きなため息をつきながら、まどかを胸に抱いて頭をよしよし、と撫でた。
 まどかはしばらくぐずぐずやっていたが、だんだん落ち着きを取り戻した。獅子王はティッシュで彼女の鼻を押さえてやると、彼女は素直にそこに顔を押し付けて、ズビーッと鼻をかんだ。
「おまえ、色気無し」
 赤い鼻と、赤い頬をしたまどかは、いつもよりずっと幼く見えた。
「ひ、ひどーい。だから鳳乱は……」
 また、まどかは涙を滲ませる。
「わ、うそうそ! な……頼むから薬! はい! 飲む! どうぞ!」
 手を伸ばして獅子王はテーブルからグラスと薬を取り、まどかに再び差し出す。
 まどかは薬と獅子王の顔を何度か交互に見、そして最後に上目で獅子王を見た。
「……やっぱり、獅子王が飲ませて? だって、鳳乱は私の面倒をちゃんと見ろって言ったんでしょ?」
 墓穴……と、獅子王は肩を落とした。
 ふと、まどかを見ると、心無しか彼女の目が虚ろになっている。呼吸も相変わらず速い。
(まさか、これ……症状が進んでいるんじゃ……)
 獅子王の頭に、一連の症状が再び浮かび上がった。
「薬……飲ませて? そうじゃないと、私、胸が苦しい……」
 まどかは獅子王の腰に手を回し、彼の胸に頬をすり寄せる。獅子王はまどかに抱きつかれ、一瞬体を固くしたが、両手をグラスと薬で塞がれてその腕を解けない。
 いや、手が塞がっていなくても今の獅子王に、彼女の手を振りほどくという考えが及ばなかっただろう。
「……わかった。飲ませたらいいんだな?」
 獅子王はとうとう降参した。まどかは嬉しそうに顔を上げる。
 彼女が密着している状態に少なからず動揺しながらも、彼はもう一度念を押す。
「ちゃんと、飲めよ」
 錠剤を口に放り込み、水を含む。
 グラスをテーブルに置くと、瞼を閉じているまどかの顎を指先で軽く上げ、静かに彼女の唇の上に、自分の唇を重ねた。それは乾いていたが、甘く、弾力があった。
 まどかが軽く口を開く。そのタイミングで獅子王は薬を流し込んだ。水が彼女の口の端から少し溢れて顎を伝い、獅子王の指を濡らした。
 こくん、と、まどかが水を飲み込む音が獅子王の耳に届いた。
 顎から手を離した。あともう少し、唇を重ねていたい気持ちを振り払いつつ身を引こうとすると、まどかが素早く彼の顔を両手で挟み、動きを封じた。
 ぞわ、と獅子王の背筋を何かが走った。
 まどかが彼の唇を舐め、舌を割り込ませて歯茎をなぞっている。
 獅子王は一瞬目を開いてまどかを見たが、彼女は依然瞼を閉じたまま、盛んに舌を動かして彼の唇を味わっている。彼は再び目を閉じ、まどかの好きにさせていた。
 例えるなら、晴れた日に芝生に寝転がっていたら、モンシロチョウが胸に止まった。少しでも動いたら、すぐにまたひらひらと飛んで逃げて行ってしまう……だから呼吸をするのも躊躇ためらう、そんな気持ちだった。
 それでも、獅子王も次第にまどかの舌の動きにつられ、舌がもっと奥まで入り込めるように顔の角度を変え、彼女の舌をいざない、それを出したり、軽く噛んだり、強く吸ったりと挑発した。
 しかし腕は依然としてベッドの上で体を支えたままだった。
(オレが、手を出さなきゃ……いいんだよな……)
 そんなことはいいわけだと思いながら、この状況では自分は不可抗力にある、と納得させた。
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