ELYSIUM

久保 ちはろ

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Part 12-2

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鳳乱を探して、まどかは走った。
 別段、走る必要は無かったが、鍛えられた脚は、走る楽しみを教えてくれる。
 熱のこもる空気を切って走ると、まさに気分爽快だ。
 テントの前で椅子に座って篭を編んでいる女性が、手を止めて鳳乱が神殿の方へ行ったと教えてくれた。
 うっそうと木々が重なり合い、神殿への道にアーチをかけている所まで来ると、まどかはやっと走るのをやめた。
 額に浮いた汗を手の甲で拭った。そして肩でしていた息が静まると、そのひんやりとした通路に足を踏み入れた。
 あまりの静寂にじんと耳鳴りがしそうだ。
 この道は、ユランに来たその日に通って以来だった。あの時は、何が何だかわからなかった。
 そんなことを思い返すと、一歩進む度に感傷的にならなくも、ない。
 最初に会った時は鳳欄には全く相手にされなかった。
 あの頃、常に刻まれていた彼の眉間の皺は、今では殆ど見なくなった。
 あれはまどかを遠ざけるための芝居だったのかもしれない。そう思うと、心の奥が疼く。
 ただ一つ言えること。
 自分は彼に正直だった。バカみたいに、無防備に好きになった。
 そして彼はその気持ちを受け入れてくれた。彼のすべてを与えてくれた。そして同じように、いや、それ以上に求めてくれた。
 神殿に近付くと、金属の硬い音が聞こえてきた。それは短く、鋭く、リズミカルだ。
 神殿前の空き地が見回せる所まで来ると、村の男と鳳乱が長剣で手合わせをしていた。
 まどかは静かに神殿前へ移動すると、建物を囲む木の柵の寄りかかって男達の打ち合いを眺めた。
 村の男は上半身裸だ。浅黒い肌のむき出しの筋肉が自在に動く。
 鳳乱の銀の髪の輪郭は、揺れる度に光の粒子に溶けた。
 まどかは、彼の体に張り付く黒いTシャツを通して、大きく上下する肩甲骨や広背筋の動きに見とれた。
 二人の打ち合いに型は無いようだった。突き、かわし、振る、誘う、を延々と繰り返す。
 しかし、鳳乱がまどかに視線を投げ、一瞬隙を見せたとき、相手は絶妙にそこを突いた。
 鳳乱は身を翻しながらも、相手の脇腹を思い切り蹴り上げる。 
 男の体は横に折れ、バランスの崩れた男の腕から、鳳乱は一振りで剣を払った。手から離れた剣は刃を光に反射させて、乾いた音を立てて草の上に落ちた。鳳乱は剣先を男の首に突きつけて勝負はついた。
 男は剣を拾い、鳳乱に向き直ると二人は足元で二回、シャ、シャンと刃を軽く打ち合わせた。それでお終いだった。
 男はそのまま背を向け、村の方へ戻って行った。鳳乱は草の上から鞘を拾い上げ、刃をおさめるとまどかにゆっくりと近づいた。
 彼も柵に寄りかかった。呼吸は乱れていない。
 まどかは鳳乱を見上げると、彼もまどかを見下ろしていた。いつものように。まどかは、先の出来事を短く話した。
 聞き終えると、鳳乱は獅子王と同じようにため息をついた。そして少し困ったように眉尻を下げた。
「まどかはリキに、プロポーズしたんだよ。というか、最低でも彼の愛を受け入れる準備ができている、という意思表示をした」
 彼の言葉の意味が解りかねた。彼はそれを汲み取り、続けた。
「どうして半人半獣が生まれるか。人間と獣が交われるのか。まどかは知らないよな。ここでは普通、獣には発情期がある。大抵の獣なら一年に二ヶ月間、春と秋の二季。フェニックスは一年に三ヶ月間の一季。この時期に獣は人間の姿かたちになり、人間に求愛するーーしないものもいる。そのとき、人間が獣を伴侶として決める時に、相手に名前を与える。獣が人間に求愛し、それを受け入れる場合にも、人は獣に名付ける。拒否する場合は名付けなければいい。獣の方も嫌ならば黙って立ち去ればいい。と、こういう流れだ。そして、まどかはキマイラにリキと言う名を与えた。そしてリキはその名を受け入れた」
 まどかは狼狽し、足元に目を落とした。
「え、でも、今発情期じゃないから無効じゃない?」
 鳳乱は苦笑した。
「だから余計に、発情期でもないのに名付けたってことは、まどかがリキを、もう好きで仕方が無いっていう意思表示だと思っているだろうなぁ……やつは」
「どうしよう……」
 困って鳳乱を見上げる。すると、彼はまどかの頭を軽く撫でた。
「そんな顔をするな。今夜僕が話をつけて来るから。大体、僕がそうやすやすとまどかを他の奴に渡すわけが無いだろう」
 ーーさ、なにか飲みに行こう。
 彼はまどかの腰に手を回し、村への道へと促した。並んで歩きながら彼はやっぱりもう一度ため息をついて、「キマイラ相手になぁ……」と呟いた。
 
 夜中に、勢い良く流れる水音で目が覚めた。
 シーツの上に手を滑らせる。隣に眠っているはずの鳳乱がいなかった。
 まどかの頭に、つい先程の事が再生される。
 仕事で外にいた彼が夕食後に戻って来て……その時まどかは泡の溢れるバスタブに体を伸ばして鼻歌を歌っていた。
 彼は「気持ち良さそうだな」と近づき、「ついでに僕もはいろう」とTシャツの背を掴んで脱ぎながら言うので、まどかは困って思い切りお湯をかけたのだった。笑いながら彼は濡れたTシャツを脱いで隅の籠に入れ、「ごゆっくり」と、バスルームを出て行った。
 そう、そして後にシャワーを浴びた彼と、くだらない冗談を交え、キスをしながら共にベッドへ入った……。
 水音はまだ続いている。ベッドから抜け出て来たまどかは、そこで目にした光景が頭の中でうまく処理出来ず、ただその場に立ちすくんだ。
 バスルームの青白い光で、鳳乱の腕や肩にある赤い傷が余計にくっきり浮き上がって見えた。
 鳳乱は洗面台に半裸の体を屈めて、勢い良く流れる水で顔を洗っていた。銀の長い前髪が濡れて、いくつもの細い髪束の先から水滴がぽたぽた滴っていた。脇腹には、打撲で内出血した赤黒い痕が肌に浮かんでいる。
 彼はタオルを取って顔を拭くと、それを蛇口から流れる水で濡らして腕の傷口を押さえた。
「ッツ……」
 彼の顔が歪む。
「鳳乱?」
 彼の名を呼び、近づく。彼は傷口から顔をあげ、まどかを見据えた。
 その瞳には今まで見たことも無い、激情の名残が浮かんでいる。
 昼間の、神殿の空き地での対戦後ですらそんな強い感情は微塵も見えなかったのに。
「どうして……?」
 彼の体に散る赤い小さな傷口……獣の噛み跡。血液が凝固して傷口が盛り上がっている。
 それらの上にゆっくり視線を走らせるまどかの顔を、一歩で近づいた彼は片手でぐいっとすくい上げ、噛み付く荒々しさでキスをした。
「んふぅ!」
 彼の手からタオルが床に落ちる。
「あいつが……話じゃ分からなかったから……力で……」
 キスの合間に言葉を苦しそうに吐き出す。
(あいつ……リキのこと……?)
『今夜話しに行く』という彼の言葉をぼんやりと思いだした。その記憶と、傷痕がぴったり重なる。
「おまえを渡すつもりは無いって……ヤツが……」
(え……っ)
 乱暴に舌を貪る彼を受け入れながらも、まどかは驚きで目を見開いた。
 彼はすっと唇を離し、鼻先が触れ合う距離で見つめ合う。
「先に仕掛けて来たのは、ヤツだから……僕も遠慮なくやらせてもらったまで……」
「……殺したの?」
 まさか。と彼はにやリと冷ややかな笑みを浮かべる。
 背筋に冷たいものが走った。
「どっちがまどかに相応しいか、しっかりと教えてやったよ」
 そして再び暴れる感情をぶつけるように激しく唇に食らいつく。まどかは彼の激しいキスに圧倒されながら、一歩、また一歩と後ずさりし、とうとうひやりとしたタイルを背中に感じた。
 鳳乱と壁の間に挟まれ、逃げ場の無くなった体に鳳乱は自分の体を押し付け、執拗に唇を貪る。
 下唇を吸い上げ、口内に割り込んだ彼の舌は強引にまどかを追いつめ、絡めとり、強く吸い上げる。湿った舌はぺろりと口の端を舐め、再び深く侵入してくる。
「ふぅ……ン」
 体の芯がぞくぞくする。膝の力が抜け、まともに立っていられずに、彼の首に腕を巻き付ける。
「男を狂わせる……おまえと言う女は……」
 彼の手はキャミソールをたくし上げ、あらわになった乳房を強く揉みしだく。指で乳首を挟み、摘んでは刺激を与え続けた。
 そんな乱暴な愛撫を受けても、それらはすぐに彼の指の間で硬くなった。
「はぁぁ……」
 キスから解放されると、喘ぎ声がこぼれた。鳳乱の唇は、首筋をくすぐり、そして耳たぶを口に含んではしゃぶっていた。彼の体から、緊張と憤り、そして戦いに勝った男の陶酔……それらが混ざり合った昂りが溢れていた。そして今、戦利品である女を思うままにしている。
「まどかは僕のものだ……絶対に……」
 耳元で彼は吐息とともに吐き出す。彼の右手は体のカーブを滑り下り、ショーツの上から尻を鷲掴むと、痛む程に強く揉んだ。
「んはぁっ!」
 その強い刺激は、脳に心地よく響いた。
 そしてそのまま手を前へするりと移動させ、すでに蜜で濡れている花弁を指で割る。敏感な中心を避けるように、何度もゆっくりと入り口をなぞるだけ。
「……いじわる……」
 ため息とともに、小さな批難が口から漏れた。乳房に甘く歯を立てていた彼は、顔を上げて挑むような視線を投げた。
「欲しいって……僕が欲しいって言えよ」
 そして、いきなり指を泉へ沈めた。
「あっ……! お……お願い……」
 くちゅくちゅと、音を立てて指を抜き差しする。荒い手つきで蜜をかき混ぜる。まどかは、腿の内側に、つうと体液が流れるのを感じた。
「んンっ……」
 濃密な官能が体を痺れさせ、まどかは彼にしがみつき、立っているのがやっとだ。
「……まどかは、これで満足?」
 耳に吸い付き、彼は囁く。
「はぅ……ん……ちが……っ、もう少し……」
「もう少し、何?」
ーーちゃんと言って……目を潤ませても、ダメだよ……。
 刹那、きゅっと乳首をひねり上げた。
「ひゃんっ」
 喉が鳴る。まどかは喘いだ。
「わ、わたしの……一番感じるところに……触れて……」
「そそるね……その顔……」
 彼は言い終わらないうちに、親指でくるりと濡れた花芯を撫でた。
「あぁぁ……」
 期待した通りの、いや、それ以上の快感。腰の力が一気に抜ける。首に回す腕に力がこもる。
 二本の指は泉の中で上下しながら、親指は膨らんだ蕾を擦り続ける。そして、徐々に泉は潤いを増した。
「んっ、はあ……ぁん………」
 喘ぎ声が止まらない。下半身から快感がだんだんと体を侵食していく。ねだるように指の動きに合わせて、腰を揺らしてしまう。
「言ってごらん」
 手に包んだ乳房の頂を口にくわえながら、彼は低い声で言った。乳房の先端を吸われ、甘噛みされながら、泉の蕾の両方を激しく攻められて、まどかの頭に靄がかかる。
 理性や、思考能力はすでに失っていた。激しい愛撫によって剥き出された性感が、ただ満たされることを求めていた。
「鳳乱が……欲しいの……私の中に……全部………」
「可愛いまどか……」
 彼は再びキスをしながら、ベルトに手をかけ、ミリタリーパンツを下着ごとずらした。
 ーー壁に手をついて。
 そう囁くと、腰を引き寄せ、体をゆっくりと反転させる。その動きに導かれ、まどか壁のタイルに手を付き、尻を彼に突き出す格好になる。彼はショーツに手をかけて膝まで下ろした。片足を下着から抜き取り、彼を受け入れ易いように、まるで捧げるかのように、濡れた秘部を曝け出す。
 そして彼は熱(いき)り立った自身をあてがうと、一気に泉に捻り込ませた。蜜を滴らせるほどに潤っていた中心は、その熱い塊を喜んで受け入れた。
「ああ!」
 彼は腰を深く沈み込ませて、ひたすら攻め立てた。
 激しい腰の動きに、たちまち意識が揺らぐ。二人が繋がっている支点だけに体中の感覚が集中しているようで、膝が震える。体を支えきれない。
「うぅン……はあっ……はッ……」
 鳳乱はまどかの腰を自分の方へ固定したまま、激しく腰を打ち付け、穿ち続ける。彼の熱くたぎるものが何度も何度も中をこすり、その度に腰が跳ねた。
 二人の立てる水音は、まどかの頭の中で大きく響く。
「僕を……もっと締め上げて……」
 背中に重なるように体を折った鳳乱が、耳元で囁き、両手で胸を強く揉んだ。
「ふあ……っ」
「ンッ……!」
 ぐぐっと彼がさらに奥まで突き上げるのを、深い部分で感じた。
 襞は自分の意志でそうしているかのように彼に吸い付き、彼を離そうとしない。鳳乱は硬く張り出した蕾に器用に指を這わせながら、さらにますます腰を大きくスライドさせ続けた。
 その執拗な攻めに腰の辺りがじんじんと痺れてきた。官能のパルスがひっきりなしに全身を走り抜けていく。
「アっ…………あん……ああン……ん」
 口からは、言葉にはならない、ただ雌の本能が吐息共に漏れるだけ。
 鳳乱が耳たぶをしゃぶり、唾液に濡れる舌を耳の中に出し入れする。
 その湿った音が脳に響くと、それは自分の頭を掻き回されている錯覚に陥った。背中にゾクゾクと快感の波紋が広がった。
「鳳乱……もう、私……ダメ……ッ」
「ふぅッ……僕も……」
 そう言いながらも、彼はさらに激しく揺さぶりをかけた。腰をぐいと引き寄せ一気に膣の深い部分へ打ち付けると、体が折れるかと思うくらい、強く抱きしめた。
 そして、解き放たれた熱い精を、体の奥で感じた。
 汗でしっとりと湿った体の火照りが落ち着つき、彼はゆっくりと退いた。とろりと、生暖かいものが内股を流れていった。
 彼はまどかを抱き起こし、再び貪るようなキスを繰り返した。
「ん……っふ……」
 唇が離れると、彼はじっとまどかを見つめた。
「ちょっと、乱暴だった?」
「ちょっと……ね。でも鳳乱を……すごく感じた………」
 言ってから、再び頬が火照ってきた。
 鳳乱は薄く笑う。
 そして、かろうじて肩に引っかかっていたキャミソールを剥ぎ、ベッドまで抱き運ぶと再びそのしなやかな体の下に組敷いた。
「まだ……まどかが欲しい。欲しくて堪らない……」
 彼はゆっくりと首筋に沿ってキスを落としていき、胸の頂きを舌で絡めとった……。

 *

 バーシスに戻る日まで二週間を切った。
 火山の調査も獅子王がたまに調べに行っていたが、特に気になることは無いようだ。
 まどかは、エクスピダルの陽が強くなる前に鳳乱と剣を打ち合い、腕がだるくなって来た所で、木陰に座って休んでいた。
「剣も結構上達してるはずなのに、かすり傷一つつけられないなんて、悔しい」
 互角、にはほど遠いが、簡単に剣を弾かれることも無くなって来たのにも関わらず、未だに彼の髪の毛一本にさえ届かない。
 太い幹に背をあずけて、隣で片膝を立てて座っている鳳乱を見る。
「まどかは素手の方がいいかもね。僕にダメージを与えるなら」
 彼は目だけでにやりと笑う。
 情事の後に、彼の背に残る爪痕の事を言っているのだろうか。
 まどかはそんな冗談に耳が熱くなるのを感じながらも、ちょっと脅かすつもりで草の上に横たえた剣に手を伸ばしてみる。
 それを目の端で捕らえた鳳乱は慌てて言葉を継いだ。
「いや、ほら、『鳳乱キライ』とか言われたらほんと、かなり傷つく……」
「じゃあ……キライ」
「え、冗談だろ……」
 一転して真顔になる彼に、まどかは破顔した。
 そのとき、獅子王がゆっくりと広場を横切り、近づいて来た。彼は二人の前で立ち止まると、神妙な顔で見下ろした。
「何かあったのか?」
 鳳乱の表情が険しくなる。
「ちょっと、気になる噂を聞いた」
 獅子王はまどかにさっと視線を走らせた。
 そして再び鳳乱に向き合い、胸の前で指を四本立て、それから人差し指で目を指した。
『四つの目で話し合う』
 つまり、二人きりで話し合いたいというサインだ。
「まどかなら、大丈夫だ」
 まどかの手に、鳳乱は手を重ねた。
「アンタがそう言うなら……」
 獅子王は胸をぐっと反らして注意深く辺りを見渡すと、さらに鳳乱に近寄り、膝を折った。
「セグモンドの囚人が、逃げたらしい」
 鳳乱の横顔に緊張が走った。
「トカゲか?」
「ああ」
 ちっ、と珍しく鳳乱が舌を鳴らした。
「こんな時期に……面倒だな。バーシスの応援を呼ぶか」
「ますオレが行く。様子を見て、追えそうなら追う。オレの鼻がどれだけ利くか。三日間だ。それからバーシスに頼んでも遅くはないと思う」
「三日後……皆既食だな」
 二人の間に、緊張を含んだ沈黙が漂った。
「……頼んだぞ」
 最初に沈黙を破ったのは鳳乱だった。
「おう」
 話が終わると、獅子王は立ち去る前に無言でまどかを一瞥した。そして今来た道を戻って行った。
 まどかはその、遠ざかる背中からしばらく目が離せなかった。
 きゅっと鳳乱がまどかの手を握った。
 我に返り、振り向く。
「今の話で少し怖がらせたかな。やっぱり席を外してもらった方がよかったか。すまなかった」
「ううん、大丈夫……それよりも……」
「それよりも?」
 獅子王が今見せた眼差しのほうがまどかを不安にさせた、……とは言えずに「皆既食って?」と話題を変えた。
「エクスピダルの上にルイーゼが重なるんだ。地球でも起こる現象だと思うが。あ、ルイーゼは太陽系惑星のいう所の月だ」
「ああ、それなら分かるわ。でも、どうして皆既食のときだと『こんな時期に』なの?」
「こっちでは皆既食を『神の目が隠れる時』と呼ぶ。それで良くないことが起こると言われているし、実際、良くないことが普段よりも多く起こる」
「良くないこと?」
「小さなことでは、食器が割れた、転んだ、それから、流産とか大きな事故とか。だから僕たちは火山が皆既食に合わせて噴火でもするんじゃないかって懸念したんだが、今の所その心配は無いようだ」
 鳳乱が立ち上がり、手を差し伸べる。ごく自然な流れでまどかはそれを取る。
「雨が来そうだな」
 並んで歩きながら、鳳乱は言った。
 確かに空気が含む湿気はいつもより重い気がした。
「雨が来ると、獅子は追い辛くなるな」
「匂いが雨で流されるから?」
「そうだ」
「犬みたい」
 彼は穏やかな横顔を見せる。
「そうだな。でも、獅子はとても優秀だ。……とても」
 まどかは自分の言葉が変に受け取られたのかと思い、慌てた。
「あ、今のは別に彼を侮辱したわけじゃなくて……」
「分かってる。……な、まどか。獅子は幼い時に両親を失っているんだ」
 突然彼がそんな風に獅子王の話を切り出したのに少し驚いたが、思えばまどかが獅子王について知っていることと言えば、二十七歳で、半人半獣で、コーヒーを淹れるのが上手で、そしてバーシスでは「カネラ」の称号を持っている、それくらいだった。まどかは黙って鳳乱の言葉に耳を傾けた。
「彼はユランで生まれ、四歳までユランで育った。そして彼が四歳になった年と僕の父が『火の石』にならずに逃げた年が一緒、と言えば何となく話が見えるだろう。彼が両親を失うことになった原因が……」
 心臓が早鐘を打った。
「もしかして」
「その、もしかして。彼の住んでいた村は、地震に依る地割れでほぼ全壊したと言われている。僕と獅子が幼馴染みと言うけれど、彼と会ったのは彼が六歳の時だった。バーシスの託児所のような施設内だ。僕は母についてその頃からよくバーシスには出入りしていたから。彼は両親の死後、親戚に引き取られたらしいが、六歳の時にバーシスが彼の身元を完全に引き受けたんだ。僕たちはすぐに気が合って、よく一緒に過ごした。彼は僕を慕ってよく後ろを付いて来た。獅子が僕の父のことを知ったのはそのずっと後だ。彼は僕に聞いた。『君の父さんが逃げたのは本当か』って。僕は『本当だ』と答えた。そのとき初めて、どうして彼が両親を失ったか聞かされた。目の前が真っ暗になったよ。同時に、僕はこの親友を失うだろうと思った。……でも、彼は翌日もいたって普通だった。そして今日まで、来た」
 彼がまどかを見下ろす目は、どこまでも穏やかだ。
「僕は彼に恨まれて当然だと思っている。たとえそれが僕のせいではないにしろ。その歳で両親を失うのは僕には想像もできないくらい苦しいことだと思う。子供が一人で乗り越えられるものではない……どこかに、怒りや、悲しみのはけ口が無いと、壊れるか歪むはずだ……たぶん」
 ゴロゴロ……
 空が低く唸った。
 音の方に目をやると、木の隙間から黒々とした火山の頂が見えた。その上に覆い被さる様にして厚い灰色の雲が広がっていた。
「鳳乱は……獅子王があなたを恨んでいると思ってる?」
 彼も足を止めて火山の方を仰いだ。
「今までは、そうしてくれればどんなにいいかと思ったが……今はどうだろう。僕には守るべき人ができたから……なんて、都合いいよな」
 彼の、繋ぐ手に力がこもった。
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