ELYSIUM

久保 ちはろ

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Part 13-1

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 獅子王が『トカゲ』の追跡に村を出て、その二日後、鳳乱が倒れた。
「鳳乱?」
 朝、彼の隣で目覚めると、鳳乱の体は熱く、ぐったりしていた。以前倒れた時と似ていた。
 まどかは手早く服を着ると、彼の脈をとり、弱っているエネルギーを補えるように体の幾つかの部位を施術した。
「キッチンにお茶が残っているはずだから、取りに行くね」
 湿らせたタオルで彼の額を軽く押えて言うと、彼は顔だけ傾けて「すまない」と、声を押し出した。
 朝食にパンを一つだけ食べ、その合間に、皆に鳳乱が倒れた旨を伝えた。獅子王がトカゲを追って不在なのは、彼らはすでに承知している。
 鳳乱は吐くこともなく、前回の時よりは症状が軽い感じだった。
 それでも微熱は下がらず、彼はずっと規則正しい寝息を立てていた。起きる気配がないので、お茶を作ってから遅い昼食をとりに行き、その帰りは雨に降られた。
 滝のような激しい雨だった。足元に靄がたち、地面の熱気がみるみるうちに奪われていった。
 矢の様に雨は土を叩き、葉を打つ音が辺りを包んだ。
「かなり降っているな……」
 鳳乱は辺りが暗くなった頃にやっと目覚め、まどかの温め直した茶を飲んだ。食欲はまだ無いようで、何も口にしない。
「うん。スコールみたいにすぐに止むかと思ったけど」
 ベッドサイドの明かりは目が痛いと言うので、デスクのスタンドだけ灯した。
「獅子王は戻ったか?」
「ううん、まだ」
「そうか」
 雨の音が部屋まで染み入る。
「昔からこうなんだ。何か嫌な予感がすると体が言うことを聞かなくなる……とても不便だ」
 まどかはベッドの端に座って、笑って訊ねた。
「じゃあ、私と初めての夜も『嫌な予感』だったの?」
 彼は視線を泳がせた。
「あれは……結果的には、口実?」
「それなら、便利じゃない」
 彼の手から空のカップを受け取り、ベッドに横たわるのを手伝った。
「でもね、病気ってそういうものよ。仕事なんかでストレスが溜まると、体が『これ以上働いたら倒れるぞー!』って警告して熱が出たり、お腹が痛くなったりする。是が非でもベッドに入る状況を作るのね。精神的なものだと、『仕事に行きたくないな』って思うと、自然に体が腹痛を引き起こして行かれない状況を作るとかね。あとはやっぱり超自然的なもの、不思議な力が危険から身を守ろうとしているとか。ほら、体調を崩して乗り損ねた飛行機が落ちたとか、そういう話、たまに聞くでしょ。あれ、飛行機ってあるのかな」
 鳳乱は微笑して頷いた。
「それなら今回のは、そのうちのどれだ?」
「全部じゃない?」
「真面目に聞いたつもりだが」
 彼は眉を寄せた。まどかは、鳳乱の額にかかった髪をそっと払った。
「じゃあ……私を自分の側から離したくない、ってことかな?」
 鳳乱は口の端を上げる。
「言うようになったな」
「自惚れてるかな?」
「いや、当たってる。まどかはもっと自惚れていいんだ。どうしたって、愛して止まないんだから」
 鳳乱の柔らかな髪の間に指を差し入れ、ゆっくり撫でた。彼は気持ち良さそうに目を閉じた。
 その結ばれた美しい口元に、まどかは吸い込まれるように唇を重ねた。
 そっと触れるだけで少し身を引くと、近い位置に彼の驚いた顔があった。まどかは微笑んだ。
「隙あり。昼間の剣のリベンジ……」
 言い終わらないうちに彼は後頭部にそっと手を当てがい、その手に少し力を入れて再びまどかの唇を捕らえた。
 とろりとした彼の舌を受け入れる。
 舌は戯れ合い、吸われ、歯を立てられる。存分に、深く、彼を味わう。柔らかくて湿った舌と、唇の感触を。
「ん……」
 体の力が抜けて、彼の胸にもたれ込みそうになるのをなんとか腕で支えた。
 唇を離して、囁く。
「続きは、治ったら。ね」
 彼はしぶしぶ、といった面持ちで言った。
「治ったら、手加減しないからな」
「今まで手加減してたの?」
 彼はふっと笑うと、再び瞼を閉じた。彼が眠り込むまで、隣に寄り添うように横たわっていた。
 雨はやっと小降になったようだ。 
 パタンーー。
 ドアの締まる音がし、ハッとして目が覚めた。隣には鳳乱が穏やかな寝息を立てている。
 何時かは分からないが、夜中のはずだ。
 まどかはパジャマ代わりの、鳳乱のTシャツの上に自分のライトジャケットを羽織り、部屋を出た。暗い廊下を、バスルームから漏れる光が明るく照らしていた。覗くと獅子王がいた。
「獅子王?」
 彼は頭からバスタオルを被っていた。Tシャツを脱ぎ、ずぶ濡れのミリタリーパンツに手をかけていた所だった。彼は少し驚いたようにまどかを見、そして「回れ右」と短く言った。
 まどかは素直にくるりと後ろを向く。背中で彼が服を脱ぐ音を聞いた。
「どうだった?」
「収穫無し。雨で途中から痕跡を失った。ただ……」
「ただ?」
 獅子王はまどかの頭にポンと大きな手を置いた。まどかは驚き、彼を見上げる。近寄る足音が全くしなかった。
「こっちの方に、向かっている」
 彼は逞しい腰に、タオルを一枚巻いただけだった。
「鳳乱が、倒れたの」
 彼は眉間に皺を寄せた。
「そいつはあんまりいい話じゃないな。明日、マンチャ・カタルヤに一緒に来てもらいたかったんだけど。まあ、一人でもなんとかなるか」
「一応、熱は下がってきているんだけど」
「まあ、様子見て、だな。無理させてぶり返すとまずいし。……おまえ、もう寝ろよ。起こして悪かったな」
 彼は頭に置いた手を今度は目の前で「しっしっ」と振る。
「お茶でもいれようか? 雨で体が冷えたんじゃない?」
 彼は苦笑した。
「おまえね、そんな格好して男の前ふらふらするなよ。鳳乱がそれ見たら、容体さらに悪くなるぜ?」
 言われて自分の足元を見ると、鳳乱のTシャツはかろうじて腿の辺りまで隠していたが、その下から無防備に素足が出ている。
 恥ずかしさよりも、居心地の悪さを感じ、じりじりと彼から後ずさった。
 そんなまどかを可笑しそうに見て、獅子王は「オヤスミ」と言い、再びバスルームに消えた。
 獅子王の話を聞き、なぜか急に覚醒したように目が冴えてしまった。
 まどかは、眠っている鳳乱を横目に着替えると、村の中を歩いた。
 昨日の雨は水たまりとなってあちこちに残り、白いミリタリーブーツに泥が点々と跳ねた。
 不気味な胸騒ぎに煽られるように、ブーツが汚れるのを気にもせず、ただ、ただ足を前に動かした。
 動物園の狭い檻に閉じ込められたクマが、鼻がぶつかりそうになる寸前まで壁に向かって歩き、体の向きを変え、反対側の壁に向かって歩く。
 そしてまたぶつかりそうになり、向きを変える。その繰り返し。
 そんな風に、足を止めると何かに襲われそうな不安に怯えながら、疲れるまで歩き続けた。


 翌朝、朝食が済むとまどかの他、仲間たちは村の男達と狩りに出かけ、獅子王はマンチャ・カタルヤへ向かった。
 鳳乱は大分回復したが、獅子王は「様子を見に行くだけだ」と、彼の同伴を受け付けなかった。それでも獅子王が出かけて少して、やはり鳳乱は獅子王の後を追って行ってしまった。
「昼過ぎには戻れるだろう。そしたら皆既食を一緒に見れるな」
「私も一緒に行く」
 彼の腕をとった。鳳乱はその手に自分のを重ね、柔らかく微笑した。
「昨日からまどかはなんだか母親みたいだな。心配するなよ」
 彼は素早く屈んでキスをした。唇は優しく吸い付き、すぐに離れた。

 まどかはジャングルに消えていく鳳乱を見送ると、力が抜けたように広場のベンチに腰をかけた。
 足を投げ出して、昨夜、ブーツにこびりついた泥を眺めるとも無く眺めた。
「何してんの」
 後ろからいきなり声をかけられ、息をのんで振り向いた。
 有吉が少し離れたところに立っていた。
「あ、有吉こそ何してるの? 狩りに行ったんじゃないの?」
 彼は近づき、よいしょ、とベンチを跨いで隣に座った。
「何言ってんだよ。自分だけ抜けてずるいのはそっちじゃねーか」
 彼はサングラスのフレーム越しに見て、共犯者の笑みを浮かべる。
「いいの。オレは公休。今日は。決めたの」
 新聞の文字を切り抜いて作った声明文のような口調だ。
「獅子王と鳳乱が火山の様子を見に行ったの」
「知ってるよ。そこで鳳乱がジャングルに入るのを見た」
「昨日まで熱があったのに」
 彼は無言だ。
「私、行ってみようと思う」
 そう言ってからゆっくり有吉を見た。彼はまどかに視点を合わせる。
「オレも行く」
 彼はすでに決めていたようだった。今日、公休をとったのと同じように。
 二人は一応、用心のために武器を用意した。マンチャ・カタルヤへは初めてだ。何が起こるか分からない。
 まどかは肩にかけたホルスターに『シープ』を。有吉はベルトに短剣を挟んだ。
 ジャングルに入り、木の根にはびこる、水をたっぷり含んだ苔を踏みながら歩いた。
 肉厚の緑の葉を掻き分けた有吉は振り向き、言う。
「なあ、こんなんじゃいつ着くかわかんねーぞ。俺たちの足じゃ」
 自分から言い出したものの、確かにこれは賢い方法ではなかった。二人は足を止めた。
 蒸発する水の分子に混ざって草と土の匂いが立ち上っていた。雨瀝うれきの跡がくねくねと土を伝って流れている。
 ブーツのつま先に小さな黒い虫がよじ登る。
 まどかは有吉を見上げた。
「キマイラなら早いわ。彼らなら近道も知っているはず」
「獅子王もいないのにどうやって呼び寄せるんだよ?」
「ちょっと、知り合いがいるの。……たぶん、大丈夫。来てくれると思う」
 まどかは肺一杯に息を吸い込み、遠くまで届くように声を張った。
「リキーーーー!」
 しばし、耳を澄まして待つ。
 再びバサバサッと羽音が頭上でした。
 まどかは一歩、また一歩と歩きながら、喉がカラカラになるまでリキの名を呼び続けた。しかし、反応はなかった。
 それは当然かもしれない。まどかを巡って、鳳乱がリキを一度ひどい目にあわせているのだ。
 どうして、来てくれるなんて思ったんだろう。
「嫌われているみたい。仕方が無いわ。歩きましょう」
 同伴してくれる有吉に申し訳ない気持ちはあったものの、彼の方は一人で戻る気が無いようだ。二人は再び無言で歩いた。
 ガサガサと草を踏み分け、進む。
「シッ」
 有吉が急に立ち止まった。
『誰かが付けて来る』
 彼はその場で、まどかにだけ届くように言った。まどかも何かを感じて、そっと振り返る。
 だが、そこには今来た道を隠すように、鬱蒼と茂みがあるだけだ。
 まどかがじっと目を凝らすと、一対のアイスブルーの瞳が葉の隙間でキラリと光った。
「リキ……?」
 呼びかけると、のっそりと茂みの中からオオカミの顔が出て来た。有吉も振り返り、キマイラを見る。
「ありがとう。来てくれたんだ」
 キマイラはまどかに近づき、差し出した手の平に湿った黒い鼻を押し付けた。
 まどかはそっとリキの頭を撫でた。
「マンチャ・カタルヤに行きたいの。私たちを連れて行ってくれる?」
 リキはぱたぱた、としっぽを揺らした。
 そして全て承知しているかのように、鼻を空へ向け、喉を反らせて長く吠えた。
 葉を掻き分ける音がして、すぐにリキよりもひと回り大きな一頭のキマイラが姿を現した。
「ラオ?」
 まどかは呼びかけた。彼女はそれには答えず、荒々しく前足の蹄で木の根でぼこぼこの地面を掻いた。
「急げってさ」
 有吉は、自分のポケットからカプセルを取り出して割った。
 中からサドルとハミが出て来た。いつの間に、そんなものを。
 キマイラにそれらを装着してその背に股がると、彼らに頼んだ。
「走って……出来るだけ早く、『火の石』まで!」
 二頭のキマイラは素晴らしい足で走った。
 間も無くジャングルの森林帯を抜けると、火山の黒々とした外輪が目の前に現れた。
 背の低い、こんもりとした茂みが火山の麓を覆い、それも上へ登るに連れて少なくなる。崩れ易いスコリアの上をキマイラは力強い足どりでひたすら登り続ける。
 この急坂を、もろい足場も難なく進めるのは、丈夫な肺と脚を持つキマイラならではだろう。
 やっと山頂までたどり着くと、台地が広がっていた。それが徐々に削られるように、噴火口の中心に向かってすり鉢状になっている。
 その傾斜はなだらかではあったが、かなり大きな噴火口で、これが噴火したら確かに想像を超える被害が出るに違いない。
 そして驚くべきものは噴火口だけではなく、眼下に広がるジャングルと、ルプーの高原まで一望出来るその景観だった。
「なんだか、たくさんのブロッコリーの頭が遠くまで続いているみたい」
 その絶景を前に陳腐な言葉しかでなかった。だが、有吉は「おまえ、うまいこと言うな」と、大きく頷いた。
 二人はしばしその眺めに目を奪われていた。
「すげーな」
 有吉は大きく息を吐いた。
「すごいね」
 岩肌は熱を反射し、熱気が立ち上るのが視覚で見えるようだった。それは下から顔をじりじりと焼いた。
 まどかはすぐに、辺りを見回した。どこかに鳳乱か獅子王がいるはず……多分、『火の石』のところに。
「ラオ、リキ、火の石はどこ?」
 まどかはリキの首を軽く叩いた。
 二頭の様子はなんだか変だった。その場で足踏みをするだけで、進むことを拒んでいるようだ。
「どうしたの?」
「なんかこいつらの苦手なモンのニオイがすんじゃないのか?」
 有吉もぐるりと視線を巡らせた。
「あっ……あれ、人影じゃねーか?」
 彼の指す方に目を凝らすと、大きな岩の影に確かに影が動いた気配があった。
「行こう」
 まどかは、まだ尻込みをするリキの首を撫で、勇気付けた。彼は仕方なく走り出し、ラオも並んだ。人影が見えた大きな岩までくると、ぐるりと迂回した。
 そして……そこで目にした光景に一瞬体が凍り付いた。

 岩の裏には巨大な平らな岩盤が三枚、交互に重なり岩棚を作っていた。
 真ん中辺りに、石を積み上げて作った粗末な台座があり、その上に、ダチョウの卵ほどの、ガーネットかルビーのような赤い石が鎮座している。
 それがきっと『火の石』なのだろう。
 しかし、始めて見る神秘的な石よりも、その隣の物体に、まどかの目は釘付けになった。
 それは、まさにトカゲだった。二本の脚で立つ、人の形をしたトカゲと言えばいいのか、トカゲの形をした人と形容するべきか。
 頭はぺたんと平たく、まさにトカゲの頭だ。太い首が緩やかな肩につながり、その左右からは逞しい人間の腕が生えている。全身は黒光りするウロコに覆われていた。
 目の周りは黄色い輪で縁取られている。
 腰には汚い布が巻かれていた。その下から、オレンジ色の縞が走った長いシッポが地面へ垂れていた。両足の指先から伸びた爪がカーブを描いて地面に食い込んでいる。
 トカゲとの距離はあったが、体の大きさは小柄な成人男性くらいだろう。
 これが、まさに今、鳳乱達が探しているものに違いなかった。
 トカゲはこちらを見た。
 そしてゆっくりと瞬きをした時、下の瞼が上へ持ち上がったのがはっきりと見えた。
「なんだおまえら」
 その声はガラガラという雑音に聞こえた。二人が答えられずにいると、トカゲはちらちらと長い、青い舌を出す。
「何でもいいけどな、邪魔するなよ」
 そう言ってトカゲは何のためらいも無く「火の石」に近づき、体を屈めて手を石に伸ばした。
「盗れないわよ。バリアが張ってあるんだから」
 やっと絞り出した声は、自分の声じゃない気がした。
 トカゲは不自然な形に首をひねってまどかを見ると、目の下まで裂けている口をぱくりと開けて、声を出さずに笑った。
「どうかな」
 まどかの背に悪寒が走る。
 トカゲが数センチ、さらに手を伸ばすと、バリアに弾かれるはずの手は「火の石」をしっかりと掴んでいた。
 片手で石を持ち上げながら、トカゲは「見かけよりも随分重いな。ええ?」と首を傾げた。
 まどかは、どうしても前に進みたがらないキマイラから下り、ゆっくりと彼に近づいた。
 有吉はすぐに追いつき、まどかの半歩前に出た。
 乾いた熱風が毛先を揺らした。
「それを元の位置に戻して」
 なぜか、まどかは冷静だった。話しながら右手でホルスターからシープを抜いた。手は、震えていない。
「お嬢さん、物騒なものは仕舞っておいた方があんたのためだよ」
「今すぐ石を戻すことが、あんたのためよ」
 トカゲとの距離は既に四、五メートルほどに縮まっていた。
「早いもん勝ちだ。石を欲しがっているやつはごまんといる。コイツを使えば、相手を選べば地位も金も両方手に入るんだよ。みすみす元に戻す程、マヌケじゃないんだ」
 まどかは黙って、シープの銃口をトカゲに向けた。
「命を落としたら、何も手に入らないわよ」
 トカゲは嘲笑を満面に浮かべ、すらりと腰から短剣を抜いた。
 頭上から照りつける熱で、ガンガンと鐘がまどかの頭の中で鳴っているようだったが、それでも中心の部分は、ピンと冴えていた。
「バカなやつだ。見逃しておけばよかったものを」
 トカゲはそう言い捨てた直後、まどかに短剣を向けて、地を蹴り、猛突進して来た。
 まどかは慌ててシープのトリガーを引いた。
 風を切る乾いた音がして、トカゲの体が一瞬傾いた。どこかを擦ったようだが、相手の脚は止まらない。
 トカゲがまどかの目の前に迫るその直前、相手の体が勢いよく横へ飛んだ。
 有吉が肩からトカゲに体当たりを食らわし、すかさず短剣を片手に、バランスを崩したトカゲに挑んで行った。
 その衝撃で有吉のサングラスがまどかの足元まで飛んで来て、カチンと音を立てる。
 トカゲはそれでも素早く身を起こすと、片手にまだ石を握ったまま、新たな標的に襲いかかった。
 トカゲの動きも速かったが、有吉も負けてはいなかった。まどかもシープを握り直し、再び狙いを定める。
 銃口はトカゲを捕らえようと右に左に動くが、狙いをつけたと思えば、その瞬間には二人の体が絶え間なく入れ替わるため、撃つタイミングを逃してしまう。
「ああっ!」
 トカゲの尻尾が有吉の脚に絡み付き、彼の体が引き倒されるのと、トカゲが剣を有吉の体に振り下ろすのは、殆ど同時だった。
「有吉!」
 彼は間一髪で体を転がし、腹の真ん中に剣を受けることはかろうじて避けた。
 その隙にまどかはトカゲの尻尾を撃ち抜いた。
 肉片と、褐色の体液が飛び散った。シッポは有吉の脚に絡んだまま、うねうねとまだ動いていた。
「貴様……」
 トカゲは狙撃の勢いで有吉からはやや離れて地に尻を付いていたが、ゆらりとその体を起こすところだった。
「有吉、大丈夫!?」
 まどかは依然、シープでトカゲに狙いをつけたまま、彼をかばうように立った。
 有吉は脇腹を押さえて低く唸った。かばう手の下から、赤い血がTシャツを染め始めている。
「石だ!! オレはいい、石を取れ!」
 有吉が叫ぶとまどかは反射的に、トカゲが手放した石に向かって走り出した。
 ぐんぐん石は近づき、あと一歩で手が届く。体を低くしたその時、脇腹に激痛が走り、肩が地面を擦った。シープが手を離れ、地を滑る。
「金目!!」
 まどかは横から走って来たトカゲに思い切り腹を蹴られたのだった。
 トカゲはまどかの目の先で悠々と石を取り上げ、まどかに近づくと、腹をかばう頭を足で踏みにじった。
 頰に押し付けられた足の皮は硬く、ざらついていた。顔に小石が食い込む痛みにまどかは歯を食いしばった。
「少し甘く見てたようだな。そうか、お前らもバーシスにこき使われてた口か」
(……『も』?)
 頭上に揺れる彼の手の短剣が、有吉の血で少し汚れているのが目に入った。
 額に脂汗が浮かび、恐怖が塊となって喉元へ迫り上がってくる。
「やめろ!!」
 有吉が叫ぶのが微かに聞こえる。
 誰に言っているのだろう。彼の声を上の空で聞いた。
 その時ふと光が陰り、まるで部屋にカーテンを引いたようにゆっくりと辺りが暗くなった。
ーーまどか!!
 
 鳳乱?
 鳳乱……なの?
 鳳乱が私を呼んでいる?
 それとも……、空耳?

「まどか!!」
 頭を踏んでいたトカゲの足が離れ、直後、髪の毛が引っ張られる。
「いっ……!」
 まどかは痛みに顔を歪め、トカゲのウロコに覆われた腕を掴んだ。
「起きろよ、お迎えだ」
 トカゲは無理矢理まどかを立たせ、後ろから首に腕を回した。ひやりと濡れたような感触が肌に張り付く。
 手にはもちろん、短剣が握られている。
 まどかは、正面に立つ鳳乱を見た。頭がぼうっとして、二人の距離感がわからない。
「鳳、乱……」
 声は喉で塞き止められる。
 それでも、聞こえたのだろうか、彼の顔が苦痛に歪んだ。
 怒っているような、泣き出しそうな、そんな顔。
「彼女を離せ。石を持ってとっとと失せろ」
 鳳乱が低い声でトカゲに言った。これまでまどかが聞いたことのない殺気を含んだ声音だ。
「そのつもりだったんだがな、鳳乱。気が変わった。この女、オレのシッポを飛ばしやがった。お返しするのが、礼儀だろう?」
 トカゲの口から臭気が漂った。魚が腐ったような臭いだ。
 鳳乱は一歩一歩、近づいて来る。
 トカゲはその分、まどかを引きずりながら後退した。
「トカゲ、僕は丸腰だ。彼女を傷つけるならオレが代わりになる。頼むから彼女を離してくれ」
 鳳乱はゆっくりと右手を前に伸ばした。
 ーーさあ、おいで。
 彼の声が頭の中で響いた気がした。
 トカゲにまどかを離す気配はなく、逆にギリギリと首を締め付けてくる。刃が目の前にちらつく。
 恐怖と、首への圧力で呼吸がますます浅くなる。
 蹴られた腹がズキズキと鈍く痛んだ。 
 空はまた一層と暗くなっていた。
 皆既食が始まった。
 神の目が、隠れる。
 悪いことが、起こる。
 ゆらり……。
 足元が揺れた。
「!」
「始まったな」
 トカゲのガラガラ声が鼓膜を擦る。
「噴火するぞ」
 ーー噴火。
 そうだ。「火の石」が所定の位置に無ければ、火山は噴火する。
 脇から汗がつう、と体を伝ったのを感じた。
 トカゲに傷つけられる恐怖とは、また違った恐怖が……もっと大きな恐怖が、まどかの膝を震わせた。
 小刻みに地面が震え始めた。
「オレはお前らと心中する気はないんでね。さっさと蹴りをつけちまおう。目か? 鼻か? 耳か? ええ? どこを切り取ってやろうか」
 トカゲは言いながら、その部分にひやりとする刃を押し付けていった。
「がっ!?」
 トカゲがくぐもった声を吐き出したのと、腕の力が弛んだのが同時だった。
「まどか、来い!!」
 鳳乱の声に、まどかは弾かれたように走った。鳳乱に、一直線に。手を伸ばしている鳳乱に向かって。
 脚は思うように前へ出なかった。自分の脚じゃないようだった。夢の中で走っているような、両脚に重りを付けられているように、一歩一歩が地に縛り付けられているような感覚があった。
 それでも、必死で脚を前に出し、まどかに向かって駆け寄る鳳乱の胸に飛び込んだ。
 鳳乱がまどかをしっかりと抱きしめる。まどかはその存在を確かめるように、その胸に顔を強く押し付けた。
「獅子……」
 まどかは鳳乱の声を胸から直接聞いた。
 そして、恐る恐るトカゲの方を見た。
 トカゲは殆ど真後ろに首を捻り、後ろを振り返っていた。その腹から、褐色の体液がだらだらと流れていた。
 岩の影に立っていたのは、獅子王だった。かなり距離があったが、彼の手にはシープが握られているのが見えた。
「貴様……裏、切ったな……」
 トカゲがガラガラと喉を鳴らす。
 獅子王はシープを構え直すのと、トカゲの頭の片側は肉片を飛ばしながら弾けたのはほぼ同時だった。トカゲが前のめりに倒れる。
 石はトカゲの手を離れ、鼻先に転がった。
「石を……!」
 まどかは鳳乱の腕から飛び出そうともがいたが、鳳乱に強く抱きしめられて動きを封じられた。
 獅子王がトカゲに近づく。
 気配を察したのか、トカゲは最後の力を振り絞るように、素早く短剣を振りかざし、その柄を思い切り石に叩き付けた。
 三度目に振り下ろした時、石は砕けた。
「ああっ!」
 まどかの口から、ため息とも喘ぎともつかない息が漏れた。
 鳳乱の全身が強張るのを、肌で感じた。
 獅子王も有吉も、空気さえ微動だにしなかった。
「お前ら、この火山ごと吹き飛べ……」
 トカゲは割れた頭から体液を垂れ流し、事切れた。
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