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Part 19-1
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ーーそろそろ、Dr.リウの所へ行ってみようか。
そう思ったのは、獅子王と暮らして三週間経った頃。
まどかは大聖堂の停車場の一つ手前でシャトルを降り、手にしたカードのアドレスをもう一度確認した。
初夏の朗らかなイクスピダルの光の下、行き交う人々も軽装で、その足取りも軽く見える。
まどかは、探していた道に入ると、建物の入り口に付いている番号を頼りに、どんどん進んでいった。人通りはあまり無く、特殊ガラス張りの建物が連なっているだけだ。探している建物は、さらに五分程歩いた所にあった。
やはり周りと同じような薄緑色のガラスの四角い建物で、形はともかく、その外観はなんとなく、昔懐かしいラムネのビンを思わせた。
光を優しく反射する緑がかった水色のドアの前には、まどかの腰くらいの高さの台座があり、その上に金色の猫のオブジェが大人しく座っていた。それはエジプトの壁画に見るような、スマートな猫だった。
まどかはドアの周囲を見回し、開閉のボタンかベルを探した。だが、それらしきものは一つも見当たらない。
仕方がないのでドア越しに中を覗いた。建物の中はがらんとしていた。中心よりもやや奥に、人の脊髄のようにエレベーターだろう、透明な管が天井を円柱にくり抜いている。
本当に何も無い。受付の女性、またはアンドロイドとか、柱にかかる絵やコーナーを飾る植物の類いとか。そういうものが全くなかった。ドアに『空きテナント』と張り紙がしてあってもこれならば信じてしまうだろう。
「どうしようかな」
思わずため息まじりに言葉が漏れた。
「金目まどかさん、ですね」
急に声をかけられ、素早く振り向いた。後ろには……いや、周りに人影は全くなかった。
(空耳?)
これも鳳乱を失った後遺症のひとつだろうか。
「空耳じゃないですよ。私です。隣にいます。あなたの左隣」
声に従い左を見ると、胸の高さにある金の猫のオブジェが目に入る。それは背中につるりと光を反射したまま、前を見ている。
「あなた……なの?」
馬鹿馬鹿しいと思いながらも、答えてみる。
「そうです」
きっとセンサーかなにかで、人の声に反応するように出来ているのだろう。
またはどこかに埋め込まれている隠しカメラで訪問者を確認し、オペレータールームにいる管理人がマイクを通して話しているのだ。
「そうじゃないんです」
溜め息混じりとも聞こえる声色だった。驚いたまどかが、何か言おうとする前に猫が再び話した。
「Dr.リウの所にいらしたんですよね。どうぞ」
今まで開く気配のなかったドアが、音も無くスライドする。
まどかはまだ何か腑に落ちないものを感じながら、せっかく開いたドアが閉まらないうちに中に入る。
振り返り、猫のオブジェを見る。猫も振り向いて笑うと思ったが、それはやはり気のせいで、閉まったドア越しに見えるオブジェは微動だにせず、光る背中を見せていた。
建物の中は、まるでこの世から全てを隔たれたようにしんとして、明るい緑色の光で満ちていた。『不思議の国のアリス』の、小さくなったアリスが、ビンの中に入った時の気持ちは、こんな感じかもしれない。
エレベーターへ向かって進む。こつこつと踵が鳴る。エレベーターの前に立つとドアが、すうと開く。
「わっ」
足元の視界に何かが入り、思わず飛び退いた。
「怖がらなくてもいいんです。よく見て下さい」
また内蔵マイクか。
指示通り体を少し屈めてよく見ると、それはカエルの置物だった。美しい黄緑色のほっそりした、両手に収まるほどの小ぶりなものだ。
その水かきのついた手は、三つ指をついてまどかを迎えているようにも見えた。
なぜこんなものをエレベーターに置くのか。ここの所有者の趣味がわからない。
「どうぞ。Dr.リウのところですよね」
促され、乗込むがここにもボタンがない。戸惑ううちにドアが閉まり、同時に足元がふわりと浮かぶ。室内を突き抜けて昇るエレベーターのガラス越しに見た二階も、やはりがらんとした空間だった。三階でそれは止まった。
「ここです」
まどかは目にした光景に、ただ驚いた。
そこは植物園のような温室だった。室内の温度も湿度も一定に保たれているようだ。
高い天井まで届く何本ものヤシ科の植物は、その毛深い幹を伸ばし、天井に触れそうな位置で羽のような葉を四方に伸ばしている。
それでも外の光を遮るほどの量ではなく、バランスよくいろいろな種類の植物が生い茂っている。
「降りないんですか?」
カエルの声に我に返り、まどかは一歩、細かい砂利の混じった土を踏む。
「それでは後ほど」
エレベーターは「ふぅうううん」と頼りない音をさせて下りていった。
細い小道が奥へ続いているようだ。道を隠すように茂る草。その間に、恥ずかしそうに小さな花がいくつか可憐な花を咲かせていた。
ーーがさがさ。
手前の繁みが揺れる。
(今度は何なの……)
まどかはその場で足を止めた。背中にエレベーターのドアが当たった。
やがて、身構えたまどかの目の前に、ポンと飛び出して来たのは、茶色いうさぎのぬいぐるみだった。ハチミツ色の輪に縁取られた、黒いビーズの瞳が光っている。
「こんにちは」
うさぎは後ろ足で立ち、行儀よく挨拶をした。そのお腹は白かった。
まどかはもう、何が喋ろうと驚かなかった。
「こんにちは」
まどかも答える。
「こちらですよ」
うさぎはくるりと向きを変えると、元気よく二、三歩先を跳ねた。
まどかは、その白い旗ような尻尾の後を追って、繁みの中を進んだ。
「ここです」
少し行った所で小道は建物と同じ材質のドアの前で終わっていた。ぼんやりと見える不透明なガラス越しの向こうは、どうやら診療所のようだった。
「どうぞ」
ドアがスライドする。うさぎはまたぴょんぴょんと部屋の奥へ入っていく。
広い開放的な空間だった。植物園とは雰囲気がガラリと変わり、部屋の一部の角には、大きなシダの繁みに囲まれて、二、三本の木が立っているだけだ。
部屋の中央にに白い施術用のベッド。まどかが病室で寝ていたものと似ていた。壁際には木製のキャビネットとデスクがあり、それを挟むように椅子が二脚。キャビネットのガラス戸越しに色々な器具が見えた。下の引き出しの部分にもこまごまとしたものが入っているのだろう。
それらの色は白で統一されていた。清潔で、落ち着く空間だ。
辺りを見回しても人影が見えない。勝手に座ってもどうかと思いデスクの横で立ち尽くしていると、足元にいたうさぎがくるりとまどかに向き直り、鼻をひくひくさせた。
「こんにちは、わたしがリウです」
「え!」
まどかは驚きのあまり、目を見張ったが、すぐに我に返るとウサギに向かって頭を下げた。
「そ、それは失礼しました。あなたがDr.リウとは知らずに……挨拶が遅れました……」
「いえ、こちらです」
まどかは顔を上げた。すると、少し向こうの木の影から女性が現れた。歳は五十代半ばといったところか。藤色の作務衣のような前合わせの上着に、お揃いの色のゆったりとしたワイドパンツを合わせていた。すらりとしていて、姿勢が良い。ミルクティーのような薄い茶色の三つ編みが、左胸のあたりまで垂れている。
「はじめまして。リウです」
彼女が親しげな微笑を浮かべると、目尻に小さな皺が刻まれる。まどかに近づき、ゆったりと手を伸ばした。
まどかは、彼女から発せられる大きく、暖かなエネルギーを感じ、ただ彼女を見つめていた。
「まどかさん?」
名を呼ばれて、慌てて相手の手を握る。まどかも名乗り、挨拶を交わした。
彼女はどうぞ、と机の前の肘掛け椅子を勧めた。Dr.リウは再び繁みの奥に消えたが、すぐに茶の湯のみを乗せた盆を手に戻って来た。
「驚かれたでしょう」
Dr.リウはふわりと笑って茶器を差し出す。
お茶を受け取ると、香ばしい麦に似た香りが、面会までの驚きと緊張を和らげてくれた。
Dr.リウも机の向こう側でお茶を飲むと、静かに口を開いた。
「あなたのことはルイさんから伺っています。なんでも地球では、私と同じような分野で活躍されていたとか」
(イルマ教官が私のことを?)
まどかは無意識に眉をひそめていた。
きっと、鳳乱が彼に話したことを大げさに伝えたのだろう。『活躍していた』なんて、鳳乱から全てを聞いていたとしたら、仕事に行き詰まっていたことも知っているはずなのに、どうしてそんないい加減なことを彼女に話すのか。ここで私の力が活かせる保証なんて、全くないのに。
まどかが急に黙ってしまったので訝しく思ったのだろう。Dr.リウは小さくまどかの名を呼んだ。まどかは慌てて、焦点を彼女に合わせる。
「あ……ごめんなさい。あの……イルマ教官とは実はまだ、私自身のことを話すほど親しくさせていただいてないので、一体どんなことを聞かれたのかと気になって。きっと、亡くなった鳳乱から聞きかじったのだと思いますが」
「亡くなった、のではないでしょう。生きているわよ。鳳乱さんは」
「え?」
「あなたもまだ、そう思っているでしょう。実際それは事実ですし。彼はあの山頂でまだ生きているし、あなたの心に光となって生きている」
彼女は両手を机に滑らせるようにして、まどかの右手を包んだ。ふっと懐かしい温もりが伝わる。
「あなたの今感じている手の温もりは、鳳乱さんのものですよ。あなたの中にいる鳳乱さんの光を私が少し呼んでみただけ。あなたの中には、あなたが今までに関わった、大切な人たちの光が存在するのよ」
まどかはDr.リウの緑がかった灰色の瞳を見つめた。じっと見ていると、まるで鳳乱に見つめられている錯覚に陥る。
包まれた手から、身体中に温もりが広がっていく。
彼女がすっと体を退くと、包んでいた両手もそれにつられて離れた。それでも、手の温もりはまだそこにあった。確かに今、まどかは鳳乱を感じていた。それは、奇跡であり悦びだった。
視界が滲んだが、Dr.リウに悟られるのが恥ずかしく、深く息を吸ってから話題を変えた。
「あの……すごいですね。入り口の猫のオブジェといい、エレベーターのカエルといい……どんなシステムになっているんですか?」
Dr.リウは再びお茶を一口飲むと、微笑んだ。
「仕掛けじゃないの。こんな話をしても信じていただけるかわからないけど……」
彼女は部屋の入り口の方へ目を向け、そこで長くなってひなたぼっこをしている宇陀技に目をやった。
「患者さんの約束がないと、私はたまにここでお昼寝をするの。ほんの少しだけ。そうね、あれは三年くらい前かしら。うとうとしていると、真っ暗な、本当に漆黒の闇の中に、ふわって光がひとつ、飛んでいるの。これくらいの……」と、彼女はおにぎりを握るように両手を丸く合わせた。
「それで、私は光に問いかけてみたのーーどうしたの? って」
Dr.リウは続けてその時のことを語り始めた。
『どうしたの?』
『道がわからないんです。ふっと上に出たらどんどん導かれるかと思ったのに、なんだか同じ所をぐるぐるぐるぐる回っているみたいです。迷ったのかな』
『あなたは、どこから来たの?』
『わかりません。少し前までは覚えている気もしたけど……どこから来たのか、私は何だったのか。私はすごく遠い所から来たような気もしますし、すぐそこにいた気もします。ただ、とても疲れていたのは確かです。私は疲れて疲れてどうしようもなかった。それで、思い切って飛び出したんです。でも、飛び出しても、どこにもたどり着けない……』
光は困ったように小さく揺れました。
私は何となく、この光は自ら命を絶った者ではないかと思いました。直感ですけど。
これはあくまで私の個人的な意見ですが、私は、「自死という行為」は、自分の為ではなく、誰かに、何かに、処罰を与えるものではないかと思っています。
自分を苦しめるものや、病気、自分を悲しませるもの。
きっとその処罰は往々にして、大抵の場合目的を遂げるでしょう。彼らに決定的なダメージを与えるでしょう。病に苦しまずにすむでしょう。
しかし、自分が人に与えた行為は必ず自分にも返って来るのです。自分が何かを罰したら、大なり小なりその罰を自分も受けるのです。
得たものを簡単に手放すのにも、必ず責任が伴うのです。
とはいうものの、私はこの弱い光に同情しました。なんとか目的の場所へ行く手助けをしたいと思いました。
私はふと思いついて、目の前に浮かんでいる光に提案してみました。
『私が思うに、あなたが目的の場所へ行かれないのは、まだこちらでするべきお仕事をやり終えていないからじゃないかしら。もしそうならば、どうかしら、私の為に仕事をするというのは。そして時期がくればあなたはふっと上へ行けると思うのよ』
これも、直感です。
光はまだ不安げに明滅していましたが、急に光が強くなりました。
『それでは、どうすればいいでしょう』
私は少し考えました。
『このビルの入り口に猫のオブジェがあるの。あなたはあそこに入って、来客があれば私に教えてくれる? そうしたら私がドアを開けるから』
『いいですよ。そうします』
「そして私の診療所に、その礼儀正しい門番、そしてここ数年の間にエレベーター係と、お客様案内係が加わりました」
話を終えて、彼女はお茶の残りを飲んだ。
まどかは、まだ半信半疑だったし、正直、困惑していた。
「こ、言葉は、どうして、彼らは喋れるのですか」
「喋っているのではなくて、あなたの内の光に響くのよ。だからあなたも、胸の内で語りかけるだけで伝わるの」
「はぁ……」
まどかは内心狼狽していた。今の話はオカルトじみていたが、逆にそれが真実味を帯びているようにも思えた。だいたい、まどかにそんな作り話をしたところで、彼女にメリットは何もない。
ただ、彼女の語り口は自然だった。
あまりにも自然なので、その非現実な話の内容とのギャップを、どう埋めればいいか、まどかは混乱していたのだった。
この人とこれから仕事ができるのだろうか。
ここで自分は何を学び、何が出来るのか。そう考えるとふと、疑問が浮かんだ。
「あの、イルマ教官から私について何を聞かれましたか」
「そうね、あまり多くは語らなかったけど……あなたが鍼と手を使って人を治癒すること、臓器の関係と陰陽、季節、取り巻く環境のバランスを考えて、体のエネルギーの通り道を利用しながら治癒を促すこと。あなた自身のことについては……打たれ強い、エネルギーが強い。直感が鋭い。少し頑固な所があるけれど意外に素直で、知識を得ることには貪欲だから、仕事を与えればすぐに覚えると思う……と。その通りかしら? って、こんなことを本人に聞いて答えられるものでもないわよね」
Dr.リウは無邪気に笑った。
「いえ、全くその通りです……」
鳳乱がイルマ教官に、まどかの知らないところで、こんな個人的なことまで話していたなんて。少し不自然な気がした。
「今日お話ししたことは、お仕事とは直接関係がなかったけれど、今度はもう少し詳しくお話し出来ると思うわ。まあ、もし、もう一度来ていただければ、ですけれど。今日はこれから患者さんが来るので、残念だけれど、お開きにしなくてないけないの」
「あ、はい。是非! 伺わせていただきます」
これは直感だった。
久々に感じた確かな直感。
(彼女ともう一度会いたい。話したい)
まどかはすっかりDr.リウに魅了されていた。
帰りはエレベーターの前まで再びうさぎが同伴してくれた。
エレベーターは既に来ていて、カエルがドアを開けて待っていてくれた。
「私は……おぼえているんです」
エレベーターに足を踏み出していたまどかの背後から小さな声がした。まどかは声の主に向き直る。
「本当は、私は少し覚えているんです。私はまだ自分を守れるほど強くなかった。痛かった。いつも痛かった。……だから逃げたんです。遠くへ逃げたかったんです」
まどかは後ろ足で立っているウサギの前に屈んだ。
「随分長い間、ふわふわ闇の中を飛んでいたときに、Dr.リウの声がしたんです。私がここにいてもいいって。必要としてくれるって。仕事をくれたんです。……だから、もう、痛くないです。もう、痛くない」
まどかは、胸の中から熱いものがぐっとこみ上げて来るのを感じた。その瞬間、両手を伸ばしてうさぎを胸に寄せると、ぎゅっと抱きしめた。
Dr.リウとの面会。
あの、常識では受け入れ難い話も、日が経つにつれて「常識に捉われなければ」素直に受け入れられる、ということに気がついた。
大体、常識の定義は非常に曖昧だ。
それに、イリア・テリオでの常識なんて、この限定された場所にいる限り、自分にはあまり当てはまらないのかもしれない。
『常識』を取り払うといかに自由か。
ある意味、それは自分を危険に陥れるかもしれないが、時と場合によっては、そうすることで楽に動けることを、Dr.リウとの面会を通じてまどかは自覚させられた気がした。
そう思ったのは、獅子王と暮らして三週間経った頃。
まどかは大聖堂の停車場の一つ手前でシャトルを降り、手にしたカードのアドレスをもう一度確認した。
初夏の朗らかなイクスピダルの光の下、行き交う人々も軽装で、その足取りも軽く見える。
まどかは、探していた道に入ると、建物の入り口に付いている番号を頼りに、どんどん進んでいった。人通りはあまり無く、特殊ガラス張りの建物が連なっているだけだ。探している建物は、さらに五分程歩いた所にあった。
やはり周りと同じような薄緑色のガラスの四角い建物で、形はともかく、その外観はなんとなく、昔懐かしいラムネのビンを思わせた。
光を優しく反射する緑がかった水色のドアの前には、まどかの腰くらいの高さの台座があり、その上に金色の猫のオブジェが大人しく座っていた。それはエジプトの壁画に見るような、スマートな猫だった。
まどかはドアの周囲を見回し、開閉のボタンかベルを探した。だが、それらしきものは一つも見当たらない。
仕方がないのでドア越しに中を覗いた。建物の中はがらんとしていた。中心よりもやや奥に、人の脊髄のようにエレベーターだろう、透明な管が天井を円柱にくり抜いている。
本当に何も無い。受付の女性、またはアンドロイドとか、柱にかかる絵やコーナーを飾る植物の類いとか。そういうものが全くなかった。ドアに『空きテナント』と張り紙がしてあってもこれならば信じてしまうだろう。
「どうしようかな」
思わずため息まじりに言葉が漏れた。
「金目まどかさん、ですね」
急に声をかけられ、素早く振り向いた。後ろには……いや、周りに人影は全くなかった。
(空耳?)
これも鳳乱を失った後遺症のひとつだろうか。
「空耳じゃないですよ。私です。隣にいます。あなたの左隣」
声に従い左を見ると、胸の高さにある金の猫のオブジェが目に入る。それは背中につるりと光を反射したまま、前を見ている。
「あなた……なの?」
馬鹿馬鹿しいと思いながらも、答えてみる。
「そうです」
きっとセンサーかなにかで、人の声に反応するように出来ているのだろう。
またはどこかに埋め込まれている隠しカメラで訪問者を確認し、オペレータールームにいる管理人がマイクを通して話しているのだ。
「そうじゃないんです」
溜め息混じりとも聞こえる声色だった。驚いたまどかが、何か言おうとする前に猫が再び話した。
「Dr.リウの所にいらしたんですよね。どうぞ」
今まで開く気配のなかったドアが、音も無くスライドする。
まどかはまだ何か腑に落ちないものを感じながら、せっかく開いたドアが閉まらないうちに中に入る。
振り返り、猫のオブジェを見る。猫も振り向いて笑うと思ったが、それはやはり気のせいで、閉まったドア越しに見えるオブジェは微動だにせず、光る背中を見せていた。
建物の中は、まるでこの世から全てを隔たれたようにしんとして、明るい緑色の光で満ちていた。『不思議の国のアリス』の、小さくなったアリスが、ビンの中に入った時の気持ちは、こんな感じかもしれない。
エレベーターへ向かって進む。こつこつと踵が鳴る。エレベーターの前に立つとドアが、すうと開く。
「わっ」
足元の視界に何かが入り、思わず飛び退いた。
「怖がらなくてもいいんです。よく見て下さい」
また内蔵マイクか。
指示通り体を少し屈めてよく見ると、それはカエルの置物だった。美しい黄緑色のほっそりした、両手に収まるほどの小ぶりなものだ。
その水かきのついた手は、三つ指をついてまどかを迎えているようにも見えた。
なぜこんなものをエレベーターに置くのか。ここの所有者の趣味がわからない。
「どうぞ。Dr.リウのところですよね」
促され、乗込むがここにもボタンがない。戸惑ううちにドアが閉まり、同時に足元がふわりと浮かぶ。室内を突き抜けて昇るエレベーターのガラス越しに見た二階も、やはりがらんとした空間だった。三階でそれは止まった。
「ここです」
まどかは目にした光景に、ただ驚いた。
そこは植物園のような温室だった。室内の温度も湿度も一定に保たれているようだ。
高い天井まで届く何本ものヤシ科の植物は、その毛深い幹を伸ばし、天井に触れそうな位置で羽のような葉を四方に伸ばしている。
それでも外の光を遮るほどの量ではなく、バランスよくいろいろな種類の植物が生い茂っている。
「降りないんですか?」
カエルの声に我に返り、まどかは一歩、細かい砂利の混じった土を踏む。
「それでは後ほど」
エレベーターは「ふぅうううん」と頼りない音をさせて下りていった。
細い小道が奥へ続いているようだ。道を隠すように茂る草。その間に、恥ずかしそうに小さな花がいくつか可憐な花を咲かせていた。
ーーがさがさ。
手前の繁みが揺れる。
(今度は何なの……)
まどかはその場で足を止めた。背中にエレベーターのドアが当たった。
やがて、身構えたまどかの目の前に、ポンと飛び出して来たのは、茶色いうさぎのぬいぐるみだった。ハチミツ色の輪に縁取られた、黒いビーズの瞳が光っている。
「こんにちは」
うさぎは後ろ足で立ち、行儀よく挨拶をした。そのお腹は白かった。
まどかはもう、何が喋ろうと驚かなかった。
「こんにちは」
まどかも答える。
「こちらですよ」
うさぎはくるりと向きを変えると、元気よく二、三歩先を跳ねた。
まどかは、その白い旗ような尻尾の後を追って、繁みの中を進んだ。
「ここです」
少し行った所で小道は建物と同じ材質のドアの前で終わっていた。ぼんやりと見える不透明なガラス越しの向こうは、どうやら診療所のようだった。
「どうぞ」
ドアがスライドする。うさぎはまたぴょんぴょんと部屋の奥へ入っていく。
広い開放的な空間だった。植物園とは雰囲気がガラリと変わり、部屋の一部の角には、大きなシダの繁みに囲まれて、二、三本の木が立っているだけだ。
部屋の中央にに白い施術用のベッド。まどかが病室で寝ていたものと似ていた。壁際には木製のキャビネットとデスクがあり、それを挟むように椅子が二脚。キャビネットのガラス戸越しに色々な器具が見えた。下の引き出しの部分にもこまごまとしたものが入っているのだろう。
それらの色は白で統一されていた。清潔で、落ち着く空間だ。
辺りを見回しても人影が見えない。勝手に座ってもどうかと思いデスクの横で立ち尽くしていると、足元にいたうさぎがくるりとまどかに向き直り、鼻をひくひくさせた。
「こんにちは、わたしがリウです」
「え!」
まどかは驚きのあまり、目を見張ったが、すぐに我に返るとウサギに向かって頭を下げた。
「そ、それは失礼しました。あなたがDr.リウとは知らずに……挨拶が遅れました……」
「いえ、こちらです」
まどかは顔を上げた。すると、少し向こうの木の影から女性が現れた。歳は五十代半ばといったところか。藤色の作務衣のような前合わせの上着に、お揃いの色のゆったりとしたワイドパンツを合わせていた。すらりとしていて、姿勢が良い。ミルクティーのような薄い茶色の三つ編みが、左胸のあたりまで垂れている。
「はじめまして。リウです」
彼女が親しげな微笑を浮かべると、目尻に小さな皺が刻まれる。まどかに近づき、ゆったりと手を伸ばした。
まどかは、彼女から発せられる大きく、暖かなエネルギーを感じ、ただ彼女を見つめていた。
「まどかさん?」
名を呼ばれて、慌てて相手の手を握る。まどかも名乗り、挨拶を交わした。
彼女はどうぞ、と机の前の肘掛け椅子を勧めた。Dr.リウは再び繁みの奥に消えたが、すぐに茶の湯のみを乗せた盆を手に戻って来た。
「驚かれたでしょう」
Dr.リウはふわりと笑って茶器を差し出す。
お茶を受け取ると、香ばしい麦に似た香りが、面会までの驚きと緊張を和らげてくれた。
Dr.リウも机の向こう側でお茶を飲むと、静かに口を開いた。
「あなたのことはルイさんから伺っています。なんでも地球では、私と同じような分野で活躍されていたとか」
(イルマ教官が私のことを?)
まどかは無意識に眉をひそめていた。
きっと、鳳乱が彼に話したことを大げさに伝えたのだろう。『活躍していた』なんて、鳳乱から全てを聞いていたとしたら、仕事に行き詰まっていたことも知っているはずなのに、どうしてそんないい加減なことを彼女に話すのか。ここで私の力が活かせる保証なんて、全くないのに。
まどかが急に黙ってしまったので訝しく思ったのだろう。Dr.リウは小さくまどかの名を呼んだ。まどかは慌てて、焦点を彼女に合わせる。
「あ……ごめんなさい。あの……イルマ教官とは実はまだ、私自身のことを話すほど親しくさせていただいてないので、一体どんなことを聞かれたのかと気になって。きっと、亡くなった鳳乱から聞きかじったのだと思いますが」
「亡くなった、のではないでしょう。生きているわよ。鳳乱さんは」
「え?」
「あなたもまだ、そう思っているでしょう。実際それは事実ですし。彼はあの山頂でまだ生きているし、あなたの心に光となって生きている」
彼女は両手を机に滑らせるようにして、まどかの右手を包んだ。ふっと懐かしい温もりが伝わる。
「あなたの今感じている手の温もりは、鳳乱さんのものですよ。あなたの中にいる鳳乱さんの光を私が少し呼んでみただけ。あなたの中には、あなたが今までに関わった、大切な人たちの光が存在するのよ」
まどかはDr.リウの緑がかった灰色の瞳を見つめた。じっと見ていると、まるで鳳乱に見つめられている錯覚に陥る。
包まれた手から、身体中に温もりが広がっていく。
彼女がすっと体を退くと、包んでいた両手もそれにつられて離れた。それでも、手の温もりはまだそこにあった。確かに今、まどかは鳳乱を感じていた。それは、奇跡であり悦びだった。
視界が滲んだが、Dr.リウに悟られるのが恥ずかしく、深く息を吸ってから話題を変えた。
「あの……すごいですね。入り口の猫のオブジェといい、エレベーターのカエルといい……どんなシステムになっているんですか?」
Dr.リウは再びお茶を一口飲むと、微笑んだ。
「仕掛けじゃないの。こんな話をしても信じていただけるかわからないけど……」
彼女は部屋の入り口の方へ目を向け、そこで長くなってひなたぼっこをしている宇陀技に目をやった。
「患者さんの約束がないと、私はたまにここでお昼寝をするの。ほんの少しだけ。そうね、あれは三年くらい前かしら。うとうとしていると、真っ暗な、本当に漆黒の闇の中に、ふわって光がひとつ、飛んでいるの。これくらいの……」と、彼女はおにぎりを握るように両手を丸く合わせた。
「それで、私は光に問いかけてみたのーーどうしたの? って」
Dr.リウは続けてその時のことを語り始めた。
『どうしたの?』
『道がわからないんです。ふっと上に出たらどんどん導かれるかと思ったのに、なんだか同じ所をぐるぐるぐるぐる回っているみたいです。迷ったのかな』
『あなたは、どこから来たの?』
『わかりません。少し前までは覚えている気もしたけど……どこから来たのか、私は何だったのか。私はすごく遠い所から来たような気もしますし、すぐそこにいた気もします。ただ、とても疲れていたのは確かです。私は疲れて疲れてどうしようもなかった。それで、思い切って飛び出したんです。でも、飛び出しても、どこにもたどり着けない……』
光は困ったように小さく揺れました。
私は何となく、この光は自ら命を絶った者ではないかと思いました。直感ですけど。
これはあくまで私の個人的な意見ですが、私は、「自死という行為」は、自分の為ではなく、誰かに、何かに、処罰を与えるものではないかと思っています。
自分を苦しめるものや、病気、自分を悲しませるもの。
きっとその処罰は往々にして、大抵の場合目的を遂げるでしょう。彼らに決定的なダメージを与えるでしょう。病に苦しまずにすむでしょう。
しかし、自分が人に与えた行為は必ず自分にも返って来るのです。自分が何かを罰したら、大なり小なりその罰を自分も受けるのです。
得たものを簡単に手放すのにも、必ず責任が伴うのです。
とはいうものの、私はこの弱い光に同情しました。なんとか目的の場所へ行く手助けをしたいと思いました。
私はふと思いついて、目の前に浮かんでいる光に提案してみました。
『私が思うに、あなたが目的の場所へ行かれないのは、まだこちらでするべきお仕事をやり終えていないからじゃないかしら。もしそうならば、どうかしら、私の為に仕事をするというのは。そして時期がくればあなたはふっと上へ行けると思うのよ』
これも、直感です。
光はまだ不安げに明滅していましたが、急に光が強くなりました。
『それでは、どうすればいいでしょう』
私は少し考えました。
『このビルの入り口に猫のオブジェがあるの。あなたはあそこに入って、来客があれば私に教えてくれる? そうしたら私がドアを開けるから』
『いいですよ。そうします』
「そして私の診療所に、その礼儀正しい門番、そしてここ数年の間にエレベーター係と、お客様案内係が加わりました」
話を終えて、彼女はお茶の残りを飲んだ。
まどかは、まだ半信半疑だったし、正直、困惑していた。
「こ、言葉は、どうして、彼らは喋れるのですか」
「喋っているのではなくて、あなたの内の光に響くのよ。だからあなたも、胸の内で語りかけるだけで伝わるの」
「はぁ……」
まどかは内心狼狽していた。今の話はオカルトじみていたが、逆にそれが真実味を帯びているようにも思えた。だいたい、まどかにそんな作り話をしたところで、彼女にメリットは何もない。
ただ、彼女の語り口は自然だった。
あまりにも自然なので、その非現実な話の内容とのギャップを、どう埋めればいいか、まどかは混乱していたのだった。
この人とこれから仕事ができるのだろうか。
ここで自分は何を学び、何が出来るのか。そう考えるとふと、疑問が浮かんだ。
「あの、イルマ教官から私について何を聞かれましたか」
「そうね、あまり多くは語らなかったけど……あなたが鍼と手を使って人を治癒すること、臓器の関係と陰陽、季節、取り巻く環境のバランスを考えて、体のエネルギーの通り道を利用しながら治癒を促すこと。あなた自身のことについては……打たれ強い、エネルギーが強い。直感が鋭い。少し頑固な所があるけれど意外に素直で、知識を得ることには貪欲だから、仕事を与えればすぐに覚えると思う……と。その通りかしら? って、こんなことを本人に聞いて答えられるものでもないわよね」
Dr.リウは無邪気に笑った。
「いえ、全くその通りです……」
鳳乱がイルマ教官に、まどかの知らないところで、こんな個人的なことまで話していたなんて。少し不自然な気がした。
「今日お話ししたことは、お仕事とは直接関係がなかったけれど、今度はもう少し詳しくお話し出来ると思うわ。まあ、もし、もう一度来ていただければ、ですけれど。今日はこれから患者さんが来るので、残念だけれど、お開きにしなくてないけないの」
「あ、はい。是非! 伺わせていただきます」
これは直感だった。
久々に感じた確かな直感。
(彼女ともう一度会いたい。話したい)
まどかはすっかりDr.リウに魅了されていた。
帰りはエレベーターの前まで再びうさぎが同伴してくれた。
エレベーターは既に来ていて、カエルがドアを開けて待っていてくれた。
「私は……おぼえているんです」
エレベーターに足を踏み出していたまどかの背後から小さな声がした。まどかは声の主に向き直る。
「本当は、私は少し覚えているんです。私はまだ自分を守れるほど強くなかった。痛かった。いつも痛かった。……だから逃げたんです。遠くへ逃げたかったんです」
まどかは後ろ足で立っているウサギの前に屈んだ。
「随分長い間、ふわふわ闇の中を飛んでいたときに、Dr.リウの声がしたんです。私がここにいてもいいって。必要としてくれるって。仕事をくれたんです。……だから、もう、痛くないです。もう、痛くない」
まどかは、胸の中から熱いものがぐっとこみ上げて来るのを感じた。その瞬間、両手を伸ばしてうさぎを胸に寄せると、ぎゅっと抱きしめた。
Dr.リウとの面会。
あの、常識では受け入れ難い話も、日が経つにつれて「常識に捉われなければ」素直に受け入れられる、ということに気がついた。
大体、常識の定義は非常に曖昧だ。
それに、イリア・テリオでの常識なんて、この限定された場所にいる限り、自分にはあまり当てはまらないのかもしれない。
『常識』を取り払うといかに自由か。
ある意味、それは自分を危険に陥れるかもしれないが、時と場合によっては、そうすることで楽に動けることを、Dr.リウとの面会を通じてまどかは自覚させられた気がした。
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